【今日は何の日?】6/25…「天覧試合」(1959)と『勝手にシンドバッド』(1978) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(2024/6/25)サザンオールスターズは、めでたく、

「デビュー46周年」

を迎えた。

今から46年前の1978(昭和53)年6月25日、サザンオールスターズは、

『勝手にシンドバッド』

でデビューを飾ったが、そのため、

「6月25日はサザンの日」

であり、毎年、サザンや桑田佳祐が、その年の活動方針を発表したり、新曲を発表したりしている。

つまり、「6月25日」は、サザンファンにとっては、特別な日である。

 

 

一方、サザンのデビューから遡る事、19年前、

1959(昭和34)年6月25日、後楽園球場で行われた、プロ野球の公式戦、

「巨人VS阪神」

の試合を、史上初めて、昭和天皇・香淳皇后の両陛下が観戦するという、

「天覧試合」

が行われ、その試合で、長嶋茂雄(巨人)あまりにも劇的なサヨナラホームランを放ち、

「長嶋の天覧ホームラン」

として、後世まで語り継がれる、野球史上に残る「伝説」を残した。

という事で、本日(6/25)は、それを記念し、

「『天覧試合』(1959/6/25)と『勝手にシンドバッド』(1978/6/25)」

の物語を描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<1956(昭和31)年…桑田佳祐(1956/2/26)、原由子(1956/12/11)の誕生>

 

 

1956(昭和31)年、後に青山学院大学で出逢い、サザンオールスターズを結成する運命にある2人、桑田佳祐原由子が生まれた。

桑田佳祐は、1956(昭和31)年2月26日、神奈川県茅ケ崎市に生まれ、

原由子は、1956(昭和31)年12月11日、神奈川県横浜市に生まれている。

従って、桑田と原は年齢は同じであるが、桑田の方が「早生まれ」なので、学年は桑田の方が原よりも1つ上である。

そして、この「1年」の差が、この二人の運命の「出逢い」に大きく関わって来る事となるが、その話については後述する。

また、この年(1956年)は、戦後日本に現れた燦然と輝く、

「あの兄弟」

が、颯爽とデビューした年でもあった。

 

<1956(昭和31)年…石原慎太郎&石原裕次郎の兄弟が颯爽とデビュー>

 

 

桑田佳祐原由子が生まれた年、1956(昭和31)年と言えば、

石原慎太郎石原裕次郎の兄弟が颯爽とデビューした年でもあった。

当時、一橋大学に在学する学生だった石原慎太郎が、

『太陽の季節』

という小説を発表すると、この作品を書いた石原慎太郎が、史上最年少(当時)の23歳という若さで、「芥川賞」を受賞し、世の中にセンセーションを巻き起こした。

そして、この小説の登場人物を真似た、

「太陽族」

が湘南の海に現れ、社会現象となったが、実は石原慎太郎が、この小説のモデルにしたのが、弟の石原裕次郎である。

その後、

『太陽の季節』

が日活で映画化されると、石原裕次郎は俳優としてデビューを飾り、以後、裕次郎はスーパースターへの階段を駆け上がって行った…。

という事で、

「石原兄弟」

の物語は、もはやこのブログでも散々、書きまくって来たので、この辺にしておくが、その頃、野球界にも新たなスーパースターが登場しようとしていた。

 

<東京六大学野球の「立教三羽烏」(長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾)~長嶋茂雄は、学生生活最後の試合で「通算8号」の新記録を達成>

 

 

さて、石原裕次郎が映画界でスーパースターになっていた頃、

神宮球場で行われている東京六大学野球では、立教大学の同学年の3人組、

長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾…という、

「立教三羽烏」

が、大活躍していた。

1957(昭和32)年、彼らは最終学年を迎えていたが、

大エース・杉浦忠、主砲・長嶋茂雄、内野の要・本屋敷錦吾…という、「立教三羽烏」は三者三様の大活躍を見せ、この年(1957年)、立教は春秋連覇を達成した。

中でも、長嶋茂雄は、ある「大記録」を達成し、日本中を沸かせた。

 

