星ヶ嶺、斬られて候 -7ページ目

シリーズ東京の謎の城④ 志村城落城と一夜塚

 

 

志村城といえば東京23区内(板橋区)にあって珍しく土塁や空堀を残す城址の一つとして比較的知られた存在です。

都営地下鉄・三田線の志村山一丁目・・・もとい志村三丁目駅のすぐ後ろ(南)の高台が城跡で、現状ではマンションや学校、工場に民家などが並ぶ一画に熊野神社の社叢が茂り、その中に土塁や空堀といった遺構が残されているのです。

 

<熊野神社境内の空堀には横矢の屈曲が見られる>

 

城を初めて築いたと伝わるのが豊島氏の一族とされる志村氏で、古文書や記録、伝承にその足跡をたどることが出来るものの、城との関わりは実は不明。

次いで康正2年(1456)、馬加康胤に追われた下総千葉氏の惣流である実胤、自胤兄弟が上杉氏の庇護を受けて石浜城(台東区)及び赤塚城(板橋区)に入城すると、志村城には一族の千葉隠岐守(信胤)が配されたと伝えられ、中山道の隠岐殿坂(後の清水坂)などにその名が残ります。

 

志村城の立地は北に荒川の沖積地を望み、一方、南から西にかけては志村氏以来、開発の進んでいたと思われる出井川が形成する谷が入り込んだ半島状の地形であり、いかにも築城に好適の地であるのが明瞭です。

明治時代の地図には台地の東を横断する空堀が描かれたものがあり、この堀を外堀として概ね3条の堀切によって区画された構造であったと推測される。

さらに近年の発掘では中山道の西側、かつて大善寺谷津と称された帯状の区画に重なる形で深さ2mほどの薬研堀が検出されており、ここを惣堀とするならば実に東西800mほどの規模を有する一大城郭が存在していたことになる。

 

その後、下総の本領回復を目指しながらも結局は赤塚や中曽根(足立区)を拠点とする地域領主として定着した千葉氏であったが、大永4年(1524)に至り南方より後北条氏の勢力が一帯に迫ります。

伝承ではこの年、千葉氏の家臣と思はれる篠田五郎が守っていた志村城が北条氏に攻められ落城したとかや。

この顛末は史料や軍記物等には見えないのですが、大永4年といえば扇谷上杉氏の本拠であった江戸城が北条氏によって攻め落とされた年であり、志村城もその一環として攻撃対象とされたものでせう。

一方で千葉氏の本拠である赤塚城に対する攻撃の伝承はないので、北条勢は志村を攻撃することで千葉氏にプレッシャーをかけたものと思はれる。

 

大永の志村城攻城に際しては北条方によって構築されたといふ一夜塚なる旧跡があり、江戸時代に成立した『江戸名所図会』や『新編武蔵風土記稿』にも紹介されているのですが、ことに『江戸名所図会』の解説がふるっているのでここに紹介いたします。

 

同所、西南の畑の中にあり。此地を前野と号す。相伝ふ、小田原北条家の時、千葉家の城を攻落とさんとして、寄手の軍兵此地に於て一夜の間に炮坐(いしびやだい)を築き、城へ向けて此塚上より大発砲を放ち、竟に城兵を焼討にせしといふ。

 

一夜にして築いたといふ後の豊臣秀吉による小田原城攻めを髣髴とさせる戦術も興味深いが、なんといっても度肝を抜かれるのが大発砲といふ描写です。

これを大砲と見るならば天正6年(1576)に大友宗麟が用いた‘国崩し‘なる大砲の使用に先立つこと半世紀―、鉄砲の伝来よりも20年も早いことになる。

鉄砲伝来に関しては天文12年(1543)以前に流入していたという説もありますが、それにしても大永4年は早い。

 

勿論、これは江戸時代も後期の書物の記述ですから全面的に信任は出来ませんが、とにかく一夜塚を実地に訪ねることに致しました。

さてこの一夜塚、『東京遺跡地図』等によれば板橋区中台2丁目が表示されるのですが、『名所図会』や『新編武蔵』が言及しているのはどうも前野5丁目の塚であるらしい(現在は遺跡としては指定がない)。

