【今日は何の日?】1950/6/28…藤本英雄(巨人)、日本野球史上初の「完全試合」達成 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

野球の試合において、

「完全試合(パーフェクト・ゲーム)」

ほど、難易度の高い物は無い。

「完全試合」

とは、投手が相手チームに、1本もヒットを打たれず、なおかつ、1人のランナーも出さずに完封する事…であるが、

「ノーヒット・ノーラン」

であれば、ヒットを打たれさえしなければ、四死球やエラーでランナーを出しても成立する。

しかし、「完全試合」の場合、相手チームの選手を1人も塁に出してはならない…というのだから、物凄く難しい。

その「完全試合」を、日本野球史上初めて達成した投手は、藤本英雄(巨人)である。

 

 

今から74年前、1950(昭和25)年6月28日、巨人の藤本英雄投手が、青森市営球場での、

「巨人VS西日本」

の試合で、日本野球史上初の「完全試合」を達成した。

という事で、本日(6/28)はそれを記念し、大投手・藤本英雄投手の生涯と、史上初の「完全試合」達成の物語を描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<藤本英雄の野球人生①~韓国・釜山に生まれ、下関商業で2度(1935春、1937春)甲子園に出場>

 

 

藤本英雄(ふじもと・ひでお)は、1918(大正7)年1月18日、韓国・釜山に生まれた。

彼の韓国名は李八龍といったが、彼が8歳の時(1926年)、家族で韓国から日本に渡り、下関の彦島に移り住んだ。

そして、下関で野球を始めた彼は、その後、地元の名門・下関商に進学し、投手として頭角を現した。

1935(昭和10)年春と1937(昭和12)年春の二度、彼は、

「藤本八龍」

の名前で、エースとして下関商を甲子園出場に導いた。

なお、当時の下関商は、法政大学との繋がりが深く、下関商から法政に進学する選手も多かったが、

藤本は、明治大学出身の迫畑正巳のコーチを受けた縁で、明治に進学する事となった。

その後、彼は、

「藤本英雄」

と名乗り、以後、その名で知られる事なる。

 

<藤本英雄の野球人生②~明治の大エースとして「通算34勝9敗」の成績を残し、明治を2度(1940秋、1942春)優勝に導く>

 

 

1938(昭和13)年春、藤本英雄明治に入学した。

当時の明治は、四連覇(1937春~1938秋)の真っ最中だったが、その頃、下級生の藤本には出番が無かった。

だが、藤本は2年生に進級した1939(昭和14)年に、早くも明治のエースの座に就くと、

1940(昭和15)年春、「全5試合制」の短縮シーズンとは言え、エース・藤本英雄の大活躍で、明治は優勝を飾った。

1942(昭和17)年春、更に藤本英雄は大車輪の活躍を見せ、立教2回戦でノーヒット・ノーランを達成するなど、

「全10試合登板、9勝1敗」

という成績を残し、またしても大エース・藤本は獅子奮迅の活躍で、明治を優勝に導いた。

だが、この頃、前年(1941年)に始まった、

「太平洋戦争」

の影響で、世の中は徐々に閉塞感を増しており、大学もその影響を受け、

「学生の繰り上げ卒業」

の措置が取られており、この年(1942年)秋で、藤本は明治を「繰り上げ卒業」した。

なお、明治大学時代、藤本英雄は、

「通算34勝9敗」

という、素晴らしい記録を残した。

なお、戦前の東京六大学野球で、

「通算30勝」

を達成したのは、若林忠志(法政・通算43勝28敗)、宮武三郎(慶応・通算38勝6敗)、若原正蔵(早稲田・通算38勝19敗)、中村峰雄(明治・通算31勝14敗)…と、藤本英雄(明治・通算34勝9敗)という、5人のみである。

これを見ても、如何に、当時の藤本の力が傑出していたか、わかろうと言うものである。

なお、若い頃の藤本は、全盛期の沢村栄治(巨人)に匹敵するほどの、

「剛速球投手」

だったという。

 

<藤本英雄の野球人生③~1942(昭和17)年秋…「即戦力」として巨人に入団した藤本、「10勝0敗」で巨人の優勝に貢献>

 

 

 

