前回記事「仏典を読む(その27)観無量寿経6」の続きです。

 今回は、観音菩薩の思い描き方です。観音菩薩といえば、法華経の中の一章「普門品第二十五」すなわち「観音経」が有名ですが、観無量寿経でも観音菩薩の存在感は大きいですね。大乗仏教の主役とも言える観音菩薩について、寺院の参拝時にお会いすることが多いでしょうし、参考にしていただけたら幸いです。

 

 

【観無量寿経】7

釈尊はさらに阿難とイダイケ王妃に仰せになった。

⑭ さて、阿弥陀仏をはっきりと思い描き終わったならば、次に観音菩薩を思い描くがよい。観音菩薩は高さが80万億那由他由旬で、その体は金色に輝いていて頭には肉髻があり、立派な宝冠をつけている。その後ろの円光には私(釈迦)と同じような姿の500の仏がおいでになる。その仏にはそれぞれ500の菩薩と数限りない化身が付き添っている。また、80億の光明でできた胸飾りをつけており、極楽世界の麗しい様子を全てみな映し出しており、手のひらには500億もの蓮の色を備え、十本の指先には84000の絵模様がある。観音菩薩はこの素晴らしい手を差し伸べて人々をお導きになるのである。その他様々な特徴をその身にすべて備えておられるのは仏と同じである。ただ、頭の肉髻と無見頂の相が仏に及ばないだけである。このように思い描くのを観音菩薩の真のお姿を思い描く想といい、第十の観と名付ける。

また、釈尊は阿難に仰せになった。

⑮ もし、観世音菩薩を思い描こうとするなら、この観を行うがよい。そうすると、様々な災いに合わず、これまでの悪い行いも妨げとはならず、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる観音菩薩は、ただの名を聞くだけでも計り知れない功徳が得られるのである。もし、その姿をはっきりと思い描けるのなら、それ以上の功徳をが得られることは言うまでもない。観音菩薩を思い描こうとするならば、まず、その頭の肉髻を思い描き、次に宝冠を思い描くがよい。このして順々に他の様々な特徴へと及んでいき、それらをはっきりと見えるようにするのである。

 

【メモ】

 浄土思想の主役は間違いなく阿弥陀如来ですが、準主役は観音菩薩と言えるでしょう。法華経に依拠する宗派だと釈迦如来、浄土教に依拠する宗派であれば阿弥陀如来、密教系宗派であれば大日如来と、各宗派が集合した場合には、「うちはその仏様拝まないよ」とかいってもめるんですけど、観音菩薩については、法華経と浄土経典、その他様々な経典に登場しており、日本仏教共通の礼拝対象とするのはOKっぽいです。そんなわけで、お寺をランダムに参拝して一番お会いできる可能性が高いのは観音菩薩じゃないでしょうか。

 

 ⑭について、以前もお話ししましたが、大乗経典「菩薩瓔珞本業経」では悟りの階梯が52レベルまであるとされているところ、観音菩薩は、51レベル(等覚という)とされており、実はすぐにでも仏になれるのですが、衆生を救済したいからあえて悟りを開かないという存在とされています。そんなわけで菩薩の中でも別格の存在として扱われており、観無量寿経でも、観音菩薩の背後の光の中には500の仏が存在する…などと説かれています。これは、観音菩薩が仏を従えているのか、観音菩薩の後見人として仏がいるのかわかりませんが、やはり尋常ではありません。仏と観音菩薩の違いは、見た目がちょっとだけ及ばないだけなんだそうです。ちなみに、お釈迦様は、観音菩薩を思い描くことを、「観音菩薩の真のお姿を思い描く想」と言っています。お釈迦様。そのまんまじゃないですか。

 

 ⑮について、観音菩薩を観想すれば、これまでの罪が消えるとのこと。大乗経典ではこういう記述が多いですね。「万病を治す」とか、「どのような願い事でも叶う」などと、このあたりの経典の記述をどのようにして解釈すればいいのか、これは私の興味の一つです。効験で大風呂敷を広げることの合理的解釈ができなければダメだと思います。「薬師如来は新型コロナ流行の時、何をしていたのか」、この質問に対して仏教はどのように回答するのでしょうか。

 

 次回に続きます。