当ブログで連載して来た、
「サザンオールスターズと野球界の40年」
が「完結」した後、その「続編」として、2019(令和元)年以降のサザンオールスターズと野球界の歴史について書いているが、
前回は、1964(昭和39)年の東京オリンピックと、大洋ホエールズの歴史などについて書いた。
2019(令和元)年7月24日、翌年(2020年)に迫った、東京オリンピック開催に向け、
日本テレビ・テレビ朝日・TBS・テレビ東京・フジテレビの民放5社が、
「一緒にやろう 2020」
と題して、東京オリンピックを盛り上げて行くために、そのテーマ曲を桑田佳祐に依頼したが、
その時、民放5社は、
「東京オリンピックのテーマ曲を歌えるのは、桑田さんしか居ない」
と、満場一致で決定したという。
では何故、桑田佳祐に、東京オリンピックのテーマ曲の依頼がされたのか…。
それを紐解くために、1964(昭和39)年の東京オリンピックの経緯から書かせて頂いた。
そして、2度目の東京オリンピック招致のキーパーソンとなったのは、時の東京都知事・石原慎太郎であった。
という事で、今回のテーマは、石原慎太郎・石原裕次郎兄弟の「挑戦」である。
そして、同時期のサザンオールスターズと桑田佳祐の激動の日々も描く。
「サザンオールスターズと野球界の41年(その4)」
を、ご覧頂こう。
<1968(昭和43)年…石原慎太郎が参院選の全国区でトップ当選を果たし、政界に進出~弟・石原裕次郎も側面から応援>
1956(昭和31)年、史上最年少の、当時23歳で芥川賞を受賞した、一橋大学の学生・石原慎太郎が書いた小説、
『太陽の季節』
がベストセラーとなった。
そして、
『太陽の季節』
の舞台となった、湘南の海を遊び場とする若者達、
「太陽族」
が登場し、社会現象となったが、その『太陽の季節』が日活で映画化されると、石原慎太郎の弟・石原裕次郎が、映画『太陽の季節』でデビューを果たした。
なお、「太陽族」が湘南を闊歩していた、まさにその年(1956年)の2月26日に、桑田佳祐は茅ヶ崎で生まれている。
以後、石原裕次郎は映画界の大スターとして君臨したが、裕次郎の兄・慎太郎は、その後も作家活動を続けていた。
そして、慎太郎は「ベトナム戦争」の取材を機に、
「我が国(※日本)も、これからどうなってしまうのか…」
という危機感を抱いた。
「やはり、ただの物書きをやっているだけではダメだ。男として生まれたからには、何か行動を起こさないと…」
そう思った慎太郎は、政治家になる事を決意し、1968(昭和43)年の参院選(参議院選挙)全国区に立候補する事となった。
裕次郎は当初、慎太郎が政治家になる事には反対していた。
しかし、兄・慎太郎の決意の固さを知ると、裕次郎は慎太郎を全力で応援するようになった。
裕次郎は、差し当たり、慎太郎のために、
「兄貴。まずはカッコイイ服装をしろよ」
と言って、仕立て屋に特別に誂えさせたスーツを慎太郎に贈り、それを慎太郎に着させた。
慎太郎は、裕次郎からプレゼントされたスーツを着て、街頭演説を行なった。
この2人は、普段は、会うとなったら、
「おい、バカ野郎。いつまでも大酒ばかり飲んでるんじゃねえぞ」
「おい、バカ野郎。いつまでも兄貴面するな」
などと言い合っていたが、いざとなったら、タッグを組んで助け合う…慎太郎と裕次郎とは、そういう兄弟だった。
また、裕次郎は慎太郎のために応援演説も買って出ていた。
そして、石原慎太郎は、石原裕次郎の応援の甲斐もあって、
1868(昭和43)年7月の参院選で300万票を獲得し、見事に全国区のトップ当選を果たした。
裕次郎は、真っ先に慎太郎の御祝いに駆け付けたが、
