八重の十薬(ドクダミ)です。

ドクダミの花は、一重も八重も大好き。匂いも好き(^^;)

以下、映画『無名』について、かなり細部までネタバレありです。

 

 

 

家人の代休日、シニアわんこの世話を頼み、地元のミニシアターに行ってまいりました。

もちろん、『無名』を鑑賞。劇場では4回目です。

平日の日中の上映でしたが、客席は2/3ほど埋まっていました。

 

まず、最初にお詫びを。

前回のブログで Yiboくんの最後の台詞の日本語字幕がちょっと…と書きました。

英語字幕では「Me too」と直訳で、シンプル。

Yiboくんの台詞のリズムにも合っている…と。

 

ところが、今回見ましたら、字幕は「俺もだよ」と。

え?  「俺もだよ」ならば、「Me too」では? 合っているのでは? と。

 

座席から転げ落ちそうになったくらい驚きました。

私は「俺も共産主義者だ」という日本語字幕だったと、勘違いしていたのです。

 

たまに、こうした勘違いや思い込み、するのです。

しかも、そういう時にかぎって、自信満々で断定している。

 

そういう自分を認めながらも、往生際悪く、劇場のスタッフの方に、「字幕、変わったりしていませんよね?」と、訊ねてしまいました。

 

支配人さんでしたら頼もしかったのですが、アルバイトさんなのか、そのような質問をしてくる者がいるとは思ってもいないのでしょう、「はあ…たぶん…」と。

変な質問に、困っているご様子でした。

 

なぜ、そのような思い違いをしたのか…

自分でも、まったくわからないのですが、考えに考え、「よ」が嫌だったのかもしれない、と思い至りました。

「俺もだ」ならばよかったのかも…???

 

その違和感と、直前のエリックさん(エリック・ワン/王传君)の台詞が合体してしまったのか…。

お恥ずかしいです。

 

と、書いたところで、今朝、この失敗談をメールした旧友から返信が。

 

え? 最後の台詞に「共産主義者」の言葉がなかった?

え~~~っっっ、私も確かにあったと記憶しているよ!!!

途中で、字幕を変更して公開することはないのかしら?

あの、私の記憶はなに?

 

同じような感覚を共有する人だから、長く続いている友。

なので、同じような勘違いをするのかもしれません。

しかも、「途中で、字幕を変更して」と、発想するところも同じ(笑)

 

でも、そうよね、見たわよね…と、またまた往生際悪く、思ってしまいました。

 

彼女が『無名』を見た時に同行者がいたことを思い出し、その方にも確認をお願いしてしまいました。

その方は、彼女が誘って『無名』を見たのですが、彼女より早く二度目の鑑賞をされたくらい、『無名』を気に入ってくださったのです。

 

確認したら、最後に「僕も共産主義者だ」と、確かに言った、と。

だから、この映画は、「共産主義を信じた者だけが生き残ったのね」と、感じたそうです。

 

という返信が、すぐに戻ってきました。

 

そうよね、見たわよね。

たしかに私も、「俺も共産主義者だ」という字幕を見た気が、今もしています。

とはいえ、字幕を変更することはあると思いますが、さすがに、このような短期間での変更は考えにくい。

 

皆様のご記憶はいかがでしょう?

曖昧になった記憶を、正しく再生する機械があればよいのに…

 

〈追記〉

コメントやメッセージをいただき、上映初日から5月上旬くらいまでは、「俺も共産主義者だ」という字幕であったことがわかりました。
おかげさまで、自分が勘違いしたわけでも、思い込んだわけでもないとわかりました。
情報をお知らせくださった皆様、どうもありがとうございます。

いろいろと伺うと、他にも修正すべき点があったようです。
そして、現代では、字幕を直接、映像に焼き込む作業などしなくても、簡単に、修正・差し替えができるのだとか。
さすがに、フィルムを運んで上映というようなことはしていないと思っていましたが、ここまで簡単に字幕の差し替えができるとは思いませんでした。

