今年(2024年)のNHK大河ドラマは、日本古典文学史上の最高峰、
『源氏物語』
を書いた、紫式部を主人公とし、紫式部の生涯を描く、
『光る君へ』
というタイトルの物語である。
そして、後に「紫式部」と呼ばれる事となる「まひろ」という女性の役を演じているのが、吉高由里子である。
現在、『光る君へ』は、第4話までが放送されているが、毎回、とても面白く、私も「どハマリ」している。
という事で、今回は、大変僭越ながら、この私が、
『光る君へ』
という大河ドラマを、より一層、楽しんで頂くために(?)、
「紫式部と、その時代」
を描かせて頂いているが、紫式部が如何にして登場し、そして『源氏物語』を書くに至ったのか…という事を書かせて頂く。
前回は、
「紫式部と、その時代【政治史編】」
として、紫式部が生きた時代に全盛期だった藤原氏の栄華を中心に書いたが、
今回は、
「紫式部と、その時代【文化史編】」
として、日本古典文学史や、紫式部の時代などを書いてみる事としたい。
それでは、ご覧頂こう。
<「平城京」への遷都(710)と、『古事記』(712)・『日本書紀』(720)の成立>
710年、元明天皇の時代に、都は奈良の地の、
「平城京」
へと遷都された。
「平城京」は、中国の唐の都・長安をモデルとして作られた都だが、
東西約4km、南北約5kmの都市であり、東西を「条」、南北を「坊」で区切り、
キッチリと、碁盤の目のようにして、街が作られた。
そして、「平城京」の北に位置するのが、天皇が住む宮殿である「平城宮」である。
この「平城宮」は、政治の中心でもあり、天皇を中心とする朝廷が、政治を行なっていた。
という事で、都が奈良の「平城京」にあったため、この時代は、
「奈良時代」
と称されている。
そして、「平城京」に遷都した後、ある重要な書物が編纂されている。
日本という国の成り立ちから、その時代に至るまでの神話や、各地に伝わる説話などを集大成した、
『古事記』
が編纂され、元明天皇の時代の712年に完成している。
『古事記』は、元々は天武天皇の時代に編纂が始まったが、稗田阿礼という、記憶力抜群の人物が「語り部」となり、その稗田阿礼が暗誦していた、日本という国の成り立ちの神話などの物語を太安万侶が記録して行き、編纂したのが、『古事記』だったという。
そして、前述の通り、「平城京」に遷都した後の712年、『古事記』は完成した。
そして、『古事記』と同じく、天武天皇の時代に編纂が始められ、
720年に完成したのが、
『日本書紀』
という歴史書である。
『古事記』が、主に神話や説話などが書かれているのに対し、
『日本書紀』は、日本という国の公式の歴史書である。
従って、『古事記』と『日本書紀』は全く違う物だが、
では何故、『日本書紀』が作られたのかといえば、当時の超先進国・唐に対し、
「我が日本は、都も整え、このような正統な歴史書もある国なのですよ」
という事をアピールする目的があった。
という事で、『日本書紀』は舎人親王・太安万侶などによって編纂が進められ、元明天皇の娘・元正天皇の時代の、720年に完成している。
という事で、『古事記』『日本書紀』によって、日本文学史は幕を開けたと言って良い。
なお、前述の通り、当時の中国は超先進国だったため、
日本は、中国から色々な文化を「輸入」していた。
そして、文字が無かった日本は、中国から「漢字」も輸入している。
『古事記』『日本書紀』
も、全て漢字で書かれているが、本文は漢字の音と訓を交えた変体漢文で書かれ、
文中にある人名や歌謡は、一字一音式の、
「万葉仮名」
によって書かれている。
<「万葉仮名」とは何か?~「一字一音式」で、漢字を日本語の発音に無理矢理に(?)当て嵌めた物~後の「ひらがな」の元になる>
では、
「万葉仮名」
とは、一体何か…という事であるが、
ご覧の通り、元々の日本語の発音を、無理矢理に、
「一字一音式」
で、漢字を当て嵌めた物である。
従って、書くのが物凄く面倒臭かったと思われるが、
あまりにも書くのが大変だったため、後に「万葉仮名」を簡略化した物が、