さて、明治「繰り上げ卒業」した藤本英雄は、1942(昭和17)年9月25日、巨人と入団契約を結び、巨人に入団した。

当時の巨人は、藤本定義監督が率いており、

「第1期黄金時代」

を築き上げていたが、当時の巨人は、かつての大エース・沢村栄治投手を兵隊に取られてしまい、現エースの須田博(スタルヒン)が孤軍奮闘していた(※当時の野球界は、軍部に睨まれないよう、英語の球団名を全て廃止し、外国人だったスタルヒン「須田博」と名乗るなど、涙ぐましい努力?をしていた)。

なお、当時のプロ野球は、

「職業野球」

と言われ、花形だった東京六大学野球に比べ、あまり人気も無かったが、そんな中、六大学で大活躍した藤本の巨人入りは、ファンからも大いに注目されていた。

「当時は職業野球は地位が低かった。でも僕は、一生、野球をやって行きたいと思っていたから、プロ入りには全く抵抗が無かった。ただ、当時は大学出で職業野球に入る選手は少なかったから、奇異の目で見られた…」

後に、藤本はそう語っているが、ともあれ、六大学の大スター・藤本英雄が入団し、巨人の親会社・読売新聞は、1942(昭和17)年9月27日、藤本の初登板となる、

「巨人VS大洋」(※戦後の大洋とは無関係)

の試合の前日、デカデカと、

「明日の大洋戦で、藤本が待望の初登板」

と、告知を出した。

当時としては非常に珍しい「予告先発」となったが、その甲斐有って、藤本の巨人での初登板を一目見ようと、後楽園球場には、

「1万6,924人」

もの観客が集まった。

これは、当時の職業野球としては、驚異的な動員数だったが(※神宮の早慶戦には、毎回、5万人以上の観客が集まっていた)、それだけ、当時の藤本の注目度は高かった。

その初登板で、藤本は2本のホームランを打たれたものの、8-3で完投勝利を飾り、藤本はデビュー戦を勝利で飾った。

以後、藤本の快進撃は続き、何と、この年(1942年)は秋からの入団だったにも関わらず、藤本は僅か2ヶ月で、

「14試合 9完投 4完封 10勝0敗 防御率0.81」

という、素晴らしい成績を残し、藤本は巨人の優勝(4連覇)に大きく貢献した。

藤本は巨人入団早々、早くも主力投手となった。

 

<藤本英雄の野球人生④~1943(昭和18)年…巨人入団2年目の藤本英雄の「伝説のシーズン」~「56試合 39完投19完封 34勝11敗 防御率0.73」の凄まじい成績を残す~藤本の大活躍で巨人は5連覇達成>

 

 

さて、1942(昭和17)年限りで、藤本定義が巨人監督を退任し、

1943(昭和18)年、中島治康が巨人監督の後任を務めた。

中島は、1938(昭和13)年秋、日本野球初の、

「三冠王」

を達成した大打者だったが、当時は選手を次々に兵隊に取られ、どの球団も選手不足の状態であり、中島は、

「選手兼任監督(プレーイング・マネージャー)」

を務める事となった。

そして、この年(1943年)、巨人入団2年目の藤本英雄は、まさに神がかった投球を見せ、

「伝説のシーズン」

を送る事となった。

 

 

1943(昭和18)年の藤本英雄は、まさに巨人の大黒柱として、たった一人で巨人を支えていた…と言っても過言ではない。

1943(昭和18)年5月22日、後楽園球場の、

「巨人VS名古屋」

の試合で、入団2年目の藤本は、早くもノーヒット・ノーランを達成(※当時、史上11人目)すると、その後も藤本は鬼神の如き投球を見せた。

例えば、この年(1943年)7月16日~8月17日にかけて、藤本は、

「11連勝」

を達成し、その間、藤本は「9完封」で、「自責点0」と、相手チームを完璧に抑え込んだ。

また、同年(1943年)8月2日~9月12日にかけて、藤本は、

「6試合連続完封勝利」

を達成したが、この記録は、70年以上経った今も、誰にも破られていない。

そして、恐らく今後も破られる事は無い、「アンタッチャブル・レコード」である。

という事で、1943(昭和18)年の藤本英雄は、

「56試合 39完投19完封 34勝11敗 防御率0.73」

…という、凄まじい成績を残したが、

 

・シーズン19完封(※他に0-0引き分け(完投)が2試合)

