坐禅談義(その6)の続きです。

 

 人が落胆する時「肩を落とす」という表現がしばしば使われます。実際、人は精神的なショックを受けると脱力して体を丸めることがあり、その結果として呼吸が乱れたりします。そして酷い時には、過呼吸や酸欠のような状態になり、心の苦しさを感じるようになります。

 辛いことがあれば呼吸が乱れる…。となれば、呼吸を正常に戻せば心の状態が元に戻るかと言えば、そのように簡単な話ではありませんが、少なくとも呼吸の影響を受けた部分については緩和されるでしょう。心の辛さについては、根本的には、元となる原因を除去することや、時間の経過が必要となりますが、それが叶うまで、坐禅を行うことは一案であると私は考えています。とにかく坐禅によって、精神的なピンチを「しのぐ」ということです

 

 坐禅には、調身(ちょうしん)・調息(ちょうそく)・調心(ちょうしん)という3つの基本があります。これは、「姿勢を整えることで呼吸が整い、呼吸が整うことで心が整う」という考えです。坐禅に取り組むなら、この3つの基本は絶対で、私も坐禅を行う時は、毎回最初に確認するようにしています。

 

 まず、仕事に疲れて自宅に帰ると、その日の色々な出来事で心が疲れていたり、怒っていたり、悲しかったりするかもしれませんが、そういう時に坐禅を組んだ際、まずやることは、姿勢を正した上での呼吸を整えること。とにかく、これを念入りに行います。呼吸の整え方は「数息観」(すそくかん)が最も有効ですその名のとおり、息を数える坐禅法のことです。

 

【数息観】

出入の息を数える観法。出入の息を数えることによって、心の散乱を修め、心を静め統一する方法で、"五停心観の一つ。ヨーガの行法としてインドで古くから行われていたのが仏教にも取り入れられたもの。

岩波仏教辞典

 数息観は、天台宗や臨済宗などの坐禅で積極的に取り入られています。坐禅会に参加すると、まず最初に習う修法かもしれません。しかし、曹洞宗においては数息観はあまり推奨されていない感じで、前回お話しした「習禅」とされているのか、むしろダメとも言われています。

 道元禅師の語録である「永平広録」には以下のとおり記されています。
 

衲子の坐禅は、直に須く端身正坐を先と為す。然る後、調息致心す。是れ小乗の若きは、元より二門有り。所謂、数息不浄なり。小乗人は数息を以て調息と為す。然而、仏祖の弁道は永く小乗には異なり

永平広録

 つまり、道元禅師は、坐禅はまず姿勢をよくして呼吸を整える…ここまでは良いのですけど、数息観については小乗仏教の修法だとしているのです(おそらくレベルの低い修法と考えておられる)。

 ただ、曹洞宗内において道元禅師と同様に尊ばれる瑩山禅師は、数息観について以下のとおり述べています。

 

心が落ち着かない時は、鼻と丹田に意識し、出入りする呼吸を数える。

                         坐禅用心記

 瑩山禅師は、数息観を心を落ち着ける手段として提示しているのです。

 「心が落ち着かない時は」という限定的な言い方になっているところが、道元禅師に対する瑩山禅師の配慮なのかもしれません。いずれにせよ、瑩山禅師の教えは、煩わしいことだらけの俗世間に住する我々にとって、大変優しい教えを提示していると思います。そもそも「心を落ち着けろ!!」…って、方法論の提示なしで実現は無理でしょう…と。

 

 次回「坐禅談義(その8)」に続きます。