1955(昭和30)年、慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を獲った時も、裕次郎は家で待っていて、家の玄関に、
「よくやった、兄貴」
と筆で書いた幕を張って、慎太郎を祝福したという(※当時、裕次郎は慶応の学生だった)。
そんな裕次郎にとって、兄・慎太郎が選挙に当選したのは、自分の事のように嬉しい出来事であった。
<1975(昭和50)年…石原慎太郎、東京都知事選挙に出馬するも、美濃部亮吉に敗れる…弟・石原裕次郎の応援も実らなかったが…?>
その後、石原慎太郎は自民党の国会議員として活躍していたが、
慎太郎は、一時、国会議員を辞め、1975(昭和50)年4月の東京都知事選挙に立候補し、現職の美濃部亮吉に挑んだ。
この時も、石原裕次郎が応援演説を買って出たが、当時は「革新系」の美濃部知事の支持が根強く、慎太郎は苦戦を強いられていた。
そして、選挙戦も終盤を迎えた、ある日の事。
裕次郎が、スーツケースに入った札束を、慎太郎に差し出した。
「兄貴。2億ある。あとは実弾をばら撒くしか無いだろう。これを使ってくれ…」
一体、こんな大金を、何処でどうやって搔き集めたのか…。
慎太郎は唖然としたが、裕次郎の表情は真剣そのものだった。
慎太郎は、本当は裕次郎の気持ちがとても嬉しかったが、
「お前は、つくづく馬鹿な奴だなあ…」
と言って、2億円が入ったスーツケースを裕次郎に押し返した。
「いいか、裕次郎。この選挙には、ある仕掛けがあって、必ず俺が勝つように出来てるんだ。だから、お前は余計な事はしなくて良いんだよ」
慎太郎はそう言ったが、実は既に慎太郎はかなり劣勢であり、負けを覚悟していた。
だが、慎太郎は敢えて本当の事は言わず、とにかく裕次郎を安心させようとして、そんな事を言ったのだった。
結局、この時、慎太郎は美濃部に敗れてしまったが、後に裕次郎は、友人にこんな事を言っていたという。
「兄貴は、変わったなあ…。あの時の兄貴、何か仏様のような顔をしてたぜ…」
慎太郎と裕次郎の絆を感じさせるようなエピソードだが、
この時、美濃部に敗れ、東京都知事になれなかった…という屈辱は、ずっと慎太郎の胸に残っていた。
なお、慎太郎は若い頃、美濃部に小馬鹿にされた…という事を、ずっと根に持っていた。
そういう個人的な恨み(?)もあり、慎太郎にとっては、あまりにも苦い経験になってしまった。
<その後の慎太郎と裕次郎①…1981(昭和56)年に解離性大動脈瘤の大手術を乗り越え、裕次郎は「奇跡の復活」を果たす~その1ヶ月前、サザンオールスターズが、原由子『I LOVE YOUはひとりごと』放送禁止抗議ライブを敢行>
さて、石原裕次郎という人は、とても人を惹き付ける魅力が有る人だった。
1979(昭和54)年には、テレビ朝日で、
「石原裕次郎 芸能生活25周年記念特番」
が放送されたが、この時、裕次郎のために、かつての日活の俳優仲間や、
『太陽にほえろ!』『西部警察』
で、裕次郎と共演していた若手俳優など、数多くの人達が集まった。
子の特番で、慎太郎と裕次郎が、
『夜霧のブルース』
をデュエットする場面も有ったが、慎太郎はこの時、
「裕次郎は、こんなに沢山の仲間に慕われて、本当に人徳が有るんだなあ…」
と、思っていたかもしれない。
ちなみに、1979(昭和54)年といえば、サザンオールスターズの『いとしのエリー』が大ヒットしていた年である。
だが、その2年後、裕次郎は生命の危機に陥った。
1981(昭和56)年4月、裕次郎は『西部警察』のロケ中に、背中の激痛を訴え、慶応病院に緊急入院したが、裕次郎の病状は、
「解離性大動脈瘤」
