サザンと野球界の41年⑤~2019年「一緒にやろう2020」と『東京VICTORY』~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

私がこのブログで連載して来た、

「サザンオールスターズと野球界の40年」

は、一旦「完結」したが、現在その「続編」を、また連載中である。

現在は、2019(令和元)年のサザンオールスターズ桑田佳祐、そして野球界の動向などを描いているが、

前回は、石原慎太郎・石原裕次郎兄弟の「挑戦」を主なテーマとして描いた。

 

 

そして、石原慎太郎・東京都知事が、

「東京オリンピック」

招致を目指したが、2009(平成21)年のIOC総会で東京は落選してしまい、石原慎太郎「夢」は、一旦は「挫折」した…という所までを描いた。

一方、サザンオールスターズは2008(平成20)年限りで、

「無期限活動休止」

を宣言し、その2年後の2010(平成22)年、

桑田佳祐は「食道癌」を患ったが、大手術を乗り越え、同年(2010年)末の「紅白」で、公の場に復帰を果たした。

という事で、今回はその「続き」だが、

一旦は挫折した、石原慎太郎「東京オリンピック」招致の夢が再び動き出して行った経緯や、

2014(平成26)年にリリースされた、サザンオールスターズの名曲、

『東京VICTORY』

リリースの経緯なども描く。

ちなみに、今回の記事は「ドロドロの政治劇」の側面も有るので、そのつもりでお読み頂きたい。

「オリンピック」には、どうしても政治的な思惑が絡んでしまうものである。

それでは、

「サザンオールスターズと野球界の41年(その5)」

を、ご覧頂こう。

 

<石原慎太郎と森喜朗~そもそも何故「東京オリンピック」を招致しようとしたのか…?>

 

 

前回の記事を、私は、下記のような視点で書いた。

「東京オリンピックの招致は、石原慎太郎の『夢』だった。石原慎太郎は、東京オリンピック招致の『夢』を実現させるために奔走した。しかし、その『夢』は一旦は挫折した…」

勿論、そういう面も有ったが、実は、事はそれほど単純ではなかったというか、

「東京オリンピック招致」

には、石原慎太郎の他に、ある人物の思惑も絡んでいた。

それが、前回の記事で少しだけ登場した、森喜朗である。

以下、これは最近(2024年1月)の「東京新聞」に書いてあった記事を参考に、書かせて頂く。

従って、今回の記事は、「東京新聞」に書いてあった記事を元に、私の意見なども交えて書いた…という事を、まずはお断りしておく。

さて、かつて首相を務めたものの(2000~2001年)、あまりにも不人気で退陣に追い込まれた森喜朗であるが(※森喜朗の後に首相を務めたのが、小泉純一郎である)、

首相の座を退いた後も、森は自民党の重鎮として、隠然たる力を持っていた。

そして、森はかつて早稲田大学のラグビー部の出身であり、「体育会系」だった。

そのため、森は「スポーツ行政」の分野でも、大きな権力を持っていた。

その森には、ある「野望」が有った。

それは何かと言うと、

「老朽化した国立競技場を建て替え、新しくなった国立競技場で、ラグビーのW杯(ワールドカップ)を開催したい」

というものだった。

だが、国立競技場の建て替えとなれば、相当な予算がかかる。

そこで、森は自分の「野望」を実現するための「起爆剤」として、

「東京オリンピック開催」

を利用しようとしたというのである。

そのため、森喜朗は、時の東京都知事・石原慎太郎を焚き付け、

「是非とも、東京オリンピックを招致しよう!!」

と言って、慎太郎を後押ししようとした。

そして、慎太郎も「その気」になった…というわけである。

 

<何故、「国立競技場」の建て替えのために「東京オリンピック」招致が必要だったのか…?>

 

 

