サザンと野球界の41年⑧ ~2019年『男はつらいよ お帰り 寅さん』と、「寅さん」の登場~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(2/28)は、サザンオールスターズ桑田佳祐・原由子夫妻の結婚記念日である。

今から42年前、1982(昭和57)年2月28日に、桑田と原は結婚式を挙げ、その結婚披露宴で、桑田が原のために作った曲、

『いとしのエリー』

を、桑田が歌い、

「エリー my love」

の歌詞を、

「ユウコ my love」

に変えて歌った。

という事で、今回は桑田・原夫妻の「結婚記念日」を祝し、また「サザン史」の記事を書かせて頂く。

 

 

現在、このブログにて、

「サザンオールスターズと野球界の41年」

と題して、2019(令和元)年のサザンオールスターズと野球界のトピックを描いているが、

現在は、この年(2019年)に公開された映画、

『男はつらいよ お帰り 寅さん』

の主題歌を桑田佳祐が歌った、という事にスポットを当て、

桑田が如何にして「寅さん」の主題歌を歌ったのか…という経緯について書いている。

という事で、

「寅さんと桑田佳祐の物語」の「第2章」としての、

「サザンオールスターズと野球界の41年(その8)」

を、ご覧頂こう。

 

<テレビの台頭で、急激に「斜陽化」して行った映画界>

 

 

 

 

かつて、映画が全盛期だった頃、新興メディアであるテレビは、映画業界の人達から、

「電気紙芝居」

と呼ばれ、馬鹿にされていた。

しかし、1958(昭和33)年の「東京タワー」完成の頃には、日本全国にテレビが急速に普及して行った。

そして、1959(昭和34)年、当時の皇太子殿下(現・上皇陛下)正田美智子が結婚し、

その皇太子美智子妃殿下の、

「御成婚パレード」

がテレビ中継されるに及び、テレビは爆発的に普及した。

「御成婚パレードを、一目見たい」

という人達が、それだけ多かったという事であろう。

 

 

 

また、1958(昭和33)年に、

東京六大学野球立教大学のスーパースターだった長嶋茂雄が、プロ野球の巨人に入団すると、

野球界の勢力図は大きく変わり、それまで全盛を誇っていた東京六大学野球から、プロ野球へと、ファンの関心は移って行った。

それぐらい、当時の長嶋の注目度が凄かったという事だが、

1958(昭和33)年の開幕戦は、長嶋のデビュー戦となり、その長嶋の前に、国鉄スワローズの大エース・金田正一が立ちはだかった。

そして、金田はスーパールーキー・長嶋を、

「4打席4三振」

に斬って取り、プロの先輩としての意地を見せた。

この試合はテレビ中継されており、テレビで見ていた人達を釘付けにさせたが、

デビュー戦で屈辱を味わった長嶋は、以後、大活躍し、新人ながら早くもプロ野球界ナンバーワンの大スターの座に就いてしまった。

そして、プロ野球の試合(※巨人戦)は、毎日、テレビ中継されていたので、長嶋はますます、国民的なスーパースターとなって行った。

長嶋茂雄こそ、

「テレビ時代の申し子」

と言って良かった。

 

 

 

1964(昭和39)年には、

「東京オリンピック」

が開催され、日本は戦後復興の成果を世界中にアピールする事に成功したが、

「東京オリンピック」

開催も、テレビの普及に一役買った。

こうして、1950年代後半~1960年代にかけて、国民的関心事となった様々な出来事が、テレビを通じて伝えられた事により、やがて、一家に一台、テレビが有るのが当たり前の時代となって行った。

「テレビ時代」

が、本格的に到来したと言って良い。

 

 

一方、映画界は、新興メディアのテレビに、すっかり客を奪われてしまった。

1958(昭和33)年、映画人口は、

「11億人」

を突破し、映画界は絶頂期を迎えていたが、以後、テレビの普及が急速に進んだ事により、映画界は一気に苦境に追い込まれてしまった。

映画人口は激減し、全国の映画館で「倒産」が相次ぐ事態となって行く。

こうして、映画界は、かつて「電気紙芝居」と見下していたテレビに、大衆娯楽の王座を明け渡してしまった(※これは、新興メディアのYouTubeなどに客を奪われている、現代のテレビ界と状況は酷似していると言っては言い過ぎだろうか…)。

