- 庶民の身分感覚史 その1 悪党(あくとう)と有徳(うとく)と誓願(せいがん)の戦国前史 - 2019/05/18
江戸の経済社会の前身の、室町の経済社会についてもう一度触れる。
支配者(室町権力の管領や守護代や郡代)が、次第に賦課(労役義務や納税)に対する代替権の保証がろくにできなくなってくると人々の不満も高まり、地元の名主、惣村の総代(村の有力な代表や役もちの百姓代ら)らが支配者層(上級裁判権=国家行政権)を否定して反抗するため(民権を訴えるため)の自治権を身に付けるようになった。
同じく支配者の「家臣」たち、つまり指令を受けて実務する従事層士分(武士団体)も「名目は常に曖昧で、人事差別ばかりで一向に解決に向かわず、軍役の負担に見合った代替保証もろくにできない支配者」に対し、強く不満を抱くようになった。
教義崩壊が著しかった室町時代の「従事層の士分(武士集団)」の存在は、「家臣」のひと言で片付けられがちで、どうも明確な説明がされてこなかった。
さらにその意味が、室町前期の派閥的な建前だったものが、江戸以降に教義的な建前に切り替えられるようになった事情も、それら内実と経緯について長らく曖昧な説明しかされてこなかったように思うため、当著ではその明確な説明を目指して、まず経緯から順次していきたい。
庶民と同じように、支配者の従事武士団である家臣らも、行政に乱れが出てくる時ほど「一方的に得する側」と「一方的に損する側」の不当な人事差別に不満を抱くようになり、利害が一致する庶民たちとの団結する傾向も強まった。
この時も家臣たち(士分たち)は、庶民との関わりに何の抵抗もなく、むしろ地域の代弁者の名目を有していた、有徳層を介した有力な惣村の重役や富豪商人らとの結び付きこそ重視された。
こうした従事層同士の結び付きの現象は、そのまた前時代の鎌倉後期の時点で顕著で、特に政府に反感的だった者たちが結託して反抗していたような集団は「悪党」と呼ばれていた。
これまで派閥闘争を激化させる原因になっていた聖属権威を国家権威から削減(貴族権力=天皇の側近達による古い政治体制の解体)をすることで、武家政権(世俗権力主導)を目指すことになったのが、室町の前身である鎌倉幕府(源頼朝)である。
それも執権(幕府の最高長官)七代目の北条高時(得宗家)にはていたらくぶりの末期症状が目立つようになると、朝廷(後醍醐天皇)はそれを抗議することを名目に、かつての聖属主導(朝廷主導)の朝廷政治のための権威を回復しようとする気運が一時的に高まった。
後醍醐天皇が鎌倉政権と争った際に、既に鎌倉政府に反抗的だった「悪党」たちもその闘争に介入した事情(南北朝戦争)は、惣国一揆と異なるが、ただし各地方の民自権的の複合体であった点では「悪党の台頭」と「惣国一揆の台頭」は共通している所も多い。
鎌倉幕府の成立は、荘園権力(宗教・朝廷権力による地主たちの代表)の力を削減するために、荘園領主の特権(裁判権=その地域の庶民の徴税や労役などの賦課権)に割り込んでそれを奪っていき、聖属権力を弱めることで、世俗権力を強めた政権だった。
その役割をしていたのが、鎌倉幕府に顕著だった地頭(じとう・武家権力による地域行政権の代表)たちで、各地の行政権と裁判権(徴税権)は、この荘園(聖俗権力)と地頭(世俗権力)による二元支配が顕著になり、表向きこそ協力関係という形だったが、地頭が幕府権力の威力に任せて主導権を握る場合が多かった。
どんな政府もいつかは終わりが来るように、鎌倉も後期には時代に合わなくなってきた古い威力統制によって人事差別も目立つようになり、不当に失脚させられて非正規扱いにされてしまった武士団(悪党たち)も急増するようになり、支配者に従っていた武士団も庶民も強く不満をもつようになった。
派閥や地域の武士団たちが、不当な扱いばかり受けた不満から権力に反抗するようになり、庶民が影で悪党に味方することもあったその構図は、室町の社会不信から地侍が台頭してその利害が庶民と結び付くようになった所が惣国一揆と似ている。
鎌倉時代も後期になると、各地でちょっとした人口増と農地の広がりも目立つようになり、また製塩や製鉄などの規模も次第に大きくなっていくにつれて、各地の惣村ごとの最初は小さくて単純だった権益も、ちょっとした広がりを見せ、複雑化するようになっていった。
今までは規模が小さくてそう問題にならなかった地域ごとの権益の競合も、次第によそとの例えば水源の保証や作物売買の優先権などの競合も増えるようになり、当然のように経済社会の価値と負担のあり方にも変化が出てくるために、例えば多く負担させられている地域はそれに見合った代替権も保証するなどの見直しも必然になってくる。