である事が判明した。
そして、すぐにでも手術しなければ、裕次郎の命は危うい…という状況になった。
この時、慎太郎は小笠原諸島で、趣味のヨットレースに出場していたが、弟・裕次郎が重大な生命の危機に陥っているという一報を受け、青ざめた。
「裕次郎、死ぬんじゃないぞ…」
慎太郎は、すぐには帰れない状態だったが、矢も楯もたまらず、弟の名を呼びながら、その辺を走り回っていたという。
その後、慎太郎は自衛隊機を呼び寄せ(※これは、後で批判を浴びた)、緊急帰京し、裕次郎と対面したが、その時の裕次郎は小康状態を保っていた。
1981(昭和56)年5月8日、裕次郎は15人の医師団による大手術を受けたが、これが成功し、裕次郎は生命の危機を乗り越えた。
1981(昭和56)年6月21日、石原裕次郎は、石原まき子夫人(※北原三枝)と、腹心の盟友・渡哲也を伴って、赤いガウンを着て慶応病院の屋上に現れ、集まっていたファンに手を振り、裕次郎は元気な姿を見せた。
「解離性大動脈瘤」
の手術は、生還率3%…という難手術だったが、それを乗り越えた裕次郎は、
「奇跡の復活」
を果たし、日本中のファンに感動を与えたのであった。
なお、裕次郎が大手術を終え、まだ予断を許さない状況だった頃、慶応病院の周りには、多くの裕次郎ファンが集まり、病棟に向かって、皆、一心に祈りを捧げていた。
慎太郎は、その様子を見て、
「ああ、これで弟は助かるな…」
と思ったという。
そして、日本全国のファンの祈りが天に通じ、裕次郎は見事に「生還」を果たした。
さて、石原裕次郎が、
「解離性大動脈瘤」
で、生命の危機に瀕していた頃、サザンオールスターズも、激動の嵐に見舞われていた。
1981(昭和56)年4月21日、サザンの原由子が、桑田佳祐が作詞・作曲した、
『I LOVE YOUはひとりごと』
で、ソロデビューを果たしたのだが、この曲は、
「内容が過激である」
との理由で、「放送禁止」の憂き目に遭ってしまった。
するとサザンは、
『I LOVE YOUはひとりごと』
の放送禁止に抗議するために、1981(昭和56)年5月10日、所属レコード会社・ビクターの屋上にて、
「『I LOVE YOUはひとりごと』放送禁止抗議ライブ」
を行なった。
突如、ビルの屋上でライブを行なったサザンを一目見ようと、ビルの下には大群衆が押し寄せたが、このように当時のサザンは、紛れもなく「反体制派」であった。
なお、サザンが抗議ライブを行なったのが、裕次郎の「解離性大動脈瘤」の大手術の2日後であり、裕次郎が慶応病院の屋上に姿を現す1ヶ月前の事だった。
なお、同年(1981年)7月21日、サザンオールスターズは、
『ステレオ太陽族』
というアルバムをリリースしているが、これは勿論、石原慎太郎・石原裕次郎兄弟を象徴する、
「太陽族」
に由来している。
湘南(※茅ヶ崎)生まれの湘南育ちの桑田佳祐にとって、湘南が生んだ大スター、石原慎太郎・石原裕次郎兄弟は、大先達としてリスペクトする存在だったに違いない。
<その後の慎太郎と裕次郎②~1987(昭和62)年7月17日…石原裕次郎、享年52歳で死去>
さて、「解離性大動脈瘤」の大手術を乗り越えた後も、裕次郎の病との闘いは続いた。
そして、1987(昭和62)年7月17日、石原裕次郎は肝臓癌により、享年52歳で亡くなった。
大スター・石原裕次郎の、あまりにも早すぎる死去に、日本中が悲しみに暮れたが、
裕次郎の葬儀で、石原慎太郎は、
「弟は、海がとても好きでした。これからも、海を見た時は、弟を思い出して下さい…」
と言うと、後は号泣し、言葉にならなかった。
こうして、慎太郎はたった1人の弟・裕次郎を亡くしてしまったが、それは身を切られるような辛さであった。
