近世日本の身分制社会(007/書きかけ146) | 「オブジェクト指向の倒し方、知らないでしょ? オレはもう知ってますよ」

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- 戦国後期の総力戦体制への移行期 - 2019/06/13
 
江戸時代の身分制度について、前時代の戦国時代に何があったのかを具体的に説明しておかないと、筆者の意見が伝わらないように思ったため、それまで戦国後期の話を続けることにする。
 
織田信長については触れたくなかったが、この人物があまりにも誤解され、それが戦国後期の誤認の大きな原因になっているように思ったため、身分統制の経緯に触れるついでとして、ここで織田氏についてもあえて触れることにした。
 
織田信秀(信長の父)と織田信長の2人について、できるだけ「実績」ではなく「事情・実態」を主体としたものを順述していく。
 
まず、織田家とはそもそもどんな家柄だったのか、先代の織田信秀がどのような台頭者だったのか、それまでの越前と美濃と尾張(福井県と岐阜県と愛知県)の事情の話から入る。
 
戦国前期の越前(福井)と尾張(愛知)では、その支配者(幕府権力者)であった斯波(しば)一族は、内紛が多発する一方で法の整備が間に合わず、支配者としての義務不足も顕著になってくると、その権威は著しく衰退していった。
 
支配者がいないのも同然になっていた越前では、実力者として支持を得て台頭した家老の朝倉氏が、斯波氏を追い出して支配者の座を君臨するようになった。
 
そのように尾張でも、有力支族であった織田一族によって斯波氏(武衛家)は主君押し込め(主導権を奪って体裁だけのお飾りに仕立て、政治利用すること)され、織田氏が代わって尾張の主導権を握るようになった。
 
そして両者の間に位置している美濃(岐阜)の支配者であった土岐氏も同様に、多発する内紛に収拾がつかず、その支配者としての権威も危うくなってくると、美濃の支配権に介入する好機とばかりに、越前の朝倉氏尾張の織田氏が美濃に執拗に介入するようになった。
 
越前勢(朝倉軍)と尾張勢(織田軍)がたびたび美濃に侵入するようになると、土岐氏の家臣ら(美濃の国衆たち)も、そのたびに朝倉派になったり織田派になったりと、よその権威に散々に振り回されるようになった。
 
土岐氏の支配力が著しく衰退した美濃は、のちに斎藤道三という美濃の台頭者が出現するまでは、何かあるごとに越前の朝倉氏、尾張の織田氏の、この二大実力者の草刈場(美濃の支配権の争奪合戦)となっていたのである。
 
朝倉氏と織田氏は、美濃を巡る争奪戦が繰り返されてきた経緯から、話は前後するが信長が生まれた時には既にこの両家は互いに敵対意識が強い関係だった。
 
しかし朝倉氏にしても織田氏にしても「戦国後期に入りかけ」の時代の戦国組織はどこも支配利害で一致していただけで、主従関係(組織の使命感)による団結については中途半端なままの場合が多かった。
 
この時代は、実力をつけた家来筋たちが結託して元々の支配者と反対者を排撃し、主導権を占有する派閥利害で一致することまではできても、その後のその当主の座の権威は、有力者同士の横並びの権威のままダラダラと続いてしまうことも多かった。
 
次世代に合う名目(誓願)によって「よそではできていないことを、うちはしている」ことを公表して権威を示していくことも簡単ではなく、単に仮想敵(共有敵)に意識を向け、従わない者を罰して排撃するだけの単純な、そんな支配の仕方だけしていて強力な代表(戦国大名)が出現するのなら、誰も苦労はしなかったのである。
 
要するに朝倉氏にしても織田氏にしても、次世代組織としての展望が長く見られない状態が続けば、所詮は「困ったその時だけ」でしか動けていない、いずれ用済みになるその時だけの組織に過ぎなかったことになるのである。
 