これから公開される地域もありますし、『無名』は完璧を目指したすばらしい作品。
字幕も完璧を目指して頑張っていただきたいです。

たとえば、たくさんあった雨のシーン。
雨を降らせる機械の調整に長けている技術者を、程耳監督は台湾から呼んだそうです。
監督もスタッフも演者も指導者も、高い志で、細やかに作品を創りました。
そのような作品です。ディスク化の折には、ぜひ、中国語と中国の文化に精通した監修者がつくこと、祈っております。

 

* * *

 

さて、話は一週間ほど前に遡ります。

映画『無名』の感想がようやくまとまり、前回のブログにも綴りました。

その後、俳句の投句締め切りがあったので、どうにかそちらに集中しました。

あいかわらずのぼーちゃん俳句と、友には『無名』の世界そのまま、と言われてしまった句ばかりで、まだまだ『無名』が抜けておりません。

 

そして、抜けないまま逆戻り。

本格的に映画監督「程耳の世界」に対峙しようと思い立ちました。

 

そのために、「智族 GQ」(2022年10月号)を読むことに。

実は、入手時に、頑張って読んだのは「王一博 歩履不停」の部分だけなのです。

この号で大特集の『無名』。

程耳監督に関する記述は、かなりの分量です。

 

知識にとらわれず、作品を理解したいと思っていたので、程耳監督の部分は読んでおりませんでした。

と、まあ、この言い訳は、建前ですね。

日本語で書かれていたならば、きっと読んでいたでしょうから。

 

『無名』を観て、これほど感動することがなければ、そのままにしてしまったかもしれません。

意を決して、中文の雑誌を開きました。

 

語学に弱い私は、辞書と日本語力で、中国語を読んでいます。

Yiboくんへの関心がなければ、思いつきもしない暴挙です。

当然、時間もかかり、とりかかるにはエネルギーを必要とします。

 

ヒマラヤ級の山を前にしている気分でしたので、訳されているものに少し触れてから、と、YouTube で程耳監督のインタビューなどを見てみることにしました。

 

そして、思い出しました。

本国で『無名』が公開された時に、監督とともに Yiboくんが出ていたものが、幾つかあったことを。

 

そのひとつに、衣装の紹介だったのか、たくさんのネクタイを出して、監督が「これは Yiboが○○の時にしていたもの」「これは…」と、説明をした番宣がありました。

それらのネクタイは実際に当時のものと説明があり、その中にリバティのものではないかと思った柄があった記憶など、甦ってきました。

 

まだ日本でリバティの商品をあまり見かけない時代、私はロンドンに行くとリバティで父のネクタイを買ってきました。

母には布地を。なので、あの柄は…と思った記憶があったのです。

 

『無名』を最初に見た時に、行きつ戻りつの時系列で、私の苦手な構成でしたから、ネクタイの柄でつながりを見つけようとしていました。

そうしていると、Yiboくんのスーツ姿がすてきで、設定資料集が出版されればよいのに…と思いました。

 

男女すべての衣装が、とてもうつくしかった。

何主任と江小姐が向き合うシーン。何主任のネクタイの臙脂色と、江小姐の赤いビーズが暗い画面に光っていました。

 

叶先生とお化粧室で会った方小姐のレースのドレスも、とてもうつくしかった。

いちばんは、叶先生が鏡を見ながら、ネクタイを選びなおすシーン。

とても心ひかれました。

 

早速、この動画を探して見てみました。

中国电影报道(China Movie News)のインタビュー。

女性 MC の他、大鹏監督も MC のおひとりなのか、程耳監督、Yiboくん、エリックさんを「お呼びしました」と語っていました。

 

あらためて、この動画を見て、つくづく自分が “ぼんくら” だと。

心底あきれてしまいました。

この動画を見たはずなのに、重要な部分を、私は何ひとつキャッチしていなかった。

 

いったい、何を見ていたのでしょう?

