2024 NHK大河ドラマ『光る君へ』~紫式部と、その時代【政治史編】~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今年(2024年)のNHK大河ドラマ、

『光る君へ』

は、今から約1,000年前の平安時代が舞台であり、

『源氏物語』

という、日本文学史上に残る大傑作を書き上げた、紫式部の生涯を描いている作品である。

現在、『光る君へ』は、第4話まで放送が終わっているが、これが毎回メチャクチャ面白く、私も「どハマリ」している。

私としては、早くも『光る君へ』は、

「歴史に残る傑作」

になりそうな予感がしている。

 

 

『光る君へ』

は、どのような作品なのかといえば、

後に紫式部と称される、「まひろ」という女性を吉高由里子が演じており、

この「まひろ」なる女性が、如何にして「紫式部」となり、そして『源氏物語』を書き上げたのか…という、紫式部という人そのものにスポットを当てた作品である。

そして、紫式部が生きた時代は、まさに藤原氏の全盛時代だったが、その藤原氏の全盛時代の象徴的人物・藤原道長の役を、柄本佑が演じている。

『光る君へ』

は、紫式部藤原道長を中心として、この2人の波乱万丈の人生や、

「紫式部と、その時代」

を描こうとしている、意欲作である。

 

 

紫式部は、藤原道長の娘・中宮彰子に仕えた女房であり、

紫式部中宮彰子に仕える「宮仕え」の間に、『源氏物語』を書いた。

そして、紫式部を女房として「スカウト」し、彰子に仕えさせたのが藤原道長だった。

その道長の支援もあって、紫式部『源氏物語』を書く事が出来た。

ちなみに、『光る君へ』では、実は、まひろ(紫式部)藤原道長は、幼少期から縁が有り、特別な絆が有った…という風に描かれている。

という事で、今回は、不肖この私が、大変僭越ではあるが、

『光る君へ』

という大河ドラマを、より一層、お楽しみ頂くために、「超ざっくり」ではあるが、その時代背景などを書かせて頂く。

という事で、まずは、

「2024 NHK大河ドラマ『光る君へ』~紫式部と、その時代【政治史編】~」

として、

「藤原氏が、如何にして成り上がり、全盛時代を築き上げて行ったのか?」

という経緯を描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<藤原氏の祖・中臣鎌足~「大化の改新」(645)で、中大兄皇子・中臣鎌足が協力して蘇我氏を打倒~功績を称えられ、中大兄皇子から中臣鎌足に「藤原」の姓が与えられる>

 

 

「藤原氏」の祖は、一体、誰か…。

それは、中臣鎌足である。

かつて、皇族の聖徳太子と、有力豪族だった蘇我馬子はお互いに協力し、

日本初の女帝である推古天皇を支え、政治を行なっていた。

だが、622年に聖徳太子が亡くなると、次第に蘇我氏が朝廷を牛耳るようになって行った。

そして、蘇我馬子の子・蘇我蝦夷と、蝦夷の子・蘇我入鹿が、完全に朝廷を意のままに操る事を目論み、

643年、蘇我蝦夷・蘇我入鹿の親子は、次期天皇への即位が有力視されていた、聖徳太子の子・山背大兄王を殺害してしまった。

「これで、蘇我氏の天下は目前だ…」

蘇我蝦夷・蘇我入鹿の親子は、邪魔者である山背大兄王を殺害すると、残るターゲットを、これまた皇族である中大兄皇子に絞っていた。

「このままでは、自分が殺(や)られてしまう…」

この時、中大兄皇子は、非常に危機感を抱いていた。

 

 

 

だが、645年のある日。

「運命の出逢い」

が有った。

宮中の蹴鞠の最中、中大兄皇子は、誤って、自らの靴を飛ばしてしまった。

すると、その靴を拾い、中大兄皇子の元に近付いて来た男が居た。

それが、中臣鎌足である。

「皇子(みこ)様とは、いつかお近づきになりたいと思っておりました…」

当時、中臣鎌足は、蘇我氏の専横を快く思ってはおらず、

「蘇我氏の打倒」

を密かに狙っていた。

その思いは、中大兄皇子も同じだった。

「このままでは、自分の命も蘇我氏に狙われてしまう。それなら、殺(や)られる前に、殺(や)ってしまおう…」

中大兄皇子は、そう決意していた。

こうして、思惑が一致した中大兄皇子と中臣鎌足は共闘し、

「蘇我氏の打倒」

を目指す事となった。

 