「何とかしなければ…」

映画界は危機感を持ち、打開策を模索していた。

映画界にも、新たなスターの誕生の機運が高まって行った。

 

<俳優・渥美清の台頭~TBS『渥美清の泣いてたまるか』シリーズ(1966~1968)や、東映映画「列車シリーズ」(1967~1968)などで大活躍>

 

 

 

さて、テレビが台頭し、映画が斜陽化して行く中、

渥美清は、テレビと映画の両方で、俳優として大活躍を見せた。

1966(昭和41)~1968(昭和43)年にかけて、TBSで、毎回、渥美清が、それぞれ違った役で単発ドラマの主演を務める、

『渥美清の泣いてたまるか』

シリーズが放送され、これが爆発的な大ヒットとなった。

渥美清は、人情味溢れる演技で、視聴者のハートを鷲掴みにしたが、このシリーズでは、後に「寅さん」シリーズに出演する事になる俳優や女優も、多数出演している。

 

 

そして、

『渥美清の泣いてたまるか』

シリーズと同時期、1967(昭和42)~1968(昭和43)年にかけて、渥美清は、

『喜劇 急行列車』『喜劇 団体列車』『喜劇 初詣列車』

という、東映映画の、

「列車シリーズ」

に主演し、これを大ヒットさせている。

当時、急速に斜陽化し、苦境に陥っていた映画界において、渥美清は、

「客を呼べるスター」

として、映画界でも重宝されていた。

しかし、東映では「喜劇路線」は、どうにも社風に合わないという事で、紆余曲折を経て、渥美は東映から松竹へと「譲渡」された。

そして、松竹映画で、遂に渥美清は、「あの役」と出逢う事となるのである。

 

<1968(昭和43)年…映画界の古い因習「五社協定」をぶっ壊した、映画『黒部の太陽』が大ヒット~石原裕次郎&三船敏郎の豪華共演で「黒部ダム」の難工事を描く>

 

 

さて、1950~1960年代にかけて、日本の映画界には、

「五社協定」

という決まりが有った。

これは、松竹・東宝・大映・東映・新東宝(※後に日活に替わる)という、映画会社の5社が、

「それぞれの映画会社に所属する監督や俳優を、勝手には引き抜いたりしない」

という事を申し合わせたものである。

それだけ、監督や俳優の引き抜き合戦が酷かったという事もあるが、前述の5社は、お互いに、そのような事はしないという協定を結び、不毛な争いに終止符を打った。

しかし、それは監督や俳優が、自由に他社の映画に出る事が出来ない…という事も意味していた。

勿論、違う会社同士で円満に話し合い、合意が有れば、監督や俳優は、他社の映画にも出る事が出来るが、基本的には、当時の監督や俳優には、

「移籍の自由」

が無かった…という言い方も出来る。

 

 

