1980(昭和55)年のサザンオールスターズ~『Five Rock Show』を語る(最終章1) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

ここ最近、少し忙しかったので、なかなかブログを書く時間が取れず、前回の記事から間が空いてしまったが、

今回も引き続き、現在連載中の、

「1980(昭和55)年のサザンオールスターズ」

についての記事を、書かせて頂く。

そして、1980(昭和55)年のサザンといえば、年頭から、

「半年間の充電」

を宣言し、1ヶ月に1枚のペースでシングルをリリースするという、

「Five Rock Show」

という企画を行なっていたが、前回の記事までで、その「Five Rock Show」の「第4弾」までを、ご紹介させて頂いた。

 

 

という事で、その1980(昭和55)年のサザンオールスターズ「Five Rock Show」の内訳は、下記の通りである。

 

・『涙のアベニュー』(1980.2.21)

・『恋するマンスリー・デイ』(1980.3.21)

・『いなせなロコモーション』(1980.5.21)

・『ジャズマン(JAZZ MAN)』(1980.6.21)

・『わすれじのレイド・バック』(1980.7.21)

 

 

…という事であるが、現在の所、

『涙のアベニュー』『恋するマンスリー・デイ』『いなせなロコモーション』『ジャズマン(JAZZ MAN)』

という、4枚のシングルについて、ご紹介させて頂いている。

今回は、いよいよ「Five Rock Show」の大詰め、

『わすれじのレイド・バック』

について、ご紹介させて頂く。

それでは、前置きはそれぐらいにして、

「1980(昭和55)年のサザンオールスターズ」の「最終章」についてご覧頂こう。

なお、この連載は、恐らくあと2~3回ぐらい(?)は続く見込みので、今回は「完結編」ではなく、敢えて「最終章」と題した…という事を、付記しておく。

 

<サザンがテレビから姿を消す直前~1979(昭和54)年12月~サザンオールスターズ『C調言葉に御用心』と、久保田早紀『異邦人』が大ヒット~「ザ・ベストテン」で「1位」を争う>

 

 

これまで述べて来た通り、1978(昭和53)~1979(昭和54)年にかけての、デビュー直後のサザンオールスターズは、

凄まじい数のライブに出演したり、その合間を縫って沢山のテレビに出たりと、とにかく殺人的な忙しさであった。

そんな中、1979(昭和54)年10月25日にリリースされた、サザンオールスターズの5枚目のシングルが、

『C調言葉に御用心』

という曲であった。

この曲は、昨年(2023年)のサザンの「茅ヶ崎ライブ」でも、1曲目で歌われたが、今もなおサザンファンに根強い人気を誇る、初期サザンを代表する名曲である。

ちなみに、後年、桑田佳祐は、

「『C調言葉に御用心』という曲が出来たから、初めて、プロとしてやって行く自信が付いた」

という趣旨の事を語っている。

 

 

 

ところで、初期サザンを語る上で欠かせないのが、TBSの伝説の歌番組、

「ザ・ベストテン」

であった。

この番組に、サザンは多数出演する事により、お茶の間の人気者となって行ったが、

『C調言葉に御用心』

は、その「ザ・ベストテン」で、最高位「2位」にまで達する大ヒットとなったが、

この曲が大ヒットしている、真っ最中の時期である、1979(昭和54)年11月22日の「ザ・ベストテン」において、サザンは、

「来年(※1980年)は、年明けから半年間充電する」

という事を初めて発表し、ファンを驚かせた。

そして、同年(1979年)12月13日、

『C調言葉に御用心』

が、「ザ・ベストテン」で「3位」にランクインした回を最後に、サザンは暫く「ザ・ベストテン」の出演から遠ざかった。

 

 

 

 

そして、

『C調言葉に御用心』

がヒットしていたのと、ほぼ同時期、

1979(昭和54)年11月頃に「ザ・ベストテン」にランクインし、『C調言葉に御用心』と、「1位」の座を争っていたのが、

当時21歳の久保田早紀が歌っていた、

『異邦人』

という曲である。

『異邦人』

は、1979(昭和54)年12月に、「ザ・ベストテン」で初めて「1位」の座に就くと、翌1980(昭和55)年3月にかけて大ヒットを記録し、「ザ・ベストテン」にランクインし続けていた。