現状においては中台にせよ前野にせよ住宅等になり、すでに塚も崩されてしまっているのですが、前野の塚跡は志村城の南に出井川の谷を挟んで相対する台地の北端にあって現在でも志村城址がよく見えます。

一方の中台の塚跡は前野から西に谷ひとつ隔てた台地上に位置し、台地端部からは南に入っているために住宅が建て込んだ現在では志村城は見えないのですが、建物のない往時は互いによく視認できたことでせう。

 

とはいえ両所とも志村城との直線距離は500m以上。

大砲に限らず当時の兵器の射程を考えると遠すぎるというのが実感です。

可能性としては石火矢ならぬ弩などもも考えられますが、当時の北条氏の戦術から似た事例があるかというと寡聞にして知りません。

 

‹前野の一夜塚付近からの景。正面の大型マンションが志村城址›

 

また一夜塚に関してはかねがね古墳だったのでは―と見る指摘もあります。

実は前野や中台を含む荒川沖積地を望む一帯の台地北縁は古墳が多く集まるエリアであり、志村城址にある熊野神社の本殿・拝殿が鎮座する土壇も古墳であると見られ、かつて古鏡が出土したという話も―。

中台の塚に関しては昭和12年の測図にそれらしいマウントが描かれており、中々に規模も大きかったものらしいし、前野の一夜塚も高さが7mほどもあったといいます。

けだし一夜塚は既存の古墳をベースとしつつ周辺の古墳を切り崩し,周辺の地形に詳しい城兵をすら驚嘆せしめるほどの規模の塚を築いたのではないでせうか。

 

しかし、前述のとおり一夜塚は両所とも正確な調査を待たずすでに崩されてしまっており、名残といえば前野の塚上に祀られていた三峯の石祠が同じ前野5丁目の西熊野神社に移されているといふくらい―。

 

‹西熊野神社本殿脇にひっそりとある石祠。右が三峯か?›

 

一夜塚に関しては、

 ①本当に北条氏が志村城攻撃の際に築いたものなのか

 ②正体は古墳ではないのか

 ③何故、二か所に伝承が残るのか

 ④北条氏は志村城攻城戦に際して大砲を用いたのか

・・・などの謎があり、考古学的な調査が行われていれば④以外に関しては有力な手掛かりが得られたと思うのですが、今となっては永遠の謎のままとなってしまいました(基壇部や周壕については残存の可能性が絶無ではない?)。

 

志村城の落城後ほどなく、赤塚の千葉氏も北条氏の軍門に下ったやうで、後に江戸衆の一翼として戦国末期まで存続します。

志村は『小田原衆所領役帳』によると島津氏や板橋氏領となっているのが確認できる他、志村廿一給衆なる存在についても記録があるものの、城主クラスの領主を認めることはできないので志村城の機能も限定的であったのでせう。

 

ところで、北条氏といえばこの一夜塚の他、石戸城(埼玉県北本市)攻めの際に際しては一夜堤を築くなど高い土木技術を背景とした一夜殺法がお家芸でしたが、後に豊臣秀吉によってお株を奪うが如き石垣山一夜城が築かれ、小田原攻めの拠点となろうとはいかにも歴史とは皮肉なもの。

そして幕末には北西鵬の徳丸ヶ原で高島秋帆による日本初の西洋式の大砲訓練が実施され、ここ志村の人々も戦国以来の大砲声をさて聞いたのでありましょうか―。

 

‹志村城址北の斜面›

 

‹旧二の郭に建つ熊野神社。古墳上に鎮座するといふ›

小山田城(東京都町田市)

 

 

東京は町田市の北西部に小山田といふ地名があります。

多摩の横山と称された多摩丘陵を北に背負って多摩市・八王子市と隣接し、南は境川を隔てて神奈川県の相模原市とも間近い。

かつて一帯は武蔵七党と呼ばれた武士団が蟠踞する土地柄でしたが、その中で小山田といいますと武蔵ならぬ甲斐の国人としてご存知の方も多いのではないでせうか―。

 

