黒田官兵衛の年表 | 黒田官兵衛研究所

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黒田官兵衛がとても好きな男、星野勝です。『軍師黒田官兵衛』が2014年の大河ドラマになったのはとても嬉しいです。

黒田官兵衛のことをどんどん書いていきたいと思います。

●黒田官兵衛の年表

感謝してます。星野勝です。黒田官兵衛の年表を信長、秀吉、家康に絡めながら作ってみました。

年代
信長・秀吉・家康
黒田官兵衛
1534年(天文3年)
信長誕生

1537年(天文6年)
秀吉誕生

1542年(天文11年)家康誕生

1546年(天文15年)
官兵衛、播磨国姫路城主の嫡男として誕生(幼名、万吉)
1551年(天文20年)信長、父・信秀の死去により家督を相続

1554年(天文23年)秀吉、信長に仕え始める

1557年(弘治3年)信長、弟・信行を暗殺

1559年(永禄2年)
母・いわ 没
1560年(永禄3年)桶狭間の戦い信長、今川義元を討つ

1562年(永禄5年)信長と家康が同盟を結ぶ
父・職隆(もとたか)に従い初陣 このとき17歳
1567年(永禄10年)信長、本拠を岐阜城に移転
家督を継いで姫路城主となる 
主君・小寺政職(まさもと)の縁戚、光(てる)と結婚
小寺家の若き家老に大抜擢 このとき22歳
1568年(永禄11年)
長男・松寿丸(長政)誕生
1570年(元亀元年)姉川の戦い織田・徳川連合軍、浅井・朝倉連合軍を破る

1573年(天正元年)秀吉、近北三郡を与えられ、初めて城持ちになる


1574年(天正2年)
秀吉、長浜城を築く

1575年(天正3年)長篠の戦い織田・徳川連合軍、武田勝頼を破る
織田信長と毛利輝元の勢力争いに巻き込まれてパニックになる小寺家中を信長に味方するようにまとめる。
官兵衛自身が信長への使者として岐阜に行き、秀吉と会う
信長に面会 宝刀を賜る
1576年(天正4年)信長、近江に安土城を築く。
1577年(天正5年)秀吉、信長に中国地方攻略を命ぜられ、播磨国侵攻中国攻めのために下ってきた秀吉に姫路城を提供。
兄弟の契りを結び、二人三脚で播磨攻略を進める
1578年(天正6年)
織田方についていた主君・政職(まさとも)や、摂津の荒木村重が離反。
官兵衛は村重の説得に赴くが、有岡城に幽閉されてしまう
信長は帰らぬ、官兵衛を謀反人とカン違いし、激怒
このとき、官兵衛33歳
1579年(天正7年)
有岡城落城のときに家臣に救出される
謀反人の疑いは晴れた。
ここから秀吉に仕えて行く
1582年(天正10年)本能寺の変信長、家臣の明智光秀の謀反により自害
山崎の戦い秀吉、明智光秀をやぶる
信長の死に悲嘆する秀吉を支え、中国大返しを成功させ、山崎の戦いに勝利する
1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦い秀吉、柴田勝家をやぶり、信長の後継者となる
秀吉、大坂城を築く
この頃キリスト教に入信し洗礼を受ける
1584年(天正12年)小牧・長久手の戦い秀吉軍が徳川・織田連合軍にやぶれる
1585年(天正13年)秀吉、関白になる父・職隆(もとたか)没
このとき官兵衛40歳
1586年(天正14年)秀吉、太政大臣になって、豊臣姓を与えられる
1587年(天正15年)秀吉、島津氏を討って九州を征服
京都に新たに建てた聚楽第(じゅらくだい)に移り、北野で大茶会を催す

1588年(天正16年)
豊前国中津の領主となる
こととき43歳
1589年(天正17年)秀吉に鶴松が誕生
後継者に指名
家督を長政に譲る
1590年(天正18年) 秀吉。小田原征伐
北条氏をやぶり、天下統一
秀吉の小田原攻めに加わり、北条氏政、氏直父子に講話を交渉
小田原開場を実現させる
1592年(文禄元年) 秀吉、朝鮮出兵(文禄の役)
1593年(文禄2年) 浅野長政と共に朝鮮出兵
現地で石田三成を怒らせてしまう。
さらには秀吉の怒りまで買い、剃髪して如水円清と号する
このとき、48歳
1594年(文禄3年) 秀吉、全国にわたり太閤検地をおこなう
1597年(慶長2年) 秀吉、朝鮮出兵(慶長の役)
1598年(慶長3年) 秀吉 没
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦い東軍vs西軍
東軍の勝利。世は家康のものになる
天下分け目の関ヶ原の戦いに乗じ、九州をほぼ平定する。
嫡男・長政は関ヶ原前線で大活躍
1601年(慶長6年) 福岡城築城が始まる
妻・光(てる)と静かな余生をおくる
1603年(8年) 徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く
1604年(9年) 3月20日、京都の伏見藩邸煮て病死。
59歳
1614年(19年) 大坂冬の陣江戸幕府vs豊臣軍
1615年(20年) 大坂夏の陣江戸幕府vs豊臣軍
江戸幕府軍の勝利。
豊臣秀頼の自害、豊臣家の滅亡