星ヶ嶺、斬られて候 -8ページ目

部屋の継承における変化と問題(後編)

さて、前編にて近年における相撲部屋の継承事情について概説いたしましたが、そもそも部屋が継承されないことの問題は奈辺にあるのでせうか―?

 

まず第一に考えられるのが、伝統の継承に関する問題です。

相撲部屋の継承の基本は弟子から弟子へと引き継がれること。

今日、名門といわれる部屋だとて弟子から弟子へと引き継ぐことで歴史を紡いできたものであり、当然、その中で連綿として様々な作法や慣習、あるいは相撲の技能をも伝えているのです。

卑近な例でいえばちゃんこの味などがそうで、市井のちゃんこ料理店でも~部屋の直伝などといえば何やらハクがついていると感じるのではないしょうか。

 

勿論、こうした伝統は代替わりなどである程度は変化するものであるし、新興の部屋だとて本家の師匠の考えを継承しているに違いないのですが、やはりそれが一般のファンからもわかりやすい形で引き継がれていると思わせることが伝統を売る大相撲の世界では大事であろうと思ふのです。

 

部屋の継承で引き継がれるものは伝統ばかりではありません。

一には後援会等の人脈であり、あるいはいわゆるカンバン(ネームバリュー)もまた引き継がれるし、名門故に跡を継がせねばならないという責任感も生じるでせう。

部屋が存続されることが前提であれば弟子集めにおいても有利であるし、師匠の停年が近づいた状況でもスカウト網が死蔵されることがありません。

 

世間に対しわかりやすいという点では部屋の連続性が把握しやすいというのも重要です。

相撲は個人競技ではありますが、一方で部屋というのがある種のワンチームになっており、親子三代の~部屋の贔屓という現象もままあること。

ところが例えば二子山といってある年代以上であれば、ああ、あの若貴の―となるのが今日の二子山部屋では一門すら違っているというのはいかにもややこしい(これに藤島部屋との関係が絡むと余計にわかりにくい)。

鳴戸部屋も田子の浦部屋もほんのひと昔前の部屋とはまるで違う部屋というのはわかりにくいし、まして元々の鳴戸部屋の母体が田子ノ浦と変更したそばから新・鳴戸部屋が誕生するというのも何やら釈然としない上にトラブルを想起させてイメージもよろしくない(かつて井筒部屋でも同様のことがありましたが)。

 

力士の立場としても将来、部屋を喪失する可能性があれば不安も大きいでしょうし、親方が一定に年齢に達したら弟子の数が減り、結果として力士の成育にも支障が出るようでは問題でせう。

 

いずれにせよ部屋の消失は相撲協会全体にとって大きな損失となり得る問題であり、可能な限り既存の部屋を残してゆくことが伝統の継承や人気の面でも重要であろうと思います。

以前はとりわけ名門といわれるような部屋は一門の中で残そうという雰囲気があったやうにも思えるのですが、近年は年寄株の取引自体がブラックボックス化して一門が介入しづらい状況となっており、旧来の枠組みが形骸化してしまっているやに見える。

一門自体が役員選挙時にのみ結束を強化するばかりで時として害ともなる機構ですが、本来であれば相撲協会全体の懸案ではないより小さな問題に関して互助的に解決する組織として存在感を示してほしいものです。

 

部屋継承に関してより当世的な問題としては年寄再雇用制度との兼ね合いがあります。

再雇用制度とは65歳の停年後、希望すれば嘱託として70歳まで協会に残れる制度ですが、この5年間のために部屋が存続できなくなり事態が憂慮されるのです。

以前であれば親方の停年と同時にその弟子が引退、間髪を入れず部屋を継承できたものが、今では代わりの名跡を確保しなければ嘱託となった親方が首を縦に振らないといふ問題が出てきています。

しかも嘱託になった親方には部屋を経営する権利がないとあって、結果として存続の危うい部屋がいくつか出てくることが懸念されます。

近年では荒汐親方(元大豊)が停年と同時に愛弟子の蒼国来に部屋と名跡を継承させしめましたが、このような潔い身の振り方は例外に属するのではないでしょうか?