小山田氏の祖とされる有重は秩父氏の出ながら母親が多摩南部に勢力を築いた横山党(武蔵七党の一)の出。

そのため秩父一門にして横山党の一員でもあった有重は今日の町田市小山田一円を中心とする小山田庄を本拠とし、小山田氏を称したとされています。

この頃の横山党は海老名氏や愛甲氏、渋谷氏を相模に進出させるなど旺盛に勢力圏を広げており、小山田有重もまた子らを東方の稲毛(川崎市多摩区周辺)や榛谷(横浜市保土ヶ谷区周辺)にまで進出させるなど意気軒高。

鎌倉幕府にあっては有力御家人の畠山重忠(有重の甥)や執権・北条時政との結びつきを深め、その地歩は盤石やに思はれました。

ところが元久2年(1205)に同門の畠山重忠(甥)の謀殺に端を発して執権・北条時政が失脚すると、小山田一門は没落の憂き目に―。

一方、甲斐郡内の小山田氏は有重の子・行重にはじまるとされるも分明でない点が多く、あるいは一門の失脚以前に分立した家の末裔なのかもしれません。

 

この小山田有重の居館があったとされるのが今日、大泉寺がある所であり、谷間の最奥部にあって水源地を掌握するという中世前期の開発領主の館にふさわしい立地です。

 

<参道から見た大泉寺。谷の奥にあるのがわかる>

 

 

実はこの大泉寺の裏山に有重に手によるといふ山城(小山田城)があるのですが、形態からすると小山田有重の時代のものとは言い難く、最終的には室町後期頃に利用されたものでせう。

 

小山田氏没落後の小山田庄は執権・北条氏の得宗領に組み込まれたやうで、室町期に入ると武蔵守護の守護領に―。

時に武蔵守護は主に山内上杉氏であり、その有力な一門がここ小山田を拠点とし、小山田上杉氏と称されました。

この小山田上杉氏は扇谷上杉氏を輔翼する家柄であったようで、扇谷家の当主となる氏定(頼顕の子)や扇谷家の名代と称された定頼(氏定の甥)を輩出しました。

 

この小山田上杉氏の館がどこにあったのかは不明ですが、文明9年(1477)に引き起こされる長尾景春の乱において「扇谷の要害」と称された小山田城が扇谷上杉氏方の防衛の拠点となっており、近隣の小野路城などとともに防衛線を形成したやうだが、豊島氏や国境を接する相模北部の諸勢力など景春陣営に囲まれる形となってあえなく落城。

時の城主が小山田上杉氏であったかどうかは不明ですが、その後、後北条氏の進出を巡っての攻防においても小山田城が活用された可能性がありそうです。

 

大泉寺の裏山に位置する小山田城は多摩丘陵に連なる北方の主体部から大泉寺境内を東西両翼から尾根で包み込むが如き立地にあり、南方から見るにそこは谷の最奥部である。

裏山から北西に突き出したやうな主郭は北に向かってやや傾斜する構えで郭内の削平が十分でなく、臨時の要害の趣を感じさせます。

 

‹南から北に傾斜する主郭›

 

主郭東西には堀切があり、西方側には馬出状の小郭があったといいますが周辺の開発とよって今は消滅。

一方の東側の堀切を隔てた二の郭は大泉寺本堂の真裏にあたり東西に長い構えで、南が一段高くなり、城とは関係のなさそうな起伏が見られる点からある時期においては三昧地であったかと想像されます。

二の郭から東に下がった所に馬出状の小郭があり、さらに堀切を隔てて祠のある平場がありますが、これより先に堀切等の明瞭な遺構は確認されないやうである。

それでも東西に展開した尾根は谷間に入る者に対して大いに威圧感があったものでせう。

 

かくの如く城は削平等は不完全であるし、遺構の規模も大きいものではないが馬出状の小郭を備えるなど技巧性を見せており、15、6世紀の扇谷上杉氏の技術、あるいは北条氏の初期の技術を投入した城と言えるかと思います。

戦国中期以降は北条氏の安定的な領国となったためか、その後、利用されることもなかったのでせう。

 

