2024 NHK大河ドラマ『光る君へ』 ~紫式部と、その時代【百花繚乱編(上)】~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今年(2024年)のNHK大河ドラマ『光る君へ』が、大変面白い。

現在、第6話までが放送されているが、後に紫式部と呼ばれる事になる女性、まひろ(吉高由里子)と、後に最高権力者となる藤原道長(柄本佑)「ラブストーリー」を軸に、毎回、朝廷内部での政治権力争いも描かれ、更に、登場人物も皆、キャラが立っていて、とても素晴らしい。

前回(第6話)の放送では、紫式部のライバル、清少納言(ファーストサマーウイカ)も初登場し、視聴者を沸かせた。

このように、毎回、私も『光る君へ』は、夢中になって見ているが、これからも目が離せない作品である。

 

 

さて、『光る君へ』は、大変魅力的な作品であり、視聴者を夢中にさせる力を持っているが、

そんな『光る君へ』の舞台となっている平安時代の歴史や文学史を、ある程度は知っておくと、より一層、『光る君へ』を楽しむ事が出来ると、私は思う。

そこで、不肖この私が、『光る君へ』をより一層、楽しんで頂くために、様々な角度で、この時代について描いているが、

今まで、「政治史編」「文化史編」として、この時代の概説を書かせて頂いた。

という事で、今回は「百花繚乱編(上)」として、平安時代の文学史を書いてみる事としたい。

それでは、ご覧頂こう。

 

<実は「文豪」だった、真言宗の開祖・空海>

 

 

平安時代の初期に活躍した僧、空海(774~835)は、様々な伝説を持つスーパースターだった。

何しろ、空海といえば天才的な頭脳の持ち主として有名であり、

803年には遣唐使として唐に渡り、本場の仏教を学んだ。

そして、空海は、本来は20年ぐらいは有った修行期間を僅か2年あまりで切り上げて帰国したが、

空海が唐に滞在していた時、空海は唐の仏教界の超大物、恵果にその才能を見込まれ、

「密教」

の奥義を授けられている。

 

 

日本に帰国した後、空海は、

「真言宗」

の開祖となり、高野山金剛峰寺を総本山とした。

本場の「唐」で学んだ「密教」の奥義を活かし、「真言宗」を開いた空海は、

「弘法大師」

と称され、広く人々の尊敬を集めた。

 

なお、当時の日本には、空海よりも大先輩であり、

仏教界のスーパースターで、「天台宗」の開祖だった最澄が居たが、

最澄は、唐で「密教」の奥義を学んでいた空海に、

「密教の奥義を伝授して欲しい」

と頼んだが、空海は最澄の頼みを断ってしまった。

以後、最澄と空海の関係は悪化してしまった…という話が伝えられている。

 

 

 

さて、空海といえば、

「真言宗を開いた、とても偉いお坊さん」

ではあるのだが、実は空海の凄さは、それだけではない。

空海は、実に沢山の著作を残した、

「文豪」

でもあった。

空海は、実は元々は豪族の子であり、幼名を「真魚(まお)」といったが、

そんな彼は、若い頃から沢山の漢詩を書いており、

『性霊集』

という漢詩集も残されている。

また、空海は漢詩の評論を体系的にまとめた、

『文鏡秘府論』

という著作も残したが、これは漢詩を学ぶ際の指針として、後の世に大きな影響を与えた。

 

 

 

そして空海は、

『三教指帰』

という、とてもユニークな著作も残している。

『三教指帰』には、儒教(亀毛先生)、道教(虚亡隠士)、仏教(仮名乞児)…という、それぞれの教えを擬人化された登場人物達が語り合い、それぞれの教えの優劣について、対話形式で進んで行くという、とても面白い作品なのだが、結局、

「儒教、道教、仏教の中で、仏教が最も優れた教えである」

という結論に達する…という物である。

まるで小説や物語のような形式で、「仏教」が如何に優れた教えかという物を、空海は示した。

このように、空海は「文筆家」としても、大変優れた才能を発揮した人であった。

 

<平安時代初期の3人の「名書家」~空海・嵯峨天皇・橘逸勢~「三筆」と称される>

 

