彼らの歌を聴くうちに、その歌詞の世界観を、メロディやリズムにのる日本語で再現したいと思うようになりました。
中国語は入門編レベル。個人で歌って愉しむための日本語訳。間違いが見つかりましても、笑って目を瞑っていただければ幸いです。
曲のメロディやリズムに合わせるため、個人的解釈の意訳が含まれます。音源をお聞きになりながらお読みくださいましたら、とてもうれしいです。
◆ 拙い訳です。無断での転載はご遠慮願います。
* * *
この『惜別』は、『陳情令』の登場人物、江澄のキャラソンです。
歌っているのは、江澄を演じた汪卓成くん。
彼は大学でミュージカル学科を専攻、今、映像だけでなく、舞台でも活躍しています。
この曲の日本語訳もとても難しかったです。中国語の理解度がお恥ずかしいレベルなので、オリジナルの歌詞の意味をつかむのに時間がかかりました。
そして、言葉をメロディに乗せるために、原詞の意味を汲む日本語を探すことは、いつもとても大変で、今回も幾度も投げ出しました。
毎々同じように足掻くはめになるのに、なぜかこの趣味、やめられません…。
汪卓成くんが「陳情令スペシャルドキュメンタリー」のインタビューで、「この曲そのものが、江澄の悲劇に見舞われた波乱の一生を描いている」と語っていたので、ドラマで描かれる江澄の人生を道標とすることに。
それで、どうにか形になりました。
「波乱の一生」を短い一曲に纏めた作詞家さん、心より尊敬します。
映画のようなその世界を壊さず、日本語で幾らかでも再現できていたら、とてもうれしいです。
日本語訳には、江澄が宗主となり、江氏を再興したことを記しておきたかったので、少し言葉が乗りにくかったのですが、彼の号「三毒聖手」を入れました。
以前、訳した『不忘』では、藍湛の剣「避塵」を中国語読みにしました。
江澄の剣「三毒」と母から受け継いだ仙器「紫電」はどうしようか、少し迷いましたが、どちらも日本語にある言葉、今回は日本語読みにしました。
「金丹」だけは、ドラマで耳にした温寧の「jīndān」の響きが耳から離れないので、中国語読みにしました。
(あまりに幾度もリピートして見ているので、耳が中国語に慣れ、現在放送中の日本語吹き替えにはなじめず、見ておりません。日本語での会話を見れば、訳詞の参考になるのかもしれませんが、耳が頑なに拒否してしまいます。中国語放送も、実は吹き替えなのですが、本人たちの声との差に、さほどの違和感はありませんでした)
江澄は、前回の『荒城渡』の薛洋と同じくらい切ない人生を歩むのですが、薛洋ほどの人気はないようです。
仙門五大世家の一つである江氏の御曹司として生まれ、魏嬰が復活した16年後には四大世家の宗主となる江澄には、薛洋のように虐げられた過去はありません。
江澄の苦悩は、恵まれた悩みであり、共感されにくいのかもしれません。
それに、彼が吐く言葉には鋭い棘があり、これをつらく感じる方も多いでしょう。
でも、金子軒の態度が気持の裏返しで、ある意味わかりやすかったのと同様、江澄の言葉も気持の真逆であると思えば、本意はとてもわかりやすいと感じました。
そして、忘れてならないのは、江澄の心根は、言葉のように冷酷ではなく、曲がってもいない、ということ。
これは、彼の生い立ちを考えると、とても稀なことに思えます。
魏嬰と藍湛については、多くの方が語っていらして、私があらためて語るまでもないと思い、『不忘』では、イチオシでありながら藍湛についての私感は記しませんでした。
でも、『陳情令』は登場人物それぞれを丁寧に描いているのが大きな魅力ですので、江澄についての私感を…。
江澄の父、江楓眠は寡黙で、息子の自分を愛してくれているのか気持がつかめない。
母、虞夫人こと虞紫鳶は、自分を愛してくれているようだけれど、息子の不甲斐なさにいつも苛立っている。
この両親はたがいに愛を持ちながらも性格が嚙み合わず、虞夫人は江澄の前でも夫を激しく罵ります。
これだけでも幼子にとっては大変な環境なのに、突然、魏嬰というすべてにおいて自分の能力を上回る養子が現れるのです。
