本日(2024/2/26)は、サザンオールスターズの桑田佳祐の68歳の誕生日である。
桑田さん、お誕生日おめでとうございます!!
…という事で、今回は私が敬愛する桑田佳祐氏の誕生日を記念し(?)、
当ブログにおける、一つの「柱」である「サザン史」の記事を書く。
当ブログでは、
「サザンオールスターズと野球界の40年」
という、長期連載の記事があり、それは一旦「完結」したが、
その「続編」として、
「2019(令和元)年のサザンオールスターズと野球界」
について、またシリーズ記事で書かせて頂いている。
そして、今回、スポットを当てるのは、
2019(令和元)年12月27日に公開された映画、
『男はつらいよ お帰り 寅さん』
の主題歌を、桑田佳祐が歌った…というトピックを取り上げる。
『男はつらいよ』
シリーズといえば、日本人なら誰もが知っている、超人気シリーズであり、
このシリーズの主人公で、渥美清が演じる車寅次郎、人呼んで、
「寅さん」
の事を知らない日本人も、誰も居ない。
私の父も、「寅さん」シリーズの大ファンだったが、このシリーズは、
1969(昭和44)~1996(平成8)年にかけて、全て山田洋次監督で「全48作」が作られたが、
1996(平成8)年8月4日、渥美清が享年68歳で亡くなってしまい、惜しくも「未完」のまま終わってしまった。
その後、渥美清の没後の「特別編」として、1997(平成9)年に、
『男はつらいよ 寅次郎 ハイビスカスの花 特別編』
が、「寅さん」シリーズの「49作目」として公開され、そこでシリーズは幕を閉じた…筈だった。
しかし、「寅さん」の人気は大変根強く、2019(令和元)年、遂に山田洋次監督が、ファンからの熱い要望に応え、
「寅さん」シリーズの「新作」として、
『男はつらいよ お帰り寅さん』
を撮った。
これは、「寅さん」シリーズの「50作目」であり、第1作の公開から、ちょうど「50周年」という節目でもあった。
そして、この作品の主題歌を歌ったのが桑田佳祐であるが、これは山田洋次監督の、たっての要望により実現したものである。
という事で、今回は、
「サザンオールスターズと野球界の41年」
として、桑田佳祐が、帰って来た「寅さん」映画の主題歌を歌う事になった経緯を描く。
それでは、まずは「第1章」として、
「渥美清と黒柳徹子」
の軌跡を、ご覧頂こう。
<1953(昭和28)年2月1日…NHKで「テレビ放送」が開始~「テレビが始まった日」から、既にテレビに出ていた黒柳徹子(当時20歳)>
1953(昭和28)年2月1日、NHKが日本初となる、
「テレビ放送」
を開始した。
この日(1953/2/1)を以て、日本における、
「テレビ史」
が幕を開けたわけだが、その記念すべきテレビ放送開始の日(1953/2/1)からテレビに出ていたのが、1933(昭和8)年生まれで、当時20歳だった黒柳徹子である。
当時、NHKはテレビ局を開局するにあたり、
「NHK専属女優」
を募集していたが、高倍率の狭き門を突破し、当時、東洋音楽専門学校(現・東京音楽大学)の声楽科に在学していた、20歳の黒柳徹子が、その座を勝ち取った。
そして、その日以来、今日に至るまで、黒柳徹子は、何と70年以上にわたり、テレビに出続けている。
つまり、黒柳徹子という人は、
「テレビの歴史の生き証人」
とも言うべき、物凄い人物であるが、その黒柳徹子の「盟友」として、生涯にわたる友情を築いたのが、渥美清である。
<「浅草フランス座」のコメディアンとして芸を磨いて来た叩き上げの渥美清>
さて、一方、渥美清は、1928(昭和3)年生まれで、黒柳徹子よりも5歳年上だったが、
東京・上野の下町生まれの下町育ちだった渥美清は、コメディアンを志し、
1951(昭和26)年、25歳にして、初舞台を踏んだ。
2年後の1953(昭和28)年、渥美清は、当時、浅草六区にあった、
「浅草フランス座」
の門を叩き、コメディアンとしてのスタートを切った。
当時、渥美清は、舞台を所狭しと駆け回る、ドタバタ喜劇を得意としていたが、
1954(昭和29)年、渥美は肺結核を患い、右肺を切除した。
この病気により、渥美は2年間の療養生活を送ったが、その間、自分と向き合った渥美は「人生」について深く考えるようになった。
