1980(昭和55)年のサザンオールスターズ ~『Five Rock Show』を語る(後編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1980(昭和55)年初頭、サザンオールスターズは、半年間、テレビ出演やライブ活動を行なわず、

「半年間の充電」

を行ない、その間、サザンはレコーディングに専念し、1ヶ月に1枚のペースでシングルをリリースするという、

「Five Rock Show」

という試みを行なっている。

今回は、1980(昭和55)年のサザンオールスターズ「Five Rock Show」にスポットを当て、記事を書かせて頂いている。

 

 

その1980(昭和55)年のサザンオールスターズの、

「Five Rock Show」

の内訳は、下記の通りである。

 

・『涙のアベニュー』(1980.2.21)

・『恋するマンスリー・デイ』(1980.3.21)

・『いなせなロコモーション』(1980.5.21)

・『ジャズマン(JAZZ MAN)』(1980.6.21)

・『わすれじのレイド・バック』(1980.7.21)

 

 

前回までの記事で、

「Five Rock Show」

のシングルの内、

『涙のアベニュー』『恋するマンスリー・デイ』『いなせなロコモーション』

…について、ご紹介させて頂いたので、今回はその「続編」である。

という事で、

「1980(昭和55)年のサザンオールスターズ(後編)」

を、ご覧頂こう。

 

<1980(昭和55)年2月25日…シャネルズのデビュー曲『ランナウェイ』リリース~「イーストウエスト’77」で、アマチュア・バンド時代のサザンと「競演」していたシャネルズ>

 

 

 

1977(昭和52)年8月27日、当時、まだ青山学生大学の学生バンドだったサザンオールスターズは、ヤマハ主催のアマチュア・バンドコンテスト、

「イーストウエスト’77」

の決勝大会に出場していた。

当時、サザンがこの大会に出場する事を、メンバー達に強く勧めていたのが、サザンのギタリスト、大森隆志だった…という事は、既に何度も述べている。

サザンは、「イーストウエスト'77」の地方大会⇒ブロック大会を勝ち進み、この日(1977/8/27)、中野サンプラザで行われた決勝大会に駒を進めていたが、そこで桑田佳祐が見事に「ベスト・ボーカリスト賞」を受賞した。

そして、この大会を見ていた、レコード会社、ビクターの高垣健によってサザンは「スカウト」され、サザンはプロデビューへの切符を掴んでいた。

 

 

 

そして、この時の、

「イーストウエスト'77」

には、鈴木雅之・田代まさし・桑野信義…らが居た、

「シャネルズ」

というバンドも出場しており、

「シャネルズ」

も、同大会で入賞を果たしている。

この時、「シャネルズ」は、まだデビューには至らなかったものの、

翌1978(昭和53)年の「イーストウエスト」でも、「シャネルズ」は好成績を収めた。

そして、サザンのデビューから遅れる事2年、「シャネルズ」も遂にプロデビューを果たした。

 

 

 

1980(昭和55)年2月25日、シャネルズは、

『ランナウェイ』

という曲で、プロデビューを飾った。

『ランナウェイ』

は、シャネルズがリスペクトする、黒人音楽へのオマージュを、わかりやすく表すため、シャネルズのメンバー達は、敢えて顔を黒塗りにして歌っていた。

そして、古き良き黒人音楽のエッセンスを取り入れた『ランナウェイ』は、とても素晴らしい曲であり、

『ランナウェイ』は、「オリコン1位」にまで上昇する大ヒットとなり、シャネルズはデビュー早々に大ブレイクを果たした。

ちなみに、『ランナウェイ』(1980.2.25)のリリースは、

サザンの「Five Rock Show」の「第1弾」である、『涙のアベニュー』(1980.2.21)の4日後の事であった。

 

<1980(昭和55)年4月21日…もんた&ブラザーズ『ダンシング・オールナイト』リリース~「200万枚超」の爆発的な大ヒット~1980年代を通して最も売れた曲>

 

 

 

 

1980(昭和55)年4月21日、当時29歳のもんたよしのり率いる、

もんた&ブラザーズというバンドのデビュー曲、

『ダンシング・オールナイト』

がリリースされた。

もんたよしのりは、当初、ソロ歌手としてデビューしていたものの、あまり売れず、

もんたよしのりは、再起をかけて、もんた&ブラザーズというバンドを結成し、

『ダンシング・オールナイト』

で、「再デビュー」をしていた。

言わば、もんたよしのりの再起をかけた「勝負曲」であった。

 

