当ブログで連載して来た、
「サザンオールスターズと野球界の40年」
という連載が「完結」した後、その「続編」を書かせて頂いているが、
今回のテーマは、「東京オリンピック」と「大洋ホエールズ」である。
2019(令和元)年という年は、翌2020(令和2)年に「東京オリンピック」開催を控えていた。
そして、2019(令和元)年7月24日、日本テレビ系列・TBS系列・テレビ朝日系列・テレビ東京系列・フジテレビ系列の民放5社による共同企画、
「一緒にやろう2020」
が始まったが、民放5社が共同して、それは「東京オリンピック」を盛り上げるという趣旨のものだった。
そして、
「一緒にやろう2020」
の企画のテーマソングを歌うアーティストは誰にするか…という事が話し合われた際、満場一致で決定した意見が有った。それは、
「オリンピックのテーマ曲を歌えるのは、桑田さんしか居ない」
というものである。
では何故、桑田佳祐が、この企画の「顔」に選ばれたのか…そこに至るまでの道のりを、紐解いてみる事としたい。
という事で、今回は、
「サザンオールスターズと野球界の41年(その3)」
として、「東京オリンピック」と「大洋ホエールズ」の物語を描く。
それでは、ご覧頂こう。
<幻の「1940(昭和15)年・東京オリンピック」~1936(昭和11)年に「東京オリンピック」招致に成功するも、その後「日中戦争」の勃発により、1938(昭和13)年に「東京オリンピック」返上~そして、「太平洋戦争」の時代へ…>
1936(昭和11)年7月、「IOC総会」で、
「1940(昭和15)年のオリンピック開催地」
を何処にするか、という事が話し合われていた。
そして、この時の「IOC総会」で、
「1940(昭和15)年・東京オリンピック」
の開催が決定した。
当時、このニュースに日本中が沸き立った。
だが、間もなく、その喜びも束の間のものとなってしまう。
1937(昭和12)年に、
「日中戦争」
が勃発してしまい、日本は戦争の時代に突入した。
世の中は、徐々に戦時色が強くなって行き、
「オリンピックなど、やっている場合ではない」
という空気が強まった。
そして、翌1938(昭和13)年、時の近衛文麿首相は、時世に鑑みて、
「東京オリンピック返上」
を決定した。
こうして、誠に残念な事に、
「1940(昭和15)年・東京オリンピック」
は、幻のものとなってしまった。
そして、1941(昭和16)年、遂に日本とアメリカは全面衝突し、
「太平洋戦争」
が勃発してしまった。
物量でアメリカに劣る日本は、徐々に劣勢となり、兵隊の数も足りなくなって行く。
1943(昭和18)年には、遂に大学生も戦場に送られる事となり、
「学徒出陣」
が行われた。
1943(昭和18)年10月21日、土砂降りの雨の中、明治神宮外苑競技場にて、
「出陣学徒壮行会」
が行われたが、本来、もしも平和な時代であれば、この場所では、
「東京オリンピック」
の開会式が行われていた筈である。
やはり、オリンピックとは、平和な時代でしか出来ないものという事であろう。
この時、出陣して行った学生達の多くは、戦場で亡くなってしまったが、
その後、日本も完全に劣勢となり、日本中がアメリカ軍の爆撃を受け、焼け野原となった。
そして、1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」が行われ、多くの尊い命が犠牲になった末に、長かった「太平洋戦争」が終わった。
<1949(昭和24)年…「大洋ホエールズ」創立~2019(令和元)年、後身の「横浜DeNAベイスターズ」が「球団創立70周年」イベントを開催>
さて、戦後の日本は、アメリカを主体とする「GHQ(連合国軍総司令部)」の支配下に置かれ、暫くの間、国際社会に復帰出来なかった。
だが、戦後すぐに野球界は復活を果たし、戦後日本では野球というスポーツが、それまで以上に大人気となった。
そんな中、1949(昭和24)年、下関を本拠地とする新球団、
「大洋ホエールズ」
が創立され、創立間もない大洋ホエールズは、セ・パ両リーグに分裂したプロ野球のセ・リーグに加盟した。