 

 

そして、同年(645年)、中大兄皇子・中臣鎌足は、

謀(はかりごと)を巡らし、宮中でクーデターを起こした。

当時、都のあった飛鳥板蓋宮にて、中大兄皇子・中臣鎌足は、蘇我蝦夷を不意打ちで殺害した。

そして、間髪入れず、蘇我蝦夷の父・蘇我入鹿も自殺に追い込んだ。

こうして、中大兄皇子・中臣鎌足の奇襲は成功し、あっという間に蘇我氏の打倒に成功したが、このクーデターを、

「乙巳の変」

という。

 

 

 

「乙巳の変」

の翌年、646年には、日本初の元号、

「大化」

が制定された。

蘇我氏を倒した中大兄皇子は、孝徳天皇を立て、自らは皇太子として政治の実権を握ったが、中臣鎌足も内臣として中大兄皇子を支えた。

そして、2人が中心となって、様々な政治改革が行われたが、その一連の政治改革は、

「大化の改新」

と称されている。

後に、中大兄皇子天智天皇として即位したが、中大兄皇子⇒天智天皇を補佐し、中大兄皇子⇒天智天皇の右腕となって活躍した中臣鎌足は、その絶大な功績を称えられ、669年、鎌足は亡くなる前日に、天智天皇より、

「藤原」

の姓が贈られた。

こうして、中臣鎌足⇒藤原鎌足が、

「藤原氏」

の祖となった。

 

<天智天皇・天武天皇・持統天皇の関係性と、「壬申の乱」(672)について…>

 

 

さて、中大兄皇子が天皇に即位し、天智天皇になった…という事は、前述した。

そして、この天智天皇には、大海人皇子という弟が居た。

また、天智天皇には、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)という娘が居た。

この関係性を、まずは頭に入れて頂きたいのだが、

後に、天智天皇の弟・大海人皇子と、天智天皇の娘・鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、結婚している。

つまり、大海人皇子鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、

「叔父さんと姪っ子」

という関係性なのだが、その叔父さんと姪っ子が結婚した…という事である。

現代の世から見れば、

「ええっ!?マジかよ…」

という感じかと思われるが、当時の皇族では、このような「近親婚」は、よく有る事だった。

大昔の時代は、現代とは「常識」が異なるので、何事も現代の物差しで測ってはいけない…という事である。

 

 

671年、天智天皇は亡くなったが、その亡くなる間際、天智天皇は、弟・大海人皇子に対し、

「次の天皇の位を、お前(※大海人皇子)に譲る」

と、告げた。

しかし、本当は、天智天皇の息子・大友皇子に、天皇の位を譲りたい、というのが、兄・天智天皇の「本音」ではないか…という事を悟った大海人皇子は、

「私は、天皇の位を継ぐつもりはありません」

と言って、天皇の即位を辞退した。

そして、「出家」した大海人皇子は、吉野の地に籠った。

そして、天智天皇が亡くなった後、天智天皇の子・大友皇子は、自らの地位を脅かす恐れのある大海人皇子を、攻め滅ぼそうとしていた。

「こうなったら、殺(や)られる前に、殺(や)るのみだ!!」

大海人皇子は、戦いを決意した。

こうして、672年、

「大海人皇子VS大友皇子」

の戦いである、

「壬申の乱」

が勃発したが、結果は大海人皇子が勝利した。

その後、大海人皇子は天皇に即位し、天武天皇となった。

なお、敗れた大友皇子は自害している。

 

 

その後、大海人皇子⇒天武天皇が中心となり、政治が行われたが、

夫・天武天皇を支えたのが、天武天皇の妻・鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)だった。

鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、政治的手腕に長けた、物凄く優秀な女性だったが、

天武天皇が亡くなった後、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は天皇に即位し、

「持統天皇」

となった。

 

 

…という事であるが、

天智天皇・天武天皇・持統天皇の時代の、波乱万丈の物語を、

里中満智子が描いた漫画が、

『天上の虹 持統天皇物語』

という作品である。

鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)⇒持統天皇を中心に、この激動の時代を描いた大長編であるが、

非常に面白い作品なので、ご興味が有る方は、是非ともお読み頂きたい。

 

<藤原不比等という男~藤原鎌足の息子・藤原不比等、「藤原氏」繁栄の礎を築く~藤原不比等の息子「藤原四兄弟」の隆盛と、藤原不比等の娘・光明子と聖武天皇の結婚>

 