しかしこれを鎌倉政府は、行政権(上級裁判権)にしても地方税制(低級裁判権)にしても、いつまでも過去の制度をあてはめ続けて威力で支配し続けるばかりだったため、次第に収賄が横行し、つまり人事差別や地域差別が横行し、負担の不当な押し付け合いも深刻になっていった。
古い制度でいつまでも形容し続けられたことで、古い納税の習慣や、古い人身売買の習慣に強い不満を抱くようになっていた庶民は、その解消を巡って支配者と訴訟の揉め事が多発するようになる。
当時も、幕府や地頭にとっての「家臣(武士)」かどうかの建前は、幕府公認の待遇(特権や俸禄)を受けていた正規の武士団か、地位の剥奪を受けたそれらが反抗するようになった非正規の野盗(悪党たち)と見なしたかに過ぎなかった。
悪党の出自は、鎌倉政権内の陰謀的(人事差別的)な主導権争いに巻き込まれたり不条理な人事差別の対象となったり、不当な懲罰を受けたりして特権や領地を奪われた者が多かったが、同じく支配者に強い不満を抱いていた庶民らもかなり加わっていたと思われる。
それらの集まりは、山奥に勝手に砦を作るなどして拠点を築き、評判の悪い代官(徴税と裁判の実務代理人)や評判の悪い名主(なぬし、みょうしゅ・納税管理人・領民を代弁する責任もあったが権力者の言いなりになって威張るだけの無能も多かった)を襲撃して徴税権を横領したり、また権力者の館や関所を攻撃するなどして幕府権力に散々の嫌がらせをした。
鎌倉幕府(執権の北条氏)がこの悪党たちに手を焼き、てこずるようになった背景には、同じく支配者に反感をもっていた庶民が影で悪党を支援したためだった。
悪党も色々で、乱暴なだけで何の政治理念もない口ほどにもないただの山賊水賊集団もおり、そういう連中は実力も知れていたが、中には公正を訴える責任感をもつ集団もいて、後者のような悪党なら庶民も当然好意を寄せた。
庶民が影から悪党を支援し、食料や武器をこっそり届けたり、政府機関の手薄な様子などを逐次報告したり、幕府軍の動きをいち早く悪党に知らせるなどしたため、もはやどちらが正規の領主なのか解ったものではないような地域すらあった。
庶民から支持を得るような優れた悪党は目標がしっかりしていて統制もとれており、幕府の手薄な所を襲撃したり、向かってくる兵力に応じて応戦したりゆくえをくらませたりと、正確で有利な行動を計画的に採ることができた。(その代表格が楠木正成で、悪党の手本のような存在だった)
一方で幕府側は、その地域に悪党が一体何人いるのか、どこへ行ったのか、領民もとぼけるばかりで実態が掴めない場合も多く、幕府軍は不利になっていった。
少数を派兵すれば悪党に破られ、大軍を派兵すれば悪党に逃げられるということが頻繁に繰り返され、この悪党の陽動作戦(ゲリラ戦)は鎌倉幕府に甚大な負担になり、悪党の取り締まりに失敗するごとに鎌倉の権威も大いに失墜していった。
まるで「不当な権力者をこらしめて庶民を守る義賊たち」であるかのようなこの単純展開は、誇張もあるだろうが、これは鎌倉末期の解体期の一時的な風潮に過ぎなかったが、このような反乱が各地で多発していたようである。
当時の悪党は、荘園権力(朝廷)と友好的だったというより、共に地頭(鎌倉権力)に反感をもっていた倒幕利害で、その時は友好的だったに過ぎない。
鎌倉倒幕後には、後醍醐天皇の「建武の新政府」の公武政治のあり方が一致せず、彼らもその後は政治方針を巡って「後醍醐天皇派(南朝・大覚寺系)=新田義貞派」か「光厳天皇派(北朝・寺明院系)=足利尊氏派」のどちらにつくかによる戦いが続けられることになった。(南北朝戦争の終結->室町政府の成立)
鎌倉末期の「悪党の成立」にしても、室町の高度成長崩壊の「惣国一揆の成立」にしても、地域政治と密接だった有徳層の影響力に注目するべきと、筆者は考えている。
中世の「有徳(うとく)」について整理する。
有徳層は、有徳思想という教義が元となった集まりで「人は富裕になったらのなら、またその地位の人であるなら、精神的な社会発展のために財産を分け与える義務があることを忘れてはいけない」という仏教の教えがあり、これは日本で古くから、認識はされていた。
その考えは「自身の地位の保証を得るための対価」ではなく「富裕層は精神(公正な政治的教義)の成長に関心をもつ義務とそれを促す義務」でなければならないことは、文言上だけでも認識はされてはいた。
これはヨーロッパのキリスト教社会でも「有徳」という言葉そこ使われないが、それとほとんど同じ発想がヨーロッパにもある。
