前回記事「仏教と霊魂(その1)」の続きです。

 

 釈迦が誕生した頃の古代インドでは、固有不変の魂を「アートマン」と規定し、このアートマンが死後の生まれ変わりの主体になると考えられていました。これらの考え方を「輪廻思想」といい、当時のインド社会の共通価値観であったようです。

 釈迦も輪廻思想を採用しており、その内容は、悟りを得た修行者は輪廻から外れて二度と生まれ変わらなくなる(これを解脱という)というものでした。すなわち、前回の記事「仏教と霊魂(その1)」でお話しした「仏弟子ゴーディカのvinnana(識別力)が死後どこにも見当たらず、完全に消滅していた」というエピソードはまさに釈迦の輪廻思想を表したものと言えます。

 ただ、実のところ、釈迦の輪廻思想を理解することは非常に難しい。あまりにも難しいので、後世の僧侶や学者の中には、「釈迦は輪廻思想を本気で説いていない」とか「釈迦の輪廻思想は全て方便(たとえ話)である」などと主張する者が結構存在します。

 

 仏教の核心思想に「縁起」があることは、昨年12/25の記事「因果応報論」でお話ししました。仏教では、物事は「因」(原因)に「縁」(条件)が働きかけて「果」(結果)が生起すると考えます。人間という存在も、年を重ねると老いて姿が変わり、死後は火葬や腐敗によって肉体が消滅することになりますが、これらも「縁起」の法則に基づいた働きの結果であるとされます。釈迦は、この縁起の法則によって「絶え間なく変化し続けること」を「無常」(むじょう)とし、そして、無常ゆえに「永遠固有の物事は存在しないという事実」を「無我」(むが)と定め、それを基に、固有不変である魂であるというアートマンの存在を否定しています。

 

 ただ、アートマンを否定するのであれば、輪廻において一体何が生まれ変わることになるのか、これが釈迦の死後に大きな問題となります。結果として仏教とバラモン教の間で激しい論争が起き、さらには仏教内の各部派(宗派)間でもこれに関する大論争が起きることになります。

 

 かなり複雑な話になってしまいましたが、ここまでをまとめてみます。

① 釈迦は、「霊魂は存在するか?」という質問に回答しなかった

② 釈迦は、悟りを開いた弟子の「vinnana(識別力)」は完全に消滅したと、霊魂の存在を認めるような発言をしている

③ 釈迦は、輪廻思想を認めつつも、輪廻の主体とされる「アートマン」の存在を否定している

 ①、②、③をすべて成立させるのは相当困難となります。それぞれの発言が矛盾するのです。

 

 このように霊魂や輪廻思想に対する釈迦の考え方を理解することが難しいのは、そもそも、釈迦の教えがあくまで「悟りの境地」と「悟りに至る道」として語られ、霊魂・輪廻思想に重点を置いていなかったこと(補助教材くらいに考えていた)に起因していものと考えられます。関連する発言が矛盾しているのがその証拠でしょう。

  そう考えると、釈迦の教えから霊魂の有無を判断するというのは、限界があり、あまり建設的なことではないようにも思えます。

 

次回記事「仏教と霊魂(その3)」に続きます。