1992~1996年のサザンとユーミン⑰ ~1996年『愛の言霊』と『透明人間』(後編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1992(平成4)~1996(平成8)年にかけて、サザンオールスターズ松任谷由実(ユーミン)が、テレビドラマとのタイアップで大ヒット曲を連発し、1990年代におけるサザンとユーミン(松任谷由実)の黄金時代を築いた。

ちょうど、その時期は私が10代の中高生だった頃だが、その時期のサザンとユーミン(松任谷由実)にスポットを当てた、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズも、いよいよ「大詰め」である。

 

 

という事で、私がこれまで書いて来た、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズは、下記の通りである。

 

①1992年『涙のキッス』と『ずっとあなたが好きだった』

②1993年『真夏の夜の夢』と『誰にも言えない』

③1993年『エロティカ・セブン』と『悪魔のKISS』

④1994年『Hello, my friend』と『君といた夏』

⑤1994~1995年『祭りのあと』と『静かなるドン』

⑥1994~1995年『春よ、来い』

⑦1994年『砂の惑星』と『私の運命』(第1部)

⑧1995年『命の花』と『私の運命』(第2部)

⑨1995年『あなただけを ~Summer Heart break~』と『いつかまた逢える』

⑩1995年『輪舞曲(ロンド)』と『たたかうお嫁さま』

⑪1996年『まちぶせ』(前編)

⑫1996年『まちぶせ』(中編)

⑬1996年『まちぶせ』(後編)~80年代アイドル歌謡史~

⑭1996年『まちぶせ』(完結編)

⑮1996年『愛の言霊 ~Spiritual Message~』と『透明人間』(前編)

⑯1996年『愛の言霊 ~Spiritual Message~』と『透明人間』(中編)

 

 

1996(平成8)年、SMAP香取慎吾が主演した、日本テレビのドラマ、

『透明人間』

の主題歌として、サザンオールスターズの通算37枚目のシングル、

『愛の言霊 ~Spiritual Message~』

が起用されたが、現在はその「前段」として、そこに至るまでのSMAPの軌跡などを描いている。

1991(平成3)年にデビューしたSMAPは、テレビドラマへの出演を足掛かりとしてブレイクした木村拓哉を筆頭に、各メンバーがそれぞれ、バラエティー番組への出演や、アニメの声優などを務める事により、知名度を高め、遂にはSMAPというグループはブレイクを果たして行く事となった。

という事で、「1992~1996年のサザンとユーミン」の「第17回」、

「『愛の言霊 ~Spiritual Message~』と『透明人間』(後編)」

を、ご覧頂こう。

 

<1994(平成6)年~1995(平成7)年…SMAPの楽曲が、6曲連続でオリコン「1位」を達成>

 

 

 

SMAPは、各メンバーの「バラ売り」が功を奏し、各メンバーの知名度が上がって行ったが、

その事と比例し、グループとしての人気も高まって行った。

その証拠に、1994(平成6)年頃から、SMAPはグループとしても大ヒット曲を連発して行く事となった。

1994(平成6)年9月9日にリリースされた、SMAPの通算14枚目のシングル、

『がんばりましょう』

は、SMAPにとって2度目のオリコン「1位」を獲得したが、

『がんばりましょう』の大ヒットを皮切りに、この後、SMAPは遂にグループとしても大ブレイクして行く。

SMAPの黄金時代が、ここに始まった。

 

 

 

1994(平成6)年12月21日、SMAPの通算15枚目のシングル、

『たぶんオーライ』

がリリースされたが、『たぶんオーライ』もオリコン「1位」を獲得し、

これでSMAPは通算3曲目、2曲連続のオリコン「1位」を達成した。

SMAPの曲は、「出せば売れる」という状態になって来たが、

1994(平成6)年秋~冬と言えば、「キムタク」こと木村拓哉が、

『若者のすべて』

というフジテレビのドラマに主演し、大人気となっていた頃である。

この頃から「キムタク」は、SMAPの絶対的エースとして君臨して行く。

 

 

 

 

 