しかし物的繁栄を見せていく経済社会と、疑い合う権力闘争が常に隣り合わせで閉鎖的になりがちだった中世では、宗教の見直しが何度も行われてきても、有徳の実質は、織田信長という強力な戦国大名が出現するまでは、前者で凝り固まる場合がほとんどだった。
支配者があてにならなくなるほど(名目不足が目立つほど)、支配者を支えていた武士も庶民も、この有徳思想の名目をあてにした閉鎖的な団結の傾向を強めた。
政治の乱れからくる支配者側の一方的な人事差別や地域差別に反抗するための、庶民の団結(「商業地の商人団」や「農村の資産を管理していたそれら庶民の有力者」の団結)であったのが、有徳層の実態だったのである。
庶民の努力で築かれた地域の農商業の価値が次第に高まってくると、権力者は当然のようにそれに目をつけて、執拗に介入しようとした。
支配者は「何の代替権の保証も与えずに、その権益を不当に横取りするために威力任せの規制をかけようとする」ばかりの者も多かったため、庶民も地元産業の権益を不当に奪われないよう、壊されないよう、自主的に地域の寺社を支えて力をつけさせ、その地域振興の教義的な名目で抗議して権力者に抵抗した。
もちろんこれは地域振興の立証が大事になってくるため、寺院の財産管理にも普段から気を使われた。
それが寺院にとっての修行僧を育成するための資本となり、また他の地域で飢饉と戦乱が続いてどうにもならくなってしまった死にかけの浮浪者たちを回収し、寺の見張りや掃除係りや連絡係りや布教活動の手伝いなどの仕事を与えて養うことで、貧民たちの生活を大いに救済していた。
特に商業の世界は法の扱いが難しかっただけに「常にあてにならない支配者」は最初からあてにせず「収賄ばかり求めて人事差別ばかりし、肝心な時に庶民を守る義務をろくに果たすこともできない、税金のただ取りは困る」といわんばかりに、商人たちは支配者を無視するように寺社を積極的に支えた。
寺院が商業を代弁する特性から、寺院が規定していた額を寄進(納税的な寄付)すれぱ、商売の権利を代弁してくれる信用があったからこそ、寺院の力が大きくなるほど人々もそこに集まり、商工業が盛んに行われるようになり、その賑わいも活発になっていった。
当時の名残がそのまま現在でも残存している商業地が今でも多く見られるのは、そのためである。
例えば愛知県の大須観音などが良い例で、神社仏閣が顕著だった地域がそのまま商業地として今でも賑わいを見せている地域は、かつて力をもっていた有徳層が作った商業地だった名残である。
「その地域に普段からろくに貢献もせず、寺社にろくに寄進もしない者が、権力だけを振りかざして偉そうに口出しをする」ものなら、庶民も一丸に団結して抗議したため、どんな権力者でも力をもった寺院には簡単には手出しできなかったのである。
商人たちは、支配者への協力(納税)を完全に否定している訳ではなかったが「我々にいうのではなく、地域の代弁者である寺社と相談して欲しい」とすることで権力の横暴を遠まわしに牽制することができた。
特に寺社の力が強い地域は、その支持を得ずして支配権力を振るうことも難しくなっていった。
そのため、領地権をもっているような上級武士たちも、寺社に多額の寄進をしたり領地を譲渡したりすることで、寺院との特待的な檀那(だんな・旦那の語源)、檀家(だんか)の関係を築き、それを前提に自身の家系の安泰を図るのも当たり前になっていた。
また上級武士の自領に菩提寺が創設されることも多く、それも寄進のひとつとして、そうして寺領化された最初は小さかった寺院も、次第に人々が集まるにつれてどんどん力をつけていき、付近が小都市化していく寺院も多かった。(地域振興)
神社も同じく、上級武士が地域振興のために、地元の神社の維持発展のために金品を寄進したり領地を分譲することもあり、そうして上級武士の庇護によって格式が高まっていくことも多かった神社と寺院は、地域貢献と交通網の拠点として、宗派ごとの布教救済活動と商業活動の拠点になる場合も多かったのである。
それらが建前は「神域」と扱われた「社領」や「寺領」呼ばれる地域である。
寄付も色々で、貨幣の流通がまだ少なかった時代では、建設資材となる貴重な多くの木材だったり、飢饉で苦しんでいる貧民を救う多くの食料が納められたり、寺社がより立派に見えるように石の灯篭や柱のための石材を納められたりなど、色々なものが寄せられ、寺社も寄進者を積極的に「あるべき有徳人」だと代弁した。
「寺社」とは、神社と寺院の場のことで、つまり神道と仏教を総称する言葉である。
日本の宗教は、仏教が国教とはいっても、自然の摂理から多くを学ぶことも大事だという古くからの習慣も重視され続け、どこの寺院にも近くに神社が多いのもそれが理由で、神道の聖職者(神主・神官たち)と仏教の聖職者(法主・貫主(かんじゅ)・和尚)との関係は協力が基本だった。