しかし、時代が進み、映画界の全盛期も去り、映画界の観客動員が激減し、苦境に陥ると、

「五社協定」

に縛られ、日本の映画界は自由に映画が撮れず、つまらない映画ばかりが増え、ますます観客にソッポを向かれる…という悪循環に陥ってしまった。

そんな状況に、敢然と立ち向かい、「風穴」を開けたのが、石原裕次郎だった。

裕次郎は、1963(昭和38)年に、独立プロである、

「石原プロモーション(石原プロ)」

を立ち上げていたが、その「石原プロ」の主導により、1968(昭和43)年、石原裕次郎・三船敏郎という「二大スター」がタッグを組み、

『黒部の太陽』

という映画が製作・公開され、この映画は大ヒットを記録した。

この映画は、裕次郎が「五社」の垣根を超え、関西電力による、

「黒部ダム」

建設の物語を映画化したものであるが、当初、この映画は、前述の「五社」から様々な妨害を受け、一時は企画そのものが頓挫しかかった。

だが、ここで裕次郎の兄・石原慎太郎が立ち上がり、「五社」に乗り込んで、

「貴方がたが、そんな了見の狭い事を言うならば、こちらのバックには関西電力が付いているし、関西電力の協力を得て、日本全国の公民館でも何処でも、映画を公開させる用意が有る。既に、大企業が何社もスポンサーに付くと言っている。そうなったら、貴方がたには一銭の収入にもならない。あまりにも古臭い考えに捉われていると、五社なんて、あっという間に吹っ飛びますよ」

と、演説をぶった。

当時、「五社」には、それぞれ直営の映画館が有ったが、

『黒部の太陽』

は完成しても上映しないと、裕次郎サイドに脅しをかけていたのである。

しかし、慎太郎は、そんな脅しには屈せず、前述のような演説を行ない、「五社」の牙城を崩した。

そして、慎太郎の行動は功を奏し、

『黒部の太陽』

は日活の映画館で公開され、大ヒットを記録した。

こうして、「石原兄弟」がタッグを組み、映画界の古臭い因習である「五社協定」を突き崩す事に成功したが、

その同じ年(1968年)、遂に渥美清が、「あの役」と巡り合う事となった。

 

<1968(昭和43)~1969(昭和44)年…フジテレビで渥美清が主演の『男はつらいよ』(全26話)が放送~遂にテレビのブラウン管に「寅さん」が登場!!>

 

 

 

 

1968(昭和43)年10月3日、フジテレビで、

『男はつらいよ』

というテレビドラマの第1話が放送された。

このドラマは、山田洋次が監督・脚本を務め、渥美清が演じる、車寅次郎という男が主人公の物語であるが、

東京の葛飾・柴又生まれの車寅次郎は、

「フーテンの寅」

という異名を取っており、その名の通り、彼は定職には就いておらず、

「テキヤ稼業」

で、日本全国を旅して回っている。

そして、時折、思い出したように、故郷・柴又へと帰って来るのだが、この男、

「寅さん」

は、行く先々で大騒動を巻き起こしてしまう男だった。

気風は良いが、直情径行型で、物事をあまり深く考えないタイプの「寅さん」は、いつも騒動の種となってしまう。

そして、葛飾・柴又の家には、「寅さん」の腹違いの妹・さくらが居るが、さくらは心優しい女性で、いつも「寅さん」の身を案じている。

そして、さくらの役を長山藍子が演じている。

さくらも暮らしている、葛飾・柴又は、「寅さん」の叔父夫婦が、

「とらや」

という、草団子屋を営んでいるが、ここが「寅さん」が帰ってくる家である。

そして、「おいちゃん」こと車竜造(森川信)と、「おばちゃん」こと車つね(杉山とく子)の夫婦が、「とらや」を夫婦で営んでいる。

 

 

 

 

…という事であるが、フジテレビ版の、

『男はつらいよ』

は、1968(昭和43)~1969(昭和44)年にかけて、

「全26話」

が放送された。

当初、視聴率は低迷していたが、徐々に、

「寅さん」

のキャラクターの人気は上がり、大反響となった。

しかし、最終回(第26話)で、何と「寅さん」は沖縄でハブに噛まれ、ハブの毒が回り、死んでしまうのである。

「何で、寅さんを死なせるんだ!!」

フジテレビには、抗議が殺到した。

そして、あまりの反響の多さに、関係者も驚いたが、

「それなら、『寅さん』を映画化しよう」

という事が、松竹で企画されたのである。

なお、フジテレビ版『男はつらいよ』は、誠に残念な事に、第1話と最終話(第26話)しか映像は残っていない。

しかし、私の父は、フジテレビで『男はつらいよ』が放送されていた頃からの、筋金入りの「寅さん」ファンであり、

「俺はテレビ版の『寅さん』も、全部見た」

と、後に語っていた。

 