その後、芸人として復帰を果たした渥美は、酒や煙草、そしてコーヒーも一切、口にしないという、徹底した摂生ぶりで、身体に気を遣う生活を送るようになった。
そして、渥美清は、主に舞台で活躍する「叩き上げ」の芸人(コメディアン)として、徐々に頭角を現して行った。
<1956(昭和31)年…石原慎太郎・石原裕次郎兄弟がデビューし「太陽族」ブームが起こる~桑田佳祐・原由子が誕生~そして、渥美清がテレビ界に入る>
1956(昭和31)年は、エポック・メーキングな年だった。
もう既に、このブログでは散々、書いて来たので、ここはサラッと流す事にするが(?)、
この年(1956年)、一橋大学の学生作家・石原慎太郎が書いた小説、
『太陽の季節』
が、史上最年少の23歳で芥川賞を受賞し、大ベストセラーになると、
この小説に触発され、『太陽の季節』の舞台だった湘南の海を遊び場とする若者達、
「太陽族」
が出現し、社会現象となった。
そして、兄・慎太郎が書いた『太陽の季節』が日活で映画化されると、その映画版『太陽の季節』で、
石原慎太郎の弟・石原裕次郎が俳優としてデビューし、以後、石原裕次郎は大スターへの道を歩んで行く事となった。
という事で、1956(昭和31)年は、
「石原兄弟」
が、鮮烈にデビューした年…という事で、まずは記憶に残る年である。
そして、「石原兄弟」がデビューした、1956(昭和31)年といえば、
後にサザンオールスターズを結成する事になる、桑田佳祐と原由子が生まれた年でもあった。
今から68年前の本日(2/26)…1956(昭和31)年2月26日に桑田佳祐が生まれ、
同年(1956年)12月11日に、原由子が生まれた。
そして、桑田と原は、その19年後の1975(昭和50)年に青山学院大学で出逢い、
その青山学院の在学中に、桑田と原が中心となって、サザンオールスターズが結成された…。
という事で、その話も、今まで散々書いて来たので、ここでは詳細は割愛(?)させて頂く。
そして、この年(1956年)…。
当時28歳だった渥美清が、テレビの世界に入った。
渥美は、日本テレビの、
『すいれん夫人とバラ娘』
という連続ドラマで、テレビ初出演を果たしたが、
以後、渥美は特徴のある顔立ちと、下町育ちらしい気風の良さと明るさで、視聴者にインパクトを与え、舞台に続き、テレビの世界でも徐々に頭角を現して行った。
なお、黎明期のテレビは、ニュースは勿論、ドラマもバラエティー番組も、全て「生放送」であった。
今では考えられないが、
「テレビは、全て、生で起こっている事を伝える物」
というのが「常識」という時代だった。
また、当時はビデオテープなどは無く、従って黎明期のテレビの映像は殆んど残っていない。
というよりも、そもそも、
「テレビの映像を後世に残す」
という概念自体が全く無い時代であった。
<1958(昭和33)年…石原裕次郎が映画界の大スターに君臨~東京タワーが完成し、TBSの『月光仮面』が大ヒット~黒柳徹子は当時25歳という「最年少」で、「紅白」の司会を務める~そして、渥美清は映画デビュー>
さて、1958(昭和33)年は、日本の大衆娯楽の王様は、
「映画」
であった。
そして、大衆娯楽の王座である映画の世界で、大スターとして君臨していたのが、石原裕次郎であった。
当時、日活の専属俳優だった裕次郎は、ほぼ毎月のペースで映画に主演し、その裕次郎が主演する映画は、全て軒並み大ヒットしていた。
それぐらい、当時の裕次郎の人気は圧倒的だったが、この年(1958年)、日本の映画人口は、
「11億人」
を突破していた。
つまり、年間で1人10回以上は、人々が映画を見に行っていた時代だった。
その全盛時代の映画の世界で、トップスターだったのが石原裕次郎である。
つまり、裕次郎こそが、
「日本で一番人気が有る男」
と言っても過言ではなかった。
前述の通り、1958(昭和33)年当時、大衆娯楽の王座に、
「映画」
が君臨していたが、それに比べて、当時はまだ新興メディアに過ぎなかったのが、
「テレビ」
である。
まだまだ、テレビを持っている家庭も少なく、しかも、黎明期のテレビは番組のコンテンツもショボかった(?)ので、映画業界からは、テレビの事は、
「電気紙芝居」
などと言われ、馬鹿にされていた。
しかし、それでもテレビの需要は徐々に増えて行き、1958(昭和33)年には、