高野山・吉野山の諸寺や、奈良県の長谷寺、福井県の永平寺などが好例だが、天然の高所に寺院を建設することで、いったん騒がしい俗界から離れ、それに惑わされることなく、自然から教えられる日々を大事にしながら、修業や経典の研鑚(けんさん・教義の研究)に励もうとする姿勢は、仏教で古くから大事にされてきた姿のひとつである。(宗派によって違いはある)
ただ、どの宗派もそうした遁世聖(とんせいひじり・強すぎる聖属権力とも距離をおき、僧のあり方を追及する者)のような修業だけしていればいい訳にもいかず、人々を教育したり埋葬したりする拠点として、また地域貢献で人々を助け、寄進者を保護する拠点として、いつの時代も人々から常に多くの義務を求められいた仏教は、常にその対策に追われがちだった。
そのためどうしても各地に寺院は不可欠で、有徳層の協力によって分社や分寺があちこちに建設され、総本山と連絡を取り合いながら、遠隔的な人事が行われていた。
仏教がなかった頃の古代の日本は、神による豊穣や天罰を巡る部族的な祭事と争いが中心だったが、やがて文明大国の中国から「法」という考えを学ぶようになり、その工夫と努力の仕方である仏教が律令(りつりょう・国律)政治と共に導入されると、日本もようやくその体制作りから努力されるようになっていった。
8世紀には仏教社会も隆盛になり、中国には遠く及ばないものの日本もようやく飛鳥奈良(平安)という文明社会化を見せるようになり、最初こそ仏教に対する抵抗もあったものの、法の守護は神道で、法の意見回収と研究は仏教という分化も進んでいった。(宗派ごとでたびたび論争された)
鎌倉(源頼朝)に、荘園権力の弱体化(公家権力の弱体化)が進められるが、これは威力統制ばかりだったかつての聖属の古い支配教義ではもう間に合わなくなり、経済の繁栄にともない社会を支え合う対等な負担のための現世権益的な(世俗に合う法の)教義が不可欠になってきたためで、ここで仏教も大きく見直されるようになった。(鎌倉仏教)
それまでの宗教は、統制のための威力が最優先の「死後の世界を支配」する恐怖で縛り付けるのみで、庶民への求道は常に後回しにされてきたため「いつまでもそんなことでは時代に合った法の見直しが間に合わない」ことが指摘されてきたための改革でもあった。
日本の転機となった世俗新政権(鎌倉幕府)の、荘園権力の弱体化を可能としたそもそもの要因はそこで、これは単に世俗武家勢力の威力のみで行われたというだけの単純な話ではなく、荘園権力(宗教権力)がそれに抵抗できるほどの、支配宗教の名目(教義)が、それだけ失墜していた現れだったともいえる。
ただし全ての荘園権力が弱体化された訳ではなく、依然として庶民にとって利点も多く納得されていた寺院のあった地域については、簡単に弱体化することはなかった。
かつての「政治の主導権争いにいつも巻き込まれ、僧兵を動員して寺院同士で激しく闘争を繰り返し、因縁で潰しあいを続けていた過去」を抑制するため、荘園権力を削減してそれを大いに抑え込むことに成功した鎌倉幕府によって、それまで暴走しがちだった仏教の世界も、ここでいったん落ち着くようになった。
何かあるたびに宗教の世界も荒れ放題だった当時、ほとんど軍事拠点の要塞と化していた各地の大寺院の軍事能力を大いに没収できたことは、それだけでも仏教の世界はかなり改善されるようになった。
これからは鎌倉政府(世俗)が庇護する保証のもとで、法を見直すための論争にようやく本格的に向けられるようになったのが「鎌倉仏教」である。
それまでの日本は、あまりにも「死」の差別をし過ぎていた暗い歴史をもち、支配者(荘園権力者ら)もそこにあまりにも余裕が無さ過ぎたからこそ、この鎌倉政府の政教整理がきっかけで、ようやくそこに着目されるようになった。
人類が「死」が平等だということにやっと気付くようになった(その認識が許されるようになった)のは、13世紀の鎌倉時代からである。
なおヨーロッパでも、その少し後の14世紀の大黒死病をきっかけに、ようやく「死」が平等であることを人々は思い知らされることになり、その認識がその後の15世紀から16世紀前半にかけてのルネサンス期に多大な影響を与えている。
一方の神道については、まず仏教の浸透以来、鎌倉時代に入るまでは、神道は寺院に乱用されることも多かった。
世俗と聖俗の仲介者としての義務を求められていた寺院は「神事の力を借りたなら、借りた分だけの責任も寺院が受け持つ義務」も求められてはいたが、主導権争いの激化に常に巻き込まれて暴走しがちであった寺院は、神社の名目が散々乱用されてしまうことも多かった。