 

また近年は親方が部屋の経営を忌諱する動きも見られます。

原因は幾つかあるやうですが、例えば弟子の不祥事に連座して部屋の師匠にペナルティが及ぶ事例が増えたのなどもその一つ。

他にも少子化による弟子の減少や高騰する土地・建物の問題、景気の停滞によるいわゆるタニマチの先細り、そもそも年寄株の高騰などの原因もあって部屋経営の展望が描きにくい時代になっているのもしれません。

 

さて、冒頭の問題に戻りませう。

二所ノ関の名跡が稀勢の里の荒磯親方に渡り旧・二所ノ関部屋が放駒部屋になった件―。

私の意見としては元若嶋津の跡を継いだ元玉乃島は元関脇であるのだから二所ノ関を継ぐべきであったし、そうでなくとも松ヶ根部屋に戻るべきだったと考えています。

現在、松ヶ根の名跡は放駒部屋付きの元玉力道が継いでいるので名跡の交換は難しくなかったと思うのですが、かつての部屋の看板が軽くなったのか、あえてそこまでしなくても―と少しの労を惜しんでいるようにも見受けられる。

 

三保ヶ関の名跡なども今は一介の部屋付き親方(元栃栄)で先代(元増位山)とのしがらみもないのだから間に立つ人があって尾上や木瀬、あるいは山響などとの名跡の変更によって栄えある部屋名を復活させ、伝統の継承をアピールしてほしい所のですが・・・。

 

けだし大相撲は名門の部屋があり、そこに新興の部屋が加わって代謝を促し、やがてその新興部屋の一部が名門へと成長する。

相撲部屋の消長も時々の情勢がありますから万古不易とはいかないでしょうが、伝統の強みを最大限活かしつつ時に新風を取り込んでゆくことが望ましいと愚考する次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋の継承における変化と問題(前編)

元大関・若嶋津の先代・二所ノ関親方が停年を迎えるにあたり、新たに元稀勢の里の荒磯親方が名跡交換により二所ノ関を襲名したのは昨年(令和4年)の2月のことです。

二所ノ関といえば一門の総帥たる名門の相撲部屋であり、過去には大鵬などの名力士を輩出しましたが、元関脇・金剛の9代・二所ノ関の停年に際して後継者がなかったために一度、閉鎖しており、その後、旧部屋の関係者の多くを引き取っていた元若嶋津の松ヶ根親方が継承し、協会理事等の要職を歴任していました。

このような経緯から元若嶋津の二所ノ関親方にとって同名跡はいずれ一門の手に帰すべきと考えていたようで、将来の一門のホープである荒磯親方への名跡の禅譲が実現した、というのがこの一件の経緯です。

 

概ねにおいて角界の美談と好意的に捉えられたこの出来事―。

一方で元若嶋津の旧・二所ノ関部屋は元関脇・玉乃島の放駒親方が継承しましたが、私個人の印象としてはやや釈然としない点があったのもまた事実である。

それはこの件も含め、ことさら近年において部屋継承の従来の慣習が崩れてきているように感じられるからです。

 

部屋の継承は角界では伝統的に弟子から弟子へと受け継がれてゆくのが原則であり、江戸時代以来の由緒を持つ伊勢ノ海の他、高砂、出羽海などが連綿と続いていることが知られています。

平成の初め頃を見渡すと同様に明治期まで遡りうる部屋がそれなりにあったのですが、こうした名門といわれる部屋の閉鎖が平成の10年代以降、目につくようになったのです。

例を挙げると伊勢ヶ濱部屋(旧)を皮切りに朝日山(旧)、三保ヶ関、二所ノ関(旧)、井筒、友綱(※)など―。

いわゆる名門ですらこうですから歴史の浅い部屋はなおさらで、かつて横綱を輩出した貴乃花(←二子山)、高島、放駒(旧)、東関も廃絶しました(大島は復活)。

旧伊勢ヶ濱や旧朝日山は後継者が育たず、閉鎖のやむなき所もありましたが、一方で部屋内に後継者候補やいわゆる分家を出していた部屋もあり、本来であれば存続していたであろう部屋までが閉鎖に追い込まれているのです。

 