 

 

 

そして、

『ダンシング・オールナイト』

は、何と、オリコン10週連続「1位」を達成するなど、爆発的な大ヒットとなった。

『ダンシング・オールナイト』

の最大の魅力は、何と言っても、ボーカルのもんたよしのりの、超ハスキーな声である。

サザンの桑田佳祐も、若い頃は特に、ハスキー・ボイスだったが、もんたよしのりの声は、ハスキーどころの話ではなく、一度聴いたら絶対に忘れられないような、物凄い声である。

そして、もんたよしのりが、魂を込めて歌い上げる『ダンシング・オールナイト』は、前述のように大ヒットを記録し、最終的には「200万枚超」という、特大ヒットとなった。

なお、これは、1980年代を通して、最も売れたシングルとして、記録に残っている。

ちなみに、『ダンシング・オールナイト』(1980.4.21)のリリースは、

サザンの「Five Rock Show」で言うと、

『恋するマンスリー・デイ』(1980.3.21)、『いなせなロコモーション』(1980.5.21)

の、ちょうど狭間の時期にあたっている。

 

<1980(昭和55)年5月21日…山口百恵、通算30枚目のシングル『ロックンロール・ウィドウ』リリース~「作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童」の「百恵ソング」の最高傑作~オリコン最高「3位」の大ヒット>

 

 

1980(昭和55)年5月21日、山口百恵は、通算30枚目のシングル、

『ロックンロール・ウィドウ』

をリリースした。

まず初めに言っておくが、私は個人的には、山口百恵の数有る名曲の中でも、『ロックンロール・ウィドウ』が一番好きな曲である。

そして、『ロックンロール・ウィドウ』こそ、

「作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童」

のコンビが手掛けた、「百恵ソング」の最高傑作ではないかと、私は思っている。

なお、この時期、百恵は既に三浦友和との結婚と、この年(1980年)11月での「完全引退」を既に発表していた時期である。

 

 

 

 

このブログでは、今まで、散々書いて来た話なので、

「また、その話か…」

と思われる方も沢山居ると思われるが(?)、一応、また書いてしまうと、

ミュージシャンを目指していた宇崎竜童と、物書きになる事を目指していた阿木燿子は、明治大学「運命の出逢い」を果たし、1971(昭和46)年、宇崎竜童が25歳、阿木燿子が26歳の時に、2人は結婚した。

以後、この2人はコンビを組み、宇崎竜童が結成した、

「ダウン・ダウン・ブギウギ・バンド」

では、1975(昭和50)年、

「作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童」

のコンビで作り上げた、

『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』

を、大ヒットさせている。

 

 

そして、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」に惚れ込んだのが、山口百恵だった。

百恵は、宇崎竜童に対し、

「今度、私の曲を書いて下さい」

と、直接依頼したが、その百恵の依頼を受け、1976(昭和51)年、

「作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童」

のコンビで、百恵のために書いた曲が、

『横須賀ストーリー』

であった。

そして、『横須賀ストーリー』は大ヒットし、以後、百恵は歌手として、

「作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童」

のコンビが手掛けた楽曲、

『イミテイション・ゴールド』『プレイバック part2』『絶体絶命』『美・サイレント』『しなやかに歌って』

…といった曲を、次々に大ヒットさせた。

つまり、

「歌手:山口百恵」

を最高に輝かせたのが、宇崎竜童阿木燿子のコンビだった…と言えよう。

「どうしたら、百恵さんを輝かせる事が出来るのか」「どうやったら、百恵さんの魅力を引き出す事が出来るのか」

…という事を、宇崎竜童阿木燿子のコンビは、とてもよくわかっていた。

そして、山口百恵も、このコンビが作った曲に対し、1曲1曲、その曲の主人公になりきって歌い、実に素晴らしいパフォーマンスを見せた。

 

 

 

 

