小屋山館(福島県白河市)
卯の花をかざしに関の晴れ着かな
時に元禄2年(1689)のこと―。
松尾芭蕉と共に奥州の関門・白河関址を訪ねた俳人・河合曾良の発句です。
ご存知、『奥の細道』の一節で、師匠の芭蕉は念願の奥州に入っての本格的な旅路を前に「旅ごころ定まりぬ」と書き綴りました。
古来より関東と陸奥の重要なる境目の位置にあった白河の関―。
関所が置かれた―と言ふことはとりもなおさず軍事的にも要衝であった所以で、中世には白川城を拠点とした結城(白川)氏が一円の管理を行っていました。
今日、白河神社や石碑がある付近が古来の関所であり、実際に発掘調査により柵列などの防御施設を伴った関所の跡と見られる遺構が確認されています。
ただ実際はいわゆる白河の関が存続していたのは概ね平安時代までであり、その後は東山道(後の奥州街道)が現在の国道294号線に東遷したためであったのか、歌枕の舞台となった中世の頃には白河神社付近には物理的な関所はもうありませんでした。
とはいえ下野の伊王野から白河へ抜けるサブルートとしての重要性は健在であったはずで、その脇街道が両脇から山が迫る隘路に差し掛かる一帯は、なお関門としての機能を維持していたものと思はれる。
今日、白河の関を訪ねると神社に隣接して土塁と空堀が巡る関ノ森城の遺構を見ることが出来ますが、恐らく戦国期にはこの城が街道を監視する重要な意味を持ったに違いない。
<関ノ森城の空堀。奥に横矢掛かりの屈曲が見える>
この城自体に関する伝承はないのですが、城を含む旧関所を見下ろす西方の丘陵上に小屋山館といふ城があり、その城主が白川結城氏の一門である関氏でした。
白川結城氏の祖である結城祐広の庶兄・朝泰に始まるという由緒を誇る上に、小屋山館は源義経、葛西清重、結城朝光が城主を務めたというやたらと仰々しい来歴に彩られている。
戦国期には関備前守の名が城主として確認できますが、佐竹、那須、岩城といった他勢力の進出に常にさらされる前線にあって、最終的には白川氏自体が佐竹氏に併呑されてしまうのです。
小屋山館の構造は比高50mほどの丘陵上に穿たれた楕円形の空堀の内部を上下二段に区切り、最高所である南を主郭、一段低い北側を二の郭としたもの。
構造はシンプルながら主郭北の虎口は左折れの坂虎口、二の郭東の虎口は右折れと工夫がみられる上に空堀は規模が大きく雄大で、外縁を外土塁としています。
丘陵の尾根が続く西においては空堀を二重とし、空堀を渡る土橋への進入路を屈折させるなど、小さい城でありながら見所は少なくない。
<二の郭東虎口の土塁に囲まれた通路>
<二の郭東虎口へ通じる土橋。やや登り坂である>
ところがこの城、街道方面から見ると同じような丘陵の連なりに紛れてしまい、どこに館があったのかがわかりにくいのです。
館跡からも実は直接、敵の進軍が予想される南方の街道を監視できるわけではなく、南堀外のピークがその機能を請け負っています。
小屋山館が国境の境目の城であったことは間違いないが、規模も小さいことからこの地における強固な防衛線を形成したといふよりはあえて城を隠すようにして避難所としつつ一時的な防備を担ったもののやうに思はれます。
このような城ですから登攀するルートもわかりにくいのですが、全体に周辺の山はよく手入れがなされており、東麓から南の峰の裾部に取りついてしまえば踏み跡をたどって丘陵上面へ至り、空堀に到達します。
郭内も私有地ゆえか、よく手入れされており、麓からのアプローチがわかりにくい割には快適に見ごたえのある遺構をたどることが出来、関ノ森城や白河神社、『奥の細道』関連の石碑などと併せて白河の関を偲ぶ史跡郡の一翼を担っています。
<手入れがなされている主郭内>
<二の郭の土塁>
<やや荒れている東の空堀>
<北の空堀>
<西方、二重空堀を仕切る土塁>