1995(平成7)年3月3日、SMAPの通算16枚目のシングル、

『KANSHAして』

がリリースされたが、『KANSHAして』もオリコン「1位」を獲得し、

これでSMAPは通算4曲目、3曲連続でオリコン「1位」を獲得した。

SMAPは、出す曲出す曲、全て大ヒットという快進撃であるが、この頃から、

「SMAPにはあまり興味は無いが、曲は聴いた事は有る」

という人も増えて行ったと思われる。

当時は、私もそんな感じであった。

 

 

 

1995(平成7)年6月6日、SMAPの通算17枚目のシングル、

『しようよ』

がリリースされ、この曲も当然の如く大ヒットし、SMAPにとって通算5曲目、4曲連続のオリコン「1位」を獲得した。

ちなみに、この頃、SMAPのリーダー・中居正広は、フジテレビのドラマ、

『輝く季節の中で』

に出演していた。

中居正広は、当時はテレビドラマにもよく出演していたが、その後、喋りが達者な中居は「司会業」に才能を発揮して行く事となる。

 

 

1995(平成7)年9月9日、SMAPの通算18枚目のシングル、

『どんないいこと』

がリリースされ、SMAPは通算6曲目、5曲連続のオリコン「1位」を獲得した。

なお、この曲がリリースされる直前、1995(平成7)年9月3日に、かつて一世を風靡していた光GENJIが解散した。

かつて、木村拓哉に対し、

「お前らが俺達(※光GENJI)みたいになるのは無理」

と言っていた光GENJIが、ヒッソリと表舞台から姿を消し、それと入れ替わるようにして、

「SMAPの時代」

が到来していた。

この時、光GENJIのメンバー達は、果たして何を思っていたのであろうか…。

「栄枯盛衰」

は、世の習いとは言え、何とも言えない気持ちになってしまう。

 

 

 

1995(平成7)年11月11日、SMAPの通算19枚目のシングル、

『俺たちに明日はある』

がリリースされ、SMAPにとって通算7曲目、6曲連続のオリコン「1位」を獲得した。

『俺たちに明日はある』

とは、勿論、かつて、「銀行強盗カップル」ボニークライドの悲劇を描いた、1967(昭和42)年のアメリカ映画、

『俺たちに明日はない』

の「もじり」だが、SMAPは高らかに、

「俺たちの時代は、まだまだ続く」

と、宣言しているかのようであった。

なお、『俺たちに明日はある』は、SMAP木村拓哉と、ダウンタウン浜田雅功が「ダブル主演」した、TBSのドラマ、

『人生は上々だ』

の主題歌であるが、このドラマについては後述する。

そして、SMAPと言えば、レコード会社はサザンオールスターズと同じビクターだったが、ビクターにとって、サザンとSMAPはまさに「ドル箱」だったと言って良い。

 

<1995(平成7)年1月~3月…「俳優」中居正広の「代表作」となった『味いちもんめ』第1シリーズが放送>

 

 

 

 

1995(平成7)年1月~3月、テレビ朝日で、SMAPのリーダー・中居正広が主演したドラマ、

『味いちもんめ』

が放送された。

『味いちもんめ』

は、元々、板前と料亭を題材にした「グルメ漫画」が原作であり、

中居正広は、「板前修業」をする主人公・伊橋悟を演じたが、

『味いちもんめ』

は大好評であり、この後、何度もスペシャルドラマ化されるなど、2013(平成25)年まで断続的に放送され、

『味いちもんめ』シリーズは、「俳優」中居正広の「代表作」となった。

中居は、自他共に認めるぐらい(?)歌は苦手だが、「俳優」や「司会」に才能を発揮し、またリーダーシップの有った中居は、グループとしてのSMAPを牽引した。

「エースの木村、リーダーの中居」

という絶妙のバランスが有ったからこそ、SMAPはグループとして、あれだけの結果を残せたと言って良い。

 

<Kinki Kidsの台頭①…1994(平成6)年7月~9月…Kinki Kids(堂本光一・堂本剛)が出演したTBSドラマ『人間・失格 ~たとえばぼくが死んだら~』放送>

 

 

 