「東京タワー」
という、テレビのための電波塔も完成している。
そして、この年(1958年)、新興メディアであるテレビ界で、大ヒット番組となったのが、
『月光仮面』
という、TBSで放送された、ヒーロー物の番組、
『月光仮面』
は、子供達の間で大人気となり、
「月光仮面ごっこ」
で遊ぶ子供達の姿が、沢山見られるようになっていた。
つまり、『月光仮面』は、初期のテレビ勃興の象徴的な番組だった。
そして、この年(1958年)、あの黒柳徹子は、当時25歳という「史上最年少」で、
「第9回NHK紅白歌合戦」
の司会を務めていた。
黒柳徹子は、とにかく頭の回転が早く、喋りも達者だったので、NHKテレビを牽引するタレントとして欠かせない存在になっていたが、その黒柳が、「紅白」の司会という大役に抜擢された。
ちなみに、この時の「紅白」は、史上唯一、新宿コマ劇場を借りて開催されたが、当時はまだNHKホールは完成しておらず、「紅白」は、都内の大きな会場を借りて開催されていた。
また、当時の芸能界・音楽界では、「紅白」の地位も全然高くはなかった。
そのため、「紅白」に出演するような歌手達は皆、何処かの会場でコンサートを「掛け持ち」しており、そのコンサートが終わってから、「紅白」に駆け付ける…という有り様であった。
「私、司会だったけど、次に誰が出るかなんて、全然わからなかった。その内、パトカーに先導されて、歌手の人が紅白の会場に着くと、舞台袖に居たスタッフが、『男、来ました!!』『女、来ました!!』って、司会の私に伝えるのよ。でも、みんな化粧が濃いから、誰が誰だか、全然わからなかった…」
後年、黒柳は、その時の「紅白」のドタバタぶりについて、そんな風に回想している。
という事で、当時25歳の黒柳徹子は、ドタバタながらも、何とか「紅白」司会の大役を果たすまでの存在になっていた。
そして、この年(1958年)…。
当時30歳だった渥美清は、
『おトラさん大繁盛』
なる映画で、「映画デビュー」を果たしている。
勿論、ほんの「端役」ではあったが、遂に渥美は映画界で第一歩を記した。
なお、後年の「寅さん」の事を思えば、渥美の映画デビュー作のタイトルに、
「トラさん」
が付いている…というのも、何やら「運命的」である。
<NHK「夢であいましょう」(1961~1965)~渥美清と黒柳徹子が出逢い、「名コンビ」として活躍~少年時代の桑田佳祐も夢中になった「音楽バラエティー番組」>
さて、1961(昭和36)年、NHKで、
「夢であいましょう」
という番組が放送開始された。
そして、この番組にレギュラー出演していたのが、黒柳徹子・渥美清・坂本九・田辺靖雄…らの、個性豊かな面々だった。
そして、黒柳徹子と渥美清は、
「夢であいましょう」
で、出逢いを果たした。
黒柳と渥美は、どういうわけだか、大変、馬が合い、2人はとても仲が良かった。
お互いに、
「お嬢さん」「お兄ちゃん」
と、呼び合う仲だったらしいが、まさに兄と妹のように仲が良かったという。
だが、出逢った当時、山の手のお嬢様育ちの黒柳徹子と、下町生まれの下町育ちの渥美清は、全く気質が違っていた。
例えば、こんな事が有った。
「ねえ、黒柳さん。貴方が着ているシャツなんだけどさ…」
渥美が黒柳に、そう言って話しかけると、黒柳は「フン」と鼻を鳴らし、
「シャツですって?貴方、知らないでしょうけど、これはブラウスっていうのよ、ブラウス…」
などと言って、いちいち渥美の言い方を「訂正」したりしていた。
「黒柳さんって、お嬢様育ちだからさ。下町生まれの俺とは全然育ちが違うし、それに黒柳さんって、慶応ボーイみたいなスマートな男が好きだったからね。俺なんて、酷い扱いをされてたよ…」
後年、渥美はそんな風に冗談交じり(?)で言っていた。
だが、先程も述べた通り、そんな渥美と黒柳は、どういうわけだが、とても気が合った。
そして、生涯にわたり、2人は大親友同士の関係だった。
なお、この2人が出逢った、
「夢であいましょう」
は、歌ありコントあり芝居あり…という、音楽バラエティー番組であり、少年時代の桑田佳祐も夢中になって見ていたという。
<「シャボン玉ホリデー」(1961~1972)~ザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツらが活躍した、日本テレビの音楽バラエティー番組~後に桑田佳祐に大きな影響を与える>