<1969(昭和44)年8月27日…映画『男はつらいよ』公開~記念すべき、映画版「寅さん」シリーズ第1作>

 

 

1969(昭和44)年8月27日、松竹映画として、

『男はつらいよ』

が公開された。

前述の通り、フジテレビ版『男はつらいよ』の最終回で、「寅さん」が亡くなってしまったので、それに対して視聴者からの猛抗議が殺到したため、

「それならば、映画で『寅さん』を復活させよう」

という事で、松竹で映画化される事となった。

そして、フジテレビ版と同じく、山田洋次が監督・脚本を務め、渥美清「寅さん」こと車寅次郎の役を演じた。

 

 

 

 

 

そして、映画版の『男はつらいよ』では、

「寅さん」の妹・さくらの役を、倍賞千恵子が演じている。

「寅さん」の大まかなストーリーは、フジテレビ版と同じだが、

要するに、直情径行型の男「寅さん」が、行く先々で大騒動を巻き起こす…というのが、基本的なパターンである。

また、「寅さん」は、すぐに女性に恋をしてしまうのだが、

『男はつらいよ』

の映画版の第1作で、「寅さん」が恋に落ちるマドンナを演じたのは、光本幸子であった。

また、「寅さん」の故郷、葛飾・柴又で、

「とらや」

という草団子屋を営む、「寅さん」の叔父さん夫婦を、森川信・三崎千恵子が演じている。

なお、映画版『男はつらいよ』第1作は、「寅さん」(渥美清)の妹・さくら(倍賞千恵子)が、諏訪博(前田吟)と結婚するまでの物語が、メイン・ストーリーである。

 

 

こうして公開された、

『男はつらいよ』

であるが、この映画は大ヒットを記録した。

以後、山田洋次が監督を務め、渥美清が演じる「寅さん」はシリーズ化され、毎回毎回、大ヒットを記録したが、

観客が激減し、苦境に陥っていた映画界において、

「寅さん」

は、貴重なドル箱映画であった。

なお、私の父も、「寅さん」は毎回、必ず映画館で見ていたという。

「ウチの親父は、映画は『寅さん』しか見ないのか」

とも思ったが、勿論、そんな事はなく、色々と映画は見ていたが、中でも「寅さん」が一番好きだったようである。

 

<1972(昭和47)年…「寅さん」シリーズ第9作『男はつらいよ 柴又慕情』に、吉永小百合が登場>

 

 

 

さて、こんな調子で「寅さん」シリーズについて語っていると、いつまでも終わらないので(?)、少し先を急ぐが、

「寅さん」シリーズというのは、基本的にはワンパターンである。

「フーテンの寅さんが旅に出て、旅先で素敵な美女(マドンナ)と出逢い、寅さんがマドンナに恋をする。寅さんは、マドンナに夢中になるが、最後はフラれてしまい、また寅さんは旅に出る。そして、寅さんの妹・さくらは、そんな兄の事を心配しながらも、温かく見守っている…」

要するに、「寅さん」映画とは、毎回その繰り返しなのだが、渥美清が演じる「寅さん」というキャラクターの魅力や、「寅さん」の妹・さくら(倍賞千恵子)など、様々な登場人物達との触れ合いが濃密に描かれ、今や忘れ去られた観のある、

「人と人との触れ合い」

を見る事が出来るのが、「寅さん」映画の最大の魅力ではないだろうか。

という事で、「寅さん」シリーズが軌道に乗り始めた時、山田洋次監督は、

「マドンナとして、吉永小百合に登場してもらう」

という事を、最大の目標としていたが、1972(昭和47)年、「寅さん」シリーズの第9作、

『男はつらいよ 柴又慕情』

に、遂に吉永小百合がマドンナとして登場し、山田洋次監督の「悲願」は達成された。

だが、この後も「寅さん」シリーズは、まだまだ続いて行くのである。

 

<1973(昭和48)年…「寅さん」シリーズ第11作『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』に、「寅さん」の運命の人・リリー(浅丘ルリ子)が初登場>

 

 

 

 

1973(昭和48)年、「寅さん」シリーズの第11作、

『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』

で、「寅さん」の運命の人が登場する。

この映画で、「寅さん」(渥美清)は旅先で、売れないクラブ歌手として各地を渡り歩いているという、リリー(浅丘ルリ子)と出逢う。

「寅さん」リリーは、意気投合するが、お互いに、

「根なし草」

のような境遇という事もあって、「寅さん」リリーは気が合った。

やがて、「寅さん」の故郷、葛飾・柴又に、リリーが訪ねて来るが…?