そして、それから70年の時が経った、2019(令和元)年、
大洋ホエールズの後身球団である、
「横浜DeNAベイスターズ」
は、大洋ホエールズ以来の球団史を受け継ぎ、
「球団創立70周年」
のイベントを開催した。
そして、この年(2019年)、横浜DeNAベイスターズは球団創立70周年を記念し、1949(昭和24)年の球団創立当時の大洋ホエールズの初代ユニフォームを「復刻」したりしている。
なお、余談だが、私はこの年(2019年)、この初代・大洋ホエールズの復刻ユニフォームを買ったが、それ以来、そのユニフォームは大のお気に入りである。
とてもシンプルでレトロな味わいが、何とも言えず味が有る。
特に、大洋ホエールズの親会社「大洋漁業」のシンボルマークである、「まるは」の文字が、左袖に入っているのが良い。
そして、これまた余談だが、「まるは」とは、「大洋漁業」の元々の屋号「林兼(はやしかね)商店」の頭文字である。
<1956(昭和31)年…石原慎太郎・石原裕次郎兄弟の「デビュー」と、桑田佳祐・原由子の誕生>
1951(昭和26)年、「サンフランシスコ講和条約」が締結され、翌1952(昭和27)年に発効されると、
ようやく、長かった「GHQ」による統治が終わり、日本は「独立」を回復し、国際社会に復帰した。
そして、経済が上向きとなった日本で、「消費社会」が到来したが、そんな時代の象徴として登場したのが、
石原慎太郎・石原裕次郎の兄弟だった。
1955(昭和30)年、一橋大学の学生だった石原慎太郎が書いた小説、
『太陽の季節』
が、史上最年少(当時)の23歳で「芥川賞」を受賞し、大ベストセラーとなったが、
翌1956(昭和31)年、『太陽の季節』は映画化され、映画『太陽の季節』で、石原慎太郎の弟・石原裕次郎が映画デビューを果たした。
…という事で、この慎太郎・裕次郎の物語は、このブログで何度も書いて来たので、ここでは割愛するが、
石原慎太郎は、後に「東京オリンピック」に大きく関わって来る人なので、ご記憶願いたい。
そして、石原慎太郎・石原裕次郎兄弟が「デビュー」した1956(昭和31)年といえば、
桑田佳祐・原由子が誕生した年でもある。
1956(昭和31)年2月26日、桑田佳祐が誕生し、
1956(昭和31)年12月11日、原由子が誕生している。
この2人が、19年後の1975(昭和50)年、青山学院大学で運命の出逢いを果たし、
それがサザンオールスターズの誕生に繋がった…という話も、何度も書いているので、ここでは省略する。
<1959(昭和34)年5月…IOC総会で「1964(昭和39)年・東京オリンピック」開催が決定>
さて、国際社会に復帰を果たした、戦後日本は、
1940(昭和15)年に、幻に終わってしまった、
「東京オリンピック」
を、再度招致する事を目指した。
そして、1959(昭和34)5月のIOC総会で、
「1964(昭和39)年・東京オリンピック」
の開催が決定された。
「今度こそ、東京オリンピックを開催してみせる!!」
この時、日本中が一丸となって、「東京オリンピック」開催に向けて動き始めた。
<1960(昭和35)年…「ローマオリンピック」と、大洋ホエールズ奇跡の初優勝>
1960(昭和35)年、
「ローマオリンピック」
が開催された。
この「ローマオリンピック」は、日本でも初めてテレビ中継されたオリンピックとなったが、
「次は、東京オリンピックだ」
という思いで、多くの日本人が、「ローマオリンピック」をテレビの画面越しに見ていた。
そして、「ローマオリンピック」が行われた1960(昭和35)年、世間をアッと驚かせる出来事が有った。
1960(昭和35)年、それまで、
「6年連続最下位」
に沈んでおり、
「万年最下位」
と陰口を叩かれていた大洋ホエールズの監督に、西鉄ライオンズ黄金時代を築いた名将・三原脩が就任すると、
その三原脩監督率いる大洋ホエールズは、一躍、初優勝を果たすと、大洋は日本シリーズでも大毎オリオンズを全て1点差のストレートの4連勝で破り、大洋は一気に「日本一」の座に上り詰めた。