 

 

 

 

 

 

さて、空海といえば、とても字が上手い人としても有名だった。

空海の直筆の書が、今日まで残されているが、これは当時の中国風の書だという。

そして、空海と同時代に活躍していた3人、

空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人は、当時の「名書家」として知られ、

「三筆」

と称されている。

これはつまり、

「平安時代前期の字が上手い人ベスト3」

という事であるが、当時は、如何に美しい文字を書けるか…という事は、とても重要な事だった。

という事で、空海は何でも出来てしまうスーパースターだったが、

「物凄く字が上手い人」

としても、歴史に名を残している。

 

<菅原道真~政敵の藤原氏によって排除されてしまった、悲劇の学者・政治家~後に「学問の神様」として祀られる>

 

 

さて、空海が活躍していた頃から、少し時代は下り、

今度は菅原道真(845~903)が活躍する時代が来た。

菅原道真は、学者を輩出して来た中級貴族の家に生まれたが、

道真は、幼少の頃から、大変、頭脳明晰であり、

「神童」

と言うべき存在だった。

そして、菅原道真は学者として頭角を現し、順調に出世の階段を上って行ったが、

道真は漢詩も得意であり、11歳の時には、早くも大人顔負けの見事な漢詩を詠み、周囲を驚かせた。

 

 

 

その菅原道真が、幼い頃から詠んでいた沢山の漢詩は、後に、

『菅家文草』

という、全12巻の漢詩集としてまとめられ、菅原道真から醍醐天皇に献上された。

そして、頭脳明晰な道真は、学者として頭角を現す一方、貴族としても出世して行き、

やがて、朝廷の中心人物として、天皇にも信頼される側近となっていた。

ちなみに、894年、菅原道真の建議によって、「遣唐使」は廃止されている。

「894(はくし)に戻す遣唐使」

として、歴史の授業で習う、有名な出来事である。

 

 

 

 

このように、順調に出世の階段を上って行った菅原道真であるが、

道真は、宇多天皇(在位887~897)の時代に参議となって、宇多天皇を補佐する重要な役割を担った。

当時は、藤原氏の台頭が著しく、藤原氏は天皇家と姻戚関係を結び、朝廷で権力を握っていたが、

宇多天皇は、そんな藤原氏に対抗すべく、菅原道真を重用したという。

当時の藤原氏のトップは藤原基経であり、基経は、人臣(※つまり皇族以外)では初めて関白の座に就き、事実上、朝廷の政治を牛耳っていた。

だが、その藤原基経は891年に亡くなってしまった。

そして、基経が亡くなった時、後継の藤原時平は、まだ21歳の若さだったため、朝廷内部で菅原道真の力が強まった。

その後、897年に宇多天皇は退位し、13歳の息子・敦仁親王に天皇の位を譲った。

「菅原道真と藤原時平の両人を用いて、政治を行なうように」

と、父・宇多天皇に言われていた敦仁親王は即位し、醍醐天皇(在位:897~930)となった。

当初、醍醐天皇は、父・宇多天皇の言い付けを守り、藤原時平・菅原道真を両方とも重用した。

そして、901年、菅原道真は遂に右大臣にまで出世した。

だが、その直後、道真は藤原時平の讒言を受けた醍醐天皇によって、

「太宰権師」

に落とされ、遠く九州の地にあった、

「大宰府」

に左遷されてしまった。

これは、道真の力を恐れた藤原時平が、道真を排除する陰謀を巡らした結果であった。

「邪魔者は全て排除する」

という、藤原氏の力の論理が、ここで発動されてしまったのである。

この菅原道真の「左遷」事件は、

「昌泰の変」

と称されている。

 

 

 

菅原道真「左遷」されてしまった、

「大宰府」

は、今の九州・福岡県にあったが、当時の九州といえば、都から遠く離れた、

「地の果て」

のように思われていた。

道真は、都から遠く離れた大宰府で、903年に失意の内に亡くなってしまったが、

大宰府に流された後も、道真は漢詩を詠み続け、

『菅家後集』

という漢詩集を残している。

こうして、道真を追い出した藤原氏であるが、909年、道真を追い出した張本人である藤原時平は、39歳の若さで病死してしまった。

人々は、それを見て、

「これは、菅原道真公の祟りだ…」

と言って、恐れた。

 