 

今では考えられないが、当時の東京六大学野球の注目度は、プロ野球よりも高く、非常に人気が有った。

その六大学野球で、長嶋茂雄は大活躍していたが、1957(昭和32)年秋、学生生活最後のシーズンを迎えた時点で、長嶋は、

「通算7本塁打」

という、六大学野球の最多タイ記録を樹立していた。

しかし、「あと1本」で新記録という所で、長嶋はプレッシャーからか、なかなかホームランが打てなかった。

だが、1957(昭和32)年11月3日、長嶋にとって、学生生活最後となる試合、

「立教VS慶応」

の一戦で、長嶋茂雄は遂に、六大学新記録となる、

「通算8号ホームラン」

を放ち、超満員の神宮球場を熱狂させた。

プレッシャーに打ち勝ち、最後の最後で待望の一発を放った長嶋は、まさに恐るべき勝負強さであった。

このように、長嶋という男は、皆が期待し、

「ここで打って欲しい!!」

という場面で、その期待に応えて打つ事が出来る…という、まさに天性のスーパースターだった。

その長嶋の特性は、学生野球の頃から既に表れていたのである。

 

<1957(昭和32)年秋…長嶋茂雄、大争奪戦の末に巨人に入団~新人ながら、背番号「3」を与えられた長嶋>

 

 

このように、当時、大人気だった六大学野球で、ファンの期待に応え、

「通算8号」

の新記録を達成した長嶋茂雄は、当然の如く、プロ野球の全球団から、

「是非とも、ウチに来て欲しい」

と熱望されていた。

当時のプロ野球にはドラフト制度も無く、凄まじい大争奪戦が繰り広げられたが、その結果、長嶋を射止めたのは巨人だった。

長嶋は巨人に入団し、巨人は長嶋に大いに期待し、新人ながら、長嶋に対し、

「背番号『3』」

を与えている。

こうして、長嶋はプロ野球の世界に身を投じた。

 

<1958(昭和33)年…長嶋茂雄、新人ながら「本塁打王」「打点王」の「二冠」を獲得する大活躍で、早くもプロ野球界ナンバーワンのスーパースターに~同年(1958年)秋、王貞治も巨人に入団>

 

 

こうして、大争奪戦の末に、巨人に入団した長嶋茂雄であるが、

長嶋が巨人に入った事により、まず何が起こったのか…と言えば、

「六大学野球からプロ野球への、ファンの大移動」

である。

先程から述べている通り、当時の六大学野球は、プロ野球を凌ぐほどの人気が有ったが、その六大学のスーパースター・長嶋茂雄が巨人に入った事により、六大学野球のファンがゴッソリと、プロ野球ファンに移動してしまった…と言われている。

そして、長嶋は新人ながら三塁手のレギュラーを獲得し、長嶋よりも4年先に巨人に入団していた、早稲田出身の遊撃手・広岡達朗と共に、長嶋と広岡が三遊間コンビを組んだ。

広岡は、長嶋の六大学の「先輩」だったが、

「長嶋が巨人に入り、プロ野球全体の人気が上がったのは間違いない」

と、後に述べている。

 

 

1958(昭和33)年、長嶋茂雄は、巨人の入団1年目から、期待に応えて大活躍し、

「打率.305 29本塁打 92打点 37盗塁」

…と、大活躍し、長嶋は新人ながら「本塁打王」「打点王」の「二冠」を獲得した。

長嶋見たさに、後楽園球場は連日、超満員だったが、やはり皆の期待に応えるスーパースター、長嶋茂雄の面目躍如である。

ちなみに、打率は阪神タイガース田宮謙次郎に惜しくも及ばず「2位」であり、長嶋は惜しくも「三冠王」は逃したが、

「29本塁打」

というのも、実は、本当はもう1本、ホームランは多かったものの、

「一塁ベース踏み忘れ」

で、アウトになってしまい、ホームランが取り消しになってしまった…という事が有った。

もしも、そのホームラン取り消しが無ければ、

「30本塁打」

になっていた筈であり、新人ながら、

「3割、30本塁打、30盗塁のトリプルスリー」

を達成していた筈の所、それは「幻」に終わってしまう。

 