そして、

「作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童」

のコンビが、山口百恵の魅力を最大限に引き出した楽曲こそ、

『ロックンロール・ウィドウ』

だった。

まず、この曲の百恵の衣装は、ツッパリ風でありつつもエレガントで、この曲のイメージに合った、濃いメイクをしている百恵が、とてもカッコイイ。

この曲における百恵の役柄は、ズバリ、

「不良ロックバンド(?)の女ボーカル」

といったものだと思われるが、その役を百恵が実に楽しそうに演じている。

そして、百恵のロックっぽい歌いっぷりが、本当に素晴らしい。

 

 

「僕は、百恵さんの事をアイドルだと思って曲を書いた事は一度も無い」

と、宇崎竜童は後に語っているが、その言葉どおり、

「歌手:山口百恵」

に対し、いつも真剣勝負で曲を作っていた。

百恵も、それに対して全力で応え、次々に名曲が生まれて行った。

「作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童、歌手:山口百恵」

という、黄金チームの最高傑作こそ、

『ロックンロール・ウィドウ』

であると、私は思う。

という事で、『ロックンロール・ウィドウ』は、オリコン最高「3位」という大ヒットを記録しているが、

ちなみに、『ロックンロール・ウィドウ』(1980.5.21)は、サザンの『いなせなロコモーション』(1980.5.21)と全く同日のリリースである。

 

<サザンが宇崎竜童へのリスペクトを込めて歌った『Hey!Ryudo!』~ビートルズの『Hey Jude』の「もじり」>

 

 

さて、そんな宇崎竜童に対し、サザンがリスペクトを込めて歌った曲が、

『涙のアベニュー』

のB面の曲であり、

『タイニイ・バブルス』

というアルバムにも収録されていた、

『Hey!Ryudo!』

という曲である。

という事で、

『Hey!Ryudo!』

の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

『Hey!Ryudo!』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

※恋をしたり めげてみたり 割とむじゃき 時にフラリ

アンナ男に愛されもしたら※

 

あいすいません ひと頃よりお目にかかれません

つかの間に話も ちょいと聞いてもらえりゃいい

言葉で云えず雨に唄えば

とどのつまり伝えたいわ 涙が出ちゃう

 

あきらめましょう 大人になることは 何もかも

とまどいも ふた言目にゃあ ぐっと噛みしめて

かわり身の良さだけじゃ 駄目よね

せめて もう一度だけ Boogie Woogie

 

逢えて初めてお前に 素直になれたらいいじゃない

お気に召すまま 願わくばそばにいたい

ヨコしまな心にさえ 清らかにたもれ

なんとかなるてなもんじゃ ないと思うてた

No cry! Me? Anymore

 

Oh!あいすいません 心の内を話せば悪かろと

思い知りつつ 嫌われるでしょう

こんな私がイヤになったでしょう 手に取るほどに

会えば会うでそれだけ 何気なくもせつなく

二人ともに雨に濡れてる

 

※Repeat

 

Hey! Ryudo 今さら言うのも変よね 唄いなさい

なぐさめはいらない ただそうよ心から

身にしみるようなメロディ聞かせて

思い出などとうに忘れて

 

何するにせよ互いに 夢中の頃のがいいじゃない

さめたヒトミの人には 何もできない

Everytime's to those, try to be with you,

just you'n me

任せていおいてと

なんとかなるてなもんじゃ ないと思うてた

Everyday I miss you, No cry! Anymore!

 

 

 

…という事であるが、まず言っておくと、

『Hey! Ryudo!』

をカラオケで歌う事は、あまりお勧めしない。

何故かと言えば、この曲は言葉の数も多いし、とにかくリズムもメロディーも難しく、多分、素人に歌いこなすのは、まず無理である。

それだけ、凝った曲であるとも言えるが、

『Hey! Ryudo!』

は、この時期のサザンの楽曲のアレンジを担当していた、偉大なるジャズ・ミュージシャン、八木正生によって、またしてもジャズ風にアレンジされている。

そして、この曲は、一見、ラブソング風の体裁を取ってはいるが、この時期、山口百恵への楽曲提供が続いていた宇崎竜童に対し、

「宇崎さん、また歌って下さいよ!!」

…という、桑田なりのエールが込められているのではないか…と、私は思っている。

作曲家としての宇崎竜童も良いが、やはりボーカリストとしての宇崎竜童も素晴らしいと、桑田も宇崎に対し、最大限のリスペクトをしているのではないかと思われる。

 

