黒田官兵衛研究所

黒田官兵衛研究所

黒田官兵衛がとても好きな男、星野勝です。『軍師黒田官兵衛』が2014年の大河ドラマになったのはとても嬉しいです。

黒田官兵衛のことをどんどん書いていきたいと思います。

Amebaでブログを始めよう!
●新たに『軍師官兵衛』のキャストが発表されました

感謝してます。星野勝です。2014年1月5日から始まる大河ドラマ『軍師黒田官兵衛』。
キャストは主人公・黒田官兵衛役の岡田准一さん、織田信長役の江口洋介さん、秀吉役の竹中直人さんをはじめ、そうそうたるメンバーです。

11月20日にさらに12人のキャストの発表がありました。その12人は、

・官兵衛のお母さん・いわ役   戸田菜穂さん
・官兵衛の理解者・櫛橋左京亮役 益岡徹さん
・官兵衛の義理の姉・力役    酒井若菜さん
・黒田家の御師・伊吹善右衛門役 尾藤イサオさん
・織田家家老・柴田勝家役    近藤芳正さん
・織田家家臣・丹羽長秀役    勝野洋さん
・秀吉家臣・蜂須賀小六役    ピエール瀧さん
・山中鹿介役          別所哲也さん
・小早川隆景役         鶴見辰吾さん
・安国寺恵瓊役         山路和弘さん
・本願寺顕如役         眞島秀和さん
・宇喜多直家役         陣内孝則さん

そうそうたるメンバーですね。
楽しみです。

タイトルバックも決まったみたいです。

●ダウンタウンの松本さんも大好きな黒田官兵衛

感謝してます。星野勝です。ダウンタウンの松本人志さんも黒田官兵衛が好きなようです。

松本さんは黒田官兵衛のものすごく頭が良くて、ものすごくついていない。その哀愁がたまらない。

と言っています。



●黒田官兵衛の年表

感謝してます。星野勝です。黒田官兵衛の年表を信長、秀吉、家康に絡めながら作ってみました。

年代
信長・秀吉・家康
黒田官兵衛
1534年(天文3年)
信長誕生

1537年(天文6年)
秀吉誕生

1542年(天文11年)家康誕生

1546年(天文15年)
官兵衛、播磨国姫路城主の嫡男として誕生(幼名、万吉)
1551年(天文20年)信長、父・信秀の死去により家督を相続

1554年(天文23年)秀吉、信長に仕え始める

1557年(弘治3年)信長、弟・信行を暗殺

1559年(永禄2年)
母・いわ 没
1560年(永禄3年)桶狭間の戦い信長、今川義元を討つ

1562年(永禄5年)信長と家康が同盟を結ぶ
父・職隆(もとたか)に従い初陣 このとき17歳
1567年(永禄10年)信長、本拠を岐阜城に移転
家督を継いで姫路城主となる 
主君・小寺政職(まさもと)の縁戚、光(てる)と結婚
小寺家の若き家老に大抜擢 このとき22歳
1568年(永禄11年)
長男・松寿丸(長政)誕生
1570年(元亀元年)姉川の戦い織田・徳川連合軍、浅井・朝倉連合軍を破る