…という事であるが、リリー(浅丘ルリ子)はこの後、「寅さん」シリーズに計6回も登場するので、まさに「寅さん」にとっては、特別な人である。

見ている方としては、

「寅さんとリリー、結婚すれば良いのに…」

と思ってしまうが、この2人は、どうしても結ばれない。

それが、見ている方としては、何とも切ないものであった。

 

<1974(昭和49)年…「寅さん」シリーズ第13作『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』で、吉永小百合が再登場~そして、桑田佳祐が青山学院大学に入学し、長嶋茂雄は現役引退>

 

 

 

1974(昭和49)年、「寅さん」シリーズ第13作、

『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』

で、吉永小百合が「マドンナ」として再登場した。

なお、「寅さん」シリーズにおいて、「マドンナ」が同一人物として再登場したのは、この時の吉永小百合が初めてであった。

それだけ、山田洋次監督にとって、吉永小百合は重要な人物だったという事であろう。

そして、この年(1974年)は、桑田佳祐にとって、人生の転機が有った。

 

 

 

1974(昭和49)年4月、桑田佳祐青山学院大学に入学し、

当時、青山学院に有った、

「AFT」

という音楽サークルに入った。

そこで桑田は本格的に音楽活動を開始したが、

前述の『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』の公開は、1974(昭和49)年8月だったので、

桑田が青山学院に入ってから、4ヶ月後という事である。

果たして、当時、桑田が『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』を見たかどうかは、わからない。

だが、この45年後、この桑田佳祐が、まさか「寅さん」の主題歌を歌う事になろうとは、誰一人、夢にも思っていない事だった。

 

 

そして、この年(1974年)巨人は、中日ドラゴンズと激しい優勝争いを繰り広げたが、

結果は、中日ドラゴンズ20年振りの優勝を果たし、巨人の「V10」は成らなかった。

その巨人の、いやプロ野球界きってのスーパースターだった長嶋茂雄は、この年(1974年)限りで現役引退する事となり、

1974(昭和49)年10月14日、後楽園球場の巨人-中日戦で、長嶋の引退試合が行われた。

「私は今日、引退を致しますが、我が巨人軍は永久に不滅です」

という言葉を残し、長嶋は引退した。

そして、この時の長嶋の引退試合をテレビで見ていたのが、当時、青山学院の1年生だった桑田佳祐であり、

後に、その時の光景が、

『栄光の男』

というサザンオールスターズの楽曲の元になった…という話も、これまで既にこのブログで何度も述べて来た通りである。

 

<1975(昭和50)年…「寅さん」シリーズ第15作『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』で、リリー(浅丘ルリ子)が再登場~そして、この年(1975年)桑田佳祐と原由子が青山学院で「運命の出逢い」を果たす>

 

 

1975(昭和50)年、「寅さん」シリーズ第15作、

『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』

で、あのリリー(浅丘ルリ子)が再登場する。

そして、この映画は「寅さん」シリーズでも最高傑作に推す人も多いが、私もとても大好きな作品である。

という事で、この映画で有名な場面を、いくつかご紹介させて頂く。

 

 

前作の『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』で、「寅さん」リリーは、一旦は別れていた。

リリーは、「寅さん」に思いを残しながらも、別の男と結婚していた。

だが、その後、リリーはその男と別れていた。

そして、今作で、旅先で「寅さん」リリーは思わぬ形で「再会」を果たす。

2人は、再会を喜び合い、2人は旧交を温めたが、この時、2人と一緒に居たのが、船越英二である。

この男が、「寅さん」に世話になった…という事で、「寅さん」メロンをプレゼントしたが、このメロンを巡り、大騒動が起こる。

 