 

 

 

 

そして、

『Hey!Ryudo!』

について、もう一つ、付け加えておく。

この曲は、勿論、あのビートルズの名曲、

『Hey Jude』

を、もじった物である。

『Hey Jude』

は、ジョン・レノンと、ジョンの最初の妻・シンシアとの間の生まれた長男、ジュリアンに向けて、ポール・マッカートニーが、

「Hey Jude」

という、ジュリアンの愛称を呼び、語り掛けるようにして作った曲である。

「ジュード(ジュリアン)、お前も元気出せよ!!」

と、ポールが語り掛けるように歌い、最後はビートルズ全員で大合唱して、大盛り上がりするという楽曲であるが、

私は中学校の音楽の時間で、

『Hey Jude』

を習った。

まあ、学校の授業で習う曲としては相応しい曲と言って良いであろうが、勿論、『Hey Jude』も素晴らしい曲だが、ビートルズには他にも素晴らしい名曲が沢山有る…という事を、その後、私は自発的にビートルズの曲を聴くようになってから知ったのであった。

 

<1980(昭和55)年6月5日…長渕剛『順子』がリリース~オリコン6週連続「1位」の大ヒット~当時は「爽やか青年」だった(?)長渕剛>

 

 

さて、サザンと同じ1978(昭和53)年にデビューしていた長渕剛は、当初、線の細いフォーク歌手、といったイメージが強く、

「遅れて来たフォーク青年」

などと称されていた。

当時は、1970年代に一世を風靡したフォーク・ソングのブームは去っていたが、長渕は、ギター一本でフォーク・ソングを歌うのが良く似合う青年であった。

なお、長渕剛は1956(昭和31)年9月7日生まれなので、

1956(昭和31)年2月26日生まれの桑田佳祐と、年齢は同じだが、学年でいうと桑田の方が長渕よりも1つ年上である。

そんな長渕は、既に『巡恋歌』『乾杯』などの名曲を生み出しており、コアなファンを熱狂させていた。

 

 

 

そんな長渕剛は、1980(昭和55)年6月5日、

『順子』

という曲をリリースした。

『順子』

は、元々、『逆流』というアルバムに収録されていた曲だったが、ファンから圧倒的な人気が有り、そのファンからの要望に応え、シングル・カットされた曲である。

そして、『順子』は、オリコン6週連続「1位」という大ヒットを記録した。

前年(1979年)、サザンオールスターズが、

『いとしのエリー』

を大ヒットさせていたが、長渕剛による、

『順子』

も、男が女を想う切ない心情を歌った曲であり、何処となく「共通点」が有るように思われる。

勿論、それぞれ全く違った魅力が有り、どちらも素晴らしい曲であるのは間違いない。

しかし、後年の長渕は、芸風(?)が変わってしまい、初期の頃の「爽やか青年」ぶりも消え失せ、長渕はすっかり「チンピラ」にようになってしまい、桑田佳祐とも、何とも下らない理由(?)で大喧嘩してしまった…。

それは誠に残念な限りである。

ちなみに、

「桑田佳祐VS長渕剛」

の詳細の記事は、当ブログで2019(令和元)年9月に書いたので、ご興味が有れば、ご覧頂きたい。

 

<1980(昭和55)年6月21日…サザンオールスターズ、通算9枚目のシングル『ジャズマン(JAZZ MAN)』リリース~「Five Rock Show」の「第4弾」>

 

 

さて、1980(昭和55)年6月21日、サザンオールスターズは、通算9枚目のシングル、

『ジャズマン(JAZZ MAN)』

をリリースした。

『ジャズマン(JAZZ MAN)』

は、この年(1980年)のサザンの、

「Five Rock Show」

の、「第4弾」のシングルである。

この曲は、その名の通り、サザンが「ジャズ」に挑戦しており、全体的に大人な雰囲気のジャズ風アレンジがされている曲であるが、この曲の最中、桑田佳祐は、ジャズ界の大物、「サッチモ」ことルイ・アームストロング「モノマネ」のような歌い方をしている箇所が有る。

 

 