<1996(平成8)年7月17日…石原慎太郎『弟』発売~兄・石原慎太郎によって綴られた、弟・石原裕次郎の生涯>
その後、石原慎太郎は国会議員を辞職し、久し振りに作家活動に専念する事となったが、
1996(平成8)年7月17日…そう、石原裕次郎の「命日」に、
石原慎太郎が書いた、
『弟』
という本が刊行された。
『弟』
とは、勿論、兄・石原慎太郎によって綴られた、弟・石原裕次郎の生涯…という内容だが、
『弟』は、ミリオンセラーの大ヒットとなり、改めて、
「作家・石原慎太郎」
に注目が集まった。
その時、裕次郎が亡くなってから9年の時が経っていたが、慎太郎は、
「弟の生涯を書く事」
によって、気持ちの整理を付けていたのかもしれない。
そして、その3年後、慎太郎は再び「行動」を起こす事となる。
<1999(平成11)年…石原慎太郎、東京都知事選に立候補し、見事に当選~24年越しの「リベンジ」を果たす~以後、慎太郎は東京都知事を「4期」務める>
1999(平成11)年の東京都知事選挙に、石原慎太郎は「出馬」を宣言した。
その時、都知事選の「出馬」を表明する記者会見での、慎太郎の第一声は、
「どうも。石原裕次郎の兄でございます」
というものだったが、慎太郎は、未だに何かと意識してしまう、弟・石原裕次郎の名前を、敢えて出していた。
なお、私にも2歳年下の弟が居り、石原家(両親と、私と2歳年下の弟)と私の家は、4人家族で、家族構成が全く同じだった。
従って、
「2歳年下の弟が居る」
という意味では、私と慎太郎は全く同じだった。
だから、私にとって、何かと弟を意識してしまう、慎太郎の気持ちは手に取るようにわかる…という事は、このブログでも度々、書いて来た事である。
そして、1999(平成11)年の都知事選で、石原裕次郎が築き上げていた、渡哲也を筆頭とする、
「石原軍団」
も、慎太郎のために応援に駆け付け、そして、石原慎太郎は1999(平成11)年の都知事選で、見事に当選を果たした。
慎太郎は、あの1975(昭和50)年の都知事選の「リベンジ」を、24年越しで果たしたが、
「都庁で会おうぜ!!」
という「勝利宣言」をした慎太郎は、以後、東京都民の絶大な支持を集め、東京都知事を「4期」務めた。
<2000(平成12)年…サザンオールスターズ『TSUNAMI』が300万枚に迫る大ヒット~『TSUNAMI』は日本レコード大賞も受賞~名実共に「国民的バンド」となったサザン>
石原慎太郎が、24年越しの「リベンジ」を果たし、東京都知事選に当選した翌年、
2000(平成12)年に、サザンオールスターズの通算44枚目のシングル、
『TSUNAMI』
が、約300万枚に迫る、超大ヒットを記録した。
そして、サザンは『TSUNAMI』で、日本レコード大賞も受賞したが、
それまで、着々と実績を積み重ねていたサザンも、名実共に「国民的バンド」として、日本の音楽界の頂点に立った。
若い頃は、かなり尖っていて、「反体制派」のようだったサザンも、今や誰もが認める「国民的スター」となっていた。
<2009(平成21)年…石原慎太郎・東京都知事が「2016年・東京オリンピック」招致を目指すも、その夢は叶わず…>
さて、石原慎太郎は、東京都知事として存在感を発揮し、当選を重ねて行く内に自信を深めた。
そして、慎太郎は、かねてから思っていた事…。
「東京オリンピックを招致する」
という事を、2005(平成17)年に表明した。
慎太郎は、あの1964(昭和39)年の東京オリンピックの光景が、脳裏に焼き付いていた。