主導権を握るようになった「その時だけ法の整備が行われ、その時だけしか団結できない」地方は、逆にいえばその繰り返しでないと法を整備することができない、地方の閉鎖自縛から抜けきれない主体性のない軟弱組織に過ぎず、だからこそ大した権威(行政外交力・上級裁判権)も維持し得ず、生き残れずに次々に潰れていったのである。
 
いくら主導権を握っても、その後にズルズルダラダラのただの利害連立でしか組織を維持できなければ、結局は元々の支配者ら(斯波氏や土岐氏ら)と大差ない、事件性や仮想敵に頼らないとろくに法の整備もできない、軟弱な地方の、軟弱な集まりに過ぎないのである。
 
一時的な団結しかできず、強力な戦国大名が出現する見込みも薄い地方は、次第に従事層(それを支える武士団や領民たち)のあせりも強まり、従事層もその内に自地方で団結することに見切りをつけてよその権威に頼り始めるようになり、いよいよその地方の主体性も崩壊していってしまうのである。
 
常に「どうにもならなくなってから」でないと法が整備されないような地方や、そういう時だけしか代弁者が出現しないような地方、よその強力な戦国組織の前例をただ追っているだけの何の主体性のない地方というのは、もはや列強に吸収されるべき、代表者なき主体性なき軟弱な地方同然といえたのである。
 
そういう地方は列強に吸収された後は「ろくな代表者も立てることができなかった地方の連中の言い分に過ぎない」のひと言で片付けられてしまえば、何ひとつ不満を主張する資格などないまま全ての言いなりに屈しなければならなくなるからこそ、だからこそ従事層はそこにあせり、危機感を強めた。
 
戦国中期では各地で上層から下層まで「そういうことではダメだ」というあせりと危惧だけは大いにされたが「その簡単ではない話」にどこも苦労していた時代でもあった。
 
戦国後期に入りかけていた、この「あせりの時代」に各地で多くの特異な人物が出現するようになるが、尾張の織田信秀(信長の父)と、美濃の斎藤道三が、まさにその時代を象徴していた存在だったといえる。
 
まずは織田信秀について述べる。
 
尾張の主導権を握るようになった織田氏は、代々大和守(やまとのかみ)を名乗る家系と、代々伊勢守(いせのかみ)を名乗る家系の、この大和家と伊勢家の2つの派閥系統を中心とした有力層の集まりの、利害連立勢力だった。
 
織田氏の反対者が排撃されていき尾張国内での権威も大きくなってくると、当然のこととして実力をつけていく親類も目立つようになった。
 
織田信秀は、大和家から分家して代々弾丞(だんじょう)を名乗るようになった、後からできた歴史の浅い新興の家来筋の織田一族で、この家系は本家(大和家と伊勢家)も手に負えなくなるほどの実力を身に付けて台頭するようになる。
 
特に織田信秀は、従事層(家臣や庶民)たちから大いに支持を得て急成長を遂げ、本家筋と完全に立場を逆転させた人物である。
 
戦国後期の総力戦時代に向かいつつあったこの時代に生きた織田信秀は、世がそこに向かっていくための先駆けとなった人物で、この信秀の成功と貴重な失敗(結果的なやり残しの課題)こそが、その後継者である織田信長に多大な影響を与えているのである。
 
規模と実績の大きさばかりで織田信長だけを別格に扱いしがちだが、信秀と信長の能力は同格と評価するべきで「群を抜いて信長が信秀よりも優れていた」のではなく「信秀がいなければ信長もなかった」のが実情である。
 
信長の基本路線は、信秀が立証した成功とやり残しの課題を深刻に受け止めて大いに努力工夫されたものが多いが、それだけでなく他の地方代表がやろうとしてやりきれていなかったものについても、そこにもしっかり着目してその実現に向けた努力が大いにされたものも多い。
 
それについても順述していくが、まず織田信秀がどんなことをした人物なのか、その時の尾張はどのような状況だったのかから記述していく。
 
当時の尾張は、衰退した斯波氏に代わってその地域の主導権を織田氏が握っただけで、支配権については完全に掌握していた訳ではなく、威勢に頼る一時的なものでしかなった。
 
失墜した斯波氏の権威の代理として、駿河(するが・今の静岡)の実力者の今川氏が尾張の支配権に介入し、尾張はそうしたよその権威が厄介に絡んで入り組み、それぞれの有力者らの派閥利害の中で、それぞれの足元を見てばかりのまとまりのない軟弱な支配が続いていた。
 
