12/25の記事「因果応報論」を読んでくださった方から、「結局のところ、悪事を行う上司については、失脚するまで、我慢して待つしかないということでしょうか。上司が失脚する「きっかけ」や「引き金」について、仏教ではどう考えているのでしょうか」という質問をいただきました。これに対して甚だ未熟ではありますが、私の見解を以下に述べさせていただきます。

 

 先日の記事では言及しませんでしたが、釈迦が明らかにした「因果応報」については、「因」と「果」のほか、「縁」(えん)という重要な要素が存在します。因果応報(善因楽果・悪因苦果)等を含め、この世の全ての事象を説明する考え方を仏教では「縁起」(えんぎ)といいますが、これを成立させるための不可欠な要素が「縁」となります。

 

 先日の記事で説明したとおり、因が「原因」、果が「結果」であることに対し、「縁」とは、「条件や補助要因」のことを言います。一例を挙げると、花を育てる場合には、種を植えることが「因」、水を与えること、肥料を加えること、日光に当てること等の要素が「縁」、開花することが「果」となります。こうした、因に縁が作用して果を生起することを「縁起」といいます

 

 「悪事を行う上司が失脚する」という現象については、上司が悪事を行うことが「因」であり、悪事を問題視する幹部の登場、不正を暴く監査の実施、反感を持つ同僚の存在等が「縁」に該当します。上司が失脚するという現象は、上司の悪因の報いが熟したところに、複数の「縁」が働きかけることで、失脚という「果」となり、生起するのです。

 

 この「縁」については、自律的であることもあれば、他律的であることもあります。他律的なことについては、個人の努力ではどうにならないこともあります。例えば、上の例にあげたように、花を育てる場合には、日光という「縁」が必要ですが、天候が悪い日が続けば日光は得られません。釈迦は、このような「どうにもならない状況」の存在を前提にして、自らが「良縁」となるように行動すべきと説いているのだと思います。

 

 というわけで、「縁起」という見方をもって、悪事を行う上司とそれをとりまく現在の職場を観察すれば、自らが「縁」となって何かできることはあるかもしれません。変化を起こすべく自ら行動を起こすもよし、機が熟し諸縁が揃うのを待つのもよし、じっと耐えるもよし、神仏の力を借りるもよし…。

 

 …というか、上司の失脚を願うというのは、仏教のテーマとしてどうなの?と思うところもあるのですが…。