「テレビ」の歴史を通して、その時代を読み解く「テレビ史」シリーズ、今回は、
「『歌番組』の歴史」
について書いているが、前回、前々回と、テレビの黎明期からの「歌番組」の歴史を振り返って来た。
そして、今回は、
「『歌番組』と『バラエティー番組』共存の時代」
のお話である。
1970年代は、
「アイドル歌手」
が生まれ、大人気となった時代だが、そんな「アイドル歌手」達は、歌番組と共に、様々なバラエティー番組にも出演していた。
という事で、
「『歌番組』と『バラエティー番組』の共存時代」
を、ご覧頂こう。
<1974(昭和49)年3月…人気絶頂のドリフ、荒井注が脱退し、志村けんが「見習い」として加入>
TBSの「土曜8時」から放送されていた、TBSの番組、
「8時だヨ!全員集合」
は、当時、凄まじい人気を誇っており、1973(昭和48)年4月7日の放送では、
「視聴率50.5%」
という、凄まじい高視聴率を記録した。
この番組を通して、ザ・ドリフターズの人気は沸騰したが、そんな人気絶頂のドリフにあって、その頃、ドリフのメンバーの1人、荒井注が「脱退」を表明した。
ドリフのリーダー、いかりや長介は、懸命に引き留めたが、荒井注の意思は固かった。
その頃、志村けんという青年が、「お笑い」を志し、いかりや長介の自宅に押し掛け、半ば無理矢理、志村はドリフの「付き人」となっていた。
そして、前述の通り、荒井注がドリフから「脱退」するに際して、いかりや長介は志村けんを「見習い」として、ドリフのメンバーに入れる事を決断した。
志村けんは、加藤茶の家に居候し、加藤茶が志村けんの面倒を見る事となり、志村は先輩の加藤から「お笑い」について学ぶようになった。
1974(昭和49)年3月、荒井注がドリフを「脱退」し、
志村けんが、ドリフに「見習い」の新メンバーとして加入する事となった。
志村けんは当時24歳だったが、
1974(昭和49)年3月30日放送の、
「8時だヨ!全員集合」
で、いかりや長介が、
「今日から、志村けんがドリフの新メンバーとして加入します」
と紹介しても、客席は静まり返っていた。
そして、志村はドリフ加入後、暫くの間はあまり人気も出ず、停滞していた。
志村が「ブレイク」するのは、もう少し後の事である。
<NHK「レッツゴーヤング」(1974~1986)~1974(昭和49)年4月に放送開始された、NHKの「アイドル歌謡番組」>
さて、前述の通り、1974(昭和49)年3月に志村けんがドリフに加入した直後、
1974(昭和49)年4月、NHKで放送開始された歌番組が、
「レッツゴーヤング」
である。
1970年代中盤は、男女共に、
「アイドル歌手」
が台頭して来ており、若者達に大人気となっていたが、そんな若者達の需要に応えようと、NHKが作った「アイドル歌謡番組」こそ、
「レッツゴーヤング」
だった。
そして、この番組の初代司会者は鈴木ヒロミツで、番組放送開始当時は、フォーリーブスがレギュラー出演し、野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹という、
「新御三家」
も、「レッツゴーヤング」には多数出演し、会場のNHKホールに詰め掛けていた若い女の子達から黄色い声援を浴びていた。
こうして、テレビ界もアイドル人気を盛り上げ、より一層、芸能界・音楽界は華やかさを増して行った。
<華やかさを増した「年末の賞レース」~1974(昭和49)年の「日本歌謡大賞」(視聴率45.3%)、「日本レコード大賞」(視聴率45.7%)は凄まじい大人気に>
1974(昭和49)年といえば、
「年末の賞レース」
が空前の盛り上がりを見せた年でもあったが、
この年(1974年)、テレビ朝日で放送された、
「第5回日本歌謡大賞」
は、視聴率45.3%を記録し、
TBSで大晦日に放送された、
「第16回日本レコード大賞」
は、視聴率45.7%を記録していた。
いずれも、今では考えられないぐらいの凄まじい数字だが、当時は、それだけ「年末の賞レース」は「国民的行事」と言って良かった。
なお、森進一が歌った、この年(1974年)の大ヒット曲、
『襟裳岬』
が、「日本歌謡大賞」「日本レコード大賞」の「二冠」を獲得している。
また、この年(1974年)の「日本歌謡大賞」の司会を務めたのは、黒柳徹子であった。