 

 

その後、「とらや」に帰って来た「寅さん」は、船越英二から貰ったメロンを、後で食べようと思っていたが、

「とらや」の面々は、ついうっかりして、「寅さん」を勘定に入れ忘れてしまい、メロンを切って、皆で食べ始めていた。

そこへ「寅さん」が帰って来たが、自分が貰って来たメロンを、先に皆が食べ始めているのを見て、「寅さん」は激怒した。

「お前ら、よくも俺が貰って来たメロンを食いやがって…」

「寅さん」は、自分が除け者にされたと言って、カンカンに怒り、メロンを巡って大騒ぎになってしまった。

すると、その一部始終を見ていたリリーが、呆れ果てた口調で、

「寅さん、あんた、大人気(おとなげ)ないわよ…」

と、ピシャリと言って、「寅さん」を窘めた…。

という事で、これが有名な、

「メロン騒動」

の場面であるが、渥美清は、後にこの場面について、こんな事を語っている。

「俺は、『寅さん』の映画が公開された後、必ず映画館に見に行くんだけど、新宿とかの映画館では、みんな、この『メロン騒動』を見て、ゲラゲラ笑ってるんだ。でも、上野や浅草なんかの、下町の映画館の客は、『あれは、先にメロンを食っちまった方が悪い。あれは、寅さんが可哀想だ』って言うわけ。つまり、客層によって、見方が全然違うんだよ。これは勉強になったね…」

…という事であるが、この「メロン騒動」は本当に面白い場面なので(※YouTubeでも動画がアップされている)、是非ともご覧頂きたい。

 

 

 

 

こんな風に、「メロン騒動」で、一時、ちょっと気まずい感じになってしまった、「寅さん」リリーだが、この作品には、とても素敵な場面が有った。

「寅さん」リリーが、「メロン騒動」で喧嘩をした後の、ある日の事。

リリーが、京成線の柴又駅に降り立つと、雨が降っていた。

「雨か…。困っちゃったな…」

リリーは、雨模様の中、柴又駅の改札口に立っていた。

すると、改札口から少し離れた所で、何と、「寅さん」が傘を差して、立っていた。

それを見たリリーは、パッと表情を輝かせた。

そして、リリーは「寅さん」の所に駆け寄った。

 

 

 

 

「迎えに来てくれたの!?」

リリーが、嬉しそうな表情でそう言うと、

「バカヤロウ、散歩だよ」

と、「寅さん」はブスっとした表情で答えた。

「こんな雨の中で、散歩してるの?」

リリーが悪戯っぽい表情で尋ねると、

「雨の中で散歩したって、良いじゃねえかよ…」

と、「寅さん」は言った。

そんな風に言い合いながら、「寅さん」リリーは雨の中、「相合い傘」を差して、2人で家路に着いていた…。

この素敵な場面を見て、

「ああ、やっぱり寅さんとリリーは、お似合いだなあ…」

と、誰もが思った筈であるが、こんな風に、とても良い雰囲気であり、なおかつ、お互いに好きなのに、どうしても結ばれないというのが、何とも切ないものである。

 

 

 

そして、「寅さん」リリーが、「相合い傘」を差しながら、とても良い雰囲気になっていた、この年(1975年)、桑田佳祐の1学年下の後輩として、原由子青山学院大学に入学した。

そして、青山学院大学の音楽サークルで、桑田と原は、

「運命の出逢い」

を果たす。

「寅さん」リリー「運命の人」なら、桑田佳祐原由子も、間違いなく「運命の人」である。

桑田と原は、後にサザンオールスターズを結成し、「運命の出逢い」から7年後の1982(昭和57)年2月28日に結婚した。

…という事で、この話の続きは、また次回。

 

(つづく)