・シーズン最多先発勝利「32」

・シーズン最高防御率0.73

 

…という記録は、もはや誰も近付く事すら出来ない、「神の領域」の記録として、勿論、未だに破られていない

それに「19完封」というのも凄いが、他に「0-0」の引き分け(完投)が2試合有ったので、実質的には「21完封」に等しい。

そして、藤本はこれだけ投げて、防御率「0.73」というのも凄いが、この記録も今後、絶対に破られる事は無いと思われる。

なお、付け加えると、この頃の職業野球は、物資不足の影響で、粗悪なボールを使っており、球も飛びにくく、全体として「投手有利」な状況ではあった。

しかし、それを差し引いても、この記録は本当に凄すぎる。

なお、この年(1943年)、藤本は、チームの「84試合」の3分の2にあたる「56試合」に登板し、「34勝」を挙げたが、藤本以外の巨人の投手の勝ち星を全て合わせても「20勝」にしかならず、如何に、藤本が1人で巨人を支えていたか…という事が数字にも表れている。

そして、藤本の大活躍により、この年(1943年)も巨人は優勝し、「5連覇」を達成した。

 

<藤本英雄の野球人生⑤~1944(昭和19)年…藤本は史上最年少の「25歳」で巨人の監督(※選手兼任監督)に就任~戦後の1946(昭和21)年も巨人監督を務める>

 

 

1944(昭和19)年、「太平洋戦争」は、いよいよ激化し、世の中は戦時色に染められ、健康な男子は殆んどが兵隊に取られるようになってしまい、細々と続けられていた職業野球も、各球団とも選手不足で、満足にチーム編成すら出来ない状況に陥った。

そんな中、この年(1944年)、藤本英雄は、当時25歳という史上最年少で、巨人の監督に就任したが、勿論、藤本は投手としても現役であり、

「選手兼任監督(プレーイング・マネージャー)」

を務める事となった。

そして、この年(1944年)の職業野球は、各球団とも「35試合」を行なった時点で、シーズン続行は不可能となり、公式戦は打ち切りとなった(※藤本英雄監督の巨人は、「19勝14敗2分」「2位」。優勝は阪神)。

1945(昭和20)年は、戦争激化により、職業野球そのものが「中止」となったが、

翌1946(昭和21)年、職業野球は再開され、藤本は再び、巨人の監督を務めた。

なお、この時、藤本は巨人の球団幹部から、

「水原茂が帰って来るまで、監督をやって欲しい。ただし、水原が帰って来たら、監督の座を水原に譲って欲しい」

と言われていたようだが、もとより藤本にも異存は無かった。

そもそも、藤本とて、監督をやりたくてやったのではなく、

「他に誰も監督を出来る人が居ないから、どうしても監督をやって欲しい」

と、巨人から懇願され、やむなく引き受けた経緯が有ったのである。

なお、この時、慶応出身で、戦前の巨人のスター選手だった水原茂はシベリアに抑留されていたが、その後、中島治康の方が先に戦地から帰って来たので、藤本は中島治康に監督の座を譲り、再び現役投手に専念した。

なお、この年(1946年)藤本は、

「21勝6敗 防御率2.11」

と、相変わらず巨人のエースの働きを見せたが、巨人は、優勝した近畿グレートリング(※後の南海ホークス)に惜しくも及ばず、「2位」に終わっている。

 

<藤本英雄の野球人生⑥~1947(昭和22)年…巨人と契約で揉めた藤本、中部日本ドラゴンズに移籍したが…?>

 

 

 

だが、翌1947(昭和22)年、藤本は何故か、巨人から中部日本ドラゴンズへと移籍してしまった。

それは何故なのか…。

藤本英雄が語る経緯は、下記の通りである。

「当時、僕は5,000円の契約金を巨人から貰っていた。しかし、『そういう金を一人にあげるわけにはいかない』と、巨人の代表・市岡忠男さんから言われ、シーズン・オフに、また返してもらう約束で、巨人にそのお金を返した…」

しかし、巨人代表・市岡忠男は、その約束を守らず、藤本にお金を返さなかったという。

「それじゃ、話が違うと思ってね…。それで巨人に嫌気が差した。これまで、巨人のために一生懸命、働いていたのに…」

藤本は、巨人に酷い扱いをされ、憤慨した。

そして、翌1947(昭和22)年、藤本は、当時、藤本の友人だった小鶴誠・金山次郎らが在籍していた、中部日本ドラゴンズ(※現・中日ドラゴンズ)へと移籍してしまった。