たしかに、リバティプリントかもしれないネクタイもありました。

監督に褒められる Yiboくんが誇らしく、ただ、ただ、静かに座る「イボちゃん、かわいい」だったのかしら…。

Yiboくんの最後の台詞の字幕問題と同様、自分の記憶力に自信がなくなりました。

 

程耳監督が「彼の目の表情はすばらしいです」と言い、Yiboくんが「謝謝、謝謝」と、うれしそうに言っています。

うれしそうな「イボちゃん、かわいい」ではなく、監督の言葉をきちんとキャッチしていたら、彼の何層もの感情を表現した「目の演技」に、もっと早く気づいたはず。

 

そして、私がおぼえていたことよりも、もっともっと重要な「ネクタイのエピソード」を、程耳監督が語っていらっしゃいました。

 

「日本兵をボコボコにしたシーン」で暴れる時、叶先生のネクタイが乱れてしまうため、監督はピンで留めるように指示した。

ところが、そのシーンでネクタイがベストから丸まって飛び出してしまった。

監督は、衣装さんに「ピンで留めてと言ったよね?」と確認したところ、Yiboくんが「ピンを外すように言った」と。

 

このシーンで Yiboくんは、自分の身体に倒れ込んできた日本兵を突き飛ばした後、ベストから上にはみ出たネクタイを、裾から引っ張って、元に戻すしぐさをしています。

 

監督いわく、「彼は最後の動きを創りあげた」と。

つまり、監督が指示した動きではなかったのです。

それを見て、監督は「とても幸せな気持になりました」と。

 

なぜなら、叶先生という役柄を理解し、彼に適した動作を Yiboくん自身が生み出したから。

 

このようなすばらしいエピソードを、私はまったくおぼえていませんでした。

実際に映画のシーンを見ていなかったからか、彼らの話から想像することができなかったのです。

自分でもあきれるほど鈍いです。

 

程耳監督の作品には、すべて無駄はないのだと、思い知りました。

前回のブログで、私は削られた部分のことを書きましたが、描かれた部分を、ほんとうにしっかり視たのだろうかと…。

 

翌日、天の恵みのように家人が在宅。

これは、もう、観てくるしかない。

地元のミニシアターに向かいました。

 

 

* * *

 

すべてに意味がある。

ひとつも無駄がない。

そう思って見始めた『無名』、冒頭シーン。

もう、ここで、私は自分の “ぼんくら” 度が、底抜けだったことに気づきました。

 

なぜ、日本上映前に、この冒頭シーンが公開されたのか。

そこにこの映画のストーリーを読み解く鍵があったから。

そのことに、まったく気づかなかった私。

 

梁朝伟 vs 王一博

映画『無名』冒頭映像

 

 

シーンは三つ。

 1.何主任が座っている。

 2.陈小姐に叶先生がコーヒーを奢る。

 3.叶先生がネクタイを選びなおす。

 

この三つが、映画のストーリーの謎解きの鍵であることに、まったく気づきませんでした。

2番目の陈小姐の情報部連絡員としての任務だけは解けましたけれど、1番目と3番目は見抜けなかった。

 

映画の冒頭なので、この三者は、私にはまだ、トニーさん、周迅さん、Yiboくん、という認識で、役柄として見ていなかった甘さもありました。

 

何主任がいるのは、どこか。

なぜ、靴がアップで映るのか。

その向こうに見える椅子の脚。

特徴ある円盤型の脚。

 

あれを見逃していたとは。

後ろにはロッカーが並んでいる。

こんなにはっきり映っているのに、私はまったく見ていませんでした。

 

そこは、叶先生が渡部を殺した場所。

何主任が座るのは、渡部が「軍服を脱ぐ」と宣言し、座ったベンチ。

つまり、何主任はここに来て、叶先生と会い、渡部殺害の指示を伝えていた。

渡部が日本政府の要人と会うことができたように、叶先生も何主任に会っていた。

 

こうして見ていくと、見逃していたことの多いこと。

違和感を持っても、疑問にしなかったこともありました。

 

たとえば、何主任が共産党から寝返る張先生と面談する場面。

張先生が陈小姐の名前を出す前に、何主任は「連絡員陳小姐」とペンで記している。

 

私はこのことに初見で違和感をもちながら、編集レベルの齟齬と、流してしまった。

程耳監督の作中に、そのような齟齬など、あるはずがないのに。

 

何主任は、張先生が語るまでもなく、陈小姐の存在を知っている。

そして、面談をしながら、張先生が語ることよりも、彼が差し出した書類に関心を向けている。

 

何主任はそれらの書類を選り分けていて、おそらく、渡す書類と、処分する、あるいは自分のところに留める書類と分けている?