さて、前述のNHKの音楽バラエティー番組、
「夢であいましょう」
と同じ年、1961(昭和36)年に放送開始されたのが、日本テレビの音楽バラエティー番組、
「シャボン玉ホリデー」
だった。
この番組は、当時、隆盛を誇っていた「ナベプロ」が製作を請け負い、
ザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツ…
という、「ナベプロ」の人気タレントが出演している番組だった。
「夢であいましょう」
が、NHKらしく、上品な雰囲気(?)だったのに対し、
「シャボン玉ホリデー」
は、民放の日本テレビらしく、もっと「はっちゃけた」番組であり、番組は活気に満ち溢れていた。
ザ・ピーナッツといば、ご存知の通り、歌唱力抜群の双子のユニットであり、
ハナ肇とクレージーキャッツといえば、元々は凄腕ミュージシャンが揃ったジャズバンドだった。しかし、
「シャボン玉ホリデー」
では、ザ・ピーナッツもクレージーキャッツも、コントやお笑いに挑戦し、視聴者に「笑い」を届けた。
クレージーキャッツは、音楽の演奏の腕前は確かだが、そんな彼らが、
「コミックバンド」
として、真面目にふざける(?)のが、ミソである。
そして、
「シャボン玉ホリデー」
には、勿論、歌や音楽のコーナーも有り、
「歌あり、コントあり、芝居あり」
…という、
「何でも有り」
の、豪華な内容で、視聴者を楽しませた。
このように、元々、1つの番組の中で、歌やコントや芝居など、色々な要素を楽しむ事が出来るという意味で、
「バラエティー番組」
という言葉が生まれたのである。
「昨今の、芸人達が雛段に座って、何かガヤガヤ言っているだけの番組が、バラエティー番組などと称しているのは、片腹痛い」
…というのは、晩年の大橋巨泉の言葉である。
それはともかく、桑田佳祐少年は、
「夢であいましょう」「シャボン玉ホリデー」
といった、音楽バラエティー番組に大きな影響を受けた…という事は、ここで強調しておきたい。
<映画俳優としてのキャリアを積み重ねて行く渥美清~そして、渥美清と倍賞千恵子が映画で共演>
さて、NHKの「夢であいましょう」で、一躍、大ブレイクを果たし、お茶の間の人気者となった渥美清は、その後、映画俳優としても、順調にキャリアを重ねて行った。
1961(昭和36)年に公開された映画、
『水溜り』
に、渥美清は脇役として出演しているが、この映画で、渥美清は倍賞千恵子と「初共演」を果たしている。
倍賞千恵子は、言うまでもなく、後に「寅さん」の妹・さくらを演じる事となる女優である。
なお、倍賞千恵子は1941(昭和16)年生まれで、当時20歳であった。
そして、翌1962(昭和37)年、倍賞千恵子は、歌手として、
『下町の太陽』
という曲を大ヒットさせ、「歌手」として大ブレイクしていた。
『下町の太陽』
は、翌1963(昭和38)年、倍賞千恵子の主演で、松竹で映画化されたが、この映画版『下町の太陽』の監督を務めたのが、山田洋次である。
東大(東京大学)出身の山田洋次監督は、1931(昭和6)年生まれ、当時31歳の新進気鋭の監督であり、これが監督としての長編第一作であった。
山田洋次が、「寅さん」を撮る事になるのは、この6年後である。
さて、倍賞千恵子が歌った、
『下町の太陽』
が大ヒットしていた、1962(昭和37)年、渥美清は、当時34歳にして、
『あいつばかりが何故もてる』
という映画で、遂に映画初主演を果たした。
そして、この映画で、渥美清と倍賞千恵子は、初めて「主役」同士で共演した。
渥美と倍賞が、
「寅さん」「さくら」
としてスクリーンに登場するのは、この7年後の事だった。
1963(昭和38)年、渥美清は、野村芳太郎監督の映画、
『拝啓天皇陛下様』
に主演した。
この映画で、渥美清は、
「カタカナしか書けないが、軍隊を天国と信じて疑わない純朴な男」
を熱演した。
そして、この映画は高い評価を得て、渥美清は俳優としての名声を確立した。
その後、フジテレビで、その渥美を主演に起用する、あるテレビドラマの企画が練られた。
そのテレビドラマが、渥美清を、
「国民的スター」
の座に押し上げるキッカケとなるのであるが、その話については、また次回。
(つづく)