ちなみに、この時の中日の契約金は、

「6万円」

だったという。

それは、当時の公務員の給料が「700~800円」、日雇いの給料が「30円」ぐいらいだった時代の話である。

それを考えれば、物凄く高い契約金だった…という事は間違いない。

そして、この年(1947年)中部日本に在籍した藤本は、

「17勝15敗 防御率1.83」

という成績を残したが、中日に酷使された藤本は、シーズン中、右肩を痛めてしまった。

また、中日も内紛のゴタゴタが絶えず、藤本は1年で中日を退団し、翌1948(昭和23)年から巨人へ「復帰」する事となった。

 

<藤本英雄の野球人生⑦~1948(昭和23)年…右肩を痛め、一時は「投手断念」寸前に追い込まれた藤本、ボブ・フェラーの著書『ハウ・トゥ・ピッチ』を読み「スライダー」を習得し、投手として「復活」>

 

 

 

さて、1948(昭和23)年、藤本英雄は、当時、三原脩が監督を務めていた巨人に「復帰」したが、

前年(1947年)、中日で右肩を痛めていた藤本は、一時は、

「投手断念」

の寸前まで追い込まれていた。

藤本は、バッティングも良かったので、一時は野手に専念し、この年(1948年)のシーズン前半は、

「1番・ライト」

で出場したりしていた。

「投手としての藤本の野球人生は、これまでか…」

と思われた矢先、藤本の運命を変える出来事が有った。

それは、当時、アメリカ大リーグで活躍していた、ある投手が書いた1冊の本との出会いであった。

 

 

当時、アメリカ大リーグのクリーブランド・インディアンスで、

「火の玉投手」

と称されていた、ボブ・フェラーという大投手が居たが、そのボブ・フェラーが書いた著書、

『ハウ・トゥ・ピッチ』

に、当時、日本ではまだ誰も投げていなかった球種…

「スライダー」

の投げ方について、書いてある箇所が有った。

藤本は、この本を読み、見よう見真似で、

「スライダー」

の練習を始めたところ、藤本は遂に「スライダー」を習得する事に成功した。

ちなみに、「スライダー」とは、途中まではストレートと同じ軌道で、捕手のミットに達する直前に、真横にグッと曲がる球種であり、打者が対応するのは、非常に難しい。

勿論、投手も「スライダー」を習得するのは大変難しいが、藤本は努力を重ね、「スライダー」を習得した。

右肩を痛めてしまった藤本は、もう既に速い球は投げられなくなっていたが、「スライダー」の習得により、新たなスタイルの投球で、藤本は「投手」として見事に復活を遂げるのである。

 

<藤本英雄の野球人生⑧~1949(昭和24)年…藤本は「24勝7敗 防御率1.94」で、投手として見事に復活~巨人の戦後初優勝に大きく貢献>

 

 

 

1949(昭和24)年、巨人に復帰して2年目の藤本英雄は、前述の通り、「スライダー」を習得した事によって、見事に投手として「復活」を果たし、

「24勝7敗 防御率1.94」

という成績を残し、巨人のエースとして、藤本は巨人の戦後初優勝に大きく貢献した。

一時は、藤本は「投手断念」の瀬戸際まで追い込まれていた事を思えば、見事な「V字回復」だったが、この年(1949年)巨人を戦後初優勝に導いた三原脩監督は、ゴタゴタに巻き込まれる事となった。

 

 

この年のシーズン途中、シベリア抑留から、水原茂が帰って来た。

超満員の後楽園球場で、水原の復帰セレモニーが行われ、

「皆様、水原は只今元気で帰ってまいりました…」

と、水原は挨拶したが、数年振りに日本に帰って来た感慨で胸がいっぱいの水原は、後は言葉にならなかった。

この時、水原に歓迎の花束を渡したのは、巨人の三原監督だったが、この後、巨人は、

「三原派」「水原派」

に分裂し、結局、「水原派」に軍配が上がり、三原は、せっかく巨人を優勝させながらも、巨人監督の座を追われる事となった。

「巨人め、水原め、目に物を見せてくれる…」

三原は、巨人と水原に怨念を抱き、その後、西鉄ライオンズの監督に就任し、

「打倒巨人、打倒水原」

に執念を燃やす事となるが、それはまた別の物語である。

 