ここで、もう、じゅうぶんに、彼が属する組織に対して忠実ではないことが描かれています。

 

張先生と会いに行くように指示をしたのは、渡部。

彼もこの時点で、すでに何主任を疑っている。

何主任は張先生の死をどのように偽ったのでしょう。

会う前に、殺されていたことにしたのか。

それでも、渡部の疑念は深まったにちがいありません。

 

そういえば、映画が終わり、ロビーに出たら、年輩のご婦人おふたりが、「あのアイウエオはおかしいわよね。戦前はイロハよね」と話している声が聞こえました。

 

ホテルのルームナンバーのことですね。

これは、いつもお訪ねする笛の音さんも指摘していらっしゃいました。

私はまったく気づきませんでしたが、たしかに、そうですね。

 

前回のブログに、叶先生と王队长が死体を運ぶシーンがカットされていることを書きました。

この意図も、推察できました。

正しい推察かはわかりませんが、単に死体を片づける、というのではなく、共産党工作員に殺された侯爵の息子の遺体を回収する任務だったはず。

そのことを、あの死体を運ぶシーンからは想像しにくく、紛らわしいのでカットしたのかもしれないと。

 

渡部が叶先生をこの埠頭へ偵察に行かせたのも、叶先生を試すため。

叶先生は屋台のおそば屋さんで実行犯の隣に座り、プレッシャーをあたえた。

張先生が寝返るきっかけとなり、渡部が下した合格点の一つになったでしょう。

 

渡部はつねに疑り、あのミルフィーユを食べる場面でも、何主任を試しています。

何主任が紙包みのまま渡したのは、それを承知していたから。

手を何も加えず渡したその行為に、渡部は気をゆるしたのか、箱の仕掛けに気づくことはなかった。

 

一瞬の気の緩みも見せられないスパイ同士の駆け引きに、息をのみます。

 

何主任が「俺はもう続けられない」と言うシーンがあり、これを、スパイの任務から降りたいという意思表示、と解釈する方がいらっしゃいますが、「正体がほとんどバレているので、もう続けられない」という意味と思います。

だけど、叶先生には、まだ相手を欺くチャンスがある。

そして、何主任が彼に任務を託すのです。

 

ふたりは死闘を計画する。

完璧に渡部を騙すために。

 

これも、ちゃんと描かれていました。

冒頭シーンの3番目として、すでに。

私が心ひかれた Yiboくん。

叶先生が鏡を見ながら、ネクタイを選びなおす場面。

 

これは着飾るための選びなおしではなかった。

彼はネクタイを引っ張っていました。

強度を試したのですね。

ネクタイをつかまれ、身体を振りまわされたとしても、ちぎれない強さかどうか。

 

このシーンがかっこよかったのは、Yiboくんのビジュアルだけではなかった。

闘いに行く叶先生の覚悟を、彼がちゃんと演じていたから。

 

そんなことにも気がつかなかったなんて、“節穴” の眼の観客で、ほんとうに恥ずかしい…。

程耳監督が描き出すものに無駄がひとつもないように、俳優 王一博の演技にも無駄はなかったのです。

 

彼は語っていました。

 

自分にとって、ステージは「一瞬の喜び」、映画は「精密に彫刻するもの」。

 

この何主任と叶先生の死闘のシーンで、今回は「監視の目」を見逃しませんでした。

何主任が腕時計を見たあと、廊下が映し出されます。

物陰から見たように、右側が半分以上遮断されています。

 