今川氏が斯波氏の代理として尾張の支配権に介入していた名目は、斯波氏も今川氏も共に足利家(室町政権の代表)と同族である縁を根拠にしていたためだったが、これも体裁ばかりで大して磐石というほどのものでもなかった。
 
織田氏は尾張の代表格として威勢良く軍事行動を繰り返していたが、実際の所は尾張の代表としての主体性など常に曖昧で、これは織田氏に限らずどこもそうだったが、互いによその権威に振り回されながら、常に誰かの足元を見ながら、難儀している相手を揺さぶるような支配の仕方しかできていなかった。
 
自国本拠の支配権が磐石な訳でもないのに、よそで支配権に乱れが出て難儀している所につけこみ外征を繰り返すばかりの、どこもそのように利害を外部に向けて当面の団結をかろうじて維持していたに過ぎない組織が大半だった。
 
それは越前の朝倉氏でも同じで、美濃の介入だけでなく北隣の加賀(石川県)や、西隣の若狭といった隣国の支配権に乱れが出てきて難儀している所につけこんで外征が繰り返され、やっていることは織田氏と大差なかった。
 
このように地方の主導権を握るようなった戦国中期の組織はどこでも似たようなもので、主導権を握ったというだけでは戦国組織(総力戦体制)が簡単に整備できる訳ではなかったからこそ、一時的な仮想敵(共有敵)で利害を一致させ、どうにか団結しているに過ぎないのが実態だったのである。
 
意識だけはその改革が求められ、強力な支配権(総力戦体制)を確立する次世代組織が早々に望まれていたのとは裏腹に、地位を手に入れた者たちが国家(法)のあり方のことよりも自身の地位の安泰のことばかり考え、どこも遅々としてその問題に踏み切ることができていなかった。
 
そのような危惧とあせりの中で台頭し、尾張の支配実権(組織の使命感)を強化するきっかけになったのが、織田信秀だった。
 
織田信秀の家系は、津島神社と熱田神宮との協道的な結び付きが強化されていき、それによって国内の農商業の整備が推進され、頼りになる代弁者の家系として成長していった経緯から、この家系は国内での味方が年々増えるようになり、信秀の頃にはすっかりあなどれない家系になっていた。
 
その支持力を背景に信秀は、名古屋城に居座り続けていたよそ者の権威(今川氏)の追い出しに成功して名古屋城を占領する事件(政治活動)を起こし、これが信秀の台頭の序章となった。
 
ちなみにこの名古屋城は、徳川御三家の(徳川家康が子の尾張義直のために諸大名に作らせた)現在の有名な名古屋城のことではなく、それができる前の、今のJR名鉄名古屋駅がある所にかつて存在していた旧名古屋城のことである。
 
これによって今川氏の尾張介入の権威が即座に無くなった訳ではなく、その後も今川氏の権威に頼り続けていた国衆が尾張南部に多かったものの、それでもこの実力行使は今川氏へのかなりの牽制になった。
 
つまり信秀は、織田一族がこれまで国内の支配実権のための法の整備の問題(総力戦体制の整備)に向き合おうとせずに、こうした内部改革の目標をいつまでも他にそらしてばかりで、結局は元々の支配者の斯波一族とやっていることの大差ない実態に反感をもち、単独でその問題に乗り出した第1号だったのである。
 
この時に信秀がやってのけた名古屋城占拠事件(よその権力の追い出し事件)に「家来筋の分際で許可もなく、我々が維持してきた権力均衡(パワーオブバランス)を勝手に壊すような真似を!」と織田一族を怒らせた。
 
