1976年8月2~7日 劔岳定着夏山合宿 BC真砂沢
この年の4月に山岳会に入会した私。
5/30 谷川 マチガ沢 雪上訓練 (雪上の歩き方、ピッケルの使い方、滑落停止)
6/20 奥武蔵 天覧山ゲレンデ 岩場訓練 (登攀とクライムダウン、肩絡みによる懸垂下降)
6/27 谷川 ヒツゴー沢
7/4 丹沢 セドの左俣
7/18 妙義 木戸前ルンゼ
夏山合宿前にこれだけの訓練と実践をさせてもらって合宿に参加した。
O氏(結婚する前の夫)と二人で雨の雷鳥沢を28kgのキスリングを背負って牛歩のごとくゆっくりと登った。
アイゼンもつけず劒沢を下る。
真砂沢のBCに着いた時、先にBCに入っていた仲間が言った。
「この雨だから来ないと思ったよ。よく来たな。」
それから数日雨が続いた。
雨でも長次郎谷(ちょうじろうたん)熊ノ岩や平蔵谷(へいぞうたん)を途中まで上がったりして日程を無駄にはしなかった。
天気図を書いて翌日も雨予報と読んだが、朝が来てみれば青空が広がっていた。コラッ!!
正しく読めなかった天気図(笑) 前線の動きが速すぎた(^◇^;)
みんなは、それぞれに好きなルートに散って行った。合宿には総勢10名ほどがいた。
当時、10人用テントで合宿していて、この重たいテントは新人が担がされた(^_^;) あ、私じゃなくて男性ね。
リーダー部長が私に言った。
「Tと二人で三ノ窓に行って来い。」
Tさんは会では一年先輩の女性会員だ。年齢は4つくらい上だった。
ヘルメットを被り、ピッケルを持って二人で出発した。
三ノ窓雪渓の取り付きに行くまでに、一ヶ所だけビビる箇所があった。
昔は通過するのに難儀な場所でも鎖など補助は殆ど無かった。
そこは岩壁をトラバースして進むのだが、下は轟々と流れる劒沢南股の深い沢だった。
しかも岩壁はややオーバーハング気味だった。
非常に手懸かりが不安定だった。
思い切って行くしかなかった。
ドキドキしながら通過した。
ここは多分二股の辺りだと思われた。今では鎖も掛かっているし桟道もある。水量の少ない時は河原も歩けるが、この時は雨が続いていたので水量もかなり多く岩壁の上の方をへつった。
3年後に阿曽原から歩いてきた時は河原を難なく通過できた。その時は水量が少なかった。
三ノ窓雪渓の取り付きからは、ただただ長大な雪渓を登るだけだった。
半分くらい登っただろうか。
上から単独の男性が降りてきて言った。
「食べ物貰えませんか?」
持っていた行動食を渡しながら聞いた。
「どこから来たんですか?」
「池の平からです」
と、男性は言った。
下山する男性を見送って、更に雪渓を登り続けた。
三ノ窓にはチンネに取り付いてるパーティーの幕があった。
私たちは本峰から来る3人の仲間をトカゲになってのんびりと待つことにした。
暇なのでちょっと北方稜線を進んでみようかと思って、池ノ谷(いけのたん)ガリーに行ったのだが、一歩踏み込んだだけで、累々と続く岩の重なりがゆっくりとこちらに向かって流れ出したのだ。
そら恐ろしくなって即座に登るのを止めた(笑)
現在の池ノ谷ガリーの画像を見ると、そんな累々とした様子は無く、当時のそこに積み重なっていた岩は殆ど流れ落ちている。
お借りして来た最近の池ノ谷ガリーの画像。
岩の重なりが無くなってる!
これは2014年8月にジャンから天狗沢へ下りた時の天狗沢。
ここを下る時、池ノ谷ガリーに似ていると思った。
当時の池ノ谷ガリーはこの状態をもっと急傾斜にした感じだ。
本峰から北方稜線を通過して来たパーティー。
二人の男性は岩壁登攀が好きだ。
三ノ窓雪渓を下る
上から見ても長い雪渓だ。
ノーアイゼンで下りて、途中からグリセードをしながら下った。
私はまだへたっぴだったので、転げながら(笑)
この3年後の1979年に阿曽原から歩いて来た時に眺めた三ノ窓雪渓
翌日は下山の日だった。
再び、キスリングを背負って真砂沢BCから雨の劒沢を上がった。
全員重いキスリングなのに登るペースは速かった。
着いて行くのがやっとだった。(28kgの重さは死ぬかと思った)
重すぎるキスリングに歯茎も痛くなった。
帰りの電車の中で食べたマス寿司が
歯が痛くてあまり食べられなかったのも忘れられない思い出だ。
私の山の原点となった山行だった。
おしまい( ̄▽ ̄)
2012年に立山の御前沢雪渓、剱岳の三ノ窓雪渓と小窓雪渓の3つが
現存する氷河であることが学術的に認められました。