<1974(昭和49)年12月31日…「第25回NHK紅白歌合戦」~「新御三家」(野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹)と「花の中3トリオ」(森昌子・桜田淳子・山口百恵)が初めて揃い踏み~「視聴率74.8%」を記録>
1974(昭和49)年12月31日、
「第25回NHK紅白歌合戦」
が放送されたが、この時の「紅白」では、
男性アイドル歌手の「新御三家」(野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹)と、
女性アイドル歌手の「花の中3トリオ」(森昌子・桜田淳子・山口百恵)が、
始めて「揃い踏み」した、記念碑的な「紅白」となったが、
「視聴率74.8%」
を記録し、相変わらず、「紅白」の絶対王者ぶりは健在であった。
そして、「アイドル」は、歌番組にとっては欠かせない存在となっており、「紅白」でも「アイドル歌手」が重要な位置を占めていた事がわかる。
勿論、「アイドル」以外の歌謡界の大御所達の健在であり、当時の日本の音楽界は、多種多様で本当に面白い時代だった…と言って良い。
<「8時だヨ!全員集合」にレギュラー出演し、人気者になって行った「キャンディーズ」>
さて、前述の通り、1974(昭和49)年3月以降、荒井注が脱退し、志村けんが加入した、ザ・ドリフターズは、
いかりや長介・高木ブー・仲本工事・加藤茶・志村けん…
というメンバー構成となっていたが、そのドリフが出演する、
「8時だヨ!全員集合」
は、相変わらず凄まじい大人気番組だった。
そして、この番組には、様々なアイドルもゲスト出演していたが、そんな中、「キャンディーズ」は、まだレコードデビューする前から、この番組にレギュラー出演していた。
そして、「キャンディーズ」はドリフと共に、身体を張ったコントを披露し、「お笑い」のセンスを開花させると共に、お茶の間の人気を得て行く事となった。
そして、
「8時だヨ!全員集合」
と言えば、コントだけではなく、出演する歌手が生演奏で歌を披露するコーナーが有り、
バラエティー番組だけではなく、「歌番組」としての側面も有った。
「キャンディーズ」にとって、「全員集合」は貴重なホーム・グラウンドであり、この番組で度々、生歌を披露していたが、1975(昭和50)年、「キャンディーズ」は、
『年下の男の子』
を大ヒットさせ、遂に大ブレイクを果たす。
それは、「キャンディーズ」が地道に歌手活動を続けると共に、「全員集合」に出演し、お茶の間にアピールしていた効果も大きかったのではないかと思われる。
何しろ、「全員集合」と言えば、超人気番組だったので、この番組に出るという事は、それだけ、視聴者に顔と名前を覚えてもらいやすかった…というのは、間違いない。
<日本テレビ「カックラキン大放送!!」(1975~1986)~「新御三家」が出演し、大人気となったバラエティー番組>
これまで述べて来た通り、TBSの「土曜8時」は、
「8時だヨ!全員集合」
が、超人気番組として君臨していたが、それに対抗するように、日本テレビも、1975(昭和50)年4月4日から、
「カックラキン大放送!!」
というバラエティー番組を、「金曜7時半(19時半)」の枠で放送開始した。
この番組は、坂上二郎・研ナオコ・野口五郎…という3人をメインに据えて、
「新御三家」(野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹)が度々共演したり、沢田研二など、当時の超人気歌手もゲスト出演したりしていたが、出演者達が、コントを披露していたりしていたが、野口五郎は、とぼけたキャラクター(?)を披露し、この番組を通して、大人気となった。
そして、野口五郎が出られない間は、堺正章が司会を務めたりと、とにかく多彩なメンバー達が、毎回、楽しく番組を作り上げたが、
「新御三家と言えば、カックラキン大放送」
という印象を持った人も多かったと思われる。
とにかく、当時はアイドル歌手と言えば、歌番組やバラエティー番組に積極的に出演し、その番組を通して、お茶の間に広く親しまれて行く…というのが「常道」だった。
<バラエティーの王者「欽ちゃん」(萩本欽一)~フジテレビ「欽ドン!」シリーズ(1975~1985)、テレビ朝日「欽どこ」(1976~1986)で全盛時代を築く>
さて、前述の通り、日本テレビで放送されたバラエティー番組である、
「カックラキン大放送!!」