しかしその今までのズルズルダラダラのいい加減な権力均衡(閉鎖組織)を破壊しなければならなかった支配者層としての義務を、この信秀が単独でようやくやるようになったことで、尾張国内の従事層たち(家臣や領民たち)は信秀の主体性に注目し、より信秀に期待し支持する傾向を強めた。
 
威勢がいいだけで大した主体性もなく、横並びの力関係の中で互いに足元を見ることしか能がない、支配者としてやるべきことをしてこなかった使えない軟弱な織田一族の本家筋に、信秀は堂々とケンカをふっかけたのである。
 
もうこの時点で気付いた人もいるかも知れないが、大した名目もない威勢だけの使えない無能な権力に反感的だった信長の性格や特徴の出所というのは、その父である信秀の時点でかなり強く現れていて、それをやり出したのも織田信秀だったのである。
 
当然のこととして本家は信秀を潰しにかかろうとして、信秀も最初は多少は苦戦したが、所詮は安直な利害連立組織に過ぎない、それぞれ地位の安泰のことしか頭にない団結など知れている集まりが、そう簡単に信秀を潰すことはできなかった。
 
信秀にとっての直接の本家筋であった大和家が元々治めていた尾張西部では、信秀が積極的に軍政活動を行うようになったことで大和家の権威は大いに失墜していき、尾張西部は弾丞家(信秀の家系)こそがあるべき支配者だという支持が成立するまでには、そう時間はかからなかった。
 
信秀を何ら抑えることもできなかった本家(大和家と伊勢家)の権威は、ただの利害連立だけで反対者を排撃することしか能がなく、大した名目も立てられずに何ら信秀を抑えることもできず、何の主体性もないその実態もいよいよ明らかになってくると、世間も織田宗家にますますあきれ、信秀をますます支持するようになったのである。
 
織田信秀はまもなく本拠を清洲(現・愛知県清洲市)に移動したことで、信秀が支配するようになった尾張西部のことを清洲家、依然として伊勢家が岩倉(現・愛知県岩倉市)を本拠に尾張東部を支配していたことから東部は岩倉家と言い分けるようになった。
 
尾張西部の清洲家の織田信秀の影響は、もはや尾張東部の岩倉家も、清洲家(織田信秀)を当主と仰(あお)ぐ形をとらなければければその地位の維持も困難な状況に陥り、渋々その主導に従うようになった。
 
主体性をもって尾張の支配権を強化したこの織田信秀の行動こそが、当時あせっていた従事層たちの希望通りの代弁だったのである。
 
その間には、支配代理の追い出しを受けた今川氏が、その内乱につけ込んで尾張に派兵したり外交で威嚇したりして、尾張をまとめさせないためにたびたび横槍を入れたが、信秀に「所詮はよそ者の権威に過ぎない」とことごとく一蹴され、今川氏は大した妨害はできなかった。
 
信秀は、列強と見なされていた今川氏の妨害に大して押されることもないまま、国内をいったんまとめあげてからはその反撃に出るようになった。
 
今までは、有力者同士で互いに難儀につけこんでいるだけの中途半端な外征が繰り返され、中途半端にしか支配権を獲得できていなかった美濃南部や三河西部に信秀はたびたび侵略するようになり、同様に三河の支配権にも介入していた今川氏とここで本格的な対決が何度も繰り広げられるようになった。
 
織田氏はかつては列強とは見なされていなかったが、元々列強と見なされていた駿河の今川氏といつの間にか大差ないほど、織田信秀はすっかり同格の実力を身に付けるようになり、美濃と三河に今までとは全く違う脅威を与えるほどの組織に変貌していたのである。
 
こうなると尾張南部の情勢も、今まで今川の権威に頼って独立性を強め、態度を曖昧にし続けていた国衆たちの中にも、今川氏の尾張介入の権威が薄れていくにつれ今川派から織田派に鞍替えする者も増え始め、今川氏にとっては尾張介入どころか三河介入の権威まで危うくなるほどだった。
 
