先日、「ウチの職場には、悪いことばかりしている最悪の上司がいるんですけど、本人はずっといい思いをしてるんですよ。仏教では因果応報を説いているのに、アイツはなぜ失脚しないんですかね…」などと、質問を受けました。

 

 確かに仏教では「因果論」という考え方が教えの中心にあります。「結果には必ず原因がある」という考え方です。この考えに更に踏み込んだのが「因果応報論」であり、良い行為を行えば楽しい結果となることを「善因楽果」といい、悪い行為を行えば苦しい結果となることを「悪因苦果」といいます。

 「悪いことばかりしている上司が何故か失脚しない」…ということは、仏教の「因果応報」の法則から外れているように見えます。この状況をどう考えればよいでしょうか。

 

 原始経典「ダンマパダ」「ウダーナヴァルガ」において、釈迦は次のように述べています。

 

悪事をしても、その業は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。徐々に固まって熟する。その業は、灰に覆われた火のように、徐々に燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。(ダンマパダ第71偈)

「その報いはわたしには来ないだろうと」おもって、悪を軽んじるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがて災いにみたされる。(ダンマパダ第121偈)

悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭うのである。(ウダーナヴァルガ第28章第19偈)

 

 つまり、釈迦は「悪事を行うと、直ちにその報いがあるわけではないが、災いの芽となり、機が熟せば報いを受けることなる」旨を述べているわけです。小さな嘘をついてしまった場合、その後に反省すればよいですが、クセになって嘘をつき続けるのであれば、悪の報いが確実に熟していくということでしょう。

 悪事を行い続ける上司については、悪の報いが熟せば失脚あるいは逮捕されるでしょうし、ピンチが訪れた時には人の助けが得られないでしょう。そのような状況から、悪事を行う上司にとって「悪因苦果」は現在進行中と言えるのではないでしょうか。

 

 悪事を行えば行為者に苦しみをもたらすことになる…。そもそも、因果応報論など理論がなくとも、社会を数年程度でも経験すれば、その真理に到達するような気がします。釈迦の教えの多くはこのように常識的なのです。

 

 12/27記事「因果応報論(その2)」に続きます。