これって、江澄にはかなり苛酷なことですね。
そして、自分には愛の言葉をかけない父が、犬嫌いの魏嬰のために、江澄が飼っていた犬を二匹、捨てさせる。
これは幼いこどもにとって、心に傷を負うくらいとても残酷なエピソードです。
物を捨てろと言われてもつらいのに、命ある生き物、心を通わせることもできるモフモフを捨てろなんて、(老いたわんこファーストの生活を送っている)私には信じられません。
しかも、父は、江澄に心苦しく感じて謝る魏嬰を、逆に叱るのですよ。
なんて酷なことでしょう!(でも、寡黙な江楓眠のことは嫌いではありません)
江澄はまだ幼いのですから、魏嬰を部屋から閉め出すくらいは当然のこと。
でも、彼は蒲団も一緒に投げ出すのですよね。
御曹司として育ったからこその、このやさしさ、この甘さが、将来、彼を切ない道に導くのです。
江澄は魏嬰を受け容れ、ほんとうの兄弟のように育ちます。
やはり、魏嬰という人は、能力が高いだけではなく、人柄も魅力的だったのでしょう。
人の「華」と「清潔感」は努力して得られるものではなく、持って生まれたもの。
『陳情令』の登場人物は、皆、(悪役の薛洋や金光瑶でさえも、どこか)清潔感があり、それがこのドラマの魅力の一つです。
でも、華は、やっぱり、魏嬰と藍湛ですね。(虞夫人にもありました!)
自分が御曹司なのに、すべてにおいて勝てない師兄がいて、一門の皆がそのことを知っている。
これって、思春期になったらグレてもしかたがないくらい厳しい環境ではないかと。
魏嬰は魏嬰で、自由奔放で驕慢に見えても、やっぱり義を重んじる性格。
そのことに気づいていて、どこか少しセーブしていたのではないかと感じます。
でも、あからさまに態度に表すのも、逆に江澄を傷つけると躊躇ってもいたでしょう。
魏嬰が爪を隠そうとしても、彼の才能はあふれ出てしまうくらい破格なのです。
魏嬰には魏嬰なりの複雑なものがあったと推察します。
だから、魏嬰にとって藍湛は、誰に憚ることなく、思いきり力試しができる初めての相手。
同等の力の持ち主と、対等に対峙できることに、心が強く動いたのでしょうね。
まさに「運命の邂逅」です。
江澄を語るのに、この「御曹司」のキーワードは外せません。
彼は江氏の次代の宗主であり、「家を負うこと」を定められた嫡子。
つねに江氏を負う道を選ばなくてはならなかったからです。
魏嬰は江氏の大師兄といっても養い子であり、やはり、どこかに根無し草の気風がある。
そして、藍湛は藍氏第二公子。後に仙督となりますが、この時点では養子にも行くことが可能な次男坊。
だから、彼らは家にこだわらず、世の中全体のために正義を尽くそうという、大義のために生きる道を選ぶことができた。
彼らと比較すると、江澄は器の小さな人間のように見えてしまいます。
でも、現代のお稽古事でさえ、修行半ばで師を変えることはあまり褒められないことですから、仙門にとって「家」「世家」は、「世の中全般」よりも重きを置くものだったはずです。
そして、江澄も「個」ではなく、「家」を選択しました。
魏嬰ではなく、江氏を選ぶしかなかった。
「家」には、雲夢江氏の祖先の誇りと、弟子たちの人生、彼らの今後の幸せもかかっていたのですから。
これも立派な大義です。
わが家のHDDには、『陳情令』最終話の江澄Cutがあります。
再放送分はこうして好きなシーンだけを残してあります。
つかの間の暇がある時とか、就寝前に気持を整えたい時とか、そんなちょっとした折に、お気に入りシーンを見返しています。
この江澄Cutは、観音殿が爆発した後、石灯篭の前に金凌と並んで立つ江澄が魏嬰を見つめているところから、金凌とともに観音殿を去るところまでの8分間ほど。
最終話のこの部分は、忘羨ふたりよりも、江澄に思いを馳せてしまいます。
江澄が見つめた魏嬰は、陳情笛を見ています。
魏嬰が16年ぶりに手にした陳情笛。それがここにあるのは、江澄が持っていたから。
江澄はずっと持ち歩いていたのでしょうか。