尾張をいったんまとめあげた織田信秀という、いかにも戦国大名らしい支配者が出現したことで、隣国でもいよいよ危機感と緊張感を強めるようになった。
 
この織田信秀の出現によって、今までのようによその権威がどうだの、人材に家系の序列がどうだのと、今までのような地位の安泰を気にしてばかりの何の主体性(使命感)もない悠長な利害連立だけの統治をしている場合ではない緊張感を人々に与えた。
 
こうした風潮は、代表らしい代表がいないのも同然だった美濃でも、従事層の間では強くあせり出していて、その中で頼れる美濃の代表として輩出されるようになったのが斎藤道三である。
 
実質的にあてにならなかった美濃の支配者の土岐氏の本家は、その親類たちであった長井氏にしても斎藤氏にしても、美濃をまとめあげることができる人材が摸索されていた。
 
元々は地位がかなり低かったはずであった斎藤道三は、重臣たちから能力の高さを見込まれて彼らと同列に並ぶようになっていて、ついには美濃の代表として選出され、土岐氏に代わって美濃の主導権を握るようになった。(厳密には斎藤道三の父親が既にその片鱗を見せていて、親子共に能力を高く評価されていた)
 
斎藤道三の台頭によって、それまで横槍を入れ続けていたよその権威(朝倉氏と織田氏)の介入も、次第に撃退に成功するようになり、外交で牽制するようになって「美濃と争えば損しかなく、それよりも互いに自国の整備に取り組むべき」ことを解らせるようになった。
 
しかし斎藤道三はあまりに地位の階段を飛び越えて名族土岐一族をまとめる立場に早上がりしてしまったことから、疑いを強めたり嫉妬したりする者たちからは当初は「どうせ何もできない、口がうまいだけのただの成り上がり者に過ぎない」と影口を叩く者もかなり多かった。
 
しかし法を整備し、美濃のこれまでの政治や外交のやり方などを改革し、多発していた内乱も次第に収拾して国力も安定するようになると、その地位は磐石ではなかったが斎藤道三の美濃支配の支持も高まり、当面のまとまりを見せるようになった。
 
尾張では織田信秀が本家を差し置いて支配代表として台頭し、隣国に脅威を与えるようになった丁度その頃に、あせっていた美濃でもこの斎藤道三がその代表として台頭するようになった。
 
この時に斎藤道三がいなければ、特に織田氏から、いよいよどうにもならなくなるほどの踏み荒らされ方をされ、美濃の主体性(自立性)は完全に崩壊していてもおかしくなかった。
 
ただし斎藤道三は、一時的な当主に過ぎないという、代理的な見なされ方が最初から強くされていた。
 
この頃の美濃は、土岐氏の本家の権威が著しく衰退したとはいっても、その有力家臣(国衆)たちの多くは土岐一族の名族意識の序列が依然として強く、それを地位の根拠とし続ける風潮が強かったためである。
 
斎藤道三が土岐一族との婚姻関係が結ばれたとはいっても、それぞれの出自の序列を強く意識していた有力家臣たちから見れば「由緒ある土岐一族が美濃を建て直したのではなく、名族でもなんでもない成り上がり者が美濃を建て直すことになった」こと自体が、美濃の有力家臣たちにとって屈辱でしかなかったのである。
 
しかしどうにもならなかった当時、これ以上、土岐一族同士で政権を巡って争い続ける訳にもいかず、とにかく当面のまとめ役が欲しかった有力者たちは、情けないことと思いつつもこの斎藤道三という「仮の代表代理」に頼ることになり、渋々に美濃の建て直しに取り掛かった。
 
美濃の有力家臣たちから見た斎藤道三とは「美濃を整備させて国力と権威を回復させるまでの仮の当主」としてしか見なしておらず、それが終わったら用済みの斎藤道三は引退させ、由緒ある土岐一族から有能な者を選び直して当主にすえれば良いという前提が、最初から濃かったのである。
 
斎藤道三もそれをよく理解した上でのことだったが、それが前提であるために、斉藤道三の法の整備に土岐一族の有力者たちもそれなりには協力したが、最終的には彼らの協力がなければ何の政権も保てないのが実情だった。
 