超弱小球団・大洋ホエールズを、僅か1年で「奇跡の初優勝」に導いてしまった三原監督の手腕は、
「三原マジック」
と称され、世間をアッと言わせた。
しかし、この後、大洋ホエールズは長らく優勝から見放されてしまうのである。
<盛り上がる「東京オリンピック」の機運~「首都高」「東海道新幹線」の開通と、三波春夫『東京五輪音頭』>
さて、1964(昭和39)年の「東京オリンピック」開催に向けて、急ピッチでインフラが整備されて行った。
1962(昭和37)年には「首都高速道路(首都高)」が、
1964(昭和39)年には「東海道新幹線」が、
それぞれ開通し、日本の交通の大動脈となって行くが、それは「東京オリンピック」開催に間に合わせる事を目標に作られたものであった。
また、日本中で建築ラッシュが起き、日本は、
「高度経済成長」
の季節を迎えた。
まさに、日本中がイケイケ、ドンドンの上げ潮だった時代である。
そして、1963(昭和38)年、翌年に迫った「東京オリンピック」開催に向け、
各レコード会社の歌手が、競作として、
『東京五輪音頭』
という曲のレコードを発売したが、最も売れたのが、三波春夫が歌った『東京五輪音頭』であった。
以後、『東京五輪音頭』は、三波春夫の代表曲となったが、
ここで、『東京五輪音頭』の歌詞を、ご紹介させて頂こう。
『東京五輪音頭』
作詞:宮田隆
作曲:古賀政男
唄:三波春夫
ハァー
あの日ローマで ながめた月が
きょうは 都の 空照らす
ア チョイトネ
四年たったら また会いましょと
かたい約束 夢じゃない
ヨイショ コーリャ 夢じゃない
オリンピックの顔と顔
ソレ トトント トトント 顔と顔
ハァー
待ちに待ってた 世界の祭り
ソレ トトントネ
西の国から 東から
ア チョイトネ
北の空から 南の海も
越えて日本へ どんときた
ヨイショコーリャ どんどきた
オリンピックの 晴れ姿
ソレ トトント トトント 晴れ姿
ハァー
色もうれしや かぞえりゃ五つ
ソレ トトントネ
仰ぐ旗みりゃ はずむ胸
ア チョイトネ
すがた形は ちがっていても
いずれおとらぬ 若い花
ヨイショコーリャ 若い花
オリンピックの 庭に咲く
ソレ トトント トトント 庭に咲く
ハァー
きみがはやせば わたしはおどる
ソレ トトントネ
菊の香りの 秋の空
ア チョイトネ
羽をそろえて 拍手の音に
とんでくるくる 赤とんぼ
ヨイショコーリャ 赤とんぼ
オリンピックの きょうのうた
ソレ トトント トトント きょうのうた
…という事であるが、
『東京五輪音頭』
は、底抜けに明るい、何とも陽気な歌である。
まさに、当時の時代の空気を象徴するような曲だったが、
『東京五輪音頭』を、太陽のような明るい笑顔で歌った三波春夫は、
「国民的歌手」
と称される、人気者となった。
だが、その19年後、この「国民的歌手」を、「紅白」の大舞台で茶化してしまう男が現れるのだが、その話については後述する。
<1964(昭和39)年のプロ野球…王貞治の「シーズン55本塁打」と、「阪神VS大洋」の優勝争い~阪神が2年振り優勝~「南海VS阪神」の日本シリーズは、南海が4勝3敗で日本一>
1964(昭和39)年、遂に、
「東京オリンピック」
の年を迎えた。
「東京オリンピック」
の開会式は、1964(昭和39)年10月10日の予定だったが、
この年(1964年)のプロ野球は、「東京オリンピック」開会式までに、全日程を終わらせるために、
例年よりも早く、3月に開幕した。
そして、この年(1964年)のプロ野球の「主役」となったのが、王貞治(巨人)だった。
王貞治は、この年(1964年)の開幕から、物凄い勢いで打ちまくり、
「シーズン55本塁打」
という、プロ野球新記録を達成した。
だが、王の猛打にも関わらず、巨人は全くの不振で、優勝争いには絡めず「3位」に終わった。
そして、不振に終わった巨人を尻目に、
この年(1964年)のプロ野球のセ・リーグは、2年前(1962年)と同じく、
阪神タイガースと大洋ホエールズが、シーズン終盤まで、激しい優勝争いを繰り広げた。
一方、パ・リーグでも、南海ホークスと阪急ブレーブスが、激しい優勝争いを展開した。