<藤本英雄の野球人生⑨~1950(昭和25)年6月28日…青森市営球場の「巨人VS西日本」の試合で、藤本英雄(巨人)が日本野球史上初の「完全試合」を達成!!>

 

 

 

さて、プロ野球がセ・パ両リーグの2リーグに「分裂」した1950(昭和25)年、

前述の通り、巨人に帰って来た水原茂が、巨人監督に就任した(※三原脩は、実権の無い「総監督」となり、この年(1950年)限りで巨人を退団)。

この年(1950年)も藤本英雄は開幕から絶好調で、6月28日を迎えた時点で、既に、

「11勝5敗」

という成績を残し、勿論、巨人のエースとして活躍していた。

この年(1950年)6月、梅雨の季節を迎えた頃、巨人、広島カープ、松竹ロビンス、西日本パイレーツ…という4球団が帯同し、

「北海道・東北遠征シリーズ」

を行なっていた。

当時のプロ野球は、まだフランチャイズ制も確立しておらず、このように各球団が帯同し、

「地方のドサ回り」

をする事が、よく有った。

そして、北海道遠征を終えた4球団は、東北遠征を行なっていたが、6月28日、その東北遠征も最後の試合となっていた。

この日(1950/6/28)青森市営球場では、ダブルヘッダーが組まれ、

第1試合は、「松竹VS広島」の試合で、松竹が6-1で広島を破り、

第2試合として、「巨人VS西日本」の試合が組まれていた。

実は、この試合の巨人の先発投手は、多田文久三の予定だったが、多田が体調不良により、急遽、藤本英雄が先発する事となった。

 

 

従って、本来、この試合で藤本は登板する予定は無く、藤本はすっかり油断していた。

また、北海道遠征を終え、東北遠征もこれで最後という事で、各新聞社のカメラマンは、全て東京に帰っており、この試合は一人もカメラマンが居なかった。

つまり、あまり注目度は高くない試合だった…。

なので、この試合を撮影した写真は1枚も現存していないのだが、その日(1950/6/28)の巨人の宿泊先で撮影された写真が、辛うじて1枚だけ残っている。

 

 

1950(昭和25)年6月28日、午後4時14分、青森市営球場にて、

「巨人VS西日本」

の試合が始まった。

投手ながらバッティングの良い藤本は、

「7番・投手」

で先発出場した。

なお、この試合の巨人の捕手は藤原鉄之助だった。

立ち上がり、あまり調子が良くなかった藤本は、いきなり、西日本の1番・平井正明に、

「0ストライク、3ボール」

となってしまったが、その後、藤本は平井を見逃し三振に仕留めた。

その後、藤本は立ち直り、初回、2回と西日本打線を三者凡退に斬って取った。

 

 

一方、この試合の西日本の先発投手は、重松通雄だった。

藤本は、普段、この重松なる選手と、殆んど対戦経験が無かったので、どういう選手かデータが無く、

「だからこそ、何となく投げにくかった」

という。

3回裏、2死から藤本は、その重松を見逃し三振に仕留めたが、何処となく嫌な感じは残った。

その後、巨人は4回裏に藤本自らが犠牲フライを放ち、1点を先取すると、5回裏にも1点を追加し、巨人が2-0とリードした。

そして、藤本は5回まで西日本打線を完璧に封じ込み、5回終了時点で1人のランナーも許していなかった。

 

 

6回表、2死ランナー無し。

藤本は、ここまで相変わらず西日本打線に1人のランナーも許していない。

そして、この場面で、

「9番・投手」

の、あの重松通雄に打席が回って来た。

「何か、嫌な感じだな…」

藤本は、何となく投げにくかったが、藤本が投じた球を、重松は簡単に打ち返し、打球は右中間へと飛んだ。

「やられた!!」

藤本も、一瞬、覚悟したが、何と、巨人のセンターを守っていた青田昇が、右中間へ懸命に走り、殆んどダイビング・キャッチのような形で、辛くもこの打球を捕った。

「あれは、本当に危なかった。青田に助けられた…」

後に、藤本はそう語っている。

なお、「スーパー・キャッチ」をした青田は後に、

「何となく思い立って、普段の守備位置から2、3歩、あらかじめ右中間寄りに動いていたのが良かった」

と、語っていたという。

6回終了、これで藤本は6回まで、西日本打線から相変わらず1人のランナーも許していない状況が続いている。

 