さて、SMAPが快進撃を見せ、「超売れっ子」になって行った頃、

SMAPのジャニーズの後輩、Kinki Kidsが登場し、SMAPの後を追っていた。

「Kinki Kids」

は、関西出身の堂本光一・堂本剛の2人組であるが、彼らは姓は同じ「堂本」ではあるものの、血縁関係は全く無い。

という事で、「Kinki Kids」の2人組の生年月日は、下記の通りである。

 

・堂本光一…1979(昭和54)年1月1日生まれ

・堂本剛…1979(昭和54)年4月10日生まれ

 

…という事であるが、

「SMAP」のメンバーは、私よりも少し年上だが、

「Kinki Kids」の2人と私は、ほぼ同年代である。

従って、私は「Kinki Kids」には何となく親近感が有るが、その「Kinki Kids」が揃って出演していたのが、

1994(平成6)年7月~9月に放送されていたTBSのドラマ、

『人間・失格 ~たとえばぼくが死んだら~』

である。

上に掲げた写真では、Kinki Kidsと、共演者の赤井英和が笑顔を見せているが、このドラマは壮絶な内容だった。

 

 

 

 

 

『人間・失格 ~たとえばぼくが死んだら~』

については、前にもこの「連載」でご紹介させて頂いたが、ここで改めてご紹介させて頂く。

このドラマは、1990年代に大ヒット作を連発していた脚本家・野島伸司が脚本を書いたが、当初の企画では、

『人間失格』

というタイトルだった。

しかし、この題名では、かつての太宰治の小説の題名と全く同じ…という事で、太宰治の遺族からクレームが付き、

「人間」と「失格」の間に「・」を付けて、

『人間・失格 ~たとえばぼくが死んだら~』

というタイトルになった…という経緯が有る。

そして、このドラマの題材は、学校での陰湿な「イジメ」である。

ある私立中学校(男子校)に編入して来た堂本剛が、同級生の堂本光一と仲良くなるが、美少年の堂本光一に「好意」を持っていた、同校の教師・加勢大周堂本剛に「嫉妬」し、加勢大周は、生徒達を巧みに操り、生徒達による、剛への壮絶な「イジメ」を仕掛ける。

そして、堂本剛演じる大場誠のクラスの担任の教師・桜井幸子は、加勢大周の事を好きだったため、完全に目が曇っており、「イジメ」に全く気付かない。

そして、「イジメ」を苦にした、堂本剛演じる大場誠は、遂に自ら命を絶ってしまう。

大場誠の父親で、赤井英和演じる大場衛は、息子の死の真相を知り、「復讐」に立ち上がる…というような、凄まじい話であった。

当時、私もこのドラマを見ていたが、加勢大周の陰湿さと、生徒のイジメに全く気付かない桜井幸子が演じる女性教師の「鈍さ」にイライラしたり、壮絶で陰湿な「イジメ」に追い詰められて行く剛への同情を禁じ得なかったが、

「どんな理由が有ろうと、イジメをやる奴は人間のクズだ」

と、私は思ったものである。

それこそが、このドラマの最も訴えたかった事かもしれない。

そして、息子のために「復讐の鬼」となった赤井英和の姿にも、その気持ちはよくわかると思った。

「人間失格」

とは、イジメをするような連中の事や、息子のために「復讐」をしてしまう父親など、全てをひっくるめた意味が有ったのだ…と、私は全てを見終わった時に気が付いたのであった。

 

<Kinki Kidsの台頭②~1995(平成7)年の堂本剛主演の『金田一少年の事件簿』シリーズと、内田有紀の「時を超えた美しさ」について…>

 

 

 

さて、1990年代に登場し、未だに芸能界の第一線で活躍し続けている人気者と言えば、何と言っても内田有紀である。

1994(平成6)年2月~3月、内田有紀は、かつて原田知世が主演した名作、

『時をかける少女』

が、フジテレビで「全5話」でドラマ化された時に主演を果たしているが、内田有紀版の『時をかける少女』を、私は夢中になって見ていた。

なお、1975(昭和50)年11月16日生まれの内田有紀は、当時18歳であった。

 

 