で、「新御三家」と一緒にメインMCを務めていた坂上二郎と共に、
「コント55号」
というお笑いコンビを組み、大人気となっていたのが、萩本欽一であるが、1970年代、萩本欽一は「ソロ」として冠番組を持ち、大人気となって行った。
1972(昭和47)~1979(昭和47)年にかけて、萩本欽一は、ニッポン放送で、
「欽ちゃんのドンといってみよう!」
というラジオ番組のパーソナリティーを務め、人気を博していたが、やがて、
「欽ドン!」
は、ニッポン放送と同系列であるフジテレビにも進出し、更なる人気を得る事となった。
1975(昭和50)年4月5日、フジテレビの新番組として、
「欽ちゃんのドンとやってみよう!」
が放送開始されたが、この番組で、萩本欽一・前川清が、
「コント54号」
なる新コンビ(?)を結成するなど、この番組に出演した歌手は、新たな魅力を「欽ちゃん」によって引き出されて行った。
そして、山口百恵・桜田淳子なども、
「欽ドン!」
に出演したが、元々、「欽ちゃん」は「スター誕生!」の司会も努めており、彼女達とは昔からの顔馴染みであった。
そして、「欽ちゃん」こと萩本欽一率いる、
「欽ちゃんファミリー」
は大人気となって行き、
「欽ドン!」
はフジテレビでシリーズ化され、
・「欽ちゃんのドンとやってみよう!」(1975.4~1980.3)
・「欽ドン!良い子悪い子普通の子」(1981.4~1983.9)
・「欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子」(1983.9~1985.5)
…と、10年以上にわたって放送されたが、
1981(昭和56)年には、「欽ドン!」に出演していた、
「フツオ」(普通の子)長江健司・「ヨシオ」(良い子)山口良一・「ワルオ」(悪い子)西山浩司…から成る、
「イモ欽トリオ」
なる3人組ユニットが、
『ハイスクールララバイ』
という曲を大ヒットさせている。
このように、「欽ドン!」は、
「バラエティー番組発の大ヒット曲」
が生まれる先駆けとなった。
「欽ちゃん」こと萩本欽一と、「欽ちゃん」率いる、
「欽ちゃんファミリー」
の快進撃は、まだまだ続いた。
前述の通り、フジテレビで放送されていた、
「欽ドン!」
シリーズが大人気となっていたが、それと同時期に、テレビ朝日でも、
「欽ちゃんのどこまでやるの!」
という番組が放送開始され、これまた大人気となって行った。
「欽どこ」
という愛称で親しまれた、この番組では、「欽ちゃん」こと萩本欽一と、真屋順子が夫婦役を演じ、その夫婦がコタツに入りながら、個性豊かな「家族」達と共に、ほのぼのとした雰囲気で、ゆるゆると(?)番組は進行して行った。
「欽どこ」
は、前述の通り、萩本欽一・真屋順子の「夫婦」がコタツに入り、「一家団欒」を楽しむような雰囲気の番組だったが、
この番組には、山口百恵や、かつては本物の(?)夫婦だった前川清・藤圭子など、毎回、様々なゲストも登場し、視聴者を楽しませていた。
そういった、ノンビリとした、ほのぼのとした雰囲気を、当時の視聴者も、まるで一緒にコタツに入りながらというような気持ちで、見ていたものである。
「欽どこ」
と言えば、そのように視聴者と非常に距離が近い(※と思わせるような)番組であった。
また、「欽どこ」からも、「番組発のヒット曲」が生まれたが、
まずは1978(昭和53)年、萩本欽一・真屋順子の「夫婦」によって、
『妻は夫をいたわりつ』
というデュエット曲がリリースされた。
2人は、まるで本物の「夫婦」のような、息の合ったデュエットを披露していたが、
「欽どこ」
は、更なる大ヒット曲を生み出すに至った。
「欽どこ」
に出演していた、のぞみ(高部知子)・かなえ(倉沢淳美)・たまえ(高橋真美)…という3人組は、
「わらべ」
というユニットを結成し、1982(昭和57)年に、
『めだかの兄妹』
という曲をリリースすると、この曲は大ヒットを記録し、
翌1983(昭和58)年にも、
『もしも明日が…』
をリリースし、これまた大ヒットさせた。
そして、
「わらべ」
と共に、「欽どこ」に出演していた見栄晴や、「クロ子」こと関根勤、「グレ子」こと小堺一機もバックダンサー(?)として一緒に歌い、これが大ウケした。
このように、当時は「欽ちゃんファミリー」が飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
