憲法と人権、子どもと未来について考えませんか? -4ページ目

子どもが人を殺すのは?

子どもが親を殺す、という事実には、親に対する激しい怒りやそこに至るまでの愛憎の積み重なりが想像されるが、「だれでもよかった」といわれると、そこでこちらの理解の糸が断ち切られてしまう。
自分をその親に重ね合わせる時、「何で?」という声にならなかった声が聞こえてくる。
子が親を殺したのではなく、人が人を殺した。しかも、人の体を、花をむしり、枝を折るように扱ったというのでは、あまりに自分と相手双方の「人」を軽んじてはいないか?軽んじたのではなく、人の存在自体が本人の中で軽くなってしまったのか?
自分自身に対する愛着、日々の暮らしの充実感、親兄弟や友人との間の感情的交流など、そこに怒りや不満はあっても、今生きている確かな実感があり、もう一人の人の存在に対する豊かな想像力があれば、こんなことはできなかったのではないか?
子どもが生まれ、さまざまな環境の中でさまざまな体験をしながら一人の人として育っていく、その当たり前な育ちが、今大きく阻害されているように感じる。
ここ数十年の間に地域の中でなくなってしまった草原・小川・蛇がいた山道・かえるが鳴く田んぼ・・・と、無くなってしまったものは取り返せなくても、子どもたちが大声を上げて自由に遊べる空間と自分で自由に使えるたっぷりな時間、親や地域の人々・子どもたちとのいきいきとした交流が、一人の人として育っていくには何よりも必要ではないのか。
子どもから大事な空間や時間を取り上げ、子どもを小さいころから競わせ、評価し、価値を決め、その先にあったのが、人の存在に対する「無価値」という子どもからの回答なのかも知れない。

子どもたちの現状を変えるには?

いじめ・サボり・茶髪・ボタンはずし・腰パン・ピアス・喫煙・暴言・暴力・万引き・少年犯罪・・・と、学校現場でも家庭でもお手上げ状態で、だから体罰の定義の見直し?、道徳教育の強化?家庭教育の強化?更に少年法の改正?そして、憲法に、個人の権利の尊重は「公益と公の秩序に反しない限り」と明記???
「子どもの権利」の尊重が子どものわがままを助長し、一部の「ワル」が多くのまじめな子どもたちに迷惑を掛け、悪い影響を与えているのだから、まず「ワル」を地域から別の場所(少年院?)に移し、残った子どもたちに規律と道徳を叩き込む?
現在進行中のこの方向性は、その良し悪しは別としても、子どもたちの現状に対して有効なのか?
今、子どもたちに起きていること、子どもたちが置かれている現状について、もっとおとなは知らなければいけないのではないか。
当事者の子どもの声を身近なおとながちゃんと聴くこと。そこから始めなければ、この現状を変えることはできないのではないか。
最近聞いた子どものことば
・先生はいつも忙しそうで話なんか聞いてくれない。
・まじめな子は保健室で休ませてくれるけど、私なんかが行くと、授業を受けないなら家へ帰れと言われる。

憲法と人権、子どもと未来について考えませんか?

国民投票法案が参議院で審議され、このまま可決成立してしまえば、いよいよ憲法改正が現実のものとして迫ってくる。憲法が私たち一人ひとりにとってどれだけの意味を持っているのか、それが変えられることが、どのような現実をもたらすのか、国民の一人として考えたい。