ふたりが激しく闘って、廊下のガラス戸に一緒に飛び込んだあと、やはり、上から見下ろす廊下も、一部が何かに遮られている。

「監視の目」は、たしかに、描かれていました。

 

だからこそ、ふたりは部屋を飛び出して闘う必要があった。

叶先生が階段の踊り場に落ちる必要があった。

 

“ぼんくら”、“節穴” と、これまでの自分を詰りたいです。

Yiboファンでなかったら、もう少し、冷静に、正しく見ることができたのかしら…

 

* * *

 

Yiboくんの最後の台詞の字幕を、私と同じように記憶した旧友が、初日の来場者記念の Yiboくんのサイン入りポストカードを譲ってくれました。

私はすでに持っているので、遠征におつきあいしてくれた Sさんにお送りしようと思い、雨に濡れてもよいようにケースに入れて、またしても、初めて気づく。

 

裏面に、Yiboくんの台詞が書かれている。

 

自分用のものも、保存用のケースに入れたのに、気づかなかった。

どれだけ “ぼんくら”、“節穴” ?

 

你不能脱下这身军装。

你应该一直穿着它、

你穿着它、

这样我才能从人群中分辨出你。

我不同意、

你脱下这身军装、

去做一个普通的农夫。

 

この台詞、作中では、日本語です。

 

あなたはその軍服を脱いではいけません。

ずっと着ておくべきです。

それを着ていれば、

人ごみの中でも、あなたをひと目で見分けられる。

あなたが軍服を捨てて、

ただの農民になるなんて、

ゆるしません。

 

ポストカードのデザインは本国仕様とのこと。

Yiboくんの多くの台詞の中で、なぜ、ここが選ばれたのか…。

どのような意味があるのか、それとも、深い意味なく、適当に選んだのか…。

 

叶先生の正体がわかる場面というならば、この後の台詞のほうがふさわしい。

もともと、この台詞の意味が、私は理解しきれていません。

それで、初見で、日本人としての感情云々などと誤解もしてしまいました。

 

スパイとして生きる者は、一生脱げない任務を負って、名も無い人生を過ごさなければならないから?

 

〈追記〉

コメントにいただいたこの台詞の解釈。
「この戦争であなたがしたこと、忘れようとするなんて、私はゆるしませんよ」という意味ではないかというご指摘。その通りだと、思いました。

 

 

戦後の香港でのシーン、軽快な音楽に、叶先生の孤独が切々と浮かびあがります。

階段で親子とすれ違う時、彼にはそうした実生活がないのだと、胸が苦しくなりました。

 

主任に昇格した審査通知書の姓名の欄に、「葉某」とありました。

「葉」は「叶」の中国語繁体字。

「某」はほとんど日本語の意味と同じらしい。

 

名前がないのは、役柄だけではなかった。

通知書にすら、名前がない。

ほんとうに、無名なのですね。

 

* * *

 

先にあげた中国电影报道のインタビューで、Yiboくんは言っています。

 

よく頑張った、と言う人がたくさんいます。

でも、ぼくはそう思いません。

すべてぼくには限界内のことです。

ぼくはそんなに小さくはないので、何も問題ありません。

 

程耳監督が「きみのことを心配する必要はないね」と、言葉をはさみます。

 

はい。ですから、撮影には真摯に向き合っています。

自分自身と映画に責任をもって。

 

 

* * *

 

帰宅した私に家人が「謎は解けたのか?」と。

「まあ、ある程度は」と、答えると、「するめをしゃぶるように、いつまでも愉しめていいね」と。

 

家人は私とは真逆で、敏く、勘もよいタイプ。

『無名』を見たら、初見ですべて理解するのかもしれない。

 

でも、まったく見る気がないのです。

 

何度も見にゆくことを止めもせず、私の鈍さをおもしろがってくれるだけ、よいですね。

このあとは、「智族 GQ」(2022年10月号)の程耳監督の頁に挑戦です。