「阪神VS大洋」「南海VS阪急」
の、セ・パ両リーグの優勝争いの行方は、最後の最後まで、全く予断を許さなかった。
そして、セ・パ両リーグの優勝争いの結末は、
セ・リーグは阪神タイガースが優勝し、
パ・リーグは南海ホークスが優勝したが、
この結果、1964(昭和39)年の日本シリーズは、
「南海VS阪神」
という、史上初の、
「ナニワ決戦」
が実現する事となった。
一方、1962(昭和37)年に続き、この年(1964年)も、あと一歩で阪神に敗れ、優勝を逃した大洋に、この後、二度と優勝のチャンスが訪れる事は無かった。
だが、
「南海VS阪神」
の日本シリーズが始まった、1964(昭和39)年10月1日は、既に、
「東京オリンピック」
の開幕が間近に迫っており、残念ながら、世間の関心も今一つであった。
甲子園球場での試合は、ご覧の通り、何とも寂しい客の入りであった(※南海の本拠地・大阪球場の方が、客の入りは良かった)。
そして、1964(昭和39)年10月10日、3勝3敗で迎えた、日本シリーズ最終戦は、
「東京オリンピック」
開会式の日と重なってしまったが、激闘の末、南海が阪神を4勝3敗で破り、南海ホークスが「日本一」となった。
だが、前述の通り、盛り上がりは今一つであり、南海にとっては気の毒な事になってしまったが、この次に、関西球団同士の日本シリーズが実現するのは、この59年後の2023(令和5)年、
「阪神VSオリックス」
まで待たなければならなかった。
<1964(昭和39)年10月10日…「東京オリンピック」開会式~古関裕而・作曲の『オリンピック・マーチ』が、東京・国立競技場に高らかに響き渡る>
1964(昭和39)年10月10日、遂に、
「東京オリンピック」
の開会式を迎えた。
この日(1964/10/10)の東京上空は、雲一つ無い快晴だったが、
東京・国立競技場は、超満員の大観衆で埋め尽くされていた。
皇族が顔を揃え、列席する中、昭和天皇が開会宣言を行ない、
古関裕而が、この日のために作曲した、
『オリンピック・マーチ』
が陸上自衛隊によって演奏される中、各国代表が入場行進を行なった。
そして、一番最後に、開催国・日本が入場行進を行なった時、国立競技場からは、ひと際、大きな歓声が起こった。
そして、
「東京オリンピック」
の開会式で印象深かったのは、航空自衛隊のブルーインパルスが、大空に五輪のマークを描いた事と、
1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下された、その日に広島で生まれた「奇跡の子」である、最終聖火ランナー・坂井義則による、聖火の点灯であった。
それは、まさに、
「平和の祭典」
たるオリンピックを象徴する光景だった。
こうして、
「東京オリンピック」
は華やかに幕を開け、その後、大会そのものも大成功の内に幕を閉じたが、
「東京オリンピック」
は、まさに戦後日本が輝いていた時代の「象徴」として、多くの日本人の心に刻まれた。
だからこそ、遥か後の世に、
「夢よ、もう一度…」
という考えを持つ人達が現れ、
「また、東京オリンピックをやろう」
という動きが出て来たのである。
<長嶋茂雄の「オリンピックの恋」とは…?~東京オリンピックのコンパニオン・西村亜希子と出逢って「40日」で超スピード結婚した長嶋茂雄>
さて、この時の、
「東京オリンピック」
には、凄い裏話が有る。
当時、巨人のスーパースターだった長嶋茂雄・王貞治の2人は、スポーツ新聞の特派員として、
「東京オリンピック」
の取材を行なっていた。
前述の通り、この年(1964年)の巨人は優勝出来なかったので、巨人の選手は暇だった(?)。
そのため、長嶋と王は早々とシーズンオフに突入しており、オリンピックの取材を行なう事が出来た。
そして、長嶋と王は、ある日、「東京オリンピック」のコンパニオン達と「座談会」を行なった。
そのコンパニオンの中に、英語・フランス語・スペイン語に堪能な、西村亜希子という、とても美しく聡明な女性が居た。
そして、「東京オリンピック」が終わって、少し経った頃…。
長嶋茂雄から王貞治に対し、突然、