「ひらがな」
となった。
つまり、「万葉仮名」とは「ひらがな」の元になった文字である。
そして、日本語の「ひらがな」が発明された事により、
『源氏物語』
などの、日本古典文学が花開いた。
その事を、まずはご記憶頂きたい。
<日本最古の和歌集『万葉集』~天皇・皇族から庶民まで、幅広い階層の人が詠んだ和歌を集大成した和歌集~サザンオールスターズの『世に万葉の花が咲くなり』(1992)も、『万葉集』から来ている?>
さて、奈良時代後期の760年頃に成立したと言われているのが、
日本最古の和歌集として知られる、
『万葉集』
である。
『万葉集』には、約4,500首もの和歌が収められており、
640年頃~760年頃という時代の和歌を集大成した歌集である。
「和歌」
とは、
「五・七・五・七・七」
の形式で詠まれる歌の事だが、
『万葉集』
の時代には、まだ「ひらがな」は発明されていなかったので、
『万葉集』に収められている和歌は、あの難しい「万葉仮名」で書かれている。
『万葉集』
の時代区分は、大体、4期に区切られるが、
『万葉集』の第1期は、天智天皇・天武天皇の時代であり、天智・天武の両天皇の歌も収められているが、
その天智・天武の両天皇に愛されたという伝説の女性であり、天才歌人の額田王の歌も収められている。
第2期は、持統天皇の下、律令国家の礎が築かれて行った時代であり、
第2期には持統天皇・柿本人麻呂・高市黒人・大津皇子・大伯皇女…らの歌が収められている。
特に、柿本人麻呂は天才歌人として名高い。
第3期は、710年に「平城京」に遷都した後の時代で、山上憶良・山部赤人・大伴旅人・高橋虫麻呂・大伴上坂郎女…らの歌が収めらておりが、この辺りから、和歌が文学作品として、より一層、深化して行っている。
そして、最後の第4期は、『万葉集』を編纂したと言われている大伴家持や、あの「藤原四兄弟」によって自害に追い込まれた、悲劇の皇族・長屋王の歌も収められている。
なお、『万葉集』は、実は誰が編纂したのか、わかっていないが、一応、大伴家持が中心となって編纂された…と言われている。
なお、『万葉集』の大きな特徴は、
天皇・皇族や貴族の歌も収められている一方、
庶民の歌も数多く収められているという事であり、
天皇・皇族から、名も無い庶民まで、実に幅広い階層の人が詠んだ歌が収められている。
例えば、当時は、都から遠く離れた「田舎」と思われていた、東国の庶民によって歌われた、
「東歌」
は、当時の庶民の素朴な感情が素直に詠まれている。
そして、九州沿岸の警備に赴いた兵士(防人(さきもり))や、その家族によって歌われた、
「防人の歌」
は、離れ離れになってしまった防人や家族の感情が伝わって来るような歌である。
このように、640~760年頃に至る、長い時代の、様々な階層の人達によって詠まれた歌を、現代に伝えてくれているのが、『万葉集』の魅力であると言って良い。
そして、これは私の個人的な考えだが、
1992(平成4)年にリリースされた、サザンオールスターズのアルバム、
『世に万葉の花が咲くなり』
は、『万葉集』から来ているのだと思われる。
『世に万葉の花が咲くなり』に収められている曲は、どれも素晴らしい曲ばかりだが、
サザンが、世の中を様々な角度から切り取り、それを歌で表現している…という意味では、『万葉集』に通じる物が有るのではないか…と、私は思う。
<794年、桓武天皇の時代に「平安京」に遷都~「平安時代」の遷都~歴代の天皇の時代の短期間での遷都の繰り返しの末に、「平安京」に落ち着く>
さて、我が国の「都」を作るという試みは、
持統天皇の時代の694年の「藤原京」に始まり、以後、歴代の天皇は遷都を繰り返した。
それは何故かと言えば、例えば、疫病が流行ったりとか、衛生面で問題が生じたりとか、様々な理由が有ったようだが、
とにかく、暫くの間は、都は転々としており、なかなか定まらなかった。
しかし、794年、桓武天皇によって、
「平安京」
に遷都されると、以後、ようやく都の位置は「平安京」に落ち着いた(※一応言っておくと、この「平安京」が、今の京都である)。