1573年(天正元年)秀吉、近北三郡を与えられ、初めて城持ちになる


1574年(天正2年)
秀吉、長浜城を築く

1575年(天正3年)長篠の戦い織田・徳川連合軍、武田勝頼を破る
織田信長と毛利輝元の勢力争いに巻き込まれてパニックになる小寺家中を信長に味方するようにまとめる。
官兵衛自身が信長への使者として岐阜に行き、秀吉と会う
信長に面会 宝刀を賜る
1576年(天正4年)信長、近江に安土城を築く。
1577年(天正5年)秀吉、信長に中国地方攻略を命ぜられ、播磨国侵攻中国攻めのために下ってきた秀吉に姫路城を提供。
兄弟の契りを結び、二人三脚で播磨攻略を進める
1578年(天正6年)
織田方についていた主君・政職(まさとも)や、摂津の荒木村重が離反。
官兵衛は村重の説得に赴くが、有岡城に幽閉されてしまう
信長は帰らぬ、官兵衛を謀反人とカン違いし、激怒
このとき、官兵衛33歳
1579年(天正7年)
有岡城落城のときに家臣に救出される
謀反人の疑いは晴れた。
ここから秀吉に仕えて行く
1582年(天正10年)本能寺の変信長、家臣の明智光秀の謀反により自害
山崎の戦い秀吉、明智光秀をやぶる
信長の死に悲嘆する秀吉を支え、中国大返しを成功させ、山崎の戦いに勝利する
1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦い秀吉、柴田勝家をやぶり、信長の後継者となる
秀吉、大坂城を築く
この頃キリスト教に入信し洗礼を受ける
1584年(天正12年)小牧・長久手の戦い秀吉軍が徳川・織田連合軍にやぶれる
1585年(天正13年)秀吉、関白になる父・職隆(もとたか)没
このとき官兵衛40歳
1586年(天正14年)秀吉、太政大臣になって、豊臣姓を与えられる
1587年(天正15年)秀吉、島津氏を討って九州を征服
京都に新たに建てた聚楽第(じゅらくだい)に移り、北野で大茶会を催す

1588年(天正16年)
豊前国中津の領主となる
こととき43歳
1589年(天正17年)秀吉に鶴松が誕生
後継者に指名
家督を長政に譲る
1590年(天正18年) 秀吉。小田原征伐
北条氏をやぶり、天下統一
秀吉の小田原攻めに加わり、北条氏政、氏直父子に講話を交渉
小田原開場を実現させる
1592年(文禄元年) 秀吉、朝鮮出兵(文禄の役)
1593年(文禄2年) 浅野長政と共に朝鮮出兵
現地で石田三成を怒らせてしまう。
さらには秀吉の怒りまで買い、剃髪して如水円清と号する
このとき、48歳
1594年(文禄3年) 秀吉、全国にわたり太閤検地をおこなう
1597年(慶長2年) 秀吉、朝鮮出兵(慶長の役)
1598年(慶長3年) 秀吉 没
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦い東軍vs西軍
東軍の勝利。世は家康のものになる
天下分け目の関ヶ原の戦いに乗じ、九州をほぼ平定する。
嫡男・長政は関ヶ原前線で大活躍
1601年(慶長6年) 福岡城築城が始まる
妻・光(てる)と静かな余生をおくる
1603年(8年) 徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く
1604年(9年) 3月20日、京都の伏見藩邸煮て病死。
59歳
1614年(19年) 大坂冬の陣江戸幕府vs豊臣軍
1615年(20年) 大坂夏の陣江戸幕府vs豊臣軍
江戸幕府軍の勝利。
豊臣秀頼の自害、豊臣家の滅亡



●織田信長

感謝してます。星野勝です。わざわざ説明するまでもない大人気戦国武将、第六天魔王こと織田信長です。


織田信長の生涯

尾張の織田信秀の子である信長。幼名は吉法師。幼い頃から常識を顧みない行動を繰り返していました。そのため、周りの人からは「尾張の大うつけ」とよばれるようになります。

そんな大うつけの信長も、1560年に桶狭間の戦いで今川義元を討ち破ります。桶狭間の戦いは織田軍約4000に対し、今川軍は40000近くだそうなので、およそ10倍の兵力の今川軍を破ります。

桶狭間の戦いを皮切りに周囲の大名らを倒していきます。その中で室町幕府を滅ぼしたり、延暦寺の焼き討ちなど、下剋上が当たり前の戦国時代でも常識はずれ、慣例を壊す、ということをどんどん行っていきます。

そんな織田信長。日本の3分の1近くを支配下に治め、これからさらに領地を増やしていくことが予想されていました。ですが、1582年。家臣の明智光秀に裏切られてしまい、本能寺にて自害します。