 

「一塁ベース踏み忘れで、ホームラン取り消しだって!?そいつは、シゲらしくて良いや!!」

そう言って、ゲラゲラ大笑いしていた男が居た。

それが、当時、映画界のスーパースターとなっていた、あの石原裕次郎である。

実は、長嶋と裕次郎は、とても仲が良く、2人は親交が深く、「親友同士」であった。

そして、運動神経抜群で、野球も大好きだった裕次郎は、大の巨人ファンでもあり、裕次郎は、しばしば球場に行っては、巨人と長嶋を応援していた。

ちなみに、石原裕次郎は1934(昭和9)年生まれで、当時24歳、長嶋茂雄が1936(昭和11)年生まれで、当時22歳であった。

 

 

 

また、この年(1958年)秋、当時、早稲田実業の3年生だった王貞治と、巨人でプロ1年目の終盤を迎えていた長嶋茂雄が初対面を果たしているが、

王貞治も、各球団の大争奪戦の末、長嶋よりも1年遅れで巨人に入団し、王も新人ながら、

「背番号『1』」

を背負う事となった。

王貞治は1940(昭和15)年生まれで、長嶋茂雄よりも4歳年下だが、王は高校時代は投手だったものの、巨人に入団後は打者に専念する事となった。

そして、長嶋と王が揃って大活躍するようになるのは、これから数年後の事である。

 

<1959(昭和34)年6月25日…史上初めて昭和天皇・香淳皇后が観戦した「巨人VS阪神」の「天覧試合」で、長嶋茂雄が劇的なサヨナラホームラン!!>

 

 

「あの光は、何か?」

1959(昭和34)年の、ある日の事。

皇居に居た昭和天皇は、側に居た侍従に、そう尋ねた。

夜の帳が落ちていた皇居から、少し離れた場所で、煌々と灯りが照らされている場所が有り、昭和天皇は、それを不思議に思っていた。

「陛下。あれは、後楽園球場のプロ野球のナイターの灯りでございます…」

侍従がそう答えたところ、昭和天皇は、

「ふーん。プロ野球か…。それは毎晩やっているのか?」

と、更に尋ねた。

「陛下。後楽園球場には、毎晩、多くの観客が集まっております…」

「そうか…」

侍従から話を聞いた昭和天皇は、この時、「プロ野球」に関心を持ったという。

「そんなに面白いのであれば、プロ野球という物を、私も一度、見てみたい」

昭和天皇は、側近に、そのような意思を表明した。

こうして、昭和天皇のたっての願いにより、

「昭和天皇のプロ野球観戦」

に向けて、関係者達が動き始めた。

 

 

 

その後、関係者達の尽力により、1959(昭和34)年6月25日、

遂に、昭和天皇・香淳皇后の両陛下が、後楽園球場を訪れ、

「巨人VS阪神」

の公式戦を観戦するという、プロ野球史上初の、

「天覧試合」

が実現した。

試合前、昭和天皇・香淳皇后の両陛下が後楽園球場に姿を現すと、超満員の後楽園球場の観客席からは、割れんばかりの大拍手と大歓声が起こり、この試合で対決する巨人阪神タイガースの選手達が整列し、貴賓席に着席する両陛下を「お出迎え」した。

 

 

 

 

 

さて、こうして遂に実現した、

「天覧試合」

は、まさに追いつ追われつの、白熱した好ゲームとなった。

 

3回表…阪神が小山正明のタイムリーで先制「巨人0-1阪神」

5回裏…巨人が長嶋茂雄・坂崎一彦の連続ホームランで逆転「巨人2-1阪神」

6回表…阪神が三宅秀史のタイムリー、藤本勝巳の2ランホームランで再逆転「巨人2-4阪神」

7回裏…巨人が王貞治の2ランホームランで同点に追い付く「巨人4-4阪神」

 