ちなみに、『異邦人』は、久保田早紀自身が作詞・作曲し、歌っているが、久保田早紀は本当に才能が有る人であった。

 

<1980(昭和55)年…サザンが登場していなかった間の「ザ・ベストテン」①~沢田研二『TOKIO』、クリスタル・キング『大都会』などが大ヒット>

 

 

 

さて、サザンが、

『C調言葉に御用心』

を最後に、暫くの間、テレビから姿を消していた頃、

「ザ・ベストテン」

では、続々と大ヒット曲がランクインしていた。

沢田研二が歌った、

『TOKIO』

は、パラシュートに電飾キラキラの赤い衣装という、ド派手な出で立ちで、視聴者の度肝を抜いたが、

『TOKIO』は、1980(昭和55)年1月24日、「ザ・ベストテン」の「8位」で初登場すると、以後、最高位「2位」まで上昇する大ヒットとなった。

この時期、沢田研二はエンターテイナーとして、まさに唯一無二の個性を発揮する存在となっていた。

 

 

 

ヤマハの「ポプコン」出身で、世界歌謡祭でのグランプリ受賞…という、華々しい実績を引っ提げ、

1979(昭和54)年11月21日、

『大都会』

という曲で、クリスタル・キングというバンドがデビューしたが、

「あ~あ~ 果てしない~」

という、超印象的なハイトーン・ボイスでの歌い出しでお馴染みの、

『大都会』

は、1980(昭和55)年1月10日、「ザ・ベストテン」に「4位」で初登場すると、以後、8週連続「1位」という大ヒットを記録した。

当時、『大都会』といえば、日本中、誰も知らない者など居ないぐらいの大ヒット曲だった…と言っても、過言ではあるまい。

なお、クリスタル・キングは、以後、あまりヒット曲には恵まれず、「一発屋」扱いされてしまったのは、気の毒であった。

 

<吹き荒れる「金八旋風」①~TBS『3年B組 金八先生』第1シリーズ(1979.10~1980.3)の主題歌、海援隊『贈る言葉』が大ヒット>

 

 

さて、この時代を語るにおいて、避けては通れないのは、何と言っても、

『3年B組 金八先生』

の大ヒットである。

1979(昭和54)年10月~1980(昭和55)年3月にかけて、TBSで放送された学園ドラマ、

『3年B組 金八先生』

は、「金八先生」こと、熱血教師・坂本金八(武田鉄矢)と、その「金八先生」が担任を務めた、「桜中学」「3年B組」の生徒達との間で巻き起こる、青春ドラマを描いた物語であるが、このドラマは爆発的な大ヒットを記録した。

 

 

まず、『3年B組 金八先生』が、世間を驚かせたのは、

鶴見辰吾・杉田かおるという、「3年B組」の同級生カップルが交際し、そして、杉田かおるが妊娠してしまうという…という衝撃的な展開を描いた、

「15歳の母」

というテーマを中心に据えた事である。

今だったら、恐らくコンプライアンス的に、まず描くのは無理(?)だったと思われるが、

「中学生同士のカップルで、妊娠してしまうという事を描くのは、いかがなものか?」

と、当時も、大いに物議を醸した。

だが、ドラマ制作者の意図としては、

「カップルの『愛』とは何か?という事を、正面から描く」

というものだったと思われる。

 

 

 

 

 

そして、

『3年B組 金八先生』

が凄かったのは、このドラマの出演者から、スターが沢山生まれたという事である。

前述の、鶴見辰吾・杉田かおるのカップルや、田原俊彦・野村義男・近藤真彦…という、所謂ジャニーズの「たのきんトリオ」、そして、三原順子・小林聡美…といった個性派の女性陣も、このドラマの出身である。

後に、『3年B組 金八先生』はシリーズ化され、この1979(昭和54)年10月~1980(昭和55)年3月のシリーズは、

「金八先生・第1シリーズ」

として、後に伝説のドラマとして、語り継がれて行く事となった。

 