では、そもそも何故、森喜朗「野望」である、

「国立競技場の建て替え」

のために、

「東京オリンピック開催」

が必要だったのであろうか。

それには、このような理屈が有った。

先程も書いた通り、

「国立競技場の建て替え」

を行なうためには物凄く予算がかかる。

そんな予算は通りにくいし、そもそも明治神宮外苑は、所有者である明治神宮から、「再開発」自体が厳しく規制されている。

そこで、森は、こう考えた。

「『東京オリンピック招致』が成功すれば、そこで一気に予算も増やせる。そして、国立競技場も含む、明治神宮外苑周辺のスポーツ施設を一気に更新出来る」

そう、非常に悪い言い方を敢えてすれば、は「東京オリンピック」招致を口実にして、一気呵成に、国立競技場を含む、神宮外苑の再開発を推し進めようとしていた。

「東京オリンピック」開催を「錦の御旗」にすれば、誰も逆らえないだろう…という思惑がには有ったという事である。

だが、一旦は、森の「野望」は挫折してしまう。

石原慎太郎が旗振り役となり、

「2016年・東京オリンピック招致」

を目指したものの、2009(平成21)年のIOC総会で、東京は落選してしまった。

それに、そもそも「2016年・東京オリンピック」のメイン会場は、東京の臨海部の晴海であった。

「そんな海の側でやらなくても、神宮外苑でやれば良いじゃないか…」

当時、森はそんな言葉を漏らしていたという。

だが、幸か不幸か、「2016年・東京オリンピック」招致は失敗に終わった。

同年(2009年)、森喜朗が旗振り役になっていた、

「2019年・ラグビーW杯(ワールドカップ)の日本開催」

には成功したものの、森の密かな野望だった、

「国立競技場の建て替えと、明治神宮外苑の再開発」

は、一旦は頓挫してしまった。

 

<2010(平成22)年12月…突如、東京都が「10年後の東京」構想の一環として「明治神宮外苑の再開発」を発表…>

 

 

だが、2009(平成21)年に、「2016年・東京オリンピック招致」が失敗に終わってしまってから、

1年後の2010(平成22)年、事態は再び動き始めた。

2010(平成22)年12月、東京都は、突如として、

「10年後の東京」

なる構想を発表し、その中に、

「明治神宮外苑の再開発」

が盛り込まれていた。

その「お題目」は、こういう事だった。

「霞ケ丘競技場(国立競技場)一帯は、神宮スポーツクラスターとして、特区制度の活用などにより整備され、各種世界大会が活発に開催できるようになる…」

要するに、明治神宮外苑の再開発が実現されれば、更に明治神宮外苑周辺は活性化される…という事を言いたいのであろう。

だが、そもそも明治神宮外苑の周辺は、緑が豊かであり、前述の通り、「再開発」そのものが、厳しい規制によって禁止されて来た。

それに、本来、この辺は明治神宮の管轄なので、東京都にはそんな権限は無い。

それなのに、何故、突然、こんな構想が発表されたのか…。

「東京新聞」には、ハッキリとは書いていないが、

「そこには、政治的な思惑が有った。森喜朗が、裏で暗躍したのではないか…」

と、思われるフシが有るのである(※「東京新聞」の元記事には「明治神宮外苑の再開発には、政治的な思惑が有った」と書いてあったが、前後の文脈から判断すると、そこに森喜朗の思惑が絡んでいた…と、私には読み取れた)。

そう、森は、

「国立競技場の建て替えと、明治神宮外苑の再開発」

を、まだ諦めてはいなかったのだ。

という事で、森の暗躍により(?)、

「明治神宮外苑の再開発」

の方向性が定められたが、この「明治神宮外苑の再開発」問題は、後のサザン史にも大きく関わって来る問題なので、こうして書かせて頂いている。

ちなみに、2010(平成22)年12月といえば、既に桑田佳祐の「食道癌」の手術も成功し、桑田が「紅白」での復帰を目指してリハビリをしていた頃である。

そして、この時点で、石原慎太郎は迷っていた。

当時、慎太郎は既に東京都知事を務めて「3期目」だった。

「果たして、東京オリンピックを、どうすべきか…」

慎太郎は、一旦は「挫折」した、

「東京オリンピック招致」

の夢を、どうすれば良いのか、大いに迷っていた。

そして、そんな慎太郎を説得するために、森が暗躍し、

「明治神宮外苑の再開発」

の大綱が決定され、「外堀」が埋められた…と考えるのは、論理が飛躍し過ぎであろうか…。

 

<2011(平成23)年…石原慎太郎、熟考の末に東京都知事に出馬し、「4選」を果たす~そして、「2020年・東京オリンピック」招致を宣言~ここでも森喜朗の「暗躍」が…?>

 

 

前述の通り、2010(平成22)年12月に、

「国立競技場の建て替えと、明治神宮外苑の再開発」

の方向性が決定され、

「東京オリンピック」

再招致のお膳立ては整った。

だが、実はこの時点で、石原慎太郎は、大いに迷っていた。

この時点で、慎太郎は既に、東京都知事も「3期目」を務めていたが、年齢的な事もあって(※慎太郎は、当時78歳)、

「そもそも、このまま東京都知事を続けるべきか…」

という事そのものにも迷っていたという。

そして、翌2011(平成23)年に迫った東京都知事選に出馬するかどうかについて、慎太郎は、

「次の都知事選には出馬しない」

という事を決めていたという。

 