 

さて、前述の持統天皇の時代に、歴史の表舞台に登場し、

一気にのし上がり、「藤原氏」の繁栄の礎を築いた男が居た。

それが、藤原鎌足の息子・藤原不比等である。

持統天皇の没後、天皇の位は持統天皇の孫・文武天皇に譲られたが、

その文武天皇を補佐し、政治の実権を握ったのが、藤原不比等だった。

 

 

701年、藤原不比等らが中心となり、

「大宝律令」

が制定されたが、それと共に、

「太政官制」

が整備されて行った。

これは、天皇を中心とする朝廷の政治機構であるが、

天皇を補佐する重臣として、太政大臣、左大臣、右大臣…などが居て、

その下に大納言、更に、その下に左弁官、少納言、右弁官…などが居た。

詳しくは、上記の図をご覧頂くとして、ご注目頂きたいのが、

「〇〇省」

という、お役所の名前である。

その中に、

「式部省」

という役所が有るが、この「式部省」に務める役人だったのが、紫式部の父・藤原為時である。

実は、当時の女性の本名というのは、後世には殆んど伝わっておらず、紫式部の本名も、わからない(※「まひろ」なる名前は、大河ドラマ『光る君へ』の、オリジナルである)。

だから、

「紫式部」

というのは、彼女の「あだ名」のようなものであるが、それは、彼女の父親が式部省の役人だった事に由来している。

 

 

 

…というわけで、話が少し脱線してしまったが、藤原不比等の時代に話を戻すと、

藤原不比等には、4人の息子達が居た。

その4人の息子とは、武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(式家)・麻呂(京家)…であるが、

()の中で示した通り、

「藤原四兄弟(藤原四家)」

は、後に、「南家」「北家」「式家」「京家」の祖となった。

その後、紆余曲折を経て、政治の実権を握る事になるのが、

「北家」

であり、藤原道長も、この「北家」の出身である。

そして、藤原不比等には、光明子という娘も居たが、不比等は光明子を聖武天皇と結婚させた。

そして、光明子⇒光明皇后は、阿倍内親王(※後の孝謙・称徳天皇)を生んだので、藤原不比等は、

「天皇の外祖父」

となった。

このように、藤原氏は、一家の娘を天皇に嫁がせ、天皇に嫁いだ娘が、天皇の跡取りを生む事により、

「天皇の外祖父」

として、絶大な権力を握る…このパターンが、以後も繰り返されて行く。

つまり、これこそが、藤原氏が政治の権力を握って行く、その「からくり」の正体であった。

 

<着々と政治の実権を握り、絶大な権力を固めて行った藤原氏~邪魔者は容赦なく排除して行った藤原氏>

 

 

 

では、藤原氏が朝廷の中にあって、政治の実権を握って行った、その「からくり」が解った所で、

以後の歴史については、ちょっと「駆け足」で、お話させて頂く。

藤原氏は、その時代ごとに、一応、天皇をトップに戴き、その天皇を補佐する役割を果たしながら、裏で政治の実権を握る…という事を繰り返して行った。

そして、少しでも藤原氏の邪魔になりそうな政敵が居ると、容赦なく排除して行ったが、

「藤原四兄弟」

も、邪魔者だった皇族の長屋王を排除するため、729年、長屋王に謀反の疑いをかけ、長屋王を自害に追い込んだ。これが、

「長屋王の変」

と称される事件だが、その後、

「藤原四兄弟」

に天罰が下ったのか、何と、4人とも天然痘にかかり、バタバタと死んでしまった。

だが、その後も紆余曲折がありながらも、藤原氏の天下は続いた。

そして、その時代ごとに、藤原氏は前述のパターンで、

「天皇の外祖父」

となって、天皇を裏から操り、邪魔者は次々に排除して行ったのだった。

気が付くと、もはや藤原氏に逆らえる者など、誰も居なくなっていた。

…という事で、700年代の初めから、約300年をかけて、藤原氏が朝廷の中にあって、盤石の体制を整えた後、満を持して登場して来た人物こそ、あの藤原道長である。

 

<藤原道長と、その時代①~「藤原北家」に連なる藤原兼家の「三男坊」だった、藤原道長>

 

 

 