信長は卑劣、残酷、冷酷なイメージがありますが、実は繊細な人です。家臣をとても気遣い、それがたたり家臣に甘く見られて謀反を起こされる。起こされてはそれを潰す。ということを何度も経験している人です。

日本史上最初の大量虐殺といわれている延暦寺焼き討ちも協議をかさねているのですが、話がうまく折り合わず最終手段としての行動です。

桶狭間の戦いのようなリスクの高い戦は二度としていませんし、信長自身も「桶狭間の戦いで勝ったのはまぐれ」と言っているほどです。

織田信長という人は異常に繊細な人だと思います。
●徳川家康

感謝してます。星野勝です。

黒田官兵衛が最終的に仕えた武将の徳川家康の生涯をサラッとまとめてみました。

徳川家康の生涯

1543年1月31日、三河(現在の愛知県東部)に生まれます。
幼少期は今川義元の下で人質として暮らします。

桶狭間の戦いで主君、今川義元が織田信長に討たれるとこのチャンスを逃すまいと、旧領岡崎城に入ります。
三河を回復して、今川家から独立します。

そして、織田信長と清洲同盟をむすび、今まで人質となっていた今川家と敵対します。

そのあとは、信長の戦争の援軍に駆り出されること多数。かなり無茶な状況でも家康は信長を裏切らず、忠誠を示しています。
息子を切腹させることになったり、武田信玄に完膚なきまでに負け、脱糞しながら逃げることになってしまったり…そういうことが多々ありますが耐え忍びます。



本能寺の変のあと信長の後継者となった豊臣秀吉の栄光の陰でも耐え忍びます。
そして、秀吉の死と共に歴史の主役に躍り出ます。
豊臣政権の維持をしようとする石田三成ら西軍との関ヶ原の戦いに勝利。

豊臣家をいち大名の身分に落とし、事実上の天下人になります。

1603年、家康は征夷大将軍に任命されます。ここから約300年間続く江戸幕府が始まります。

2年後の1605年には将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、家康自身は駿府に移ります。駿府で大御所と称していました。
駿府で大阪の豊臣秀頼と京の朝廷、江戸の秀忠という三者を視界に入れ、事実上政治を掌握していました。

辞世の句は2つあります。
忠誠心の強い三河武士に、追い腹を切るなという意味を込めた、
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」

それと、嬉しいものだとまた目が覚めてしまったが、もうひと眠りするとしよう。この世で見る夢はまだ夜明け前のようだ(泰平の世はこれから幕を開けるのだ)という意味の
「嬉やと 再び醒めて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空」

があります。

●豊臣秀吉

感謝してます。星野勝です。黒田官兵衛が忠誠を尽くした秀吉。人蕩らしの天才で、現在でも出世の象徴ですね。
元々の姓は「木下」。通名は「藤吉郎」。出世していく段階で「羽柴」「豊臣」と姓を改めていきます。
「猿」や「禿げ鼠」と呼ばれて天才・信長に可愛がられていました。



秀吉の生涯

尾張中村生まれ。尾張中村は現在の名古屋市中村区。成人するまではかなり色々な仕事を点々としている。
成人して、木下藤吉郎秀吉と名乗りました。そのあと、今川家に仕官します。
ですが、今川家の将来を憂い辞めてしまいます。針売りとして各地を放浪したあと、織田信長の小者として仕え始めます。
その時に、「猿」だの「禿げ鼠」だのと信長に呼ばれるようになります。ここから怒濤の出世劇の始まりですね。

姉川の戦いで浅井、朝倉勢を破ると、北近江を任せられて、この頃、柴田勝家と丹羽長秀の姓から1字ずつもらい、「羽柴」の姓を名乗り始めます。
さらに中国地方への遠征が命じられます。播磨、但馬、備前、美作を制覇します。黒田官兵衛との関係もここからどんどん濃くなっていきます。