それが原因で神社の信仰と寺院の権威を著しく失墜させ、それは地域信用と団結の失墜に直結し、いい加減な結果であることが露呈するほど世間から散々の非難を受け、皆が困り果てることも少なくなかった。
そういう失敗を何度も学んできた歴史から、神社の名目は、地域振興のために大事にすることはもとより、政治外交にまで用いる以上はもっと慎重になり、不手際があっても決して神社が悪いことにならないよう、寺院も有徳層も庶民も、皆がもっとそこに責任をもって向き合うことが強く求められるようになった。
神社の体制は、地域の伝統ごとに違いはあるが、大体は社人(しゃにん・しゃじん)という責任者たちがおり、こちらも有徳層のように地域で力をもった商人や惣村の重役などの有力庶民らによって構成され、彼らも一応は神官で、その代表が神主である。
有徳層のように社人も上級武士の寄進の関係でその交流も増えることが多く、地域によってはその神社を氏神として団結した著名な武士集団もいた。(剣神社の織田氏(恐らく藤原)、諏訪大社の諏訪氏(公家貴族ら)、鹿島大社の大掾氏(平氏)など)
神主は社人たちによる交代制になっていた所もあったが、各地域の神道家として著名な家系が大抵はいて、その家系の主導による交代制や相続制になっている所も多く、例えば伊勢神宮の場合の度会(わたらい)家が著名であるが、社人は信用に関わる重要な役割の自覚が求められた。
社人は地域のためだけでなく、全ての分社(社会全体)の信用を守るのも役目で、有徳層のように地元根性だけの世俗都合を代弁していてればなんとかなるような立場ではなく、神域の乱用によるその信用の破壊につながる行為を防止することが彼らの役目であった点で、そこが有徳層とは役割がだいぶ違う。
神道は、世が激しく乱れてどうにもならなくなってきた時こそ、暴挙を抑止する機能を発揮して人々を支えてきた。
仏教があったから、乱れながらも教義(政治)を育てていくことができたが、世が大いに乱れて仏教が崩れるたびに、常に神道がそれを支えた。
国家全体の政治の基準がいったん失われ、地域の都合の他はどうしていいのか解らない閉鎖的な迷走がしばらく続くことになったのが、応仁の乱と戦国前期の時代である。
その時に「世にどう向き合っていけばいいのかを厳しく問われ、激しく争った戦国時代」にこそ、神道の力も特に発揮された。
神道が、あるべき道を戦国武将に教えることになった「誓願(せいがん)」について整理するが、その前に「人望」と「人徳」の違いについて整理する。
戦国前期では、どこの地方戦も「あるべき支配者」としての当主の座を巡る「人望」ばかり得ようとし、それに見合う「人徳」が軽視されがちであったために、真の実力など知れている者同士による、ただの権力のイス取り合戦ばかり行われたため、すぐに政治理念不足を起こして組織化が進まず、どこも長続きせずに簡単に崩壊した。
それが繰り返されたことで「人徳」も次第に見向きされるようになり、戦国後期になると「『人望』だけしか確保せず『人徳』に欠けた支配者」は消滅していき、「人望」に見合った「人徳」を確保できた支配者が生き残りが、その地方支配者(地方の代表者)が戦国大名と呼ばれた者たちである。
人望と人徳の関係は、損益計算の複式帳簿でいう所の貸方と借方の関係で、人望は貸方の数物証拠的(威力的)な事業名目を指し、人徳は借方の複合的な利益実態理由を指す。
1万の軍勢の主導権を握った当主としていったんは認められたとしても、時代に合う名目の実態が低下していけば、その名目の実態では2000までの動員力しかなければ、残りの8000は参戦しようとしないか離散してしまうのが、戦国の支配力の根幹である。
1万の軍勢の当主の継承者という建前に対し、それを上回る名目を確保できるような支配者は、1万2000や1万4000といった動員力のある支配者(戦国大名)に成長していくが、逆もまた同じである。
この関係が人望と人徳の関係であり、人望(貸方)はいわば手元で確保できている量的資本(人的資本・物的資本・時間的資本)のことであり、人徳(借方)は「その使い道」のことである。
当主が時代についていけなければ動員力(支配力)もそこまでで、時代に合うよう名目を整備しきれずに失策が続くようになると、それだけ支配力も維持できなくなり、動員力(上級裁判権)も8000、6000と下回っていく一方である。
「人望」だけの勢い任せだけで従わせようとしても、いくら大勢力を築いた所で一時的なものに過ぎず、長続きせずに衰退して消滅していくのが常である。
