黒田官兵衛の生涯 | 黒田官兵衛研究所

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黒田官兵衛がとても好きな男、星野勝です。『軍師黒田官兵衛』が2014年の大河ドラマになったのはとても嬉しいです。

黒田官兵衛のことをどんどん書いていきたいと思います。

●生涯

感謝してます。星野勝です。

黒田官兵衛の生涯をサラッとまとめてみました。

小寺家家老時代

黒田官兵衛は、1546年(天文15年)に姫路城主、黒田職隆(くろだもとたか)の嫡男として生まれます。幼名は『万吉』。

1559年(永禄2年)に、母親、いわを亡くす。それからの官兵衛は文学に明け暮れます。

1562年(永禄5年)小寺政職(おでらまさもと)の近習になります。この年に父、黒田職隆(くろだもとたか)と共に土豪を倒します。これが初陣です。

1567年(永禄10年)家督を継いで、姫路城主になります。小寺政職(おでらまさもと)の姪にあたる光(てる)と結婚します。このとき、22歳の若さで、小寺家の家老に大抜擢されます。

1568年(永禄11年)長男の松寿丸が誕生。松寿丸はのちの長政です。

1575年(天正3年)信長の才能を高く評価していた官兵衛。織田信長と毛利輝元の勢力争いに巻き込まれパニックになっている小寺家中を、織田方に味方するようにまとめます。この時に官兵衛は初めて織田信長、羽柴秀吉、竹中半兵衛に面会します。信長から「圧切(へしきり)」という宝刀を賜ります。

1577年(天正5年)毛利、三木連合軍が5000の兵で播磨に攻め込んでくるが、官兵衛は500の兵で毛利・三木連合軍を退ける。(英賀合戦)この戦いのあと、長男の松寿丸を人質として信長のもとに送ります。

1578年(天正6年)織田家の武将、荒木村重が離反する。なんと主君、小寺政職(おでらまさもと)がそれに呼応。官兵衛は政職、村重を説得しにいくが、政職、村重に計られ、有岡城に幽閉されてしまう。1年間土牢で過ごすことになる。
この官兵衛の幽閉を信長は荒木村重とともに裏切ったと判断し、人質の松寿丸の処刑を竹中半兵衛に命じる。しかし、半兵衛は官兵衛を信じて、信長の命にそむき松寿丸の処刑はしなかった。

織田家に仕える時代

1579年(天正7年)有岡城が落城する際に家臣の母里太兵衛らに救出されます。幽閉生活がたたり、膝が壊れ、このあと一生びっこをひかなくては歩けないようになってしまう。しかし、謀反の疑いは晴れる。

1581年(天正9年)より、本格的に毛利を攻める秀吉の軍師として帯同する。鳥取城を包囲して兵糧攻めを敢行し、3ヶ月で降伏に成功する。
さらに、備中高松城を攻略を開始。その際、船に土嚢(どのう)を積んでそれを沈ませることで堤防を作り城ごと沈めてしまおうという『水攻め』のアイデアを出す。

1582年(天正10年)水攻めが順調に進んでいる最中、本能寺の変がおこる。君主信長の死を悲嘆する秀吉を支える。毛利輝元と和睦して光秀を討つことを献策する。秀吉はその策をいれ、中国大返しを成功させる。秀吉軍はたった10日で山城国に到達して、山崎の戦いで明智光秀をたおす。

豊臣家に仕える時代

1583年(天正11年)大坂城の縄張りにあたる。秀吉と、柴田勝家による賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政の猛攻を受けることになるが奮戦し、守り抜きます。この頃、キリスト教に入信して、洗礼を受けたとされる。38歳。

1584年(天正12年)賤ヶ岳の戦い以前から毛利氏との国境線の交渉をしていたが、ついに確定し、実質的に毛利氏を秀吉はいかに加えます。

1585年(天正13年)宇喜多秀家による四国攻めに軍師として参戦します。相手のおとり作戦を見抜き、敵将、長宗我部元親の策略を打ち破りました。長宗我部元親は降伏。この年、父・職隆(もとたか)が亡くなります。官兵衛40歳。

1587年(天正15年)秀吉がバテレン追放令というキリスト教や南蛮貿易を禁止する令を出した。多くのキリスト教信者は反対して、罰を受けていたが、官兵衛は率先してバテレン追放令に従います。

1588年(天正16年)豊前国中津の領主になります。豊前国中津は現在の大分県中津市辺りです。

1589年(天正17年)主君の秀吉から「天下を取られるのではないか?」との疑いをかけられ始める。これは官兵衛の知略がものすごいため。失望した官兵衛は家督を長政(松寿丸)に譲り、隠居します。その際に『如水』と名乗るようになりました。
隠居後も秀吉のために働きます。

1590年(天正18年)には小田原征伐にて北条氏政、北条氏直 父子を説得して、無血開城に成功します。この時、北条氏直から名刀『日光一文字』などの家宝を賜ります。

1592年(文禄元年)朝鮮出兵 文禄の役では、総大将、宇喜多秀家の軍師として参戦します。ですが、一部将軍の暴走で思ったような采配をとれずに帰国します。

1593年(文禄2年)再び朝鮮に渡り、和式城郭の縄張りや、亀甲車の設計などに携わるが、石田三成との間に確執が生じてまたまた帰国。
秀吉の怒りを買ってしまい『如水円清』と号して出家してしまいます。(キリスト教禁止令であるバテレン追放令があるのにです。)

1597年(慶長2年)朝鮮出兵の慶長の役では総大将、小早川秀秋の軍師として釜山に滞陣する。

関ヶ原の戦い

1598年(慶長3年)8月に秀吉死去。

1599年(慶長4年)

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて、官兵衛と長政(松寿丸)は徳川家康の東軍につき、長政は前線で大活躍。官兵衛も九州をほぼ平定する。

1601年(慶長6年)長政が福岡藩37万石を任せられるようになる。官兵衛は本格的に隠居生活を始め、妻・光(てる)と静かな余生を過ごす。

1604年(慶長9年)官兵衛は京都、伏見藩邸にて病没。59歳。

1604年(慶長9年)