少なくとも魏嬰が甦ったことを知った後は持っていた。
そうでなければ、戦いのさなかに、咄嗟に渡すことはできなかったでしょう。
魏嬰はゆっくりと江澄を振り返り、小さく笑み、目を伏せ、舎身術で負った腕の傷が癒えていることを確かめます。
魏嬰から視線を逸らさぬ外叔父、江澄を、気遣うように金凌が見つめ、その瞳を再び魏嬰に向けます。
反対に江澄は魏嬰から目を伏せます。
霊犬、仙子が戻り、駆け寄る金凌。少年組がなだれ込み、各派の師や先輩のもとに駆けつけます。
「お子ちゃま」たちの騒ぎに、茫然としていたおとなたちが我に返り、観音殿の庭に無事を確かめ合う言葉が飛び交います。
江澄を囲んだ師弟たちが、観音殿へ去ると、彼はひとり佇み、無言のまま、再び魏嬰を見つめます。
そして、吐息をつき、ゆっくりと魏嬰から目を逸らして、その場を去ります。
それを見逃さず見つめる魏嬰。
その魏嬰を振り返り見つめる藍湛。
藍湛の見返り美人シーンは幾度もありましたが、ここでも、とてもうつくしい。
Yiboくんは派手なアクションもみごとですが、こうした僅かな動きの時に完璧と言っても過言ではない美を描き出します。
この三人の視線の流れの演出は、切なくて、切なくて、でも、とてもすてきです。
『陳情令』というドラマの洗練されたうつくしさは、こうしたシーンを丁寧に描いているから生まれるのでしょう。
魏嬰が見つめ返したのは藍湛でした。
魏嬰が見返す前と後での藍湛の瞳の微妙な変化は見逃せません。
後のほうが僅かに曇るのです。
魏嬰の心を察する藍湛の魏嬰への愛の深さがうかがえるところです。
すばらしい演技、そして、すばらしい演出。
監督たちの細かい指示があったことは、BTSを見ればわかります。
それを再現できたのはYiboくんの力ですが、それを引き出したのは制作側です。
ほんとうに、隅々まで細やかにつくられたドラマですね。
中国の伝統文化が根底にあると感じさせます。
魏嬰が藍湛を見返した時、私は、江澄の16年間が終わったと感じました。
彼は魏嬰から卒業したのだと。
道を分かち、去っていった義兄弟。
雲夢の双傑の片割れに、こだわり続け苦しんだ16年間。
それを魏嬰に、「今の俺からすれば、全部過去だ。まるで、前世のことのように」と、言われた時、江澄はどんな気持だったでしょう。
魏嬰は、「水に流そう。もう執着するな」と、言います。
江澄の16年間の苦しみがわかるからこその言葉です。
この時の魏嬰の表情もとてもよいですね。
Zhan Zhanの喜怒哀楽の表現は、演技を越えて、彼の人となりがあらわれます。
雲夢双傑の心が再び通じ合う感涙のシーンです。
(魏嬰を死なせたことを悔やみ続け、生きていることを信じて待ち続けていた藍湛の16年間も、凄絶だったでしょう。魏嬰はその16年間、静かに眠っていたのに。彼のせいではありませんが、ちょっと責めたくなります)
そして、兄様、澤蕪君がよろよろと立ち上がり、阿瑶こと、金光瑶を確かめるかのように観音殿へ。
それを目で追う聶懐桑が、視線の先に金光瑶のトレードマークの帽子を見つける。
この登場人物たちの視線の連鎖は、それぞれが、それぞれに、これまでの人生に決着をつけたことを物語るかのようです。
仙子と外にいた金凌が戻ると、すでに魏嬰と藍湛は去った後で、彼は慌てて追いかけます。
それを、真っ赤な楓の木に独り凭れていた江澄が止めます。
金凌に刺された後の逃避行で、魏嬰は、「みんなが俺の死を望み、恨み、侮辱してる時、お前だけが俺のそばにいる」と、自分には藍湛ただ一人しかいないことを口にしましたが、江澄には誰もいなかった。
両親を殺され、家は焼き討ち、師弟もほとんど亡くなり、兄弟同様の魏嬰には去られ、残った姉も殺されてしまった。
家を再建した今、師弟を始め、周りには多くの人がいるでしょう。
姉の忘れ形見の金凌もいます。
けれど、彼は孤独だったに違いありません。
彼の性格は、彼を孤独にするように見えますが、孤独に堪えるためのものでもあるのです。