分家に関して言えば例えば三保ヶ関部屋では尾上、木瀬及び山響(旧・北の湖)があり、井筒では錣山、陸奥、放駒では芝田山といった所。

以前は本家が閉鎖の危うきに至った場合は分家筋が本家と合流して継承していたのですが、平成以降では5年の藤島→二子山、14年の若松→高砂(厳密には分家ではないが)の後は例が絶えてしまっています。

名門部屋に関しては一門の中で何とか残そうという動きが見られなくなり、個々の部屋の内情には関わらない傾向が看取できる。

 

最近で気になる動きとしては部屋を継承はするのだが、名称を変更する事例も挙げられます。

冒頭に述べた二所ノ関→放駒の他にも武蔵川→藤島、鳴戸→田子ノ浦、千賀ノ浦→常盤山、春日山→中川、入間川→雷等で、平成20年代以降に顕著です。

二所ノ関の例を見てもそれぞれに事情があるのも確かで、武蔵川の例であれば横綱となった武蔵丸への継承の含意があり、千賀ノ浦は名跡を出羽一門に残すため、鳴戸や春日山は名跡交換の交渉が不調であったことが原因と考えられます。

一番新しい事例の雷ですとかつての大名跡であったといふ意識があるのかもしれません。

 

また元大関・琴風の尾車部屋のように実質的な後継者がいながらあえて名称を引き継がず、部屋を2人の弟子に分立しているなど、部屋は一代限りで継承を前提としないという考え方も見られるようになってきている。

平成以降に閉鎖した新興部屋の中で有力な後継者がいた例は押尾川、間垣、東関ですが、部屋を持つことを忌諱する動きも窺えます。

 

一方で、平成以降で一代限りで廃絶した部屋は尾車、押尾川、間垣以外では熊ヶ谷、大鳴門、荒磯、甲山、武隈(旧)、立田川、二十山、放駒、桐山、田子ノ浦(旧)、中村、花籠、峰崎の多きを数え、実際に後継者を育成することが難しいことも事実であり、とりわけ新興部屋ではあえて部屋を残すという動きが鈍いのはやむを得ないことなのでせう。

不思議なことにこれらの閉鎖した部屋の残された力士等が本来の本家筋に戻る例は少ないやうです。

 

名門の相次ぐ閉鎖や部屋をあえて継がない、あるいは名称を変えるという選択肢が何故増加し、かつ何が問題であるのか、後編にて考察したいと思ひます。

 

 

※・・・友綱部屋は元関脇・魁聖の友綱親方による復活に期待したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白河の関と二所ノ関

さて、前回に引き続き白河の関についてもう少しお話いたしませう。

 

実はいにしえより白河の関の場所についてはいくつか説があったようで、白河神社の地と共にもう一か所、有力視されていたのが西の白坂(白河市)の地でした。

この白坂の地は従来の東山道であった伊王野―旗宿ルートに代わる新ルートの経由地であり、少なくとも中世以降は伊王野(栃木県那須郡那須町)より白坂を経て白河へ至る道が東山道(後の奥州街道)のメインルートとして機能しました。

しかるに古代の白河の関についても白坂所在説が根強くあったやうで、さらに仮説を発展させて関所は白坂と旗宿の両所にあって、この2か所の関をもって二所ノ関と称されたと主張する人もありました。

 

二所ノ関の名については河合曾良も日記の中で、『古ノ関ノ明神ニ二所ノ関ノ名有ノ由・・・』としたためていますが、この文なかにもあるやうに二所ノ関の名称は二か所にあったというよりは関にあった神社が関係していると見るのが妥当のようです。

ここでいう関の明神は白河神社の別名でもあり、二所というのは住吉明神(中筒男命)と玉津島明神(衣通姫命)の二柱の明神を祀っているからだとか―。

一方、白坂ルートにも境の明神、あるいは関の明神と呼ばれる社があって、こちらは奥州―下野の国境(現在の県境)を挟んでほぼ隣接して二か所の神社が並んでおり、これが二所明神と呼ばれ、さらには関所も二所ノ関と呼ばれたとしています。

 

 

<二所明神とも呼ばれる白河神社のただずまい>

 

 

 

