【テレビ史】テレビ「歌番組」の歴史②(1970~1977)~権威に反逆する者達~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

「テレビ」の歴史を通し、その時代を読み解く「テレビ史」シリーズ…今回は、

「『歌番組』の歴史」

について描いているが、前回の記事では、1953(昭和28)年のテレビ放送開始から、1969(昭和44)年に至るまでの「歌番組」の歴史について、ざっと振り返ってみた。

今回は、その「続編」であるが、今回のテーマは、

「権威に反逆する者達」

である。

 

 

では、その「権威」とは何か…。

それは、当時、隆盛を誇っていた「ナベプロ帝国」であり、「NHK紅白歌合戦」など、まさに当時の日本の芸能界・音楽界を取り仕切っていた、中心的存在である。

今回は、そんな「権威」に「反逆」する者達の物語を描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<1970(昭和45)年12月31日…「第21回NHK紅白歌合戦」で、「女王」美空ひばりが、「紅白」史上初の「紅組司会&大トリ」の快挙を達成したが…?>

 

 

 

 

1970(昭和45)年12月31日、

「第21回NHK紅白歌合戦」

が放送されたが、この時、通算15回目の「紅白」出場を果たしていた、「女王」美空ひばりが、「紅白」史上初めて、

「紅組司会&大トリ」

という大役を務めた。

美空ひばりは、当時33歳だったが、ひばりは紛れもなく「歌謡界の女王」として君臨しており、そんな彼女が、名実共に歌謡界の頂点に立った…と言って良い。

この時の「紅白」の視聴率は、何と、

「77%」

という物凄い数字だったが、それだけ、当時の「紅白」は国民的な大イベントであった。

そんな「国民的行事」だった「紅白」で、美空ひばりは文句無しの「女王」ぶりを見せ付けた。

まさに、ひばりは「天下のNHK」から「お墨付き」を貰ったようなものだった。

だが、頂点に立った…という事は、あとは下って行くしかないという言い方も出来る。

この後、間もなく美空ひばり「逆境」に立たされる事となるのである。

 

<「NTV紅白歌のベストテン」(1969~1981)~NHKの「紅白」に対抗して作られた、日本テレビ系列の歌番組>

 

 

 

 

さて、前述の通り、当時の日本の芸能界・音楽界において、

「NHK紅白歌合戦」

というのは、まさしく、他を圧倒するような、絶対的な存在だった。

当時のテレビ界では、「紅白」と言えば、

「権威」

の象徴であった。

しかし、そのような圧倒的な「権威」が存在すると、今度は、それに抵抗する者達が現れて来る…それが、歴史の法則というものである。

そして、民放の日本テレビで、1969(昭和44)年10月6日、

「NTV紅白歌のベストテン」

という歌番組が放送開始された。

この番組のコンセプトは、ズバリ、

「NHKの『紅白』は、年に一度、大晦日に放送されるが、日本テレビでも、そんな『紅白』を毎週放送してしまおう」

という物である。

「NTV紅白歌のベストテン」

は、本家の「紅白」と同様、毎回、出演歌手が紅組と白組に分かれ、

「紅白対抗戦」

を行なうという形式で行われたが、日本テレビは公然と、「紅白」という「権威」に叛旗を翻した…という見方も出来よう。

なお、この番組は、原則として、毎週、

「月曜8時(20時)」

に公開生放送で行われ、白組司会は堺正章が1969(昭和44)年の番組放送開始から、1981(昭和56)年の番組放送終了まで、ずっと務めていたが、紅組の司会者は、初代の水前寺清子を皮切りに、度々、代替わりしている。

しかし、

「NTV紅白歌のベストテン」

は、当初、出演歌手集めに、かなり苦労しており、同じ歌手が何曲も歌う事も度々あった。

しかし、後述する、ある「大事件」を契機として、この番組は大きく飛躍する事なるのである。

 

<ドリフの台頭~「8時だヨ!全員集合」放送開始(1969)と、『ドリフのズンドコ節』(1969)の大ヒット~1970(昭和45)年の「レコ大」でドリフは「大衆賞」を受賞>

 

 

 