逆に「人徳」が備わっていれば、自身が好む家臣を優遇し、自身が好まない家臣を規制したり権利を剥奪することも可能で、「人徳」さえ備わっていれば親や兄弟を追放したり殺害しても何も問題はなかった。
「人徳が備わっていれば、親類を追放や殺害をしても問題ない」という状況というのは、大抵は親類の迷惑な暴挙を抑止する場合、つまり「その連中がろくな名目もないのに派閥権力を振りかざしてばかりで、無責任に人に負担をかけるばかりで皆が迷惑している」時などの構図である。
戦国の社会悪は、単なる勧善懲悪の観点で非難されるのではなく「立場に対する義務=人徳」が欠けているのにその立場にいつまでも居座ろうとしたり主張しようとすることの身の程知らずが非難の対象となる世界であり、これは支配者が抜擢した家臣が、次第に組織を乗っ取るようになった場合でも同じである。
乗っ取られた支配者の人望と人徳に対し、乗っ取った家臣の人望と人徳が明らかに上回っていれば、組織を乗っ取った家臣が悪いのではなく、乗っ取られた支配者の人望と人徳が不足したことで皆が迷惑していたことの方が悪なのである。
その場合は支配者を暗殺しようが追放しようが不義を問われることもなく、より頼りになる者が支配者になるべきという風潮こそむしろ強かった。
もちろんそうされると都合の悪い者たちとの派閥闘争は起きるが、それに見合うだけの人望と人徳があるから乗っ取りに勝利できたに過ぎず、その立場に見合う人望と人徳がないから失敗するか長続きしないということに過ぎない。
そうするだけの名目がしっかりしていれば、つまり「身の程知らずでない範囲」であれば、家臣が他の強力な支配者を手引きして支配権を売り渡すようなことがあったとしても、大した非難は受けなかった。
逆に大した名目がない(そうするだけの人望と人徳の実態が乏しい)のに、家臣が組織を乗っ取ろうとしたり、他の支配者に売り渡しを手引きするような者は実力も知れており、そうした無計画な目先の野心だけでしか動かなかった者の信用力(力量)など知れており、いずれ本人も用済み扱いにされて同じような目に合うのである。
例えば窮地に陥って困り果てていたのを大いに助けられた恩人に対し、窮地が過ぎ去った途端や、優位な立場になった途端に、何の義理も果たさずに恩人に対して殺害や追い落しをしたりそれに加わったりなどで、恩をあだで返すような行為はもちろん人々に非難された。
ただし、恩人に危害を加える側の立場に立たざるを得なくなってしまった場合、その後のその家系とはしっかり和解してその親類を保護したり、子の抜擢や斡旋をするといった責任のある行動を示せば、人々も大いに納得した。
戦国時代は、刃向かってきた子を親が殺すことも、いつまでも当主の座に居座れては迷惑だと子が親を殺しても、誰かを騙まし討ちをすることも、それ自体が問題なのではなく、それに見合った人望と人徳の実態が備わっているか備わっていないか、身の程知らずかそうでないかが問題だった。
つまり戦国時代によくいわれる「器量」が、この「人望と人徳の実態」のことであり、人々に警告を受けても自身の器量以上のことを求めたり、また不満をただ人のせいにしているだけで自分から何の整理もしようともしない身の程知らずは自滅し、逆にそれに優れた者は前面に出て人々を代弁する義務を求められた。
支配者の家系でも、それぞれ器量に大差がないのにその親類同士や重臣同士で権力の座を巡ってダラダラと争い続けるばかりで、一向に解決に向かわないような組織は衰退する一方で、過去の栄光に頼っているだけの、ただ威勢がいいだけの口ほどにもない支配者は、それらに従属している家臣らも領民らも迷惑でしかなかった。
身の程をわきまえ、それなりに存続の努力をして、親類間でも時折揉めながらもそれなりに協力できていたような家系は、もし他の強力な勢力に臣従を強要される立場になったとしても、その組織の中では家格が認められて尊重されて、生き残れる場合も多かった。
しかし身の程をわきまえずに、時代に合う努力をろくにせずに、目先の野心で疑い合いながらの利害協調路線でしか自身の地位を維持してこなかった無能は、いくら地位の高い一族でも、いずれ用済み扱いされて消滅していく一方だった。
支配者に仕える家臣たちもその組織の中での社会信用を求められ、名族であっても時代に合わない過去の規則や実績しか主張しない無能は、重臣であっても格下げし、また器量に応じて地位向上や信用挽回の機会を与え、公正性を示して家臣同士の闘争を禁じる(分国法を作る)ことができる強力な支配者が求められた。