さて、すでにお気づきのことと思ひますが、二所ノ関といえば大相撲の年寄名跡のひとつです。

今日では二所ノ関一門という一大グループを形成していますが、年寄としての初代は文化(1804~18)の頃に大関を務めた錦木塚右衛門(伊勢ノ海の弟子)です。

現在の岩手県出身であった錦木は南部藩のお抱えとなり、引退後も南部相撲の頭取として弟子を育成。

南部藩お抱えの錦木が何故、二所ノ関を名乗ったのかは不明な点もありますが、これより以前にも二所ヶ関なる力士は複数人おり、頭書は南部の他は仙台となっているものが多く、奥州の関門であった故にいわば汎奥州ゆかりの四股名と捉えられていたのかもしれません。

なお、白坂の二所明神の前に南部藩ゆかりの者が経営する南部家なる茶屋があったさうですが、あえて由緒の四股名とする根拠としてはやや弱いように感じます。

 

2代の元沢風(二段目)を経て3代・二所ノ関(前歴不明)からは江戸相撲の年寄となりますが、4代・二所ノ関となった富士越(二段目)が明治37年に死去すると旧南部藩との関係も失われてしまいます。

 

5代・二所ノ関となる海山(関脇)は高知県の出身で友綱部屋の出。

弟子からは同郷で横綱となった玉錦を輩出し、二所ノ関部屋躍進の土台を築きます。

玉錦は現役のまま6代・二所ノ関を襲名するも急逝してしまい、跡を継いだ元玉の海(関脇)の方針で弟子の独立が奨励され、花籠、佐渡ヶ嶽、片男波が分立、そのいずれからも横綱が輩出せられるなど一門は大いに繁栄しました。

 

二所ノ関本家について述べますと平成25年、元関脇・金剛の9代・二所ノ関の停年とともに閉鎖されてしまいますが、その跡を元大関・若嶋津の松ヶ根親方が継承。

すでに力士はいませんでしたが、部屋付きの親方や行司などの裏方の多くが新・二所ノ関部屋へ移籍しており、かろうじて系譜の連続性は保たれたかに見えました。

 

ところが令和3年、10代・二所ノ関の停年を前に名跡が元横綱・稀勢の里の荒磯親方に譲られる形となり、荒磯部屋の看板を掛けかえる形で新生・二所ノ関部屋が発足します。

元若嶋津の親方にしてみればこの名跡は借り物という意識があったやうで、いずれは横綱の手にバトンを渡したいと思っていたのだとか―。

同じ一門ではあるものの旧部屋とのつながりがない点からいえば海山以来の二所ノ関部屋はここに完全に途絶えてしまったといえばそうなるのでせう。

 

一方の元の二所ノ関部屋は、といふと部屋付きであった放駒親方(元関脇・玉乃島)が引き継ぎ、一山本や島津海が所属しています。

この放駒親方の番付上の出身地は福島県西白河郡泉崎村。

白河市に隣接し、白河藩のありし日はその藩領に属していた上に境の明神の祭神の玉津島明神とよく似た四股名であることを思うに、二所ノ関の名跡を継がなかったのが何やら惜しい気も致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小屋山館(福島県白河市)

 

 

 

卯の花をかざしに関の晴れ着かな

 

時に元禄2年(1689)のこと―。

松尾芭蕉と共に奥州の関門・白河関址を訪ねた俳人・河合曾良の発句です。

ご存知、『奥の細道』の一節で、師匠の芭蕉は念願の奥州に入っての本格的な旅路を前に「旅ごころ定まりぬ」と書き綴りました。

 

古来より関東と陸奥の重要なる境目の位置にあった白河の関―。

関所が置かれた―と言ふことはとりもなおさず軍事的にも要衝であった所以で、中世には白川城を拠点とした結城(白川)氏が一円の管理を行っていました。

今日、白河神社や石碑がある付近が古来の関所であり、実際に発掘調査により柵列などの防御施設を伴った関所の跡と見られる遺構が確認されています。

ただ実際はいわゆる白河の関が存続していたのは概ね平安時代までであり、その後は東山道(後の奥州街道)が現在の国道294号線に東遷したためであったのか、歌枕の舞台となった中世の頃には白河神社付近には物理的な関所はもうありませんでした。