 

 

そして、「金八先生・第1シリーズ」の主題歌だったのが、

「金八先生」を演じた武田鉄矢率いる、海援隊が歌う、

『贈る言葉』

という曲だった。

海援隊は、1973(昭和48)年に『母に捧げるバラード』を大ヒットさせて以降、暫くの間、低迷していたが、

『贈る言葉』

は、海援隊にとって、久々の大ヒット曲となり、「ザ・ベストテン」では最高位「1位」にまで上昇した。

まさに「金八先生」効果と言って良いであろうが、TBSは「ザ・ベストテン」に、「3年B組」の生徒達を出演させ、両番組を「コラボ」させるなど、テレビ局をあげて、海援隊を盛り上げたりしていた。

生徒達の前で、「金八先生」こと武田鉄矢が歌っている姿を見て、当時の視聴者達は大喜びであった。

なお、『贈る言葉』といえば、今では卒業式の定番ソングとなっているが、実は歌詞をよく読むと、これは「失恋ソング」である。

しかし、「金八先生」の印象があまりにも強く、「卒業式ソング」の定番になってしまっている…というのは、何とも面白い。

 

<1980(昭和55)年…サザンが登場していなかった間の「ザ・ベストテン」②~竹内まりや『不思議なピーチパイ』、シャネルズ『ランナウェイ』、谷村新司『昴』、もんた&ブラザーズ『ダンシング・オールナイト』などが大ヒット>

 

 

 

 

 

さて、サザンオールスターズが、レコーディングに専念し、

「Five Rock Show」

の各シングルを、月に1枚のペースで、粛々とリリースしていた頃、

「ザ・ベストテン」

では、どんなヒット曲がランクインしていたのか、ざっと、ご紹介させて頂く。

 

竹内まりや『不思議なピーチパイ』(1980/3/27 初登場「10位」、最高位「1位」)

・シャネルズ『ランナウェイ』(1980/4/10 初登場「8位」、最高位「3位」)

谷村新司『昴』(1980/5/8 初登場「10位」、最高位「5位」)

・もんた&ブラザーズ『ダンシング・オールナイト』(1980/6/12 初登場「8位」、最高位「1位」)

 

…という事であるが、何と言っても、もんた&ブラザーズ『ダンシング・オールナイト』は、「ザ・ベストテン」でも通算7週で「1位」を獲得するなど、爆発的な大ヒットを記録した。

それにしても、今見ても、未だに皆が口ずさめるような名曲ばかりというのが、本当に凄い。

そして、サザンはいよいよ満を持して、

「Five Rock Show」

「第5弾」にして、ラストシングルである、

『わすれじのレイド・バック』

をリリースするのである。

 

<1980(昭和55)年7月21日…サザンオールスターズ、通算10枚目のシングル『わすれじのレイド・バック』リリース~「Five Rock Show」の「第5弾」>

 

 

1980(昭和55)年7月21日、サザンオールスターズは、通算10枚目のシングル、

『わすれじのレイド・バック』

をリリースした。

この曲は、1980(昭和55)年のサザンの、

「Five Rock Show」

の掉尾を飾る、「第5弾」のシングルであるが、カントリー・ミュージック風の、ゆったりとしたサウンドの曲である。

という事で、

『わすれじのレイド・バック』

の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

 

『わすれじのレイド・バック』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

俺を溶ろかせる女であれば

抱かれたいようなしぐさ切なく Baby Baby'

なりをひそめたら愛しいはずだよ

一人じゃ泣いたって情けないまで

 

思い出はいつもよりそうだけの

誘い合うような時もうつろう Darlin' Darlin'

逢えない時こそ愛しい人だよ

一夜の恋なんて夢見てるようで

 

※ささやくだけでいい よがり声にはなえてく

まるで誰か知らぬ人と寝てるように

振るまえりゃ

指でさぐることなどつらい

in your socket

 

俺を溶ろかせる女でいれよ

抱かれたいようなしぐさ切なく

 

唇がひらく 胸が波打つ

駄目になりそうな今宵のふたり Woman Woman

別れる時でもやさしいままでな

心じゃ泣いたって裸で無理を

 

※Repeat

 

Everything is alright now.