という事で、様々な「新機軸」に挑戦していたサザンが、今度は本格的な「ジャズ」に挑んだわけであるが、

『ジャズマン(JAZZ MAN)』

は、オリコン最高「33位」という結果に終わってしまった。

今見ると、ビックリするぐらい売れていないが、シングルとして出すには、ちょっと地味と言えば地味な曲である(※私は結構好きな曲だが)。

「うーん、思ったより売れないなあ…」

この頃になると、セールス的に伸び悩む曲が続き、桑田やサザンのメンバー達も、色々と思い悩んでいたかもしれないが、

「それでも、自分達のやりたい音楽を追求しよう!!」

という、サザンの姿勢は変わらなかった。

そして、

『ジャズマン(JAZZ MAN)』

のB面の曲、

『ひょうたんからこま』

で、遂にサザンのベーシスト・関口和之が、初の作詞・作曲とリード・ボーカルに挑戦した。

 

<『ジャズマン(JAZZ MAN)』のB面『ひょうたんからこま』で、サザンのベース担当:関口和之が作詞・作曲とリードボーカルに挑戦>

 

 

サザンのベース担当:関口和之は、そのあだ名が、

「ムクちゃん」

と言われているが、それには2つの理由が有る。

一つは、関口が飼っていた愛犬の名前「ムク」から取られたという物であり、

もう一つは、関口はとても「無口」である…という物である。

後年、桑田佳祐関口和之について、

「僕は、40年間、彼から一度も話しかけられた事が無いです」

と、冗談交じり(?)に言っていたが、いくら何でも、それは無いにしても(?)、関口はあまり余計な事は言わず、いつも一歩引いた所から、サザンのメンバー達を見守っている…ような印象が有る。

そんな関口和之が作詞・作曲し、ボーカルも務めた、

『ひょうたんからこま』

の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

『ひょうたんからこま』

作詞・作曲:関口和之

唄:サザンオールスターズ(リードボーカル:関口和之)

 

Lookin' a mirror 声も出ない

涙あふれ twilight of sea

俺に恋した話だけ 夢に見たけど

 

Live in dream 時がたてば

(それに)もしかしての fairy tale

Live in a lonley dream

言葉じゃわかるはずない a wild tale love

 

※胸がふるえているのんね

ひょうたんからこま待ってんね tommorow

そんな気持ちはわからんね

行ったきりなら帰れんわ よしとけ

思いがけなくお別れなんて せめてCまでの関係

 

恋なんかなりゆき

いつだって hope your good luck

 

Lovin' your love 恋はモノトーン

あなたに会うまでの lonely days

Lokkin' a mirror 声も出ない

恋にこがれたピエロ

さめて響く言葉も 胸にとどけば sweet ララバイ

 

※Repeat

 

 

…という事であるが、

『ひょうたんからこま』

は、憂いを帯びた切ない曲調であるが、とても素晴らしい曲である。

そして、「ムクちゃん」こと関口和之は、実は甘い歌声の持ち主であり、

『ひょうたんからこま』

の曲調には、関口のボーカルが、とても良く合っている。

ちなみに、

「恋なんかなりゆき

いつだって hope your good luck」

の箇所は、桑田佳祐が歌っており、桑田が関口を「サポート」している。

 

 

ちなみに、桑田佳祐は、関口和之の事を評して、こんな事を言っている。

「楽器って、(※弾く人の)性格が出るから、『ん!?何て弾いた!?』みたいに思う事が有ったりするけど、関口が弾くベースのフレーズって、本当に凄い。ぶっ込んで来るフレーズとか、ベーシストとしてのセンスとか、あれは異常(※異常に凄い)」

…という事であるが、関口はあまり喋らない人ではあるが、ベーシストとしては卓越した腕前が有り、しかも、ベースを弾く時は、主張する所は主張し、

「この曲には、このフレーズが合っている」

と思うと、そこは絶対に譲らないのだという。

そして、いざバンドで曲を合わせてみると、それが抜群に楽曲と合っている…という事が多々有るようである。

「サザンは、関口のベースによって支えられている」

と言っても、過言ではあるまい。

なお、原由子は、関口について、

「いつも優しくて、無口ですけど…(笑)。いざという時は頼りになるというか…。私にとっては、お兄さん的な存在ですね」

と、語っている。

という事で、そんな関口和之が歌っている、

『ひょうたんからこま』

は、素晴らしい曲なので、是非ともお聴き頂きたい。

 

(つづく)