‹東の堀切越しに馬出状の小郭を見る。奥が二の郭›

 

ところで『小田原衆所領役帳』によると小山田庄一帯の419貫もの所領が他国衆の小山田弥三郎の領するところとして記載されています。

この弥三郎とは武田氏の重鎮として知られる小山田信茂の先代に当たる兄の信有であると見られ、北条側との取次に当たったことからかつての苗字の地の領有を北条氏より認められたものらしい(異説あり)。

小山田氏が武田氏の従属下にありながらある程度、自立した国人領主であった証左といえますが、永禄2年(1569)に甲相同盟が破れ武田氏が駿河や小田原に攻め入る段になって北条領国下の小山田氏領は接収され、滝山の北条氏照領(油井領)に組み込まれたやうです。

 

ちなみに400貫というと赤塚(板橋区)や中曽根(足立区)に城を有していた武蔵千葉氏や伊豆郡代の笠原氏とほぼ同等の大身であり、一城を保持しうるほどの知行を誇りましたが、流石に他国衆の小山田氏が城郭を構えるということはなかったのでせう。

なお『役帳』によれば小山田庄の中でも小山田城を含む一帯は油井領に属していました。

 

さて、今日では城址には羅漢像が並ぶなど全般によく手入れがなされている状況ですが、寺院の裏山に当たる城址への無断立ち入りは原則として禁止されているのが現状。

但し住職等に申し出れば基本的に問題なく見学の許可をいただけるかと思います。

 

 

‹主郭北西の堀切。写真は左手は削られている›

 

‹主郭東の堀切›

 

‹竹藪に正体不明の起伏がある二の郭›

 

‹馬出東堀切を側面より見る›

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横綱・鶴竜賛歌

去る6月3日、国技館にて元横綱・鶴竜の引退相撲(断髪式)が挙行されました。

令和3年3月場所の引退より丸2年―。

通常は引退後、半年から1年以内に執り行われるものが、コロナ禍において人が集まる花相撲などの行事が制限されてしまい、結果として概ね令和に入ってから引退した力士の断髪式が先延ばしとなりました。

令和4年に入ってからはようやく断髪式も解禁となるも順番待ちのような状態で、マゲに別れを告げて現役引退のケジメをつけるにも長いブランクが―。

とりわけ土俵入りを行わなければならない横綱の場合は体の状態を体重も含めて維持する必要があり、鶴竜親方も「早くマゲを切りたい」と語るほどでした。

 

そして迎えた当日、新型コロナも5類に移行したことで断髪式も完全に通常開催となり、国技館には多くの関係者やファンが詰めかけました。

台風2号の影響で交通の乱れが出たのはやや残念ですが、かつて‘モンゴルの寺尾(タイフーン)‘と呼ばれた因縁すら感じさせなくもない。

おかげで入鋏の順序や人数なども狂いが生じたが、かつての兄弟子の錣山親方や父のマンガラジャラブ氏が鋏を入れると流石に感極まったやうで目元をぬぐう一幕もありました。

 

<陸奥親方によるとめバサミ>

 

 

引退相撲では断髪に先立ち鶴竜引退記念の相撲甚句が陸奥部屋の幕下力士・勇輝によって披露されましたが、この甚句の歌詞は誠に僭越ながら愚拙が作詞したものであり、ここに全文を掲載したいと思ひます。

 

 

横綱・鶴竜引退断髪記念甚句

『嗚呼、南天に竜と行け』

 