ショートカットの内田有紀は、世に出て来た時から大人気であり、

当時、高校生だった私も、内田有紀の大ファンであった。

しかし、私のある同級生は、

「あまり好みではない」

などと言っており、好みは分かれる所ではあったが、いずれにしても、内田有紀は注目を浴びる存在であったのは間違いない。

そんな内田有紀が、1995(平成7)年4月7日、東京ドームで行われた、巨人-ヤクルトの開幕戦で、ご覧のようなセクシーな衣装で登場し、「始球式」を行ない、またまた注目を集めていた。

ちなみに、この試合は巨人のエース・斎藤雅樹が完封勝利を収め、巨人が2-0で勝った。

 

 

 

そんな内田有紀が、つい先日(2024/5/29)、神宮球場で行われた、ヤクルト-ロッテの交流戦で、

「29年振りの始球式」

に登場したが、現在48歳の内田有紀は、29年前と全く変わらない美貌であった。

「内田有紀は、本当に『時を超える存在』だな…」

と、私は思ったものである。

とにかく、内田有紀は相変わらず美しい。

それどころか、当時よりも魅力を増しているような感じである。

「時を超えた美しさ」

を見せてくれる内田有紀は、稀有な存在である事は間違いない。

 

 

そして、29年前の内田有紀が、巨人-ヤクルトの開幕戦の「始球式」を務めた翌日、

1995(平成7)年4月8日、東京ドームの巨人-ヤクルトの開幕第2戦が行われ、0-2とリードされたヤクルトが、完封目前だった桑田真澄がヤクルトの1番・飯田哲也の頭部に死球を与え、「危険球」で退場となった後、ヤクルトが猛反撃し、9回表に一挙5点を奪いったヤクルトが、5-2で逆転勝ちを収めた。

そして、日本テレビでの巨人-ヤクルト戦(※つまり、この試合)のテレビ中継が30分延長になった後、同日(1995/4/8)の21:30から、日本テレビで放送されたのが、

『金田一少年の事件簿・学園七不思議殺人事件』

というスペシャル・ドラマであった。

当時、「少年マガジン」で連載され、大人気だった、

『金田一少年の事件簿』

が実写ドラマ化され、Kinki Kids堂本剛が、主役の金田一少年役を務め、ともさかりえが、金田一少年のガールフレンド、七瀬美雪の役を演じていた。

 

 

 

そして、まずは単発ドラマとして放送された、

『金田一少年の事件簿』

が大好評だった事を受け、1995(平成7)年7月~9月、日本テレビの「土曜9時」の枠で、

『金田一少年の事件簿』

の第1シリーズが放送された。

勿論、スペシャルドラマに続き、金田一少年の役を堂本剛、七瀬美雪の役をともさかえりえが演じたが、『金田一少年の事件簿』第1シリーズは大ヒットを記録した。

そして、『金田一少年の事件簿』は、歴代のジャニーズのスターが主演を務め、未だに断続的にシリーズが放送されている、超人気作となったが、その礎を築いたのは堂本剛であった。

 

<1995(平成7)年のフジテレビの「月9」ドラマ~『いつかまた逢える』~サザンオールスターズの『あなただけを~Summer Heart Break~』が主題歌に起用>

 

 

 

さて、堂本剛が主演した、日本テレビのドラマ、

『金田一少年の事件簿』

第1シリーズが放送されていたのと同時期、1995(平成7)年7月~9月にかけて、フジテレビの「月9」ドラマとして放送されていたのが、

『いつかまた逢える』

である。

このドラマは、福山雅治・桜井幸子が「共演」し、話題となったが、桜井幸子は、

『高校教師』『人間失格 ~たとえばぼくが死んだら~』

という、TBSのドラマに出演し、影の有る役どころを演じた後、遂にはフジテレビの「月9」に主演し、福山雅治の相手役を務める事となった。

そして、

『いつかまた逢える』

の主題歌として起用されたのが、サザンオールスターズの通算36枚目のシングル、

『あなただけを~Summer Heart Break~』

であり、この曲はミリオンセラーの大ヒットを記録している。

 