気安く他者と打ち解け合える生き方ならば、ずっとラクです。
それがゆるされないのですから、ほんとうに切ない。
ここで、江澄の回想が流れます。
魏嬰が温氏の兵に見つかりそうになった時に、彼が囮となったシーン。
魏嬰がお焼きを買うこの場面を最初に見た時に、もしかして江澄が…とは思ったものの、自ら囮になったのか、怒りにかられてやみくもに飛び出していって捕まったのかわからなかったので、やはり、そうだったのかと。
せつない。せつない。せつない。
ただ単に無謀な行動をして金丹を消されたわけではなかった。
でも、そのために魏嬰は自分の金丹を江澄に譲り、剣の道を捨て、詭道を修める夷陵老祖となったのです。
なんと残酷な巡り合わせでしょう。
このことを魏嬰は一生、知ることはないのでしょう。
江澄は温寧から金丹の真実を知らされましたが、江澄の行いは誰も知らないのです。
彼が魏嬰に知らせることはありません。
これもまた、家を負う者、嫡子のあるあるエピソードのように感じます。
すべてを胸に納め、過去と決別し、魏嬰につぶやいた「達者で」は、江澄の成熟が見えます。
ドラマの撮影は時系列で行われてはいないので、ここで、これだけの江澄に気持を高めて演じた汪卓成くん、すばらしいです。
江澄も、まぎれもなく、魏嬰の知己だった。
あらためてそう思い知る場面です。
「知己」とは、「士为知己者死」 (士は己を知る者の為に死す) ~『史記』刺客列伝「豫譲」~ から出た言葉。
私の脳裡では「知己」は、「自分の志を解するその人のためならば死んでもかまわないと思う相手」と、記憶されていました。
きっと若い頃に読んだ書物にあったのでしょう。
しばらく忘れていた「知己」という言葉を『陳情令』で見た時には、なぜだか、とてもうれしかったです。
知己に対して命をかけて報いる、という思いは、本来、一方通行のもの。
目下の者が恩義ある目上に対して行うことが多く、見返りはもとめません。
魏嬰と藍湛はたまたま同じ想いを交わすことができましたが、ほとんどが一方的に命をかけたのです。
「知己」の言葉の意味を思うと、『陳情令』の日本語字幕が「知己」のままで、ほんとうによかったと思います。
吹き替えは音で言葉の意味を判断しますから、知らない方も多くなった「知己」という言葉がそのまま使われるのか、未見なのでわかりませんが、「友」や「親友」と訳されては、やはり、ちょっと違う気がします。
最後になりましたが、魏嬰の師姉、江澄の姉、江厭離のことを忘れてはなりませんね。
江澄の心根が曲がらず、グレたりもせず、成長したのは、姉である江厭離の存在があったからです。
魏嬰だって、卑しい気持を持つように育ったかもしれない生い立ちにありました。
彼らふたりがまっすぐに正義を貫く人に成長したのは、師姉がいたから。
まだ自我が育っていない不安定な幼少期には、絶対に安心できる揺るぎない場が必要です。
自分が中心となることができる、そんな安全な小宇宙を持つことが、こどもの成長には大切なのです。
家庭の愛に恵まれなかった彼らに、その宇宙をあたえたのは江厭離でした。
彼女ほど強く、やさしい人は『陳情令』のドラマにかぎらず、広いこの世でもなかなかいません。
どんな苦境にいても、自身が深い傷を負っていても、自分のことよりも他者を思いやれる人。
彼女は虞夫人よりもずっと強い。
ここぞという時には、あれだけ毅然と自分の意見を主張できるのです。
ただ弟たちを甘やかすだけの凡庸な人ではありません。
でも、これは、虞夫人の「尊いのは私!」の DNA があってこそなのでしょうね。
師姉は、母の小言に堪えながらも、きっと不器用な母をも、慈しんでいたのでしょう。
このすばらしい姉を独占できるはずが、魏嬰と分け合った江澄はやっぱり切なく、この人を母としながらも、その愛を知らずに育つことになった金凌も、また切ないです。
けれど、金凌には母のDNAがあります。
思春期にこれだけの凄絶な経験をした金凌。
彼は将来、立派な仙督になるのではないかと、密かに思っています。