この「平安京」も、「平城京」と同様に、街が碁盤の目のように区画整理され、
都の北には、「平安宮」という、天皇や皇族が住む宮殿が置かれた。
そして、「平安宮」で、天皇や貴族が中心となった朝廷によって政治が行われたが、
「平安京」に都が定められて以降の時代を、
「平安時代」
という。
そして、この「平安時代」に、「天皇の外祖父」になる事によって、政治権力を確立して行ったのが藤原氏である…という事は、前回の記事で書いた。
そして、「平安時代」に華やかな宮廷文化が花開き、その宮廷文化の時代に登場したのが、清少納言や紫式部などの女流文学者であった。
<貴族の必須の教養だった「漢詩文」~日本最古の漢詩集『懐風藻』(751)と、三大勅撰漢詩集『凌雲集』(814)・『文華秀麗集』(818)・『経国集』(827)>
さて、「平安時代」以降、貴族を中心とした宮廷文化が花開いて行く事となるのだが、
当時の貴族の必須の教養といえば、
「漢詩文」
だった。
前述の通り、この頃の日本は、超先進国の中国から文化を輸入していた。
そのため、中国の歴史や文化が書かれていた「漢詩文」は、貴族にとって必須の教養であり、貴族の嗜みとされていた。
まず、奈良時代後期の751年に、日本最古の漢詩集である、
『懐風藻』
が編纂されたが、以後、貴族達は競って漢詩文の腕を競って行った。
そして、9世紀前半(800年代前半)は、「漢詩文」の流行の全盛期であり、
『凌雲集』(814)・『文華秀麗集』(818)・『経国集』(827)
…という、勅撰の漢詩集が編纂されている。
なお、「勅撰」とは、天皇の命令によって編纂された書物という事を意味しているが、
つまり、当時は天皇が編纂の命を下すほど、「漢詩文」が朝廷で流行っていたという事である。
だが、8世紀後半の頃、日本文学史上に残る、大発明が有った。それは、
「ひらがな」
の発明である。
<8世紀後半(800年代後半)~9世紀(900年代)頃…「ひらがな」が発明され、宮廷の女性達に広まる~日本の女流文学誕生のキッカケに>
前述の通り、その頃の日本は、文字を全て「漢字」で書いていた。
しかし、「漢字」はとても難しく、ましてや「一字一音」で表記する「万葉仮名」は、とても難しい。
そこで、8世紀後半(800年代後半)~9世紀(900年代)頃にかけて、「漢字」を崩し、書きやすくした、
「ひらがな」
が発明された。
この「ひらがな」の発明は画期的であり、それまでに比べ、文字が格段に書きやすくなったのである。
だが、相変わらず、貴族の男達の間では、「漢字」が主流であり、
「ひらがな」を用いたのは、貴族の女性達だった。
「男は漢字、女は平仮名(ひらがな)」
という風潮が、当時は強かったが、貴族の女性達は、「ひらがな」を駆使する事によって、以後、日記や随筆や物語などの、優れた女流文学作品を生み出して行く事となる。
つまり、「ひらがな」の誕生は、日本の女流文学誕生のキッカケとなった。
<「和歌」の流行~醍醐天皇の命により、初の勅撰和歌集『古今和歌集』(905)が編纂~「六歌仙」の歌などが収められる>
さて、「漢詩文」が大流行した後、
8世紀後半頃から、朝廷で流行するようになったのは、
「和歌」
である。
『万葉集』の所でも述べたが、「和歌」とは、
「五・七・五・七・七」
の形式で詠まれる歌であるが、
905年、醍醐天皇の命によって編纂されたのが、初の勅撰和歌集である、
『古今和歌集』
である。
『古今和歌集』
の撰者は、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑らだった。
そして、
『古今和歌集』
の代表的な歌人として知られているのが、
「六歌仙」
と称されている歌人であり、その「六歌仙」とは、
在原業平・小野小町・僧正遍昭・喜撰法師・文屋康秀・大伴黒主…
という、6人の歌人達だった。
いずれも「伝説の歌人」として名高い人達である。