ハァーエー 渡れ大海 上がれよ天空に

アー 北の大地は英雄の 都に生まれし快男児

遊びにスポーツ勉学と 励みしアナンダ少年が

異国に渡りし先達の 勇姿に憧れ情熱を

つづる手紙の結ぶ縁

越える日本の西ノ海 名門・井筒に入門し

師匠の逆鉾モロ差しに 兄弟子・寺尾の突っ張りで

十両、幕内、三役と

昇る階段着実に 切磋琢磨のライバルと

競いて大関その上へ 益々技能の爪を研ぐ

あの日 十五で見た夢に

信じた道をまっすぐと 泣きたい日々もつらい日も

じっとこらえる修行道

か細き鶴が逞しく 技と力のサムライが

二十六年三月に 飾る優勝綱獲りで

堂々雲竜の土俵入り

謹厳実直人柄も 土俵の上では鬼となる

天に旅立つ恩師へと 六度の賜盃をはなむけに

初心に戻る新天地

出でよ鳳雛・若鶴と 鍛えし若手に夢託し

土俵降りたるこれからも 井筒・陸奥各流に

創意と伝統受け継いで 

愛する日本とモンゴルと 相撲世界と家族へと

道は果てなき恩返し 親方鶴竜この門出

どうかご支援をヨーホホイ

アー 願いますヨー

 

全体にかなり長くなってしまいましたが、随所にキーワードをちりばめていたこともあって容易に字句を削ることが出来ませんでした。

それでも横綱・鶴竜の来し方を拙いながらも何とか凝縮して歌詞に乗せることが出来たのではないかと思います。

同時に鶴竜親方に対する思いを書き尽くしたものであり、もはやこれ以上、何をか言わんやである。

もし、この甚句が評価されるならばそれは偏に歌い手の力量によるものでせう。

 

 

‹陸奥部屋の勇輝らによる甚句披露›

 

 

横綱の断髪式ともなれば白鵬の宮城野親方の際に元関脇・勢の春日山親方が甚句を担当した如く、歌い手や作詞もしかるべき立場の人によってなされるものですが、あえて身内ともいうべき人の手に任せるあたりは旧井筒部屋らしい手作りの妙味とご寛恕いただきたい。

 

陸奥部屋においては目下、甚句中で鳳雛(ほうすう)の念頭に置いていた霧馬山改め霧島が大関に昇進、マゲを切ったからと言って鶴竜親方に立ち止まっている時間はないでしょう。

現役時代のライバルである宮城野親方や元稀勢の里の二所ノ関親方らはすでに指導者としての足場を固めつつある中で、鶴竜親方にも期するところがあるに違いない。

まだいくつかのハードルがないわけではないですが、今後は指導者としてその才を発揮し、井筒・陸奥の伝統を受け継いで大相撲を盛り立ててもらいたいと願っています。

 

 

 

 

 

 

 

本名型の年寄名跡

この令和5年の5月場所で話題となったのが二所ノ関部屋に入門した幕下10枚目格付出しの大型新人の大の里。

本名は中村泰輝で、アマチュア横綱に2年連続で輝くなど華々しい実績の持ち主です。

出身校が日本体育大学であることから二所ノ関部屋付きの中村親方(元関脇・嘉風)の引きがあったものと想定されますが、中村故に本名を四股名と出来ず、大の里と命名せられ、その点でも好角家の注目の集める所となりました。

 

さて、前回記事にて本名のやうな四股名を取り上げましたが、そうとなれば本名のような年寄名跡に触れないわけにはいかないでせう。

元々、大阪相撲に貢献のあった侠客の中村芝吉を初代とする年寄・中村や行司由来の木村瀬平(木瀬)、式守秀五郎(式秀)、中立は例外にせよ、年寄名跡といえば元はといえば四股名が由来。

由緒の古いものもあって今日では四股名らしくないものも少なからずあり、また本名と見分けがつかないような名跡も散見されます。

 

概覧するに井筒、稲川、大島、大山、高崎、高島、立浪、谷川、中川、藤島、若松などと

並べてみると恐らく知り合いに数人は思い当たる人がいるのではないだろうか。

また尾上や立川(たてかわ)といったら他の業界の人を連想してしまいそうですが、年寄名跡としては勿論、四股名が由来です。

 

さて愚拙が世を忍ぶ仮の姿の少年時代の話である。

その頃は若貴ブームが花盛りの時分であり、その所属部屋の藤島部屋が世の耳目を大いに集めていた頃でした。

同級生の藤島少年は世を忍ぶこともない純然たる小学生でしたが、ついたあだ名は当然のごとく「親方」と貫禄十分。

あいにく同級生に大島君や井筒君、若松君はいませんでしたが、もしいればやはり親方、いやむしろ監督と呼ばれていたのでせうか―?