本来は戦国組織としての使命感の義務を強化しなければならなかった所、美濃は地方一族の名門意識が強すぎたことで保身的な利害連立主義から脱却できず、当面の整備しかできなかったが、これは美濃だけでなくどこも似たようなものであった。
 
一方で織田信秀にしても、その存在は当初は、もはや尾張、美濃、三河の3ヵ国の支配者になるのも時間の問題と思われていたほどだったが、そうではなかった。
 
結果的には斎藤道三にそれを阻まれ、さらには、支持を得たというだけでは国内も三河も支配権を明確に掌握できる訳ではないという、斎藤道三と同じような実態が織田信秀も次第に浮き彫りになっていった。
 
織田信秀と斎藤道三の対決は、織田側の方が攻勢だった点で実力はかなり上だったといえるが、斎藤道三が美濃をまとめて国力をある程度回復させ、両者の実力も均衡するようになると、容易に争うこともできなくなっていき、両者は互いに同盟対策に寄っていった。
 
まだ50にもなっていなかった織田信秀が、そのように行き詰まりを見せていた中でまるで潮時であったかのような象徴的な急死をすると、尾張では再び内乱が頻発するようになった。
 
織田信長は、信秀が若い頃にやってのけた以上にもう一度「最初からやり直し」といわんばかりに国内統制の整備に取り組むようになり、信長は30手前になるまでの最初の10年間は、外のことには三河のことも目もくれずに尾張内部の政治改革にひたすら集中した。
 
有名な「桶狭間の戦い」はその期間の真っ最中に起きた戦いである。(厳密にはそれが整いつつあった時期)
 
当面の脅威であった織田信秀が急死したことで、織田信長を試すように尾張では内乱が頻発するようになり、織田派に鞍替えした今川派たちも再び旧態に戻り始めたのを好機に、今川軍がかつての尾張支配代理を名目に尾張に乗り込んできたのである。
 
そのように、織田信長が国内整備と今川氏の横槍への対処に忙しかった時期には、美濃でも異変が起きていた。
 
美濃では法の整備もある程度進んで内紛もいくらか落ち着き、国力もいったん安定するようになると、斎藤道三を用済みと見なすようになっていた美濃の有力者たち(土岐一族ら)がその追い落しにかかるようになり、この権力闘争に斎藤道三は敗れると、土岐一族の本家筋と扱われ器量も有望と見なされていた斎藤義龍が擁立された。
 
この戦国後期への突入期は、時代に必要とされる戦国組織(法)の義務が、何が不足しているのかが再認識されながら、そのあり方が目まぐるしく変化していた時代だった。
 
そして、かつては問題視されていた「人徳なき人望」の現象も逆転しつつあり、この斎藤道三のように、大して地位が高くない者があまりにも階段を飛び越えて急に高い地位に就くこともあったことの弊害として「人徳は申し分はないが人望不足」だった者が顕著になり始めた時代でもあった。
 
話は前後して、だいぶ後の関ヶ原の戦いの話だが、筆者が「豊臣の三賢臣」と見なしている豊臣の命運を握っていた「増田長盛、大谷吉継、石田三成」のこの3名はまさに、それを支えるほどの人徳は十分に兼ね備えていたが、関ヶ原の戦いをどうにかできるほどの人望はいずれも不足していた典型例といえる。
 
話は戻り、戦国後期に求められていた総力戦体制の改革にいったんは成功したかのように見えた織田信秀であったが、結果的には課題が浮き彫りになり、織田信長がそれをどのように受け取ったのかに触れることで、どういうことだったのかを順番に説明していきたい。
 
織田信秀の時代は総力戦体制への移行期で、人々からそれが求められていて誰もがあせっていた一方で、どうやったらそれが実現できるのかが誰も解らず、皆があがいていた時代だった。
 
その中で、実質20年ほどしか活動できなかった期間にその手前までを実践し、当時の人々を大いに驚かせ、結果的に信長に次にやるべきことを十分に教えることになった織田信秀はやはり只者ではなく、次代への第一歩をやってのけた重要人物だったのである。