では、藤原氏の全盛時代を象徴する人物、藤原道長とは、どのような立ち位置に居たのかについて、ご紹介させて頂く。

「藤原四兄弟」

の内、藤原房前を祖とする、

「藤原北家」

が、藤原氏の中心となり、着々と天下を取って来たという事は、既に述べたが、

その「藤原北家」に連なる、藤原兼家には、4人の息子達が居た。

その内、藤原兼家の正妻・時姫が生んだ嫡出子は3人居たが、その「三男坊」だったのが、藤原道長である。

そして、兼家の長男が道隆、次男が道兼だが、兼家の妻の1人だったのが、後に藤原道綱母と称され、『蜻蛉日記』を書く事になる女性である。

その名の通り、藤原道綱母は、藤原兼家との間に、藤原道綱という息子を生んでいるが、道綱は嫡出子ではないので、冷遇されていた。

なお、当時の貴族は、妻が何人も居るのが当たり前であった。

という事で、道長は、「三男坊」だったので、普通であれば、家を継ぐような身分ではない。

だが、運命の悪戯によって、その後、藤原道長が歴史の表舞台に立つ事となるのである。

 

<藤原道長と、その時代②~清少納言、紫式部らが活躍した、華やかな「宮廷サロン」の時代>

 

 

さて、皆様、長らくお待たせ致しました。

…という事で、ここでようやく、清少納言、紫式部らが大活躍した、

「宮廷サロン」

の華やかなりし時代がやって来た。

まず、年代でいうと、990年代~1000年代の初めぐらいが、清少納言、紫式部らが活躍した時代である。

そして、それは藤原道長が台頭し、道長が栄光の頂点に立つ事になる時代でもあった。

 

では、ここで藤原道長と、紫式部・清少納言たちの関係性を、見ておこう。

前述の通り、道長は兼家の「三男坊」だったが。

そのため、兼家の長男・道隆が、まずは順当に兼家の嫡男となり、道隆は、これまでの藤原氏がやっていたように、自分の娘を天皇に嫁がせ、自らが、

「天皇の外祖父」

になる事を目指した。

そして、道隆の娘で、一条天皇に嫁いだのが定子である。

その定子に女房として仕えたのが、清少納言だった。

一方、道長の娘・彰子も、後に一条天皇に嫁ぐ事となるが、その彰子に女房として仕えたのが、紫式部である。

定子と彰子は、それぞれ親同士が対立する関係だったので、否応なしに「対立関係」にあった。

従って、必然的に、定子に仕える清少納言と、彰子に仕える紫式部も、「対立関係」になってしまった…という言い方も出来る。

 

 

 

 

さて、定子と清少納言は、彰子と紫式部よりも、少し年上だった。

従って、世に出たのは定子と清少納言の方が、彰子と紫式部よりも先である。

前述の通り、道隆の娘・定子は、一条天皇に嫁いだのだが、この定子という人は、輝くばかりに美しく、聡明なお姫様だったようである。

そのため、定子は忽ち、一条天皇の心を掴み、中宮(※皇后に次ぐ位)となった。そのため、

「中宮定子」

と呼ばれる事になるが、この中宮定子に女房として仕えたのが、清少納言である。

清少納言は、『枕草子』という随筆を書き、日本古典文学史上に名を残す才女として、あまりにも有名な人だった。

 

 

 

 

定子は、990年頃に一条天皇に嫁ぎ、「中宮定子」と称されたが、

一条天皇と中宮定子は、大変、仲睦まじく、一条天皇との間に3人の子供も生まれた。

また、中宮定子の周りには、清少納言という才気煥発な女性を中心とした、優秀な女房達が居り、

「宮廷サロン」

の華やかな雰囲気に包まれていた。

このように、中宮定子の人生は、何もかもが順調に思われたが、

995年に、定子の父・道隆が急死してしまった。

そして、後ろ盾だった父・道隆が亡くなってしまったため、この後、定子の運命は暗転して行ってしまう。

なお、清少納言『枕草子』を書き始めたのは、中宮定子に仕えていた時代の最後の頃だったようだが、

その直後、1000年に中宮定子は亡くなってしまい、中宮定子が亡くなった後、清少納言も失意の内に宮廷を去って行った。

ちなみに、清少納言が書いた『枕草子』は、中宮定子が如何に素晴らしい方だったのか、そして、その頃の中宮定子の時代の宮中は、如何に華やかだったのか…という事ばかりが書かれ、その後の中宮定子の暗転して行った運命については、敢えて、何も書かれてない。