「1964(昭和39)年の東京オリンピックは、戦後日本の復興の象徴だった。今こそ、再び東京オリンピックを招致し、元気を失っている今の日本に、活力を取り戻させたい…」
それが、慎太郎の考えであった。
こうして、石原慎太郎・東京都知事は、都民からの圧倒的な支持を背景として、強烈なカリスマ性を発揮し、
「2016年・東京オリンピック」
の招致を正式表明し、
「東京オリンピック」
開催に向けて、動き出した。
だが、当時の世論は冷ややかだった。
「何で、今更、東京オリンピックなんかやるんだ…」
それが、当時の世論の大方の反応だった。
2009(平成21)年10月2日、石原慎太郎・東京都知事率いる、
「東京オリンピック」
招致団は、
「2016年のオリンピック開催地」
を決定する、IOC総会の決戦に挑んでいた。
慎太郎も、IOC委員会に向けて、
「東京が、如何に次のオリンピック開催地に相応しいか」
という事を、熱心に演説し、懸命にアピールしていた。
だが、慎太郎の奮闘も空しく、東京は落選してしまい、次回の2016(平成28)年のオリンピック開催地は、ブラジルのリオデジャネイロに決定してしまった。
この時、帰りの飛行機で、慎太郎は悔し涙を流し、
「私の力不足で、大変申し訳無い…」
と、関係者に謝罪して回ったという。
こうして、この時の慎太郎の「挑戦」は、大変残念ながら「挫折」に終わってしまった。
そして、日本の世論も、
「それ見た事か…」
と、大変冷淡な物であった。
だが、石原慎太郎は、このまま簡単に諦めてしまうような男ではなかった。
<2009(平成21)年7月…「2019年ラグビーW杯(ワールドカップ)」の日本開催が決定>
さて、時系列は順序するが、2009(平成21)年7月に、
「2019年ラグビーW杯(ワールドカップ)」
の、日本開催が決定した。
この時、「ラグビーW杯」の日本開催の旗振り役となっていたのが、
自民党の重鎮で、かつては早稲田のラグビー部の出身だった森喜朗である。
そして、この森喜朗は、
「東京オリンピック」
にも、後に大きく関わって来る事になる人物なので、ご記憶頂きたい。
それはともかく、2019(令和元)年の「ラグビーW杯」開催に向けて、日本のラグビー界も動き始めた。
<2008(平成20)年…デビュー30周年を迎えたサザンオールスターズが『I AM YOUR SINGER』で「無期限活動休止」>
さて、石原慎太郎が、
「2016年・東京オリンピック」
招致に向けて、懸命に動いていた頃、サザンオールスターズも、激動の時期を過ごしていた。
2008(平成20)年、サザンオールスターズは、
「デビュー30周年」
を迎えていたが、同年(2008年)5月12日、突如、東スポ(東京スポーツ)の1面で、
「サザン解散」
がスクープされたのである。
「また、東スポが、いい加減な記事を書いてる…」
と思われたが、この記事には妙な信憑性が有り、サザンファンの胸をざわつかせていた。
そして、2008(平成20)年5月19日、サザンオールスターズは、
「今年(2008年)限りで無期限活動休止」
をすると、発表した。
「サザン解散」
ではなかったものの、これは「事実上のサザン解散」に等しいものである…と、世間からは受け止められ、サザンファンも衝撃を受けた。
「サザンだけは、絶対に解散しないバンドだと思ってたのに…」
私も、そう信じている所が有ったので、これは大きなショックであった。
2008(平成20)年8月6日、サザンオールスターズは、通算53枚目のシングル、
『I AM YOUR SINGER』
をリリースした。
これは、サザンの「デビュー30周年記念シングル」でもあり、
サザンの「無期限活動休止」前の、最後のシングルでもあった。