I believe in you just forever,(Repeat)…

 

 

…という事であるが、

『わすれじのレイド・バック』

という曲を改めて聴き、そして歌詞を読んでみると、

「何とも大人な恋愛の曲だなあ…」

という印象を受ける。

なお、CD音源を聴くと、桑田佳祐が、

「俺を溶ろかせる女でいてよ…」

と歌っており、歌詞カードとは違う言葉になっているが、それはわざとなのか、或いは歌詞カードが「誤植」なのか…。

しかし、以後、桑田は、サザンのライブ等では、

「俺を溶ろかせる女でいてよ…」

と、歌い続けているので、多分そちらが「正解」なのだろう。

なお、『わすれじのレイド・バック』は、オリコン最高「41位」に終わり、本当にビックリするぐらい売れていないが、そんな結果はさておき、私は個人的には、この曲には大変思い入れが有る。

 

 

私は、中学生の頃、当時、大ヒットしていた、

『涙のキッス』

を聴いて、サザンにハマったが、以後、私はそれまでサザンがリリースしていた、過去の曲も沢山聴くようになっていた。

そして、高校受験が終わり、無事に高校進学が決まった、ちょうどその頃に聴いていたのが、

『わすれじのレイド・バック』

であった。

私は、中学3年~高校1年の間の春休みに、サザンゆかりの地である、憧れの江ノ島を訪れたが、その時、私の頭の中で、繰り返し流れていたぐらい、印象的だった曲が、

『わすれじのレイド・バック』

である。

だから、私はこの曲を聴くと、あの頃の情景を、まざまざと思い出すのである。

「あの時、江ノ島に行ったなあ…」

と、私は勝手に(?)感慨に浸っている次第である。

まあ、私の感慨はともかく、桑田佳祐は、総じてセールス的には芳しくなかった、

「Five Rock Show」

を振り返り、

「半年間、休んでも、世間は付いて来てくれるかと思ったら、とんだ計算違いだった…」

と、後にボヤいていた。

だが、サザンにとって、音楽制作に没頭し、バンドとして成長する事が出来た、重要な期間だった事は、間違いない。

なお、

『わすれじのレイド・バック』

のB面は、当時、病気でお休みしていた原由子を除く、サザンの5人のメンバー達が交互に歌うという、その名も

『Five Rock Show』

という楽曲であるが、その曲については、次回、詳しくご紹介させて頂く予定である。

 

<1980(昭和55)年7月1日…松田聖子、2枚目のシングル『青い珊瑚礁』リリース>

 

 

 

さて、サザンオールスターズが、

『わすれじのレイド・バック』

をリリースする、少し前の事、

1980(昭和55)年7月1日、この年(1980年)にデビューしたばかりの新人アイドル・松田聖子が、2枚目のシングル、

『青い珊瑚礁』

をリリースした。

『青い珊瑚礁』

といえば、いきなり、

「あゝ私の恋は 南の風に乗って走るわ…」

という、一番美味しいサビの部分から始まる曲であるが、この曲が、素直に伸びやかな声で歌う、松田聖子という歌手の歌い方には、とてもピッタリであった。

しかも、季節はちょうど夏である。

その1980(昭和55)年夏、『青い珊瑚礁』はぐんぐんとヒットチャートを駆け上がって行く事となるのである。

遂に、松田聖子の大ブレイクの時が訪れようとしていた。

 

<1980(昭和55)年…松田聖子の『青い珊瑚礁』が、「ザ・ベストテン」で「1位」を獲得するなど、爆発的な大ヒット~遂に「松田聖子の時代」が到来>

 

 

 

 

 

 

 

さて、これはあまりにも有名なエピソードだが、松田聖子が歌う、

『青い珊瑚礁』

は、ヒットチャートを急上昇し、1980(昭和55)年8月14日放送の「ザ・ベストテン」で、

『青い珊瑚礁』「8位」で初登場した時、松田聖子は、羽田空港で飛行機のタラップから降りて来て、そのまま羽田空港の滑走路で、『青い珊瑚礁』を歌った。

あまりにも鮮烈な、松田聖子の「ザ・ベストテン」初登場だったが、当時19歳という、若さ溢れる新人アイドル、松田聖子が歌う『青い珊瑚礁』は、人々の心をガッチリ掴み、以後もヒットチャートを駆け上がって行った。