本能寺の変で信長が明智光秀に討たれてしまいます。この時、黒田官兵衛に支えられ、毛利家と和睦し、中国大返しと呼ばれる、ものすごい早さで京都に帰ることに成功します。山崎の戦いで明智光秀を倒し、信長の仇を取ります。

織田家の後継者を決める「清洲会議」で主導権を握ることに成功。領地の分割で最大の領地を手にします。
その後、柴田勝家など、織田家内の有力者をどんどん排除して、信長の後継者になります。

その中で徳川家康と対立するのですが、妹や母を人質に出すなど、あらゆるてを使ってなんとか家康を配下にすることに成功します。
朝廷から官位をもらうと、公家の関白争いをうまく利用して、秀吉自身が最高位である関白になります。

その後、四国の長宗我部家、九州の島津家、越後の上杉家、奥州の伊達家、南部家、羽州の最上家などを従え、関東の北条氏を滅亡させます。これで天下統一を達成します。草履取りから天下取りです。

日本を統一した秀吉は飽くなき向上心?!で明国の征服を計画します。まずは朝鮮半島への出兵。
しかし、明国、朝鮮の激しい抵抗に戦争は長引き、明に攻め入る見込みがなかなかたちません。
そのまま第二次出兵を行い、優勢だったのですが、没してしまいます。62歳。

秀吉は子供に恵まれず、本妻のねね(北政所、高台院)との間には子が出来なかった。側室の茶々(淀殿)の間に鶴松と秀頼をもうけました。
死去の前に後継者をこのとき5歳の秀頼として、成人するまでの政治を徳川家康と前田利家に託すとの遺言を残していました。
●生涯

感謝してます。星野勝です。

黒田官兵衛の生涯をサラッとまとめてみました。

小寺家家老時代

黒田官兵衛は、1546年(天文15年)に姫路城主、黒田職隆(くろだもとたか)の嫡男として生まれます。幼名は『万吉』。

1559年(永禄2年)に、母親、いわを亡くす。それからの官兵衛は文学に明け暮れます。

1562年(永禄5年)小寺政職(おでらまさもと)の近習になります。この年に父、黒田職隆(くろだもとたか)と共に土豪を倒します。これが初陣です。

1567年(永禄10年)家督を継いで、姫路城主になります。小寺政職(おでらまさもと)の姪にあたる光(てる)と結婚します。このとき、22歳の若さで、小寺家の家老に大抜擢されます。

1568年(永禄11年)長男の松寿丸が誕生。松寿丸はのちの長政です。

1575年(天正3年)信長の才能を高く評価していた官兵衛。織田信長と毛利輝元の勢力争いに巻き込まれパニックになっている小寺家中を、織田方に味方するようにまとめます。この時に官兵衛は初めて織田信長、羽柴秀吉、竹中半兵衛に面会します。信長から「圧切(へしきり)」という宝刀を賜ります。

1577年(天正5年)毛利、三木連合軍が5000の兵で播磨に攻め込んでくるが、官兵衛は500の兵で毛利・三木連合軍を退ける。(英賀合戦)この戦いのあと、長男の松寿丸を人質として信長のもとに送ります。

1578年(天正6年)織田家の武将、荒木村重が離反する。なんと主君、小寺政職(おでらまさもと)がそれに呼応。官兵衛は政職、村重を説得しにいくが、政職、村重に計られ、有岡城に幽閉されてしまう。1年間土牢で過ごすことになる。
この官兵衛の幽閉を信長は荒木村重とともに裏切ったと判断し、人質の松寿丸の処刑を竹中半兵衛に命じる。しかし、半兵衛は官兵衛を信じて、信長の命にそむき松寿丸の処刑はしなかった。

織田家に仕える時代

1579年(天正7年)有岡城が落城する際に家臣の母里太兵衛らに救出されます。幽閉生活がたたり、膝が壊れ、このあと一生びっこをひかなくては歩けないようになってしまう。しかし、謀反の疑いは晴れる。