…というような経過を辿ったが、あまりにも白熱した展開に、後楽園球場の観客は熱狂し、

昭和天皇も、貴賓席から身を乗り出すようにして、試合を見入っていた。

そして、4-4の同点になった時点で、阪神は先発・小山正明を諦め、2番手として、この年(1959年)阪神に入団したばかりの新人・村山実をマウンドに送った。

 

 

こうして、試合は4-4の同点のまま、9回裏を迎えた。

この回の巨人の先頭打者は、4番・長嶋茂雄である。

しかし、実はこの時、時刻は午後9時10分を指していたが、昭和天皇・香淳皇后両陛下は、

「9時15分で退席」

するというスケジュールが決まっていた。

つまり、両陛下が試合を見られるのは、あと数分である。

「このまま延長戦になりそうだね…」

昭和天皇が呟いた瞬間、長嶋茂雄が、とんでもない「大仕事」をやってのけた。

 

 

 

 

何と何と、長嶋茂雄は、この場面で、ボールカウント「2-2」から、村山実が投じた5球目を叩き、

長嶋が、レフトスタンドのポール際へ、サヨナラホームランを放ったのである。

その結果、史上初の「天覧試合」は巨人が5-4で阪神にサヨナラ勝ちを収めた。

劇的な、あまりにも劇的な、

「長嶋茂雄の天覧試合のサヨナラホームラン」

は、こうして生まれたが、その瞬間、後楽園の大観衆は総立ちとなり、打たれた村山はガックリと膝に手を置き、項垂れていた…。

「長嶋は、何ていう勝負強い、物凄い男なんだ!!」

長嶋の劇的なサヨナラホームランに、後楽園は勿論、日本中が大熱狂したが、こうして、長嶋茂雄はプロ野球に入って2年目にして、早くも、

「伝説のスーパースター」

になってしまった。

なお、長嶋に打たれた村山は、終生、

「あれはファールだった」

と言い張っていたが、それは村山の意地であろう。

 

 

なお、普段、感情をあまり表に出さない昭和天皇は、この時も、声を発したり、拍手したりなどはせず、長嶋のホームランと、彼のベース一周を、ただじっと見つめていたそうであるが、後年、昭和天皇は、ある席で長嶋に「再会」した際に、

「あのホームランは、良かったね…」

という言葉を贈ったという。

流石の長嶋も、恐れ畏まり、その「御言葉」を聞いていたとの事である。

 

<1959(昭和34)年…石原裕次郎が親友・長嶋茂雄に贈った、『男の友情・背番号「3」』>

 

 

 

 

こうして、1959(昭和34)年、長嶋茂雄は、

「天覧ホームラン」

によって、「生きる伝説」となったが、そんな長嶋に対し、この年(1959年)、長嶋の親友・石原裕次郎が、

『男の友情・背番号「3」』

という曲を贈っている。

という事で、裕次郎から長嶋への敬愛の念が溢れる、その歌詞をご紹介させて頂こう。

 

『男の友情・背番号「3」』

作詞:大高ひさを

作曲:上原賢六

唄:石原裕次郎

 

背番号・3 いわずと知れた

男、長嶋 イカスじゃないか

打って走って つかんで投げて

茂(シゲ)よ、頑張れ かっ飛ばせ

晴れのペナント 飾るまで

 

背番号・3 くよくよするな

たまにゃスランプ ゴシップなんぞ

それも一発 場外ホーマー

茂(シゲ)よ、敗けるな この俺が

あとについてる 信じてる

 

背番号・3 伊達にはつけぬ

ホットコーナーは 男の見せ場

ピンチなりゃこそ にっこり笑い

茂(シゲ)よ、打ってけ 三冠王

秘めた誓いを 果たすまで

 

<スーパースター「ON砲」と、野球少年・桑田佳祐>

 

 