前回の記事でも書いたが、当時、台頭著しかったのが、

「ザ・ドリフターズ」

である。

1969(昭和44)年10月4日、そのドリフが毎週、公開生放送でコントに挑戦する、

「8時だヨ!全員集合」

が、TBSで放送開始されたが、この番組により、ドリフの人気は沸騰した。

そして、当時のドリフのメンバーは、いかりや長介・荒井注・高木ブー・仲本工事・加藤茶…という面々だった。

 

 

 

 

 

そして、この年(1969年)、ザ・ドリフターズは、

『ドリフのズンドコ節』

という曲をリリースしたが、この曲は150万枚超という大ヒットを記録している。

そして、1970(昭和45)年の、

「第12回日本レコード大賞」

で、『ドリフのズンドコ節』を歌ったドリフは「大衆賞」を受賞している。

そして、前年(1969年)初めて、大晦日にTBSで生放送された「レコ大」は、「視聴率30.9%」を記録していたが、

この年(1970年)の「レコ大」は、「視聴率36.7%」と、更に数字を上げている。

まさに、「レコ大」「紅白」と並ぶぐらいの、

「国民的大イベント」

へと急成長を遂げた。

なお、「レコ大」創設当初からTBSと関係が深く、TBSは「レコ大」を独占生放送していた。

だが、「権威化」した「レコ大」に、他の民放各局も抵抗の構えを見せ、

「非TBS」

の民放各局が結束し、新たな「音楽賞」を創設する事となった。

それが、1970(昭和45)年から始まった、

「日本歌謡大賞」

である。

 

<1970(昭和45)年…「日本歌謡大賞」創設~毎年11月に開催され、「非TBS」の民放各局が毎年「持ち回り」で放送>

 

 

 

 

前述の通り、

「日本レコード大賞」

は、毎年、大晦日にTBSで独占生放送されるようになり、毎回、驚異的な高視聴率を獲得するようになって行った。

だが、

「TBSの好きなようにさせてなるものか」

と、TBS以外の民放各局…即ち、日本テレビ、フジテレビ、NET(日本教育テレビ⇒現・テレビ朝日)、東京12チャンネル(現・テレビ東京)…という、

「非TBS陣営の民放各局」

が結束し、1970(昭和45)年に、「レコ大」に対抗した新たな音楽賞である、

「日本歌謡大賞」

を創設した。

1970(昭和45)年11月9日、

「第1回日本歌謡大賞」

の授賞式が行われたが、この時は、テレビ放送はされなかった。

ちなみに、この時、「第1回日本歌謡大賞」を受賞したのは、藤圭子の大ヒット曲、

『圭子の夢は夜ひらく』

であった。

そして、ドリフも、この時の授賞式では、

『ドリフのズンドコ節』

を披露している。

 

 

こうして、1970(昭和45)年にヒッソリと(?)始まった、

「日本歌謡大賞」

であるが、翌1971(昭和46)年からは、前述の「非TBSの民放各局」で、毎年11月に、「持ち回り」で生放送される事となった。

という事で、1971(昭和46)~1977(昭和52)年までの、

「日本歌謡大賞」

の放送局は、下記の通りである。

 

【『日本歌謡大賞』放送局(1971~1977)】

・第2回(1971/11/11)…東京12チャンネル

・第3回(1972/11/16)…フジテレビ

・第4回(1973/11/20)…日本テレビ

・第5回(1974/11/26)…NETテレビ

・第6回(1975/11/24)…東京12チャンネル

・第7回(1976/11/16)…フジテレビ

・第8回(1977/11/17)…日本テレビ

 

 

…という事であるが、

1973(昭和48)年、TBSで放送された「第15回日本レコード大賞」が、「視聴率44.1%」を記録したのに対し、

同年(1973年)、日本テレビで放送された「第4回日本歌謡大賞」は「視聴率47.4%」を記録している。

いずれも、凄まじい高視聴率であるが、

「日本歌謡大賞VS日本レコード大賞」

という構図により、

「年末の賞レース」

という華やかな文化が定着し、NHKの「紅白」と共に、当時の日本人の多くの関心事となり、まさしく、

「国民的行事」

となって行った。

ここに、テレビと芸能界・音楽界が一体化した、

「歌謡曲黄金時代」

が到来したと言って良い。

 

<NHK「歌のグランド・ショー」⇒「歌謡グランド・ショー」(1964~1977)と、「キャンディーズ」の登場>

 

 