 

だが、ここで、あの森喜朗が、また動いた。

「石原さん。是非また都知事をやって下さい。そして、今度こそ東京オリンピック招致を成功させましょう!!」

森は、そう言って熱心に口説き落とそうとした。

では何故、森がそんなに慎太郎を熱心に口説き落とそうとしたのかと言えば、

「石原慎太郎は、圧倒的な人気が有る。石原慎太郎を、東京オリンピック招致の旗振り役に据えれば、国民の賛同も集めやすい筈だ…」

恐らく、森にはそんな思惑が有ったと思われる。

しかし、慎太郎も、そんなの思惑など、恐らく全てわかった上で、2011(平成23)年の東京都知事選への「出馬」を決意した。

そして、石原慎太郎は、2011(平成23)年の東京都知事選で「4選」を果たした。

こうして「4期目」の東京都知事を務める事となった慎太郎は、

「東京オリンピック招致」

を、再び目指した。

 

 

そして、「4期目」の東京都知事を務める事となった石原慎太郎は、

2011(平成23)年7月、

「2020年・東京オリンピック招致」

を、正式に表明した。

「また東京オリンピックに立候補するのかよ…。いい加減にしろよ…」

当時の日本国民の反応も、全く冷ややかだった。

当の慎太郎も、

「俺、森に利用されてるのか…」

という思いも有ったかもしれない。

だが、それよりも、

「東京オリンピックを招致し、日本を活気付けたい」

という思いが、慎太郎には有った。

だからこそ、自分が「広告塔」にされているとは、百も承知で、慎太郎は再び「東京オリンピック」招致を表明した。

そして、前回の「東京オリンピック」招致運動の際には、「東京オリンピック」のメイン会場の予定地は晴海だったが、この度の「東京オリンピック」招致運動の再には、いつの間にか、メイン会場の予定地は「国立競技場」になっていた…。

 

<2011(平成23)~2012(平成24)年…政府主導の有識者会議によって「国立競技場の建て替え」が決定~事は森喜朗の思惑通りに進む…>

 

 

さて、石原慎太郎を、「東京オリンピック招致」の「神輿」に担ぎ出した森喜朗には、まだ「大仕事」が残っていた。

森の「悲願」である、

「国立競技場の建て替え」

を、何としても実現させなければならない。

この時点で、

「2019年・ラグビーW杯(ワールドカップ)の日本開催」

は、決定していた。

そのメイン会場は、国立競技場であるという事も決まっていた。

勢い付いていた森は、

「ラグビーのW杯も開催されるし、東京オリンピック開催も決まるかもしれない。そうなったら、今の国立競技場は老朽化しているし、建て替えた方が良いのではないか?」

という方向で画策していた…と、思われる。

そして、2011(平成23)~2012(平成24)年にかけて、政府主導の有識者会議が重ねられた後、遂に2012(平成24)年3月、

「国立競技場の建て替え」

が、有識者会議で合意され、政府にも承認された。

遂に、事は森喜朗の思惑どおりに進んだのだ。

「旧国立競技場は2014年7月から2015年10月にかけて解体され、2015年10月から「新国立競技場」の建設を開始、2019年3月までに完成する予定…」

そういう方向性も決まった。

「ふーん、国立競技場が取り壊されて、新しくなるのか…」

当時、そのニュースを見た時、私はそう思っていた。

「まあ、そもそも国立競技場とか、あんまり行かないからな…」

私は呑気に、そんな事を思ったりもしていた。

その時点では、まさか私の愛する神宮球場までもが「再開発」の対象になる事など、夢にも思っていなかった…。

 

<2012(平成24)年10月…東京六大学野球で法政が三嶋一輝の「連投」で明治を破り優勝~そして、石原慎太郎が「4期目」の途中で東京都知事を辞職>

 

 

 

さて、2012(平成24)年秋の東京六大学野球は、大混戦となっていた。

最終カードの「法明戦」「早慶戦」を前に、法政、明治、早稲田、慶応の4校に優勝の可能性が残っていたが、

法政は、最終カードの「法明戦」で、連勝すれば優勝、1敗でもすれば、早稲田とのプレーオフの可能性も有った。

2012(平成24)年10月20~21日、神宮球場で「法明戦」が行われたが、

何と、法政のエース・三嶋一輝が、

「2日連続完投勝利」

という鉄腕ぶりを発揮し、法政を見事に優勝に導いた。

私もこの時、神宮球場のスタンドで三嶋の快投を見守っていたが、それは本当に感動的だった。

言っておくが、ただの「連投」ではなく、「2日連続完投勝利」である。

これは本当に凄まじかった。

こうして法政は優勝し、金光興二監督が胴上げされ、宙を舞ったが、

三嶋は今もなお、横浜DeNAベイスターズの現役投手として頑張っている。

あの時の、

「鉄腕・三嶋」

を目の当たりにした私としては、これからも三嶋には頑張って欲しいと思っている次第である。

 

