前回記事「仏典を読む(その26)観無量寿経5」の続きです。

 今回及び次回は、観無量寿経における観想法の中で最も重要な部分だと思われます。内容も面白いです。

 

【観無量寿経】6

 釈尊は阿難とイダイケ王妃に仰せになった。

⑪ 次に仏を思い描くがよい。仏は、全ての世界で人々を広く教え導き、どの人の心の中にも入り込みくださっている。お前たちが仏を思い描く時、その心がそのまま仏の姿となる智慧が海のように深く広い仏がたは、人々の心に従って現れてくれるのである。だからお前たちは、ひたすら阿弥陀仏に想いを巡らし、はっきりと思い描くがよい

⑫ 阿弥陀仏を思い描くには、まずその像を思い描くのである。目を閉じていても開いていても、金色に輝く一体の仏像が、蓮の花に座っている様子を常に思い浮かべるがよい。それから、先に述べた極楽浄土の様子をはっきりと見えるようにするのである。そして、大きな蓮の花が仏の左右にあると想像し、左の蓮の上に観音菩薩が座り、右の蓮の上に勢至菩薩が座っているのを思い描くのである。これらの観が成就したのであれば、極楽浄土にある様々な樹や水や鳥などが優れた教えを説くのを聞くだろう。聞いた内容については、観想が終わったあとも忘れないようにするがよい。もし、それらを経典に説いてあることと照らし合わせてみて、それが相違するのであれば妄想であり、合致するのであればそれは極楽浄土を見たということができる。このように思い描くのを像想といい、第八の観と名付ける。

⑬ この観が成就したなら、次に阿弥陀仏の真のお姿と光明を思い描くがよい。無量寿仏のお身体は60万億那由他恒河沙由旬である。眉間の白毫の大きさは須弥山を五つ合わせたほどであり、頭の後ろから放たれる円光の広さは百億の三千大世界を合わせたほどである。その円光の中には百万億那由他恒河沙の化身の仏がおいでになる。これらを詳しく説くことはとてもできない。ただ想いを巡らせて心の目を開いて明らかに見るがよい。このように想い描くことは様々な世界の仏がたと、そのお心を全て見ることになり、これを「念仏三昧」という。この観が成就すれば、来世には仏がたの前に生まれ、真理を悟ることができるだろう。阿弥陀仏の姿を思い浮かべるにあたっては、白毫を極めてはっきりと思い浮かべることである。そうすると、84000の阿弥陀仏の特徴が自ずから現れてくるだろう。このように想い描くことを「広く全ての仏のお姿を思い描く想」といい、第九の観と言う。

 

【メモ】

 今回は、極楽浄土の主である「阿弥陀仏を思い描く方法」という、観無量寿経の最重要パートとなります。

 

 まず、⑪について、このブログの読者の方であれば、阿弥陀仏を想像することができる方は多いと思いますが、お釈迦様によると、みなさんがそれをできるのは阿弥陀仏の計らいであるといいます。この教えは「阿弥陀仏や極楽浄土を心に想い描くことは自力ではない」という浄土真宗の思想の根拠になっていると思われます。ただ、経典では、お釈迦様が「一心に思い描くがよい」と再三に渡って述べていることから、個人的には浄土真宗のような「絶対他力」はやはりちょっと違和感を感じてしまいます。

 

 ⑫について、阿弥陀仏の思い描き方についての説明ですが、蓮の花に座っている阿弥陀仏を想像するのですが、これが極まると、観想の世界の中で教えを聞くのだのだそうです。その後、その教えが経典の内容と合致するのであれば、観想が成功しているということになります。このくだりは、大乗仏教以降の宗教体験の基本的な流れになってるように思えます。「修行をしっかり修めたところ、こういう体験をした…これは経典に書いてあるとおりだ!!」…と。それにしても、仏像の重要性ってのがよく分かります。経典だけで阿弥陀仏を思い描くことは難しいですから。仏像の存在意義について問われた場合、「大乗仏教の基本はイマジネーションであり、その手助けをするのが仏像」と答えてもいいと考えています

 

 ⑬について、阿弥陀仏の詳細なお姿の説明です。体の大きさが「60万億那由他恒河沙由旬である」とのこと。

 こちらのブログで頑張って計算されている方がいらっしゃいます。尊敬。

 生物というのは、大きければ長寿で小さければ短命ということをインドの人は知っていたんじゃないかと思います。そのため、人間との寿命の違いを明らかにするため、阿弥陀仏をとんでもなく巨大にし、その居住地である極楽浄土も超巨大になった…ということじゃないでしょうか。なお、阿弥陀仏を観想すると、その光の中にいる無数の仏も見ていることになるとのことです。「じゃあ、もう阿弥陀仏だけ拝んどけばいいじゃん」とかなりそうですね。実際、浄土教系宗派の人々は、阿弥陀仏だけの信仰になりがちです。

 

 今回の内容はすごく面白かったです。次回に続きます。