<1995(平成7)年7月25日…横浜ベイスターズの「組織票」が問題視されたプロ野球のオールスターゲーム第2戦に中居正広が「始球式」で登場、SMAPが「国歌斉唱」を務める~イチローが「投球練習」を行ない、ファンを沸かせる>

 

 

さて、1995(平成7)年のプロ野球オールスターゲームで、ちょっとした「事件」が有った。

この年(1995年)のオールスターゲーム第2戦は、横浜ベイスターズの本拠地・横浜スタジアムで開催される事となっていたが、

「地元開催なのに、ベイスターズの選手が少ないようだと、恰好が付かない」

と、当時のベイスターズ球団が危惧し、ファンに対し、

「ベイスターズの選手達に、沢山投票して下さい」

と、呼び掛けた。

その結果、何と、佐々木主浩・駒田徳広・ローズ・ブラッグス・佐伯貴弘・畠山準…という、6人もの横浜ベイスターズ勢がファン投票で選出されてしまい、

「横浜の組織票」

として、問題視される事になってしまった。

しかし、私に言わせれば、

「巨人ファンや阪神ファンは、毎年、『組織票』をやっているじゃないか。何故、横浜だけが問題視されるのか?」

という事である。

「普段はあまり人気が無い横浜の選手が、沢山選ばれるから、問題視されたのだろう。これが、巨人や阪神の選手なら、何も言われなかったのではないか」

と、当時も今も、私は思っている。

 

 

 

 

まあ、それはさて置き(?)、

1995(平成7)年7月25日に、その横浜スタジアムで行われた、オールスターゲームの第2戦で、

SMAPの中居正広「始球式」を務め、当時、人気絶頂だったSMAP「国歌斉唱」も務めたが、

この試合中、これまた当時、人気絶頂だったイチロー(オリックス)「投球練習」を披露し、ファンを沸かせていた。

「イチローは、投手として投げたいんだろうな…」

と、私は思ったものだが、これが翌1996(平成8)年の、

「投手・イチローに代打・高津が登場」

という「大事件」の伏線となる事を、この時は誰も知る由も無かった。

 

<1995(平成7)年8月26日~27日…SMAPが日本テレビ「24時間テレビ」のパーソナリティーを務める>

 

 

 

 

1995(平成7)年8月26日~28日にかけて放送された、日本テレビの、

「24時間テレビ」

で、SMAPがパーソナリティーを務めた。

前述したプロ野球のオールスターゲームや、日本テレビの「24時間テレビ」と言えば、

その時代を象徴するような人気者でなければ、まず登場する事は出来ない。

つまり、SMAPは、時代を象徴するような「人気者」として認められたという事を意味していた。

なお、会場の日本武道館には、SMAPファンの若い女性達が殺到し、物凄い歓声と悲鳴と絶叫が起こっていた…という事は、言うまでもない。

 

<1995(平成7)年10月~12月…ダウンタウン・浜田雅功と、SMAP・木村拓哉が「ダブル主演」を務めた、TBSドラマ『人生は上々だ』放送~SMAPが歌った主題歌『俺たちに明日はある』共々、大ヒット>

 

 

 

 

 

1995(平成7)年10月~12月にかけて、TBSで放送された、

『人生は上々だ』

というドラマに、ダウンタウン浜田雅功と、SMAP木村拓哉が「ダブル主演」したが、

「浜ちゃん」「キムタク」

という、当代一の人気者の共演という事で、大いに話題となった。

このドラマでは、浜田雅功が借金の取り立て屋、木村拓哉は定職に就かず、ギャンブルに溺れ、借金取りに追われる若者…という役どころを演じ、この2人の間に奇妙な友情が芽生える…というような物語である。

そして、

『人生は上々だ』

の主題歌として、SMAPの通算19枚目のシングル、

『俺たちに明日はある』

が起用され、SMAPが6曲連続でオリコン「1位」を達成した…というのは、前述の通りである。

こうして、SMAPは押しも押されもせぬ超人気グループの地位を得て、遂に1996(平成8)年を迎える事となった…。

…という事で、次回は、長らく続いて来た、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズの「最終回」である。

1996(平成8)年のサザンとSMAPの大活躍を描く「最終回」を、お楽しみに…。

 

(つづく)