その後も、長嶋茂雄は毎年、ファンの期待に応えて、大活躍を続けていたが、

1962(昭和37)年、それまで、あまりパッとせず、伸び悩んでいた、入団4年目の王貞治が、荒川博コーチとの二人三脚の猛練習で、

「一本足打法」

を会得し、遂に王は打撃開眼した。

そして、王貞治・長嶋茂雄は、巨人のスーパースターの両輪として、

「ON砲」

を形成し、王と長嶋は、2人揃って打ちまくった。

そして、「ON砲」を中心とした、史上最強軍団・巨人は、1965(昭和40)~1973(昭和48)年まで、不滅の「V9」(9年連続日本一)という、空前の黄金時代を築き上げた。

 

 

当時のプロ野球というのは、毎日、巨人戦が日本全国にテレビ中継されていた。

そして、巨人戦のテレビ中継は大人気であり、そのため、「ON砲」は国民的なスーパースターとなっていた。

その頃、小・中学生だった桑田佳祐少年は、勿論、音楽も大好きな子供だったが、桑田は、

「野球少年」

でもあり、野球に明け暮れる日々を送っていた。

「王と長嶋、すげーな…」

その頃、日本中の子供達が思っていたのと同じように、桑田少年も、「ON砲」を憧れと羨望の眼差しで見ていたに違いない。

 

<1974(昭和49)年…長嶋茂雄の現役引退と、当時、青山学院大学の1年生だった桑田佳祐青年の心象風景が元になった『栄光の男』>

 

 

1974(昭和49)年、長嶋茂雄は、巨人に入団して17年目のシーズンを迎えていた。

これまで、日本中のファンの期待に応え、活躍し続けて来た長嶋茂雄にも、遂に体力の限界の時が訪れた。

そして、長嶋は、この年(1974年)限りでの「現役引退」を表明した。

1974(昭和49)年10月14日、後楽園球場で、

「巨人VS中日」

のダブルヘッダーが行われ、この試合が、長嶋茂雄の「引退試合」となった。

試合後、長嶋の引退セレモニーが行われ、長嶋は、後楽園球場の超満員のファンに向かい、

「私は今日、引退を致しますが、我が巨人軍は永久に不滅です!!」

という、あまりにも有名な「名言」を残し、そしてグラウンドを去って行った。

こうして、栄光に包まれた長嶋の現役生活に、遂にピリオドが打たれた。

 

 

そして、当時、長嶋の引退試合を、立ち食いソバ屋のテレビで見ていたのが、

当時、青山学院大学の1年生だった、桑田佳祐青年であった。

この時、桑田は、栄光に満ち満ちた長嶋の姿を見ると、我が身と比べて、

「光り輝く長嶋さんに比べると、俺の青春って、あんまりパッとしないなあ…。こんな筈じゃなかったのになあ…」

と、落ち込んでいたという。

そして、この時の桑田の心象風景が、後年、サザンの楽曲として結実したのが、

『栄光の男』

という曲である。

 

 

 

『栄光の男』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

ハンカチを振り振り
あの人が引退(さ)るのを
立ち喰いそば屋の
テレビが映してた


シラけた人生で
生まれて初めて
割箸を持つ手が震えてた

 

「永遠に不滅」と
彼は叫んだけど
信じたモノはみんな
メッキが剥がれてく

 

I will never cry.
この世に何を求めて生きている?
叶わない夢など
追いかけるほど野暮じゃない

 

悲しくて泣いたら
幸せが逃げて去っちまう
ひとり寂しい夜
涙こらえてネンネしな

 

ビルは天にそびえ
線路は地下を巡り
現代(いま)この時代(とき)こそ
「未来」と呼ぶのだろう


季節の流れに
俺は立ち眩み
浮かれたあの頃を思い出す

 

もう一度あの日に
帰りたいあの娘(こ)の
若草が萌えてる

艶(いろ)づいた水辺よ

 

生まれ変わってみても

栄光の男にゃなれない
鬼が行き交う世間
渡り切るのが精一杯

 