 

 

そして、930年には、朝廷の政治の中心だった清涼殿に落雷するという事件が有った。

幸い、醍醐天皇は被害は免れたが、その後、心労が祟り、醍醐天皇も亡くなってしまった。これが、

「清涼殿落雷事件」

であるが、人々はますます、

「菅原道真公の怨霊が祟っているに違いない…」

と言って、恐れるようになった。

 

 

 

「無念の内に亡くなった、菅原道真様の怨霊を鎮めるために、道真公を神様として祀ろう」

当時は、今よりもずっと「祟り」や「怨霊」が人々の間で信じられていたため、そのような声が上がるのも必然であった。

そこで、道真が晩年を過ごした大宰府は、

「太宰府天満宮」

として整備され、菅原道真は、

「天神様」

として祀られるようになったが、以後、日本各地に、

「天神様」

を祀る神社が建てられた。

そして、頭脳明晰だった菅原道真は、いつしか、

「学問の神様」

として祀られるようになり、今の世でも受験生達の「守り神」になっているというのは、皆様もご存知の通りである。

 

 

 

なお、菅原道真が活躍した激動の時代は、灰原薬によって、

『応天の門』

として、漫画化されている。

この作品では、ひきこもり学生の菅原道真と、京で噂の色男・在原業平がバディを組み、次々に難事件を解決して行く…という設定になっているが、当時の時代背景などが描かれた面白い作品なので、ご興味が有ればお読み頂きたい。

 

<紀貫之~『古今和歌集』の撰者の1人で、自らを女性になぞらえて『土佐日記』を書く>

 

 

 

 

紀貫之(872?~945?)は、

905年、醍醐天皇の命によって編纂された勅撰和歌集、

『古今和歌集』

の撰者の1人であり、歌人としても名を知られた存在だったが、

紀貫之は、自らを女性になぞらえた、

『土佐日記』

を書いた人としても有名である。

「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり…」

という、有名な書き出しで始まる『土佐日記』は、

934年、それまで土佐守として、土佐国に赴任していた紀貫之が、同年(934年)12月~翌年(935年)2月にかけて、土佐国から京の都に帰るまでの日記として書かれている。

船や徒歩での帰京の旅であり、当時、紀貫之は50代半ば頃だったと思われるが、体力的にもキツかったと思われる。

だが、その道中の出来事などを、紀貫之は、

「女性としての視点」

で描いた。

これは、後に紫式部和泉式部などによって花開いた、

「日記文学」

の先駆けであり、文学史的にも非常に価値が高い。

だが、超一流の歌人であり、『土佐日記』という不滅の金字塔を残した紀貫之は、生没年も明確にはわかっておらず、謎に包まれた存在でもある。

一つ言えるのは、紀貫之は当時としては超一流の文学者だった…という事である。

 

<『古今和歌集』(905)と、『古今和歌集』に始まる「三代集」「八代集」~「和歌」の黄金時代>

 

 

さて、905年、醍醐天皇の命により、初の勅撰和歌集として、

『古今和歌集』

が編纂され、紀貫之も撰者の1人として名を連ねた…という事は、既に述べた。

以後、歴代の天皇の命により、勅撰和歌集が続々と編まれて行ったが、

『古今和歌集』(905)、『後撰和歌集』(951)、『拾遺和歌集』(1005)

は、「三代集」と称されている。

また、それ以降の、

『後拾遺和歌集』(1086)、『金葉和歌集』(1127)、『詞花和歌集』(1151)、『千載和歌集』(1187)、『新古今和歌集』(1205)

…の5つの勅撰和歌集と併せ、「八代集」とも称されるが、

このように、時の天皇の命によって次々に勅撰和歌集が編まれた事を見てもわかる通り、まさに当時は、

「和歌」

の黄金時代でもあった。

そして、『古今和歌集』(905)から『新古今和歌集』(1205)に至るまでの300年は、藤原氏による摂関政治の全盛期から、院政期を経て、やがて源氏・平氏といった武士が台頭して行く…という、激動の時代でもあった。