そして、ご覧の通り、「欽ちゃん」はほぼ毎日、何処かのテレビ局でレギュラー番組を持ち、
全ての番組の視聴率を合わせると「100%」を超えるまでになり、「欽ちゃん」は、
「視聴率100%男」
の異名を取った。
まさに、テレビ界において「欽ちゃん」は天下を取ってしまったが、
こういう人は、今の時代ではもう現れないと思われる。
そして、前述の通り、「欽ちゃん」と言えば、
「欽ちゃんファミリー」
を育て上げた功績は非常に大きかった。
<TBS「クイズダービー」(1976~1992)~大橋巨泉が司会を務めた「競馬型」の異色のクイズ番組>
さて、「欽ちゃん」の事を語っている内に、少し時代が先に進み過ぎてしまった(?)ので、時計の針を少し戻し、
今度は、1976(昭和51)年1月3日に、TBSで放送された、
「クイズダービー」
について、ご紹介させて頂く。
「クイズダービー」
は、大橋巨泉が司会を務めていたクイズ番組だが、「競馬」が大好きだった巨泉は、自らの趣味である「競馬」の要素をクイズ番組に適用させ、
「クイズの回答者を競馬の出走馬に見立て、その回答者に『倍率』を付け、クイズに『正解』すると思われる回答者に対し、出場者が賭け金を賭ける」
という形式の、実に画期的な番組だった。
従って、視聴者としては、
「誰がクイズに正解するか!?」
という事と同時に、
「どの回答者に賭ければ良いか」
を、同時にあれこれ考える…という事も楽しむ事が出来た。
そして、「倍率」は問題によって異なり、司会者の大橋巨泉が、
「倍率ドン!!」
と言うと、回答者が座る席の前で「倍率」が表示される。
これは、巨泉が事前に決めており、
「この問題なら、この回答者が正解する確率が高そうだ」
と、巨泉が判断すれば、倍率は低く、その逆であれば、倍率は高くなっている。
「正解してくれそうな回答者に手堅く賭けるか、或いは、大穴狙いで、倍率が高い回答者に賭けるか…」
という事も、出場者は判断しなければならない。
そうやって、最終的に「得点」を競って行く…という、実に良く出来た仕組みの番組であった。
…という事で、「欽ちゃん」が天下を取る一方、大橋巨泉も、
「クイズダービー」
を通して、超人気司会者としての地位を確立して行った。
<1976(昭和51)年…志村けんが「東村山音頭」で遂に「大ブレイク」~「8時だヨ!全員集合」で、志村がご当地ソング『東村山音頭』を披露し、大ウケ>
さて、ドリフに加入後、暫くの間は人気が低迷していた志村けんが、遂に「大ブレイク」を果たす。
大橋巨泉が司会を務めた、
「クイズダービー」
が放送開始されたのと同じ年、1976(昭和51)年に、志村けんは、自らの地元、東京都東村山市の「ご当地ソング」である、
『東村山音頭』
を、「8時だヨ!全員集合」で歌い始めると、これが「大ウケ」し、一躍、志村けんは大人気となったのである。
ドリフ加入当初、恐らく、元々はシャイな志村は、何処か「照れ」が有ったものと思われるが、志村は、そういった「照れ」をかなぐり捨て、
『東村山音頭』
を、思いっきり、はっちゃけて歌ったところ、これが大ウケした…というわけである。
そして、これをキッカケとして、志村けんは人気コメディアンとしての地位を確立して行った。
やはり、舞台に立つからには、思い切りが良くなければならない…という事であろうか。
<1976(昭和51)年2月2日…テレビ朝日「徹子の部屋」放送開始~第1回のゲストは森繁久彌~番組放送開始当時は、ラビット関根(関根勤)のクイズコーナーも…>
さて、1976(昭和51)年といえば、この年(1976年)2月2日、テレビ朝日で、黒柳徹子が司会を務めるトーク番組、
「徹子の部屋」
が放送開始された。
番組の名前の通り、黒柳徹子の部屋に、毎回、様々なゲストが登場し、徹子とお喋りをする…という番組であるが、
「徹子の部屋」
の第1回のゲストとして登場したのは、徹子とは昔からの顔馴染みで、徹子が尊敬する名優・森繁久彌であった。
そして、「徹子の部屋」の初期の頃は、当時、日大に在学中の学生だったラビット関根(関根勤)のクイズコーナーも有ったが、このコーナーは程なくして消滅(?)してしまった。
そして「徹子の部屋」は、今年(2024年)で放送開始48周年を迎えた、超長寿番組として、今日もなお続いているというのが、本当に凄い。
<テレビ朝日「見ごろ!食べごろ!笑いごろ」(1976~1978)~「キャンディーズ」がレギュラー出演した、伝説のバラエティー番組>