 

 

法政のエース・三嶋一輝「2日連続完投勝利」による、法政優勝の余韻も冷めやらぬ中、

2012(平成24)年10月25日、「4期目」の東京都知事を務めていた石原慎太郎は、

「東京都知事を辞職する」

と表明した。

当時、慎太郎は「国政」に復帰する事を目論んでいた。

「今こそ国政に復帰して、最後の御奉公をしたい…」

慎太郎は、そう思っていた。

そして、2012(平成24)年10月31日、石原慎太郎は東京都知事を辞職し、東京都庁を去って行った。

「都庁で会おうぜ!!」

そう言って、1999(平成11)年の都知事選に勝利した慎太郎が初めて東京都庁に乗り込んだ時から、13年の月日が経っていた。

こうして、慎太郎は東京都知事の座を退いたが、

「東京オリンピック」招致の後事は、誰に託されるのか…。

 

<2012(平成24)年12月…石原慎太郎の腹心だった猪瀬直樹が、後任の東京都知事に当選>

 

 

さて、石原慎太郎が東京都知事を辞任したため、後任を決めるための東京都知事選挙が行われる事となったが、

2012(平成24)年12月の東京都知事選挙で、慎太郎時代に副知事を務め、慎太郎の腹心だった猪瀬直樹が都知事選に立候補し、猪瀬直樹が、史上最多得票(約404万票)で、東京都知事に当選した。

猪瀬は慎太郎の腹心だったため、当然、

「石原都政の継承」

をする事となり、

「東京オリンピック招致」

の後事も、猪瀬に託される事となった。

ちなみに猪瀬は明治大学の大学院で学んでいた経歴が有る。

ちょっと、その事を覚えておいて頂きたい。

 

<2013(平成25)年春の東京六大学野球~優勝をかけた「法明V決戦」で法政が1勝2敗1分で明治に敗れる~そして、私がこのブログを始める>

 

 

2013(平成25)年春、個人的に超重要な出来事(?)が有った。

それは何かと言えば、私がこのブログを始めた事である。

2013(平成25)年春の東京六大学野球は、法政明治が4カードを終え、

「勝ち点4」

同士で並んでいた。

そして、2013(平成25)年5月下旬、最終カードの「法明戦」の直接対決で、

「勝ち点を取った方が優勝」

という、

「法明V決戦」

が行われた。

そして、当時、私は「法明V決戦」を前にして、

「法政野球部を応援するために」

このブログを始めた。

だから、このブログのタイトルは、

「頑張れ!法政野球部」

という、そのまんまのタイトルになった。

私は当時、この「法明V決戦」を見るために、連日、神宮球場に通っていたが、

法政は残念ながら激闘の末、1勝2敗1分で明治に敗れ、優勝は成らなかった。

という事で、それから11年が経ち、今に至っている…というわけである。

 

<2013(平成25)年7月7日…朝日新聞が「神宮球場と秩父宮ラグビー場の入れ替え」構想をスッパ抜く!!>

 

 

さて、前述の「法明V決戦」から暫く経った頃…。

2013(平成25)年7月7日の「朝日新聞」が、

「2020年の東京オリンピック招致のために、明治神宮外苑を再開発する構想が有る。そして、神宮球場と秩父宮ラグビー場の場所を入れ替える構想が有る」

と、スッパ抜いたのである。

当時、そんな事は全く知らず(※この頃は、当然ながら私も森喜朗の暗躍など、全く知る由も無かった)、そういう構想が有る事など全く夢にも思っていなかった私は、ビックリ仰天してしまった。

そして、当時の私(※2013/7/7当時の私)は激怒し、このブログで、

「神宮球場と秩父宮ラグビー場の入れ替え構想に、断固反対する」

という内容の記事を書いた。

そもそも、神宮球場とは、昭和初期に、東京六大学野球を行なう専用球場として建てられたという経緯が有る。

「その伝統有る神宮球場を、たかがオリンピック如きのために取り壊し、秩父宮ラグビー場と入れ替えるなんて、とんでもない!!」

私は、そう主張していた。

そもそも、当時の東京都知事・猪瀬直樹は東京六大学の明治に縁が有った人ではないか…。

「それなのに、猪瀬は神宮球場の価値という物が、全くわかっていない」

と、私は憤っていたものである。

だが、猪瀬など、森喜朗という「黒幕」から見れば、所詮は「駒」の一つに過ぎなかった…と言ってしまったら、言い過ぎだろうか…。

それはともかく、さっきも書いたが、その頃の私は勿論、そんな事など全く知る由も無かったのであった。

 