 

 

 

 

 

『青い珊瑚礁』

は、1980(昭和55)年夏の間中、とにかく売れ続け、

1980(昭和55)年9月18日、松田聖子『青い珊瑚礁』は、当時、これまた大ヒットしていた、田原俊彦『哀愁でいと』を抜いて、遂に「ザ・ベストテン」で「1位」を獲得した。

以後、『青い珊瑚礁』は、「ザ・ベストテン」で3週連続「1位」となるなど、爆発的な大ヒットとなった。

ここに、以後も長く続く、

「松田聖子の時代」

が、遂に到来した。

私も、『青い珊瑚礁』は本当に素晴らしい曲だと思うが、松田聖子が歌ったからこそ、更に、この曲の魅力が増したのではないかと、私は思っている。

 

 

なお、これは「余談」だが、松田聖子による、

『青い珊瑚礁』

が大ヒットしていた頃、

1980(昭和55)年8月14日(※松田聖子『青い珊瑚礁』が、「ザ・ベストテン」に初登場した日)、同曲と全く同じタイトルの映画、

『青い珊瑚礁』

が公開された。

この映画は、松田聖子の曲と、偶然同じタイトルだったのかどうかはわからないが、当時、大人気だったブルック・シールズが主演する『青い珊瑚礁』も、大ヒットを記録している。

ちなみに、この映画は、若い男女が無人島に取り残される…というストーリーの映画であり、以後、多くの「亜流」作品が生まれた。

それはともかく、1980(昭和55)年夏は、歌も映画も『青い珊瑚礁』の大旋風が吹き荒れた季節であった。

 

<吹き荒れる「金八旋風」②~田原俊彦のデビュー曲『哀愁でいと』が大ヒット~ザ・ベストテンで「1位」を記録~松田聖子『青い珊瑚礁』と激しく「1位」を争う>

 

 

 

 

さてさて、

『3年B組 金八先生』

が大ヒットし、その「金八先生」には、

田原俊彦・野村義男・近藤真彦…

という、所謂、ジャニーズの「たのきんトリオ」が出演していた事は、既に述べた。

そして、「金八」出演の生徒役の中から、田原俊彦が、1980(昭和55)年6月21日、

『哀愁でいと』

で、いち早く歌手デビューを果たした。

すると、『哀愁でいと』は、1980(昭和55)年7月10日に、「8位」「ザ・ベストテン」に初登場すると、

1980(昭和55)年8月28日、もんた&ブラザーズ『ダンシング・オールナイト』から、『哀愁でいと』「ザ・ベストテン」の「1位」の座を奪った。

当時、「トシちゃん」こと田原俊彦の人気は、それだけ凄まじかった。

そして、田原俊彦『哀愁でいと』3週連続「1位」を獲得したが、その『哀愁でいと』から「1位」の座を奪ったのが、松田聖子『青い珊瑚礁』だった…というのは、既に述べた通りである。

 

 

このように、田原俊彦『哀愁でいと』と、松田聖子『青い珊瑚礁』は、ちょうど同じ時期ぐらいに大ヒットしていた。

従って、この2人は「ザ・ベストテン」などの歌番組でも、自然と「共演」する機会が増えて行った。

田原俊彦は当時19歳、松田聖子は当時18歳…という事で、ほぼ同年代だったが、この2人がテレビ番組で「共演」する度に、

「トシちゃんに、くっつかないでよ!!」

と、テレビ局へ、若い女性ファンから松田聖子に対しての「抗議」が殺到した…というエピソードも有った。

…という事で、期せずして、田原俊彦松田聖子という、2人のスーパーアイドルが登場した頃、

サザンオールスターズは、遂に「充電」を終え、公の場にカムバックする事となった…。

…という事であるが、その話については、また次回。

 

(つづく)