1976(昭和51)年10月11日、テレビ朝日で、
「見ごろ!食べごろ!笑いごろ!」
というバラエティー番組が放送開始されたが、この番組には、「キャンディーズ」がレギュラー出演していた。
そして、「キャンディーズ」は、「全員集合」で鍛えられた(?)「バラエティー力」を存分に発揮した。
「見ごろ!食べごろ!笑いごろ!」
は、「キャンディーズ」と、伊東四朗・小松政夫というコメディアンが共演したが、とにかく「キャンディーズ」には「お笑い」のセンスが有り、決して彼らにも引けを取らなかった。
「見ごろ!食べごろ!笑いごろ!」
と言えば、視聴者に強烈なインパクトを与えたのは、
「電線音頭」
であろう。
番組中、「ベンジャミン伊東」を名乗る伊東四朗が、突如、物凄く派手な衣装で登場し、
「人の迷惑顧みず、やって来ました、電線軍団!!」
と言うと、鉦や太鼓の音頭に合わせ、
「電線音頭」
を披露する。
「電線に スズメが三羽止まってた それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ ヨイヨイヨイヨイ おっとっとっと…」
…というような調子で、ベンジャミン伊東(伊東四朗)がコタツの上に飛び乗り、拍子に合わせて踊る。
なお、ベンジャミン伊東(伊東四朗)は、
「こういうのは、恥ずかしがってはダメ」
と、後に語っており、とにかく、恥も外聞もかなぐり捨て(?)、ひたすら振り切って踊っていたが、それは前述の志村けんの『東村山音頭』と通じるものが有るのではないだろうか。
それはともかく、その後、ベンジャミン伊東(伊東四朗)は、「キャンディーズ」のメンバーにも「電線音頭」を躍らせる。
すると、ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)…の「キャンディーズ」の面々も、実に器用に「電線音頭」を踊って見せるのである。
流石は、彼女達のリズム感は抜群だったが、このように、「キャンディーズ」と言えば、全くお高く止まっておらず、実に親しみやすいキャラクターなのが特徴であった。
前回の記事で書いた通り、そんな「キャンディーズ」が、1977(昭和52)年、突如「解散宣言」をしてしまったのだから、その衝撃は本当に大きかった。
そんな「キャンディーズ」の解散を巡る話については、次回改めて…という事にさせて頂く。
<1976(昭和51)年4月~「夜ヒット」の司会者が井上順・芳村真理のコンビに定着>
さて、1973(昭和48)年に、前田武彦が、
「共産党バンザイ事件」
を引き起こし、
「夜のヒットスタジオ」
の司会を降板に追い込まれた後、暫くは三波伸介・芳村真理のコンビで司会を務めた後、
1976(昭和51)年4月~、井上順が新たに司会を務める事となり、以後、井上順・芳村真理のコンビが、
「夜ヒット」
の司会を務める事となり、このコンビの司会は1985(昭和60)年まで続いた。
今日、「夜ヒット」といえば、この司会のコンビの期間が印象に残っている人が多いのではないだろうか。
井上順と芳村真理と言えば、おっとりとした雰囲気であり、それが、「夜ヒット」の番組にはとてもよく合っていた。
また、芳村真理は、毎回、華やかな衣装で登場し、それもまた視聴者の楽しみの一つでもあった。
<テレビ東京「ヤンヤン歌うスタジオ」(1977~1987)~遂にテレ東でもアイドル中心の歌番組が放送開始>
今回の記事で書いて来た通り、当時は歌番組もバラエティー番組も、もはや「アイドル」無しでは成立しなくなっていたが、
1977(昭和52)年9月25日、テレビ東京で、
「ヤンヤン歌うスタジオ」
という歌番組が放送開始された。
この番組の司会者は、京産大出身の2人組、「あのねのね」(清水国明・原田伸郎)だったが、
「ヤンヤン歌うスタジオ」
も、やはりアイドル中心の歌番組であった。
こうして、1977(昭和52)年秋の時点で、
・「レッツゴーヤング」(NHK)
・「NTV紅白歌のベストテン」(日本テレビ)
・「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ)
・「ヤンヤン歌うスタジオ」(テレビ東京)
…という歌番組が放送されていたが、この時点で、TBSには、これと言った歌番組は無かった。
そんなTBSが、「あの番組」を放送開始するのは、この翌年の事である。
(つづく)