さて、「紅白」という、自他共に認める、

「歌番組の王様」

を擁していたNHKは、1964(昭和39)~1977(昭和52)年にかけて、

「歌のグランド・ショー」(※後に「歌謡グランド・ショー」)

という歌番組を放送していた。

演歌やポップスなど、幅広いジャンルの歌手が出演する歌番組だったが、

この番組は、日本の芸能史に多大な貢献をしている。

それは何かと言えば、

「キャンディーズ」

を生み出した番組…とう事である。

 

 

 

 

1972(昭和47)年10月、当時、「ナベプロ」に所属し、

「スクール・メイツ」

のメンバーだった、ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)の3人組は、

「歌謡グランド・ショー」

のアシスタントに抜擢され、この番組のプロデューサーから、

「キャンディーズ」

と命名された。

当時、まだデビュー前ではあったが、これが、後のスーパーアイドルグループ、

「キャンディーズ」

の活動の第一歩である。

なお、「キャンディーズ」は翌1973(昭和48)年に、

『あなたに夢中』

で、レコード・デビューを果たし、1975(昭和50)年、

『年下の男の子』

の大ヒットにより、大ブレイクを果たした。

ちなみに、このブログでは、「キャンディーズ」の大活躍の足跡については、既に何度も繰り返し述べているので、ここでは「割愛」する。

 

<日本テレビ「スター誕生!」(1971~1983)~日本テレビが「ナベプロ帝国」に挑戦状!?~「花の中3トリオ」(森昌子・桜田淳子・山口百恵)、ピンク・レディー、岩崎宏美、中森明菜etc…数々の「スター」を輩出>

 

 

さて、1960年代のテレビ黎明期から、1970年代初頭にかけて、数多くのスターを擁していた、

「ナベプロ(※渡辺プロダクション)」

が、日本の芸能界・音楽界を牛耳っており、

「ナベプロ帝国」

を形成していた…という事は、既に前回の記事で述べた。

しかし、そんな「ナベプロ頼み」を脱却しようと、1971(昭和46)年10月、作詞家の阿久悠らが「仕掛け人」となり、日本テレビで、新たなオーディション番組である、

「スター誕生!」

が放送開始された。

この番組は、日本全国から、「素人」の少年少女達をオーディションで募り、新たな「スター」を誕生させよう…というコンセプトの物だった。

そして、明日の「スター」を夢見て、全国から応募が殺到する事となった。

 

 

 

そして、

「スター誕生!」

の番組開始初期の1971(昭和46)~1972(昭和47)年にかけて、森昌子・桜田淳子・山口百恵…という、

「花の中3トリオ」

が、歴史の表舞台に登場し、彼女達の大活躍によって、更にオーディションには多くの少年少女達が集まるようになった。

中でも、後に山口百恵は、日本の芸能史上に残るスーパースターに「大化け」した…という物語も、

「お前は、どれだけ百恵の事が好きなのか」

と、ツッコミを入れられそうなぐらい(?)、このブログでは何度も書いて来たので、ここでは「省略」させて頂く。

 

 

 

1975(昭和50)年、当時、静岡県の高校3年生だった2人組の女の子、ミー(根本美鶴代)・ケイ(増田恵子)は、「キャンディーズ」に憧れて、

「クッキー」

なるユニット名を名乗り、セミプロとして活動していたが、なかなかプロ・デビューには至らなかった。

そこで、彼女達はプロ・デビューを目指し、

「スター誕生!」

に応募し、見事に合格切符を勝ち取った。

そして、翌1976(昭和51)年、ミー(根本美鶴代)・ケイ(増田恵子)の2人組は、

「ピンク・レディー」

というユニット名を名乗り、

『ペッパー警部』

にて、デビューを飾ると、以後、ピンク・レディーはスーパースターへの階段を駆け上がって行った。

こうして、

「スター誕生!」

からは、森昌子・桜田淳子・山口百恵の「花の中3トリオ」、ピンク・レディー、岩崎宏美、中森明菜…といったスーパーアイドル達が続々と誕生し、この番組は1983(昭和58)年まで続いた。

こうして、日本テレビの「目論見」どおり(?)、「スター誕生!」を通して、新たなスターを次々に誕生させる事により、「ナベプロ帝国」の体制は崩壊したが、その直接的なキッカケとなった「大事件」については、後述する。

 