戦国時代は、後期の総力戦の時代を迎えるまでは、「人望」ばかりで自身の地位や主導権を確保し、それに見合う「人徳」は常に「人望」でフタをして騙し合いと潰し合いばかりが激しく繰り返されたため、地方ごとの「あるべき支配者」の姿がなかなか育たなかった。
戦国時代は、身の程知らずには、いくらでもだまし、いくらでも打ちのめしても良かったが、ただし身の程知らずでない者をだまし、打ちのめした者が「身の程知らず」の無能と扱われた。
そして身の程知らずでない者なのに不当にだまされ、不当に打ちのめされた場合は「不当を助長させないために」助けるべきと、神道に教えられていったのである。
戦国武将に喚起し、その信用を育てることになったのが、神道による「誓願(せいがん)」である。
誓願は、そう主張した通りになるかならないかの結果よりも、その真剣さや覚悟や姿勢の誓いを立ててそれを人々に伝えることが、まずは重視されるものだった。
誓願は、その誓いの立て方が「決していい加減ではなかった」ことが後で評価されればそれだけ人徳を獲得することができたが、逆にいい加減であったと後で批判されれば「不当に目先の人望を得ようとしただけの、口ほどにもない誓いだった」と見なされ、それだけ人々に失望され、信用を失った。
誓いを立てることもできないのに、大それたことをしようとしたり大口を叩こうものなら「ただの目先の野心だけで人の迷惑を考えずに、一時的にいい思いをしようとしているだけの、人に負担ばかりかけようとする無能」と見なされかねなかった。
支配者であれ家臣であれ領民(商人や惣村の代表)であれ「本当に大事なことだといい張るのなら、そうあるべきとそこまで言い切るのなら、それを誓願するべき」が問われ、それが責任ある主張なのか、目先だけの無責任で無計画な口ほどにもない主張なのか、事前に把握するようになっていったのである。
「そんなに言い張るのなら、お前がその惣代(代表)となって、何を目指すのか、どのような協力体制でいくのか皆としっかり相談して、神社や寺院で誓願(儀礼で公表)して、自分でそう誓願したことに最後まで責任をもて」という点を、人々に考えさせることになった。
「自分で誓願できない不満をただ延々と口汚く述べ続けるのみは、そう言い張るだけの十分な努力と協力を自分からしようともせずに、どういう所を大事にしていくべきなのかを自分から何も整理しようともしないのは、何の丁寧さも慎重さも身に付けず、だだ人に責任を押し付けているだけの無能」と見なされた。
それこそ、どのような目に遭っても、地位を剥奪されても殺されても文句をいう資格も一切ない、口ほどにもない身の程知らずの迷惑な無能とされた。
できもしない誓願や、悪を仕立てて責任転嫁しているだけの誓願、ただ勧善懲悪を唱えているだけの非難そらしやごまかしだけのいい加減な何の主体性もない誓願は、その実態が露呈すれば多くの人々から失望を招きかねなかった上に、地域の信用の危惧から社人も難色を示した。
領主にしても惣村の重役にしても、誓願の仕方を間違えて(勘違いして)世間の失望を買えば、その誓願者だけでなくその組織全体が公共性失格(交渉権失格)の烙印を押されかねず、肝心な時に何の主張もできなくなり、何の優先権も認められずどんな不条理にも隷属しなければならなくなるからこそ、代表者(代弁者)の選別も慎重になっていった。
戦争に勝とうが負けようが、家臣も領民も誓願の内容の良い方に従おうとする傾向が強く、ただの「勝てば官軍の結果主義」は通用しない場合も多かった。
「負けた側が悪(無能)」ではなく「誓願できていない側が悪(無能)」であり、そこだけでも十分な反抗題材の名目になった場合も多かったのである。
そのため他領から侵略してきた他の支配者が、ただ戦争に勝って占領したというだけでは、簡単にその地を支配できる訳ではなかった。
いくら強力な軍事力を向けて「従わなければ悪」と威力で押さえつけようとした所で「そういい張るなら、どういうつもりの統治名目でそういっているのか、皆が納得できる内容の誓願を神社や寺院でしてもらわなければ、皆が迷惑する」といい返せたのである。
敵対領主を排除して占領したとしても「我々は前領主の誓願に従っているまでで、それと対等かそれを上回る誓願ができていない、いい加減かも知れない支配者に屈するようでは地域全体(神社や寺院)の信用にも関わり迷惑でしかない」といい返されないよう、納得させる必要があった。
政争に敗れて降伏を強要される家臣たちや領民たちであっても、勝者の誓願よりも敗者の誓願の方が明らかに勝っているのなら「地域の事情に無関心な、不当な強要しかしないよそ者の労役義務に従う義理も、納税義務に従う義理もない」という根拠で、言い返すこともあったのである。
