子どもが人を殺すのは?
子どもが親を殺す、という事実には、親に対する激しい怒りやそこに至るまでの愛憎の積み重なりが想像されるが、「だれでもよかった」といわれると、そこでこちらの理解の糸が断ち切られてしまう。
自分をその親に重ね合わせる時、「何で?」という声にならなかった声が聞こえてくる。
子が親を殺したのではなく、人が人を殺した。しかも、人の体を、花をむしり、枝を折るように扱ったというのでは、あまりに自分と相手双方の「人」を軽んじてはいないか?軽んじたのではなく、人の存在自体が本人の中で軽くなってしまったのか?
自分自身に対する愛着、日々の暮らしの充実感、親兄弟や友人との間の感情的交流など、そこに怒りや不満はあっても、今生きている確かな実感があり、もう一人の人の存在に対する豊かな想像力があれば、こんなことはできなかったのではないか?
子どもが生まれ、さまざまな環境の中でさまざまな体験をしながら一人の人として育っていく、その当たり前な育ちが、今大きく阻害されているように感じる。
ここ数十年の間に地域の中でなくなってしまった草原・小川・蛇がいた山道・かえるが鳴く田んぼ・・・と、無くなってしまったものは取り返せなくても、子どもたちが大声を上げて自由に遊べる空間と自分で自由に使えるたっぷりな時間、親や地域の人々・子どもたちとのいきいきとした交流が、一人の人として育っていくには何よりも必要ではないのか。
子どもから大事な空間や時間を取り上げ、子どもを小さいころから競わせ、評価し、価値を決め、その先にあったのが、人の存在に対する「無価値」という子どもからの回答なのかも知れない。
自分をその親に重ね合わせる時、「何で?」という声にならなかった声が聞こえてくる。
子が親を殺したのではなく、人が人を殺した。しかも、人の体を、花をむしり、枝を折るように扱ったというのでは、あまりに自分と相手双方の「人」を軽んじてはいないか?軽んじたのではなく、人の存在自体が本人の中で軽くなってしまったのか?
自分自身に対する愛着、日々の暮らしの充実感、親兄弟や友人との間の感情的交流など、そこに怒りや不満はあっても、今生きている確かな実感があり、もう一人の人の存在に対する豊かな想像力があれば、こんなことはできなかったのではないか?
子どもが生まれ、さまざまな環境の中でさまざまな体験をしながら一人の人として育っていく、その当たり前な育ちが、今大きく阻害されているように感じる。
ここ数十年の間に地域の中でなくなってしまった草原・小川・蛇がいた山道・かえるが鳴く田んぼ・・・と、無くなってしまったものは取り返せなくても、子どもたちが大声を上げて自由に遊べる空間と自分で自由に使えるたっぷりな時間、親や地域の人々・子どもたちとのいきいきとした交流が、一人の人として育っていくには何よりも必要ではないのか。
子どもから大事な空間や時間を取り上げ、子どもを小さいころから競わせ、評価し、価値を決め、その先にあったのが、人の存在に対する「無価値」という子どもからの回答なのかも知れない。