<1972(昭和47)年12月31日…「第23回NHK紅白歌合戦」~「女王」美空ひばり、「紅白」最後の出場~後の「キャンディーズ」が「スクール・メイツ」として出演>

 

 

 

1970(昭和45)年12月31日、

「第23回NHK紅白歌合戦」

が放送され、「女王」美空ひばりが、通算17回目の「紅白」出場を果たし、10年連続で紅組の「トリ」を務めた。

だが、結果としては、これが美空ひばりの最後の「紅白」出場となってしまう。

ひばりの弟・かとう哲也が、暴力団に関わっていたとの事で逮捕されてしまい、それが理由で、ひばりはこの年(1972年)を最後に「紅白」から追放されてしまったのである。

「紅白の顔」

と言って良かった美空ひばりも、身内の「不祥事」を理由に、アッサリと「紅白」から切られてしまったが、NHKも冷たいと言えば冷たいが、「世論」に敏感なNHKらしいと言えばNHKらしいやり方ではあった。

 

 

そして、この年(1972年)の「紅白」では、

既に「歌謡グランド・ショー」のアシスタントとして名前を売っていた、

ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)の3人組が、

「スクール・メイツ」

の一員として、南沙織のバック・ダンサーとして登場している。

こうして、「女王」美空ひばりの退場と、後の「キャンディーズ」の登場という、

「新旧交代」

の象徴的な場となった、この年(1972年)の「紅白」は、

「視聴率80.6%」

という、「紅白」史上、歴代2位の凄まじい高視聴率を叩き出した。

まさに、「紅白」は絶対的な「権威」として君臨していた。

 

<「ナベプロVS日本テレビ」の全面戦争~1973(昭和48)年の「NTV紅白歌のベストテン」と、ナベプロ肝煎りの「スター・オン・ステージ あなたならOK!」の全面対決の結果は…?>

 

 

前述の通り、「歌謡界の女王」美空ひばりが、「紅白」最後の舞台に立った翌年、即ち1973(昭和48)年に、

「ナベプロVS日本テレビ」

の間で、「全面戦争」が勃発した。

当時、隆盛を誇って来た「ナベプロ帝国」に陰りが見え始めていたが、

そんな中、1973(昭和48)年4月、音楽番組を強化したいという思惑が有ったNETテレビ(※現・テレビ朝日)から、「ナベプロ」に対し、

「新たなオーディション番組を作りたい」

という申し出が有った。

「ナベプロ」は、これを受けて、日本テレビの「スター誕生!」の二番煎じ(?)のようなオーディション番組として、NETテレビで、

「スター・オン・ステージ あなたならOK!」

を製作する事となり、放送開始された。

ところが、この番組の放送時間は、

「月曜8時」

だったのである。

そう、これは、既に放送されていた日本テレビの歌番組、

「NTV紅白歌のベストテン」

と、完全に被っていた。

このままでは、「ナベプロ」の歌手は、裏番組の、

「NTV紅白歌のベストテン」

には出演できない…という事態が起ころうとしていた。

 

 

そこで、日本テレビは、「ナベプロ」に対し、

「『あなたならOK!』の放送時間を変えて欲しい」

と、申し入れた。

しかし、「ナベプロ」側は、

「そっち(※NTV紅白歌のベストテン)の方が、放送日を変えれば良い」

と言い放った。

これに、日本テレビ側は猛反発した。

「それなら、ウチの番組には、ナベプロの歌手は出て頂かないで結構です…」

こうして、

「ナベプロVS日本テレビ」

の全面戦争が勃発し、「月曜8時」という、全く同じ時間帯で、2つの番組が激突したが、結果は、

「NTV紅白歌のベストテン」

の方が、視聴率で圧勝し、

「あなたならOK!」

は、低視聴率により惨敗し、僅か放送半年で打ち切りとなってしまった。

結果として、これが「ナベプロ帝国」崩壊のキッカケとなり、皮肉な事に、以後、

「NTV紅白歌のベストテン」

は、人気番組として定着して行った。

全く、運命とは何処でどうなるか、わからない物である。

 

<1973(昭和48)年6月17日…フジテレビ「夜のヒットスタジオ」で、司会の前田武彦が「共産党バンザイ」事件を起こし、降板に追い込まれる>

 

 