名目(誓願)の実態が甘ければ、次第に占領軍の追い出し運動が起きて、旧臣たち(残党たち)が領民らと結託して旧主の関係者を招き戻して擁立に動くことすらあったのである。
誓願は、支配でも外交でも、政治力(信用力)が強く問われるものほど、重く見られるようになっていった。
外交でも顕著にそれが現れていき、例えば「同盟」はお互いに条件を提示して締結するものだが、その交渉が成立すれば、両者は同盟したことを互いに領民に知らせるために、それぞれ地元の神社にその内容が誓願され、互いに同盟の文書(起請文・きしょうもん)が丁重に寺院に保管された。
そして相手を「協力関係を放棄した不当な違反者」だと見なすことができた場合は、一方的に解消しても何の問題もなかった。
これも、同盟という約束を守る事実が重要だったのではなく、その同盟が不当でないかの監視こそ重要され、力差があって相手が強大だったとしても「力関係や状況証拠だけで言いなりになる気はない」姿勢を、小勢力側が見せざるを得なかった場合も多かった。
この時も同盟を破棄する側は「相手の誓いに不当があった」と、誓願を根拠に周囲に(世間的に)納得させることができれば不義でもなんでもなく、その言い分は人々から尊重された。
逆にその言い分の点で弱みを負っている側は、例え闘争でその時は勝者になり得ても一時的な勝利でしかなく、やりにくくて仕方がなかったのである。
繰り返すが誓願とは、その通りになっていないことよりも、そう誓願した責任について「真剣に、慎重に、丁寧に取り組んでいるかどうかのその根強さや力強さの態度」の方が特に重視され、それによって本当に信用できるその主張の代表者なのかどうかが評価される世界だった。
そのため誓願した通りになっていない場合でも、改めて誓願のし直しをすれば、なぜそういう誓願に改めたのかが、前回の反省が組み込まれて納得できるようなものとして伝われば、逆に責任があると見なされ、誓願者も誓願文書も人々に尊重され、それで効力を発揮できたのである。
逆に「ただの言い逃れの掲示板」程度の扱いしかできず、状況の整理力(丁寧さ、慎重さ)が明らかに欠落しているただの結果論の風見鶏主張しか述べれていない誓願こそ、そのいい加減な態度から器量の底の浅さが見破られ、社人からも当然のこととして「地域振興(神社や寺院)の信用を破壊する行為」と非難された。
神道から学んだ誓願とは「時代に合わない無理念・無計画・無責任な過去の正しさを否定する方法」つまり「何の役にも立たない過去の無能な勧善懲悪主義を否定する方法」を教えたといえる。
立場に見合う義務の努力に応えず、いつまでも過去の権威の立場にしがみついて、人々に不当な負担をかけ続けようとする、時代についてきていない口ほどにもない身の程知らずの無能は、親子兄弟親類といえど許してはいけないことを、人々に気付かせていったのである。
誓願は、その政治理念(公正理念)に向き合う丁寧さや慎重さに対する実態を計るための履歴機能として、それが「嘘発見器」「身の程知らず発見器」の役割を見事に果たしていたのである。
戦国時代の前期は、目先の人望主義(資数物的権威の結果論的な優位性)ばかり求められ、それに不可欠な人徳(その使い道)についてはまともに向き合われずに常に人望主義でフタをしてごかまされ、それが原因で「興っては乱れて崩壊」が繰り返されてきた。
誓願という儀礼が、その政治理念(人徳)の欠落の問題を人々に気づかせ、それを修繕させ、人望(貸方)に見合った人徳(借方)の認識も大事にさせる社会信用を身に付けさせるようになったのである。
そしてこの「誓願」の本質の大切さも伝えていく義務も求められていたのが、世俗と聖属の仲介者であり代弁者であった「寺院」だった。(社人はあくまで見届け人)
しかしその難しさは、いったん閉鎖社会化に向かってしまった当時、社会全体の等族統制(身分や立場に相応かどうか判決。身の程知らずではないそれぞれの義務とは何か)の視点に今一度、人々が向き合ってそこを自覚したり伝えていくことは簡単ではなく、どうしても時間がかかることは避けて通れない歴史である。
誓願はよく「神仏」という言葉が用いられ、どの寺院も神社との協力関係をもっていたことから誓願は神道と仏教の合祀として扱われる場合も多く、そのため誓願は寺院でもよく行われ、内容の種類や規模に合わせてどの神社にするか、どの寺院にするかが選ばれる場合が多かった。
戦国後期には地方ごとで法もだんだん整理されてきて、総力戦の時代も本格化してくると、誓願は、その本質は守られながら時代に合ったものに順応されていき、戦国大名とその家臣のそれぞれの立場ごとの義務も、より相応信用的なものに再認識されていく。