今日ですと立浪氏も親方と呼ぶか監督と呼ぶか迷いそうですが、監督サイドの面々はいずれも本名ですからそれだけ苗字としての普遍性もうかがい知れようというものです。

前回記事でも同様の傾向を示しましたが、上記の年寄名跡を見ると川が多く、山や島も見られます。

ただし上記のうち、高島は元は高砂(長五郎系で浦五郎系とは別家)、大島は大阪の藤島の略で、いずれも四股名由来とはいえません。

川、山に関して付け加えると本名型に限らず105の年寄名跡全体を俯瞰しても~川が15例、~山が19例とまさに双璧。

この次となると~島、~風の4例ですから両者の突出ぶりが際立ちます。

ちなみにこの令和5年5月場所の番付の四股名を見ると~山が関取だけで7人を数えるのに対し、~川は全力士でも3人(うち本名が1人)と大きく水を開けられている状況である。

 

四股名にもトレンドがあるのは当然で、けだし年寄名跡はそれこそ17世紀に遡るような古い時代の四股名を現代に伝えているともいえるでせう。

例えば井筒や花籠、白玉、振分などは元は四股名であったと思われるのですが、現代の感覚からするとちょっと四股名とは思えないやうな事例です。

 

一方で年寄名跡が実際に苗字となった例もある。

年寄名跡とは相撲会所の運営に関する一種の利権が絡むものでしたが、代々相続するという点から名跡が家のようなる意味を持ち、墓の管理などが引き継がれていきました。

しかるに世が江戸から明治に移ろう頃に公に苗字が必要となってきた際、年寄名跡をそのまま苗字とした事例もあったのです。

いわば四股名→年寄→苗字と遷移したもので、中には○○山などといかにも四股名を思わせるものも含まれておりました。

 

―とまれ、前回から本名のやうな四股名、年寄名跡を取り上げてまいりましたが、そもそも江戸時代においては武士以外の大半の人が苗字を公称できなかったとあって、いかにどこにでもいそうな中川や丸山だとて苗字のようだという概念もなかったのでせう。

今日のように苗字の研究家、専門家というべき人もいない中では苗字そのものに対する知識もなかったはずで、かつての四股名をまるで本名のようだなどと考えること自体が現代人の発想なのかもしれません(ただし「武鑑」などが普及している状況で、大名家にもある中川を用いることに頓着がなかったのはいささか不思議である)。

 

四股名には地名を由来とするものが多々ありますが、苗字もまたそのほとんどが地名に由来すると言われています。

中川や大山、谷川などは地名としてもスタンダードなものであり、山や川がつくだけにこれらを四股名とする力士が現れ、年寄として発展したと言えるでせう。

 

ちなみに私が過去に出会った年寄系本名の人は数えてみると9つの名跡をカバーしておりました。

ここであえて~人としなかったのは中村さんだけでも4、5人は知っているからで、~人という数え方では誤解を生じせしめるから。

世間ではさほど珍しくない苗字でも未だ出会ったことのない人もあり、遠からず十指に余る数となるのは確実かと思われます。

 

さて皆様は今まで何人の年寄系苗字の人と出会ってきましたでしょうか―?

 

 

 

本名型四股名の力士たち

松鳳山、千代大龍、豊山…。

これは昨年末から今年にかけて引退した力士たちの名前です。

いずれも三役、もしくは幕内上位で活躍した力士たちであり、本来であれば相撲協会に当然、残っているべき面々でしたが、諸般の事情により協会への残留の道を選ばなかったことは少なからず相撲ファンに衝撃を与えました。

 

実はこれらの力士にもう一つ共通しているのは本名がそのまま四股名のようであった―と言ふことです。

すなわち松鳳山が松谷、千代大龍が明月院、豊山が小柳(おやなぎ)。

いずれも四股名のやうな本名と言えますが、とりわけ小柳は「こやなぎ」と読めば過去に何人もの幕内力士が名乗った言わば大名跡でありました。

 