 

 

さて、試合はその後、巨人が4-0とリードを広げ、9回表を迎えた。

藤本は、8回まで西日本打線に、1人のランナーも許していない…つまり、藤本は8回まで、

「パーフェクト」

の投球を続けていた。

この頃になると、勿論、球場の誰もがその事に気付いていたが、巨人ベンチでは、水原監督以下、全ての選手達が藤本に気を遣い、誰も一言も藤本には声をかけなくなっていた。

いよいよ、9回表、あと1イニングである。

マウンド上の藤本英雄は勿論、緊張感も有っただろうが、それ以上に、守る巨人の選手達の方が、ガチガチに緊張していた。

何しろ、一つでもエラーしてしまえば、その瞬間、「パーフェクト」は潰えてしまうからである。

こうして、遂に運命の「9回表」が始まったが、藤本英雄は、冷静さを失わず、西日本の7番・関口清治の代打・清原初男をショートゴロ、8番・日比野武をセカンドゴロに打ち取り、これで2アウトとなった。

清原のショートゴロを捌いた山川喜作、日比野のセカンドゴロを捌いた千葉茂は、共に、難なく打球を処理したように見えたが、内心は彼らも冷や汗ものだったであろう。

そして、異様な雰囲気に包まれていた青森市営球場のスタンドは騒然となっていた…。

遂に、

「完全試合まで、あと1人」

である。

しかし、ここで打順は9番・重松通雄…そう、藤本が最も気持ち悪がっていた、あの重松である。

だが、早稲田出身で、松竹歌劇団の小倉みね子という女優と結婚し、この時は西日本の監督を務めていた小島利男が、重松に代わり、

「完全試合阻止」

を期して、自ら代打を買って出て来た。

この時、マウンド上の藤本は、

「しめた!!重松を引っ込めてくれた…」

と、内心、ホッとしていたという。

 

 

 

 

そして、藤本英雄は、打席の小島利男監督を、ボールカウント「2-2」に追い込むと、

藤本は、最後は得意の「スライダー」を投じた。

そして、小島のバットは、藤本が投じた「スライダー」に空を切り、空振り三振。

1950(昭和25)年6月28日、午後5時33分、遂に、藤本英雄(巨人)は、日本野球史上初の「完全試合(パーフェクト・ゲーム)」を達成した。

その瞬間、マウンド上の藤本の元に、巨人の全選手が集まり、藤本を祝福し、スタンドでは観客達が皆、狂ったように大騒ぎし、

「万歳!!!!」

の大合唱が起こっていたが、「完全試合」を達成した藤本は、むしろ、呆然としていたという。

「俺、本当にパーフェクトをやってしまったのか…」

藤本は、半ば夢心地だったという。

なお、前述の通り、この試合には1人もカメラマンが居らず、後日、藤本が「完全試合達成」の記念撮影に応じた、1枚の写真のみが残されている。

また、この試合、当時15歳だった寺山修司がスタンドで観戦し、当時12歳だったなかにし礼が、グラウンドでバット・ボーイを務めていたが、当時、青森に在住していた彼らは、期せずして「歴史の目撃者」となった。

 

<藤本英雄の野球人生⑩~「通算200勝87敗 防御率1.90」の成績を残し、1955(昭和30)年に現役引退>

 

 

 

その後、藤本英雄は、1955(昭和30)年まで現役生活を続け、

「通算200勝87敗 防御率1.90」

という素晴らしい通算成績を残し、現役引退した。

「通算防御率1.90」

は、「通算2000投球回」以上を投げた投手の中では、勿論、「歴代1位」の記録であるが、

このように、藤本はまさしく、

「大投手」

と呼ばれるに相応しく、

「史上初の完全試合達成投手」

の称号は、まさに藤本にこそ相応しい。

という事で、本日(6/28)はそんな藤本英雄へのリスペクトを込め、この記事を書かせて頂いた次第である。