1581年(天正9年)より、本格的に毛利を攻める秀吉の軍師として帯同する。鳥取城を包囲して兵糧攻めを敢行し、3ヶ月で降伏に成功する。
さらに、備中高松城を攻略を開始。その際、船に土嚢(どのう)を積んでそれを沈ませることで堤防を作り城ごと沈めてしまおうという『水攻め』のアイデアを出す。

1582年(天正10年)水攻めが順調に進んでいる最中、本能寺の変がおこる。君主信長の死を悲嘆する秀吉を支える。毛利輝元と和睦して光秀を討つことを献策する。秀吉はその策をいれ、中国大返しを成功させる。秀吉軍はたった10日で山城国に到達して、山崎の戦いで明智光秀をたおす。

豊臣家に仕える時代

1583年(天正11年)大坂城の縄張りにあたる。秀吉と、柴田勝家による賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻を受けることになるが奮戦し、守り抜きます。この頃、キリスト教に入信して、洗礼を受けたとされる。38歳。

1584年(天正12年)賤ヶ岳の戦い以前から毛利氏との国境線の交渉をしていたが、ついに確定し、実質的に毛利氏を秀吉はいかに加えます。

1585年(天正13年)宇喜多秀家による四国攻めに軍師として参戦します。相手のおとり作戦を見抜き、敵将、長宗我部元親の策略を打ち破りました。長宗我部元親は降伏。この年、父・職隆(もとたか)が亡くなります。官兵衛40歳。

1587年(天正15年)秀吉がバテレン追放令というキリスト教や南蛮貿易を禁止する令を出した。多くのキリスト教信者は反対して、罰を受けていたが、官兵衛は率先してバテレン追放令に従います。

1588年(天正16年)豊前国中津の領主になります。豊前国中津は現在の大分県中津市辺りです。

1589年(天正17年)主君の秀吉から「天下を取られるのではないか?」との疑いをかけられ始める。これは官兵衛の知略がものすごいため。失望した官兵衛は家督を長政(松寿丸)に譲り、隠居します。その際に『如水』と名乗るようになりました。
隠居後も秀吉のために働きます。

1590年(天正18年)には小田原征伐にて北条氏政、北条氏直 父子を説得して、無血開城に成功します。この時、北条氏直から名刀『日光一文字』などの家宝を賜ります。

1592年(文禄元年)朝鮮出兵 文禄の役では、総大将、宇喜多秀家の軍師として参戦します。ですが、一部将軍の暴走で思ったような采配をとれずに帰国します。

1593年(文禄2年)再び朝鮮に渡り、和式城郭の縄張りや、亀甲車の設計などに携わるが、石田三成との間に確執が生じてまたまた帰国。
秀吉の怒りを買ってしまい『如水円清』と号して出家してしまいます。(キリスト教禁止令であるバテレン追放令があるのにです。)

1597年(慶長2年)朝鮮出兵の慶長の役では総大将、小早川秀秋の軍師として釜山に滞陣する。

関ヶ原の戦い

1598年(慶長3年)8月に秀吉死去。

1599年(慶長4年)

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて、官兵衛と長政(松寿丸)は徳川家康の東軍につき、長政は前線で大活躍。官兵衛も九州をほぼ平定する。

1601年(慶長6年)長政が福岡藩37万石を任せられるようになる。官兵衛は本格的に隠居生活を始め、妻・光(てる)と静かな余生を過ごす。

1604年(慶長9年)官兵衛は京都、伏見藩邸にて病没。59歳。

1604年(慶長9年)
●『軍師黒田官兵衛』放送時間

感謝してます。星野勝です。

『軍師黒田官兵衛』の放送時間は、

2014年1月5日(日)スタートです!!


日曜
【総合】20:00~20:45(1月5日のみ60分)
【BSプレミアム】18:00~18:45

土曜(再放送)
【総合】13:05~13:50


楽しみですね。