 

とはいえ下野の伊王野から白河へ抜けるサブルートとしての重要性は健在であったはずで、その脇街道が両脇から山が迫る隘路に差し掛かる一帯は、なお関門としての機能を維持していたものと思はれる。

今日、白河の関を訪ねると神社に隣接して土塁と空堀が巡る関ノ森城の遺構を見ることが出来ますが、恐らく戦国期にはこの城が街道を監視する重要な意味を持ったに違いない。

 

 

<関ノ森城の空堀。奥に横矢掛かりの屈曲が見える>

 

 

この城自体に関する伝承はないのですが、城を含む旧関所を見下ろす西方の丘陵上に小屋山館といふ城があり、その城主が白川結城氏の一門である関氏でした。

白川結城氏の祖である結城祐広の庶兄・朝泰に始まるという由緒を誇る上に、小屋山館は源義経、葛西清重、結城朝光が城主を務めたというやたらと仰々しい来歴に彩られている。

戦国期には関備前守の名が城主として確認できますが、佐竹、那須、岩城といった他勢力の進出に常にさらされる前線にあって、最終的には白川氏自体が佐竹氏に併呑されてしまうのです。

 

小屋山館の構造は比高50mほどの丘陵上に穿たれた楕円形の空堀の内部を上下二段に区切り、最高所である南を主郭、一段低い北側を二の郭としたもの。

構造はシンプルながら主郭北の虎口は左折れの坂虎口、二の郭東の虎口は右折れと工夫がみられる上に空堀は規模が大きく雄大で、外縁を外土塁としています。

丘陵の尾根が続く西においては空堀を二重とし、空堀を渡る土橋への進入路を屈折させるなど、小さい城でありながら見所は少なくない。

 

<二の郭東虎口の土塁に囲まれた通路>

 

 

<二の郭東虎口へ通じる土橋。やや登り坂である>

 

ところがこの城、街道方面から見ると同じような丘陵の連なりに紛れてしまい、どこに館があったのかがわかりにくいのです。

館跡からも実は直接、敵の進軍が予想される南方の街道を監視できるわけではなく、南堀外のピークがその機能を請け負っています。

 

小屋山館が国境の境目の城であったことは間違いないが、規模も小さいことからこの地における強固な防衛線を形成したといふよりはあえて城を隠すようにして避難所としつつ一時的な防備を担ったもののやうに思はれます。

 

このような城ですから登攀するルートもわかりにくいのですが、全体に周辺の山はよく手入れがなされており、東麓から南の峰の裾部に取りついてしまえば踏み跡をたどって丘陵上面へ至り、空堀に到達します。

郭内も私有地ゆえか、よく手入れされており、麓からのアプローチがわかりにくい割には快適に見ごたえのある遺構をたどることが出来、関ノ森城や白河神社、『奥の細道』関連の石碑などと併せて白河の関を偲ぶ史跡郡の一翼を担っています。

 

 

<手入れがなされている主郭内>

 

 

<二の郭の土塁>

 

 

<やや荒れている東の空堀>

 

 

<北の空堀>

 

 

<西方、二重空堀を仕切る土塁>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

谷地小屋要害(福島県相馬郡新地町)

 

 

 

JR常磐線で福島県最北の駅・新地駅から西へ歩いて数分の所に谷地小屋城(要害)と呼ばれる城址があります。

永禄6年(1569)、相馬盛胤によって築城され、近世も仙台藩の要害屋敷として存続、明治初年まで維持されていた城です。
 
今日、僅かに土塁の一部のみが残るばかりのこの城址を私が訪ねたのは三度目のこと―。
一度目は2008年のことであり、当時、城址には個人の家宅が建っていましたが、南の家中集落はありし日の面影をとどめ、駅寄りには明治初年に学校として利用された観海堂も残っていました。
ところが2011年3月11日、東日本大震災の津波で一帯は浸水―。
私が二度目に訪ねた同年の初夏にはすでに瓦礫は撤去されていましたが、城址は更地となり、南の家中集落もわずかに門などの建物を残すのみ、観海堂も流失するという変わりように愕然としたものでした。
 