 

 

 

ところで、『古今和歌集』(905)に次ぐ、

第二の勅撰和歌集として編まれた、

『後撰和歌集』(951)

であるが、この『後撰和歌集』の撰者となったのは、

源順・大中臣能宣・清原元輔・紀時文・坂上望城…

という5人であり、彼らは、

「梨壺の五人」

と称されていた。

そして、「梨壺の五人」の内の1人で、当時、優れた歌人として知られていたのが、清原元輔(908~990)である。

この清原元輔こそ、あの清少納言のお父さんである。

つまり、『後撰和歌集』とは、清少納言のお父さんの世代に編まれた歌集だった。

 

 

 

 

そして、『光る君へ』の第6話で、

紫式部清少納言が、初めて顔を合わせた…という場面が有った。

藤原道長(柄本佑)の兄・藤原道隆(井浦新)が主宰する、

「漢詩の会」

に、藤原為時(岸谷五朗)・清原元輔(大森博史)という、当代きっての学者も招かれていた。

そして、藤原為時の娘・まひろ(吉高由里子)と、清原元輔の娘・ききょう(ファーストサマーウイカ)も、父親に連れられて「漢詩の会」に来ていたが、「まひろ」は後の紫式部、「ききょう」は後の清少納言である。

実際には、清少納言紫式部は、宮仕えの時期が少しずれていたので、恐らく2人は会った事は無かったようだが、今回のドラマでは、このように2人を出会わせ、面識が有った…というように描かれている。

私としては、

「清少納言と紫式部が会ってる!!」

と思い、まさに日本文学史を代表する二大スターの共演は、大変嬉しかったものである。

ドラマは、このように視聴者を楽しませるように、面白く脚色してくれれば、何でもオッケーであると私は思う。

 

<『古今和歌集』の二大スター~「世紀の色男」在原業平と、「伝説の美女」小野小町>

 

 

 

さて、『古今和歌集』に和歌が収められている歌人の中で、

在原業平・小野小町・僧正遍昭・喜撰法師・文屋康秀・大伴黒主…

の6人は、

「六歌仙」

と称される、優れた歌人だという事は、以前の記事でも既に述べた。

その中でも、「世紀の色男」在原業平と、「伝説の美女」小野小町は、二大スターと言って良い。

後述するように、在原業平は、

『伊勢物語』

の主人公として描かれているが、

小野小町は、

「絶世の美女だった」

とは言われているが、その実像はよくわかっていない。

ただ、和歌には抜群の才能が有り、とても優れた歌人だったという事だけは間違いない。

そして、今でも、

「〇〇小町」

と言えば、美女の代名詞のようになっており、今の世にも、その影響は残っている。

 

<『伊勢物語』~伝説の貴公子・在原業平を主人公とした「歌物語」>

 

 

 

 

さて、前述のように、在原業平を主人公として描かれた「歌物語」こそ、

『伊勢物語』

である。

『伊勢物語』が成立した正確な年代はわかっていないが、恐らくは平安時代の前期ぐらいであろうと言われている。

在原業平は、平城天皇の孫という高貴な血筋だったが、その在原業平らしき男を主人公として、「歌(和歌)」を中心に物語は進む。

というより、あくまでも「歌」がメインであり、その「歌」にまつわる物語が描かれて行くという形式であるが、

『伊勢物語』

は、全部で125段があり、それぞれ、

「昔、男ありけり」

という書き出しで始まり、全ての段に歌が有る。

そして、歌を題材にして、物語が綴られて行き、在原業平(らしき男)は、京の都から東国へと下って行く。

 

 

 

 

 