<2013(平成25)年6月25日…デビュー35周年のサザンオールスターズ、5年振りの「復活」!!>

 

 

 

さて、「明治神宮外苑の再開発」のニュースがスッパ抜かれる、少し前の事だが、

2013(平成25)年6月25日、

「デビュー35周年」

を迎えていたサザンオールスターズが、「無期限活動休止」を経て、5年振りに活動再開する事を発表したのである。

「サザンが帰ってくる!!」

当時、私もこのニュースには大喜びしたものだ。

桑田佳祐は、サザンの活動については、色々と思う所も有ったかもしれないが、最後は、

「ファンのために、サザンの活動をやろう」

という事を決めたのだと思われる。

こうして、日本全国のサザンファンの熱い要望に応え、サザンが5年振りに帰って来た。

 

<2013(平成25)年9月8日…「IOC総会」にて、遂に「2020年・東京オリンピック開催」が決定>

 

 

2013(平成25)年9月8日、IOC総会が開かれた。その議題は、

「2020年の東京オリンピック開催地」

を決める…というものである。

そして、この時のIOC総会で、遂に、

「2020年・東京オリンピック開催」

が決定された。

その瞬間、「東京オリンピック」招致団と、日本中が喜びに沸いたが、

この時の「東京オリンピック」招致団に居たのは、安倍晋三首相、岸田文雄外相、そして、あの森喜朗らであった。

こうして、森喜朗の…いや、石原慎太郎「悲願」は達成された。

ちなみに、私もこの時点では「東京オリンピック」開催決定については、素直に喜んでいた。

無論、あの「明治神宮外苑再開発」については、ずっと引っ掛かっていたが…。

だが、この後、「東京オリンピック」を巡っては、更なるゴタゴタが起こってしまうのである。

 

<2014(平成26)年9月10日…サザンオールスターズの通算55枚目のシングル『東京VICTORY』リリース~「2020年・東京オリンピック」決定をキッカケに作られた名曲!!>

 

 

 

そして、「2020年・東京オリンピック」開催決定から1年後、

2014(平成26)年9月10日、サザンオールスターズの通算55枚目のシングル、

『東京VICTORY』

がリリースされた。

この曲は、『東京VICTORY』というタイトルからもわかる通り、

勿論、「2020年・東京オリンピック」決定をキッカケにして作られた曲である。

そして、『東京VICTORY』は、聴くだけで胸が熱くなるような、素晴らしい名曲である。

きっと、桑田佳祐も、日本人の1人として、「2020年・東京オリンピック」開催は、嬉しく思っていたと思われる。

そんな高揚感が伝わって来るような曲でもあり。

という事で、『東京VICTORY』の歌詞をご紹介させて頂くが、

「2020年・東京オリンピック」を巡るお話の「続き」については、また次回…。

 

 

 

『東京VICTORY』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

Wow…

 

時を駆けるよ Time goes round

変わりゆく My hometown

彗星(ほし)が流れるように

夢の未来へ Space goes aroud

友よ Forever young

みんな頑張って 

それ行け Get the chance!!

 

果てしない空と

海の青さに

胸が騒ぐ

 

幸せ求めて

人は出逢い

愛を交わす

 

こんな争い事や

不安に満ちた世の中だけど

 

時を駆けるよ Time goes round

麗し My hometown

恋の花咲く都

回る 回るよ Space goes round

明日への Winning run

風になりたくて

翔び立て One more chance!!

 

私を抱きしめ

守ってくれた

人はもういない

 

希望の灯火(ともしび)

それは金色(きん)に光る

一番星

 

どうせ生まれたからにゃ

生命(いのち)の限り旅を続けよう

 

時を駆けるよ Time goes round

変わりゆく My hometown

川の流れのように

ビルの街にも Rising sun

勝利の Final coutdows

自分を追い越して

それ行け Get the chance!!

 

Wow…

 

時が止まったままの

あの日の My hometown

二度と戻れぬ故郷(ふるさと)

夢の未来へ Space goes round

友よ Forver young

みんな頑張って

TOKIO, The world is one!!

 

We got the victory

 

(つづく)