さて、ここで、自らの言動がキッカケとなり、「運命」が暗転してしまった人の話を書く。

1973(昭和48)年6月17日に放送された、フジテレビの歌番組、

「夜のヒットスタジオ」

で、大事件が起こった。

「夜ヒット」

は、1968(昭和43)年の放送開始以来、前田武彦・芳村真理のコンビが司会を務めていた。

しかし、この日(1973/6/17)の「夜ヒット」の放送終了間際、前田武彦が突然、何の脈絡も無く、

「バンザイ!!」

と言ったのである。

実は、前田は共産党を支持していたらしく、参議院補欠選挙で、共産党の立候補者の応援演説をしていた事が有った。

その際に、その候補者が当選した暁には、「夜ヒット」の番組中に前田が、

「バンザイ」

を言う…という旨の約束をしてしまっていた。

そして、彼はその「約束」を実行してしまった…という事であるが、

「共産党バンザイ事件」

として、これが大騒ぎになってしまい、前田は「夜ヒット」を降板に追い込まれた。

こうして、一時は大橋巨泉と人気を二分していた名司会者・前田武彦は、以後、「下り坂」となり、テレビ界から徐々に消えて行った…。

それにしても、前田武彦も、ある意味、

「権威」

に反逆してしまった男…と言えるのかもしれない。

 

<1973(昭和48)~1977(昭和52)年…「女王」美空ひばり、大晦日に「紅白」と大勝負!!~テレビ朝日で「美空ひばり・ワンマンショー」を、毎年の大晦日に放送>

 

 

 

さて、前述の通り、「女王」美空ひばりは、身内の「不祥事」を理由に、

1972(昭和47)年限りで「紅白」の舞台を追放されてしまった。

だが、美空ひばりには「女王」としての意地が有った。

1973(昭和48)~1977(昭和52)年にかけて、美空ひばりは大晦日、つまりNHKの「紅白」の真裏で、テレビ朝日で、

「美空ひばりワンマン・ショー」

を生放送したのである。

「紅白」には出られなくなってしまったが、大晦日に生放送で「ワンマン・ショー」を放送してもらえる歌手など、美空ひばりぐらいなものであろう。

「紅白が、ナンボのもんじゃ!!」

ひばりは、そう宣言しているかのようであった。

「『権威』ほど、下らない物は無い。そんな『権威』に対し、自分の力で徹底的に反逆してやる…」

ひばりが、そう思っていたかどうかは、わからない。

だが、私はそういう姿勢を見せてくれる人は大好きである。

そして、1977(昭和52)年、世間を震撼させた「反逆児」が現れた…それは、他ならぬ、あのスーパーアイドル、

「キャンディーズ」

であった。

 

<1977(昭和52)年7月17日…日比谷野音のコンサートで、人気絶頂の「キャンディーズ」が突然の「解散宣言」~「普通の女の子に戻りたい!!」と絶叫し、「ナベプロ」に叛旗を翻した「キャンディーズ」>

 

 

 

1977(昭和52)年7月17日、大変な出来事が起こった。

当時、まさに人気絶頂だった、スーパーアイドル・グループの「キャンディーズ」が、突然、

「解散宣言」

をしてしまったのである。

この日(1977/7/17)、「キャンディーズ」は、日比谷野音でライブを行なっていた。

会場は超満員の観客で埋め尽くされ、熱気に包まれていたが、ラン(伊藤蘭)・スー(田中好子)・ミキ(藤村美樹)の3人は、ある事を固く決意していた。

当時、彼女達は超多忙なスケジュールに忙殺され、心身ともに疲弊しきっていた。

しかし、熱狂的なファン達の期待にも応えなければならず、彼女達はその葛藤に思い悩んでいた。

そして、この日のライブで、「キャンディーズ」は所属事務所の「ナベプロ」にも、事前に何も言わないまま、

「私達、9月で解散します!!普通の女の子に戻りたい!!」

と絶叫し、いきなり「解散」を発表してしまったのである。

これには、集まっていたファンは勿論、世間も、勿論「ナベプロ」も仰天したが、彼女達の決意は固かった…。

こうして、日本テレビとの「戦争」に敗れ、すっかり屋台骨が傾いていた「ナベプロ」は、遂に「身内」からも「造反者」を出してしまった…。

この後の「キャンディーズ」の運命や、如何に!?…というわけで、この続きは、また次回。

 

(つづく)