老いてゆく肉体(からだ)は
愛も知らずに満足かい?
喜びを誰かと
分かち合うのが人生さ

 

優しさをありがとう
キミに惚れちゃったよ
立場があるから
口に出せないけど
居酒屋の小部屋で
酔ったフリしてさ
足が触れたのは故意(わざ)とだよ

 

満月が都会の
ビルの谷間から
「このオッチョコチョイ」と
俺を睨んでいた

 

I will never cry.
この世は弱い者には冷たいね
終わりなき旅路よ
明日天気にしておくれ

 

恋人に出逢えたら
陽の当たる場所へ連れ出そう
命預けるように
可愛いあの娘とネンネしな

 

 

…という事であるが、

『栄光の男』

という曲は、長嶋引退から40年後、2014(平成26)年、サザンオールスターズの、

『東京VICTORY』

のカップリング曲として、発表された。

「栄光の男」とは、勿論、長嶋茂雄がモデルではあるが、

「神に選ばれたような、栄光の男みたいな存在には、誰もがなれるわけじゃない。栄光には程遠い人生かもしれない。それでも、人生を精一杯、生きて行こうよ…」

と、桑田(サザン)が世の中の皆に向かって、エールを送ってくれているような曲であり、しみじみとした味わいが有る。

「長嶋引退」

をモチーフとして、このような素晴らしい曲を書いた桑田佳祐は、本当に素晴らしいアーティストである。

 

<1978(昭和53)年6月25日…サザンオールスターズ、『勝手にシンドバッド』で、デビュー>

 

 

前述の通り、1974(昭和49)年、青山学院大学の1年生だった桑田佳祐青年は、ちょっと寂しい青春時代を送っていた。

だが、翌1975(昭和50)年、日本の音楽史上に残る、

「運命の出逢い」

が有った。

この年(1975年)、桑田佳祐の1学年下として、フェリス女学院高校出身の原由子が、青山学院大学に入学すると、桑田と原は、青山学院の音楽サークル、

「ベターデイズ」

で、遂に出逢ったのである。

同じエリック・クラプトン好きとして意気投合した桑田佳祐・原由子は、やがて一緒にバンド活動をする事となり、そして2人は「恋人同士」となった。

 

 

その後、1977(昭和52)年までに、紆余曲折を経て、

桑田佳祐・原由子・大森隆志・松田弘・関口和之・野沢秀行…

という6人のメンバーが集い、

「サザンオールスターズ」

というバンドが結成された。

そして、アマチュア・バンドの大会で好成績を収めたサザンは、

あの「天覧試合」から19年後の1978(昭和53)年6月25日、

『勝手にシンドバッド』

という曲をリリースし、遂にサザンはプロ・デビューする事となった…。

という事で、

『勝手にシンドバッド』

の歌詞をご紹介させて頂き、この記事の締めくくりとさせて頂くが、最後に、私が敬愛するサザンに、この言葉を贈らせて頂きたい。

 

サザンオールスターズの皆さん、デビュー45周年、おめでとうございます!!!!

 

 

 

『勝手にシンドバッド』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

砂まじりの茅ヶ崎 人も波も消えて

夏の日の思い出は ちょいと瞳の中に消えたほどに

 

それにしても涙が 止まらないどうしよう

うぶな女みたいに ちょっと今夜は熱く胸焦がす

 

※さっきまで俺ひとり あんた思い出してた時

シャイなハートにルージュの色が ただ浮かぶ

好きにならずにいられない

お目にかかれて※

 

※※今 何時? そうね だいたいね

今 何時? ちょっと待ってて

今何時? まだ早い

不思議なものね あんたを見れば

胸さわぎの腰つき…※※

 

いつになれば湘南 恋人に逢えるの

おたがいに身を寄せて いっちまうような瞳からませて

 

江の島が見えてきた 俺の家も近い

行きずりの女なんて 夢を見るように忘れてしまう

 

※くりかえし

※※くりかえし

 

心なしか今夜 波の音がしたわ 男心誘う

胸さわぎの腰つき…