なお、『古今和歌集』には、全体として優美繊細な歌が多く、貴族の歌ばかりが収められており、幅広い階層の人達の歌が収められていた『万葉集』とは、作風が大きく異なっている。
<『土佐日記』(935)~紀貫之によって「ひらがな」で書かれた、初の「日記文学」>
さて、『古今和歌集』の撰者の1人だった紀貫之は、
もう一つ、非常に大きな功績を残している。それは、
『土佐日記』
を書いた事である。
『土佐日記』は、土佐国に赴任していた紀貫之が、都に帰る時に書いた日記であるが、その書き出しで、紀貫之は、
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」
と書いた。
「男の人が書いている日記というものを、女である私も書いてみる」
…という事を言っているのだが、紀貫之という人は男性である。
では何故、こういう事を、わざわざ書いたのかといえば、日記を「ひらがな」で書くためだった。
つまり、貴族の男性は、「漢字」を用いるのが普通だが、貴族の女性は「ひらがな」を使っていたので、
紀貫之は、敢えて自分を「女性」になぞらえて、『土佐日記』を書いた。
そして、『土佐日記』は、日本初の「日記文学」として知られるようになって行った。
<『竹取物語』~現存する日本最古の「物語」~謎多き「かぐや姫」の物語>
そして、正確な年代は不明だが、平安時代の初め頃、現存する日本最古の物語、
『竹取物語』
が誕生した。
ある日、竹取の翁というおじいさんが、竹やぶに行くと、光る竹を見付け、
その竹を切ると、竹の中に女の子が入っていた。
そして、竹取の翁と、その妻によって育てられた、その女の子は、あっという間に、世にも美しい女性に成長した。
「かぐや姫」
と呼ばれるようになった彼女は、やがて、天皇をはじめ、やんごとない身分の貴公子達から求婚されるが、そんな彼らに無理難題を言って、全て断った。
そして、ある日、「かぐや姫」は、実は月の国の人であるという事を、育ての親である竹取の翁と、その妻に告げ、そして月の国からの使者達と共に、月に帰って行った…。
という事で、日本人なら誰もが知っている、
「かぐや姫の物語」
であるが、その『竹取物語』は、一体誰が書いたのか、そして、いつ成立した物語なのかなど、詳しい事はわかっていない。
だが、今から1000年以上も前に、こんなSF的な物語があった…という事には、本当に驚かされる。
<「作り物語」の系譜~『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』、「歌物語」の系譜『伊勢物語』『大和物語』『平中物語』⇒そして、その集大成としての『源氏物語』>
『竹取物語』の誕生以降、
900~1000年頃にかけて、
『竹取物語』『宇津保物語』『落窪物語』
…という、所謂「作り物語」の系譜が生まれたが、
それと同じ頃、
『伊勢物語』『大和物語』『平中物語』
という、所謂「歌物語」の系譜も生まれた。
前者が、ストーリーを主軸とした物語であるのに対し、
後者は、「和歌」が主体であり、物語は「付け足し」のような作品である。
そして、これらの「作り物語」「歌物語」の系譜の集大成として、紫式部によって書かれ、日本古典文学の最高峰となったのが、
『源氏物語』
である。
今まで述べて来た、日本古典文学の礎の上に、紫式部という天才作家が現れ、紫式部によって『源氏物語』が書かれた…と言って良い。
<清少納言が書いた随筆『枕草子』~清少納言が仕えた中宮定子の「宮廷サロン」の華やかな日々の思い出を綴る>
さて、前回の記事でも書いたが、
990年頃、藤原道隆の娘・定子が、一条天皇に嫁ぎ、中宮となった。
そして、その中宮定子に「女房」として仕えたのが、清少納言である。
清少納言は、有名な歌人だった清原元輔の娘であり、幼い頃から才気煥発であった。
そして、その清少納言が、中宮定子を中心とした宮廷サロンで過ごした、華やかな日々を回想して書いた随筆が、
『枕草子』
だった。
随筆とは、要するに今でいうところの「エッセイ」である。
清少納言という人は、凄く教養が有り、とても賢い女性だった。