小柳を名乗った力士の数ある中で幕内まで昇進したのは実に5人に上ります。

その初代というべき小柳長吉は文政5年(1822)に入幕、後に阿武松と名を改め、横綱を免許された名力士。

この阿武松が部屋を興したこともあって、江戸時代にあっては阿武松門人に引き継がれた小柳の四股名でしたが、明治後期に入幕した小柳芦太郎は高砂部屋の所属でした。

 

さてコヤナギならぬオヤナギは、といえば平成28年11月に十両に昇進してからも本名のまま土俵を務めていましたが、翌29年夏場所に入幕を果たすと時津風部屋のビックネームである豊山と改名しました。

小柳が阿武松系の出世名であるだけに、豊山くらいのインパクトがないとかえって格が下がると考えたのかもしれません。

 

小柳と並んで本名型四股名の双璧と言えそうなのが黒岩で、こちらは幕内4人に加えて大阪相撲の大関も一人。

天保の頃に関脇を務めた黒岩森之介など人気・実力を備えた力士が目立ちます。

 

また平石も2人の大関など6人を幕内に送り出していますが、ヒライシではなくヒライワと読む力士もいるので注意が必要です。

 

かくの如く今日では苗字としても珍しくないような四股名ですが、当時は公には武士階級以外の庶民は苗字を名乗っていませんでしたから、そもそも本名のやうだ、といふ概念も当然、なかったのでせう。

幕内から幕下以下にも目を広げるとさらに多くの本名のような四股名の力士たちがいます。

人数が多く現代だったらこれは本名だろうというのを挙げますと、青柳、荒川、石山、今川、大石、大崎、大橋、柏木、黒川、小林、島川、白川、高浜、高松、滝川、竹島、立花、玉川、早川、松島、松山、丸山、宮川、森山、若林、若山など―。

中には幕内を務めた力士もおりますし、丸山といえば横綱にも数えられる強豪力士を生んでいますが、その後も複数人が四股名としています。

なおこれらの四股名の対象は主に江戸時代の力士であり、明治以降は万人が苗字を公称するようになるともはや本名か純然たる四股名なのかが判別困難になるため対象には含んでいません。

 

傾向として看取できるのは山や川、島といった自然風物に題をとったいかにも四股名らしい要素を含んだもので、こうしたものは地名にもなりやすく、結果、本名とオーバーラップするものが多く見られます。

逆にいえばこれらの要素があれば今日でも本名のままでも四股名として通用するわけで、昭和以降でも長谷川や輪島、里山などの例があります。

とりわけ川の多さは突出しており、それほどに四股名との親和性があったものが、近年では本名以外には見かけなくなってしまったのは甚だ残念。

黒などもそうですがかつてはマイナスイメージのなかったものが忌避される場合がある一方で、豊穣たるイメージを伴わない言葉遊びのやうな四股名が増えていると感じます。

 

再び前の四股名群に目をやると例えば小林などと当時としても四股名らしくないのでは―と思われるものもあるのですが、明治中頃の幕内力士・稲野花は本名が高木でありながら当初の四股名は小林を名乗っており、小錦や小柳と同じような感覚で捉えられていたのかもしれません。

数は多くないものの五十嵐や長谷川、船岡などの四股名の力士も江戸時代には見えており、あるいは本名では―とも思えるのですが、明治・大正の頃の幕内力士の四股名の変遷を見てみても実は下位の時期にあっても本名を四股名としている例がなく、昭和以降になってようやく確認出来るやうになっているのです。

力士とは四股名を名乗るもので本名のままに土俵には上がらないといふ認識があったのかもしれません。

今日、正代に髙安、遠藤、宇良といった本名のままの力士が幕内で活躍していることを思ふに、四股名と本名の垣根は年々、低くなっていると言えますでせうか―。

 

以上、本名のような四股名をご紹介しましたが、そうといえば私はここ2年ほどの間に本名が清水川さん、梅ケ谷さんという人に会う機会を得た。

事実は小説よりも奇なり、といいますが、本名も四股名よりも四股名らしい、ということがあるのかもしれません。