 

<2011年の震災から数か月後の城址。周囲の水はまだ完全に引いていない>

 

 

<変貌した旧家中集落の中で奇跡的にほぼ無傷だった屋敷門>

 

 

<基礎を残して流失した観海堂。前掲写真の右奥の木立がここ>

 

 

 

その後しばらく、新地町を訪ねる機会はなかったのですが、当時、不通となっていたJR常磐線の代行バスにて近くを通ったことは何度かあり、新地駅周辺では盛んに造成工事が行われているのを目にしていました。

津波の直撃を受けた駅には、震災時にJR東日本の駅員や乗務員が避難して難を逃れたという跨線橋が残っていたのですが、いつしかそれもなくなり、駅一帯の嵩上げが進む状況。

谷地小屋城址は一体どうなったものかとずっと気になっていたのです。

 

すでに述べたやうに谷地小屋の要害は永禄7年、相馬盛胤によって築かれました。

この時、城将に任ぜられたのが藤橋胤泰(紀伊)―。

新山城(双葉町)城主であった標葉隆豊に始まる藤橋氏の3代目であり、隆豊の子・胤隆の養子にあたります。

一方、実父の泉田胤直もまた標葉氏一門の重鎮という血筋。

北は今の宮城県との県境に近いことから明らかなやうに伊達氏麾下にあった亘理氏の勢力との接点であり、言わば最前線に配置されたのでした。

 

ところが谷地小屋城の構えは―といえば本丸・二の丸からなる平城で、周囲が低湿地だったとはいえ最前線の防備としては不安があり、永禄9年には西の丘陵上に新たに新地城(蓑首城)が築かれ、改めて最前線の守りに任じられます。

城将となったのは門馬雅楽頭であり、次いで泉田甲斐に交代しますが、どうやら甲斐は胤泰の甥にあたるらしい。

新地城の築城によって谷地小屋城の機能が移転したのは確からしいが、城自体が廃城となったかどうかは不詳で、、あるいは新地城を補完する役割を得て存続していたのかもしれません。

なお、城将だった藤橋胤泰はこの時点では金山城(宮城県丸森町)に転任しており、やはり標葉氏旧臣の井戸川将監と共に城将を務めています。

対伊達の最前線に多くの標葉氏の旧臣が配置されていたことがわかります。

 

しかし金山城は天正12年(1584)に伊達氏の手に帰し(藤橋胤泰は既に離任し帰郷)、同17年には新地・駒ヶ嶺も落城、以後、近世に渡って仙台藩領として対相馬の前線を担うことに―。

新地城は近世には廃城となりましたが、谷地小屋城は要害屋敷として実質的に城郭としての機能を有したまま存続し、大町氏、ついで亘理伊達氏の領有下に置かれて蔵屋敷などとして利用されたようです。

 

以後、明治期まで存続しますが、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主であった仙台藩の陣所となり、新政府軍が迫ると要害は自らの手で焼かれ、その歴史に終止符が打たれました。

 

 

さて、三度目の訪問で、新装なった新地駅に降り立ちます。

駅前には真新しいホテルや文化交流センター、長屋状の商業施設が建っていて様相は一変していましたが、一画にはありし日の観海堂を偲ぶ記念碑がありました。

 

<観海堂の跡地。将来的には是非、復元してほしい>

 

 

少なくとも商業的には以前よりも充実した駅前の景観。

しかし駅前を離れた西側は田園の広がる低地のままであり、その様子は以前とほとんど変わりがないように感じられます。

 

問題の谷地小屋城址は、というと、北と東に土塁が残り、内部は未だ私有地のようで入口にロープが張られ、更地のままです。

南の家中集落は道や区画はほとんど変わっていないのですけれど、嵩上げによって北の谷地小屋城を見下ろす形となっており、津波を耐えて残っていた門ももうありません。

災禍を経て大きく変貌した新地駅周辺にあって、谷地小屋城址だけが2011年とほぼ変わらぬ景観のまま今年も静かに春を迎えています。

 

 

 

<南から見た現在の城址。土塁上の針葉樹がなくなっている>

 

 

<城址から嵩上げされた家中集落方面を見る>