清少納言は、日本や中国の古典文学にも詳しく、そんな清少納言の事を、中宮定子も、とても気に入っていた。
そして、中宮定子と清少納言は、機知に富んだやり取りを楽しんでいた。
『枕草子』
に書かれている、有名なエピソードで、こんな話が有る。
ある時、外に雪が降る、とても寒い日が有った。
その雪を見て、中宮定子は清少納言に、
「少納言よ。香炉峰の雪は、どうやって見るのかしら?」
と、尋ねた。
すると、清少納言はすかさず、御簾(みす)を掲げてみせた。
それを見て、中宮定子は満足気に笑っていたが、これは、唐の詩人・白居易(白楽天)の、
『香炉峰の雪は簾をかかげて看る』
という漢詩を、清少納言は即座に思い出し、それを「再現」してみせた…という事である。
これは、元ネタの中国の古典をよく知っていないと、到底出来ないやり取りである。
如何に、中宮定子と清少納言が教養が有り、このように機知に富んだやり取りを楽しんでいたか…という事が、よくわかる。
だが、清少納言が尊敬してやまなかった中宮定子は、若くして儚く亡くなってしまう。
『枕草子』
は、そんな中宮定子という人の事を、是非とも書き残しておきたいという、清少納言の思いが溢れている随筆なのである。
<紫式部が書いた、日本文学史上の最高峰『源氏物語』>
そして、中宮定子と清少納言の時代と入れ替わるように、
1000年代の初め、紫式部が、藤原道長の娘・中宮彰子に女房として仕え、
そして「宮仕え」の傍ら、紫式部が書いた、日本古典文学史上の最高峰の作品こそ、
『源氏物語』
である。
…という事であるが、これから、紫式部や『源氏物語』について詳述するのは、記事のスペース的にも無理なので、それはまた別の機会に書かせて頂くとして、
紫式部という人も、とても賢く、そして教養ある女性だった。
そして、『源氏物語』は、天皇の子として生まれた光源氏という、スーパースターの貴公子が、様々なお姫様達と出逢う物語…という事であるが、『源氏物語』に登場する人物達は、皆とても魅力的であり、しかも、それぞれの悩みや葛藤などが、とてもよく描かれている。
本当に、『源氏物語』は、読めば読むほど、奥が深い作品である。
そして、『源氏物語』の作者・紫式部の生涯を描く、
『光る君へ』
は、本当に私にとっては、待望の大河ドラマであり、毎回、とても楽しく見ている。
<紫式部が書いた『紫式部日記』~紫式部がライバル視した(?)清少納言の「悪口」も書かれる>
では、この記事の最後に、紫式部が、清少納言の事をどう思っていたのか…それを知る手掛かりとなる、
『紫式部日記』
について、ご紹介させて頂く。
紫式部は、自らが体験した宮中の出来事や、『源氏物語』執筆の話などを、『紫式部日記』に書き残しているが、
その『紫式部日記』で、紫式部は、ライバル視していた(?)清少納言の事を、こんな風に書いている。
「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり。そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」
…これを現代語訳してみると、こんな感じになるようである。
「清少納言なんて得意顔で漢字を書き散らしているけど、よく見たら間違い多いし大したことないわね。こんな人の行く末にいいことなんてあるかしら。(いや、ないでしょう)」
…という事であるが、紫式部は、かなり痛烈に清少納言の事を批判している。
実際には、清少納言と紫式部は、「宮仕え」の時期はずれているので、この2人は会った事は無いようだが、それにしても、かなり強烈に「毒」を吐いたものである。
まあ、その言葉についての紫式部の真意はわからないが、紫式部が清少納言の事を、凄く意識していた事だけは確かであろう。
良くも悪くも、紫式部という人は、とても人間味溢れる人だったようで、『紫式部日記』を読めば、その事がとてもよくわかる。
というわけで、
『光る君へ』
では、そんな清少納言と紫式部の関係が、どのように描かれるのか…という事にも、是非ともご注目頂きたい。