それは、清少納言という人にとっての気遣いだったのかもしれないし、

「あの素晴らしかった時代だけを書き残しておきたい」

という、彼女なりの思いが有ったのかもしれない。

さて、中宮定子清少納言の時代と入れ替わるようにして、

遂に、彰子紫式部の時代が到来した。

995年、道長の兄、道隆と道兼が相次いで亡くなってしまい、

何と、藤原道長が、思いも寄らなかった内に、藤原氏のトップの座を就いてしまった。

すると、道長も、やっぱり「藤原氏の伝統」に則り、999年に、道長の娘・彰子を、一条天皇に嫁がせた。

だが、今まで述べて来た通り、その頃、既に一条天皇には、定子という妻が居たし、

既に定子は23歳で、一条天皇の子供も3人生んでいた。

一方の彰子は、まだ12歳の「子供」である。

「おいおい、いくら何でも無茶だろ…」

と、思ってしまうが、道長としても、

「何としても、我が娘・彰子を、一条天皇に気に入ってもらい、彰子には一条天皇の子供を生んでもらわなければ」

という思いが有った。

なお、彰子の入内により、彰子は「中宮」となり、定子は「皇后」となった。

 

 

 

 

そこで、藤原道長が白羽の矢を立てたのが、紫式部だった。

当時、紫式部は夫・藤原宣孝と死別していたが、

その寂しさを紛らわすためでもあったのか、1001年頃、紫式部は、

『源氏物語』

を書き始めていた。

その後、1005年頃、紫式部は、藤原道長に「スカウト」され、

紫式部は、道長の娘・中宮彰子の女房として、宮仕えをする事となった。

その後、一時、紫式部は宮仕えを放棄し、里に帰ってしまった事もあったが、また宮仕えに復帰している。

その間にも、紫式部は『源氏物語』を書き続けていたが、1008年頃、『源氏物語』は宮中でも大評判となっていた。

「これは、使えるぞ…!!」

道長は、これを絶好のチャンスと捉えていた。

当時、一条天皇は、中宮彰子とはあまり親しくなかったようだが、道長は、一条天皇に対し、

「彰子の所に来れば、『源氏物語』が読めますよ」

と言って、『源氏物語』を、一条天皇を、中宮彰子の元に通わせるための「呼び水」にした。

そして、道長の狙い通りに事は運び、1008年、中宮彰子は遂に男子(敦成親王⇒後の後一条天皇)を生んだ。

遂に、道長は、念願叶って、

「天皇の外祖父」

の座を手に入れたが、それは紫式部の『源氏物語』のお陰である…と言っても、過言ではあるまい。

なお、紫式部は、自らの『源氏物語』執筆の事や、宮中の出来事などを『紫式部日記』に、書き残している。

 

<藤原道長と、その時代③~1008年「一家立三后」を成し遂げ、栄光の頂点に立った藤原道長~「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という歌を詠む>

 

 

 

1008年、藤原道長は、栄光の頂点に立っていた。

前述の通り、道長の娘・彰子は一条天皇の后となっていたが、

その後も、妍子が三条天皇、威子が後一条天皇、嬉子が後朱雀天皇…

と、道長の3人の娘達(妍子・威子・嬉子)が、次々に天皇の后になるという、

「一家立三后」

が、実現したのである。

勿論、こんな事は日本の歴史始まって以来、初めての「快挙」だった。

道長は、まるでこの世の全てを手に入れたような、満ち足りた気分になっていた。

 

 

 

1008年9月15日の夜、藤原道長の、

「一家立三后」

を祝う、宴席が開かれていた。

その宴席で、まさに得意の絶頂にあった道長は、こんな歌を詠んだ。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

…これは、どういう意味なのかといえば、

「この世の全てが、まるで自分のもののように思える。欠けた所もない満月のように、私も心も満ち足りている」

というような意味だが、何ともストレートな「自画自賛」ぶりであった。

この時、宴席に居た藤原実資が、『小右記』に、

「道長が、こんな歌を詠んだ」

と、書き残したために、後世にこの歌が伝わった。

実資にしてみれば、

「何とまあ、呆れ果てた傲慢さだ…」

と思って、これを書いたのかもしれないが、道長の真意は、果たしてどうだったのであろうか。

…という事で、今回はここまでとさせて頂くが、次回は、

「2024 NHK大河ドラマ『光る君へ』~紫式部と、その時代【文化史編】~」

を書く予定なので、お楽しみに…。

 

(つづく)