なお、『伊勢物語』には、業平の「東下り」の際に、「ゆりかもめ(都鳥)」が登場するが、

「ゆりかもめ」は、新橋~豊洲間を結ぶ「新交通ゆりかもめ」の名前の由来にもなっているし、

かつて在原業平が訪れ、業平の塚が有ったとされる場所は、現在は東京スカイツリーのお膝元として知られる、

「業平橋」

という地名の由来にもなった。

余談だが、東武スカイツリーラインの「業平橋駅」は、「とうきょうスカイツリー駅」に改称されてしまった。

在原業平の痕跡が消されてしまったようで、何とも悲しい限りである(?)。

それはともかく、当時は京の都から見れば、

「地の果て」

のようだった東国にも、在原業平の痕跡が残っているというのは、何とも興味深い。

 

<『源氏物語』以前の三大「歌物語」~『伊勢物語』『大和物語』『平中物語』>

 

 

 

さて、前述の『伊勢物語』と併せ、

『伊勢物語』『大和物語』『平中物語』

の3つの物語は、いずれも、

「歌物語」

として分類されている。

共通点としては、「歌」を中心に物語が進み、

「この歌には、このような由来が有った」

という形式で、物語が進む。

いずれの物語も作者は不詳で、成立した年代も正確にはわからないが、

大体、900~1000年の間ぐらいに成立し、

『源氏物語』

よりも前に成立した…という事だけは確かである。

そして、「歌」が物語の重要な要素になる…というのは、『源氏物語』にも大きな影響を与えた。

 

<『竹取物語』~『源氏物語』で「物語の出で来はじめの祖」と称された「日本最古の物語」>

 

 

 

 

 

そして、恐らく平安時代の前期に成立したと思われる、

『竹取物語』

は、日本最古の物語として、あまりにも有名である。

「かぐや姫」の物語としても知られる、『竹取物語』のストーリーについては、以前の記事にも書いたので、ここでは繰り返さないが、『竹取物語』には、多くの民間伝承の素材を取り入れ、伝奇的要素と作り物的要素が折り重なった、

「作り物語」

の元祖というべき物語であった。

そして、紫式部も、『源氏物語』の中で、『竹取物語』について言及し、

「物語の出で来はじめの祖」

として、『竹取物語』を高く評価している。

 

<『源氏物語』以前の三大「作り物語」~『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』>

 

 

 

そして、前述の『竹取物語』の後、

『宇津保物語』『落窪物語』といった物語が成立したが、

『宇津保物語』は、清原仲忠を主人公とする音楽伝承物語であり、

『落窪物語』は「継子いじめ」を題材とした、シンデレラのような物語である。

『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』

は、いずれも「作り物語」であり、正確な成立の年代は不明だが、

いずれも900~1000年頃に成立し、

『源氏物語』

以前に成立した事は確かである。

 

<そして、『源氏物語』へ…~紫式部が生み出した、「歌物語」「作り物語」の超ハイブリッド文学>

 

 

 

そして、いよいよ、紫式部が書いた、

『源氏物語』

という大傑作が生まれる事となる。

前述の「歌物語」「作り物語」の系譜を受け、紫式部は、天皇の子として生まれた光源氏を主人公とする物語を生み出した。

その光源氏の物語である、

『源氏物語』

で、光源氏は様々な姫君と出逢い、恋に落ちて行くが、『源氏物語』は、当時の宮廷をモデルにした重厚長大な物語であり、実に沢山の登場人物が登場する。

その登場人物達は、それぞれ皆、様々な悩みや葛藤を抱えているが、そんな「人間」の苦悩が深く描かれており、『源氏物語』は非常に文学性が高い。

そして、本当に凄いと思うのは、紫式部は『源氏物語』の登場人物達が詠む歌を、登場人物の人物像や性格に合わせ、全て1人で書き分けている事である。

『源氏物語』には、沢山の歌が出て来るが、それは全て作者の紫式部が、登場人物のキャラに応じて、書き分けているのである。

これは本当に物凄いし、紫式部という人は、本当に天才としか言いようが無い。

つまり、『源氏物語』とは、前述の「歌物語」「作り物語」の要素を集大成した、超ハイブリッド文学である…と言って良いであろう。

という事で、紫式部や、紫式部の前後の時代の、優れた女性作家達が大活躍した、

「宮廷サロン文学」

の華やかなりし時代については、また次回。

 

(つづく)