2008(平成20)年8月24日、サザンオールスターズは、日産スタジアムにて、
「真夏の大感謝祭」
と題したライブを開催した。
サザンの「デビュー30周年」記念ライブでもあり、「無期限活動休止」前の最後のライブでもあったが、
日産スタジアムを埋め尽くした、超満員のサザンファンに向かって、桑田佳祐は、
「サザンという屋号を、一旦、皆さんにお預けしますので、また帰ってくる日まで、また逢える日まで預かっていてください!!」
と宣言した。
こうして、サザンは一旦、その「歴史」に幕を下ろした。
「サザンは、いつの日か、また復活してくれるのだろうか…」
当時の私は、そんな心境だった。
勿論、私もサザンの「復活」は信じていたが、それがいつになるのかは、全くわからなかった。
「もしかしたら、このままサザンとしての活動は終わってしまうかもしれない…」
そんな風にも思えたが、サザンがこの先、どうなるのかは、誰にも全くわからなかった。
<2010(平成22)年…桑田佳祐、「食道癌」を患う~大手術を乗り越え、桑田は同年(2010年)の「第63回NHK紅白歌合戦」で、公の場に復帰>
2008(平成20)年に、サザンが「無期限活動休止」をした後、
桑田佳祐は、ソロとして精力的に活動していた。
だが、2010(平成22)年7月28日、桑田佳祐は、自らが「食道癌」に冒されている事を発表した。
この発表に、ファンは皆、大きなショックを受けた。
この時、桑田はソロアルバムを制作中であり、全国ツアーも開催する予定だったが、それらは全て「延期」された。
だが、桑田は、ファンには極力、心配をかけまいとして、
「この度は、ご心配をおかけして、本当に申し訳ない気持ちです。そして、今年の活動を楽しみにしてくれていた皆さんには、心からお詫び申し上げます。しばらくの間、どうかご心配なさらず(そんなのムリか!?)待っていて下さいね。お楽しみは、あ・と・で♥」
という明るいメッセージを、ファンに対して贈っていた。
そして、桑田は8月に「食道癌」の手術を受ける事となったが、
この時、桑田の元には、日本全国のファンから、励ましの手紙やメッセージが沢山贈られた。
「桑田さん、必ず元気になって、帰って来て下さい!!」
「手術の成功と、ご無事をお祈りしています」
そんな温かい激励のメッセージは、桑田を勇気付けたに違いない。
そして、ファンの祈りが天に通じ、桑田の手術は無事に成功した…。
「これは、あの時の裕次郎と同じだな…」
その時、私はそう思っていた。
勿論、桑田の手術を執刀した先生の腕が素晴らしかったのは言うまでもないが、
ファンの願いが天に通じ、桑田佳祐は「生還」する事が出来た…と、私は思っている。
そして、手術を受けた後、桑田は懸命にリハビリを行ない、
同年(2010年)12月31日、
「第61回NHK紅白歌合戦」
に、桑田佳祐は「特別枠」で出場し、公の場に復帰を果たした。
この時の「紅白」で、桑田はバニーガールを従え、
『それ行けベイビー!!』『本当は怖い愛とロマンス』
という、2曲の新曲を歌い、元気な姿を見せ、ファンを安心させた。
だが、本当はこの時、桑田の体調はギリギリの状態で、当日まで、本当に「紅白」の舞台に立てるのか、わからなかった…と、後に原由子は語っている。
だが、当日に奇跡的に桑田の体調が回復し、桑田は見事に「紅白」の舞台に立った。
それは、あの1981(昭和56)年の石原裕次郎の「奇跡の復活」を彷彿とさせるような姿であった。
こうして、桑田佳祐は「不死鳥」のように蘇った。
そして、一敗地にまみれた石原慎太郎も、再び「東京オリンピック」の招致に向けて動き始める事となる…。
(つづく)