このところ寺院参拝記事ばかりだったので、今回から何回かはまた仏教論に戻したいと思います。

 

 テーマは「仏教と霊魂」について。原始仏教では決して主要テーマになりませんが、部派仏教では教理分析の重要テーマとなり、葬式仏教などと揶揄される日本仏教では核心的なテーマとなります。

 また、スピリチュアルな話が好きな方は、仏教において霊魂をどう考えているかというのは関心事項だと思います。そして、私自身も、霊魂の存在について大変な関心を持っており、重要なテーマであると考えています。霊魂の存在の有無については、我々人間に必ず訪れる「死」に対する態度に大きな影響を与えます。亡くなった家族がどこにいくのか。そう考えるのは人間の心情として自然なことでしょう。

 

 ということで、まずは、霊魂に対する仏教の基本的な考えから見ていきます。仏教の開祖である釈迦は霊魂についてどう考えていたのでしょうか。有名なところでは、「毒矢のたとえ」という教えがあります。仏教が好きな方であれば一度は聞いたことがあるかと思います。

 原文は長いので、岩波仏教辞典を参考にしながら要約したのものを以下に記します。

 

 尊師(釈迦)がアナータピンディカの園に住していた時に,独りで座っていた尊者マールンキャ・プッタの心の中にこのような考えが起こり、これを尊師に問うた。

 

①世界は常住であるのか無常であるのか

②世界は有限であるのか無限であるのか

③jiva(命・魂)と身体とは同一であるか、別異であるか 

④如来は死後存在するのか、存在しないのか
⑤如来は死後存在しながらしかも存在しないのか、死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

 

 これらの問いに対して、尊師はこのように答えた。

 

 マールンキャ・プッタよ,それらの問いは「利益を伴うもの」ではなく、「悟りを開くこと」「煩悩という火が消された涅槃」に役立たない。そのため、私はこのことに答えない。

中部経典「小マールンキャ・プッタ経」を要約

 ③の「命・魂と身体とは同一であるか、別異であるか」がまさにズバリの質問でした。魂と体が別々に存在するというならば、「体の機能停止・崩壊」=「死」の後も魂は残ると解釈できそうです。しかし、残念ながら、釈迦は、「そのような問題は悟り・修行の役に立たないから答えない」などと言い、回答を拒絶しています。いや、「役に立たなくとも、気になるから、とりあえず教えてくださいよ」とか思うのですが…、ともあれ釈迦は答えなかったわけです。仏教では、これを「無記」(むき)と言います。

 釈迦の教えについては、常に「悟りの境地」と「それに至る道」が基準となっていて、形而上学的な議論を無意味と考えているように見えます。その理由としては、釈迦自身の悟りが、議論よりも主に瞑想という身体性の強い修行を経て得られたものだったからでしょう。

 

 では、釈迦は霊魂の有無については一切語っていないのか…、といえばそうではなく、実は以下のようなことも述べています。

 尊師は修行僧たちとともにゴーディカ尊者が床座の上で肩をまるめて上向きに死んでいるのを遠くから見た。

 そして尊師は修行者に対し次のとおり述べた「今まさに悪魔が、死んだゴーディカのvinnana(識別力)を探し求めているのだ。しかし、彼は、生前、思慮深く常に瞑想を行い、妄執を根こそぎにえぐり出していたため、涅槃に入り、完全に消え失せている」

相応部経典「ゴーディカ経」を要約

 ゴーディカという釈迦の弟子がいました。彼は、優秀な修行者で何度も悟りの境地に到達しますが、安定せずに何度もその境地から転落していました。その結果、「もはやここまで」…と自殺してしまいます。それで、悪魔がやってきて、自殺したゴーディカのvinnana(識別力)とやらを探すのですが、彼は悟りを開いていたので消滅していて見つからなかった…という話です。

 もし、ゴーディカが悟りを開いていなければ、vinnana(識別力)どこかに存在していたということを示唆しており、釈迦がvinnanaという霊魂なるものを前提にしていたことが推察できます。

 ちなみに、仏教学者の中村元氏は、vinnanaについて、「一種の魂・霊魂のようなものを想定していたのだろう」と分析しています。

 

 次回「仏教と霊魂(その2)」に続きます。