坐禅談義(その5)の続きです。

 

 道元禅師は著書の「普勧坐禅儀」でこのように述べています。

 

「所謂坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なり」

 

 習禅(しゅうぜん)とは、悟りを求めて坐禅を行うことを言うのですが、道元禅師は「坐禅自体が悟りである。坐禅は悟るための手段ではない」(修証一等)とし、通常「手段」とされる坐禅を「目的」である悟りと同一であると考えました。平たく言えば、「ちゃんと坐禅をしていれば、すでにあなたは仏なのだ」ということです。

 かなり昔のことですが、都内の坐禅会に参加した時、目の前の参禅者全員が微動だにせず静寂の中に坐禅を組み続けていた光景から、「ああ、なるほど。この人たちは全員仏だな。道元禅師が言っているのはこういうことか…」と、ちょっとした「気づき」を得たことを覚えています(これは間違いない)。

 

 「坐禅=悟り」と考えることは、原則としては体で理解すべきことでしょうけど、やはり、多くの禅者たちによって様々な解釈や意味づけがなされています。仏教では、人間の知性を「分別智」(ふんべつち)と、「無分別智」(むふんべつち)の二つに分けます。「分別智」は、科学や哲学的知見、あるいは社会的な価値などによる知性を言い、他方、「無分別智」は、仏の智慧による知性のことを言います。

 道元禅師は「悟り=坐禅」と捉えていることから、坐禅に対する「分別智」による解釈を許しません。道元禅師からすれば、「俗世の浅はかな価値観や言語で悟りの体現である坐禅を表現できるわけないだろう」というところでしょうか。そのため、「只管打坐」(しかんたざ)といって「ただひたすら坐禅をすべし」ということになるわけです。

 ちなみに、ある禅宗寺院で坐禅をしていた時、いきなり、「空になれ!!」と言われたことがあり、「ええーっ!?」となったことがあります(笑)。「空」というのは、言語表現が不可能とされる仏の智慧を便宜的に表現した概念ですので、坐禅において「空になれ」というのは、実のところ適切な指導ではあるのでしょう(当時は無茶言うなよと思いましたが…)。

 

 ともあれ、以上の理由から、以前の記事でもお話ししたとおり、「坐禅をしたらどんなメリットがありますか?」という問いに対しては、「何もありません」というお馴染みの回答となってしまうわけです。「坐禅をすればメンタルが好調になります」などと言えば、それは事実だと思うのですけど、これを聞いた人は、坐禅=健康法という固定的な分別智が成立してしまいますので、結局のところ「何もない」という回答になってしまうのでしょう(というか、個人的には「何もない」ってのは事実に反するのでウソになっちゃうと思うのですが…)。

 

 次回「坐禅談義(その7)」に続きます。