「王(ワン)ちゃん。俺、結婚するから」
という報告が有った。
「ええっ!?そうなんですか!?それは、おめでとうございます…」
王は、ビックリしながらも、長嶋を祝福した。
「それで長嶋さん、お相手は誰なんですか?」
王が聞いたところ、何と、長嶋は、
「だから、オリンピックの座談会で会った、西村亜希子さんだよ」
と、答えた。
「ええっ!!????西村亜希子さんって…」
王は、更にビックリ仰天してしまった。
長嶋が、西村亜希子と出逢ったのは、つい最近の事ではないか…。
それが、もう結婚してしまうとは…何という「早業」であろうか。
こうして、1964(昭和39)年11月26日、長嶋茂雄と西村亜希子は、婚約会見を行なった。
そして、翌1965(昭和40)年1月26日、
長嶋茂雄と亜希子夫人は、結婚式を挙げたが、それは2人が出逢ってから、僅か「40日」という、超スピード結婚であった。
全く、常識では考えられないような「早業」だが、長嶋が亜希子に一目惚れしてしまい、そこから長嶋が亜希子に猛アタックして、遂に結婚にまで至ったという。
「全く、長嶋とは、何という男だ…」
と、世間も皆、驚いてしまったが、これが、
「オリンピックの恋」
として、有名なエピソードである。
なお、亜希子は後年、長男の長嶋一茂に対し、
「私も、ちょっと不安だったけど、王さんが『長嶋さんは、良い人ですよ』って言ってくれたから、それで安心したのよ…」
という事を言っていたという。
つまり、王は知らない間に、長嶋の結婚を「サポート」していた。
「ON(王・長嶋)」
の絆を示すような、ほっこりするエピソードである。
<1974(昭和49)年…「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄の現役引退と、サザンオールスターズ『栄光の男』>
その後、王貞治・長嶋茂雄は、
「ON砲」
として、大活躍を続け、
「巨人V9時代(1965~1973年)」
という、黄金時代を築いたが、やがて長嶋にも衰えが生じ、
1974(昭和49)年、遂に長嶋茂雄は現役引退の時を迎えた。
1974(昭和49)年10月14日、後楽園球場で、長嶋の「引退試合」が行われたが、
この時、青山学院大学の1年生だった桑田佳祐は、テレビ中継で、長嶋の「引退試合」を見ていた。
「長嶋さんは、今、栄光に包まれたまま、現役生活を終えようとしている。それに引き換え、俺の学生生活は、パッとしないなあ…」
長嶋の「引退試合」をテレビで見ながら、当時18歳だった桑田佳祐青年は、そんな事を思っていた。
そして、後年、その時の心象風景が、
『栄光の男』
という、サザンオールスターズの楽曲として結実した。
このように、長嶋茂雄は、桑田佳祐にも大きな影響を与えた人であった。
<1978(昭和53)年7月31日…サザンオールスターズが初出演した「夜のヒットスタジオ」で、桑田佳祐が山口百恵の目の前で王貞治・長嶋茂雄の「モノマネ」を披露>
1978(昭和53)年6月25日、桑田佳祐率いるサザンオールスターズは、
『勝手にシンドバッド』
で、デビューを果たす。
そして、その1ヶ月後、サザンは『勝手にシンドバッド』を引っ提げ、
「夜のヒットスタジオ」
という、フジテレビの伝統の歌番組に初出演を果たした。
その時、桑田佳祐は、あの山口百恵の目の前で、王貞治・長嶋茂雄の「モノマネ」を披露したが、
百恵は、このサザンなる、謎の新人バンドの男が、いきなり、そんな「芸」を披露したのを見て、目を丸くして驚き、
「何か、変な人達ね…」
と思ったのか(?)、苦笑いしていた。
桑田は、テレビに出てしまうと、持ち前の剽軽(ひょうきん)さを発揮してしまう所が有ったが、そんな事もあって、デビュー当時のサザンは「コミックバンド」扱いされる事になってしまった。
<1982(昭和57)年12月31日…「第33回NHK紅白歌合戦」に、サザンオールスターズが『チャコの海岸物語』で出場~桑田佳祐による三波春夫の「モノマネ」が、物議を醸す>
1982(昭和57)年12月31日、サザンオールスターズは、
『チャコの海岸物語』
を引っ提げ、
「第33回NHK紅白歌合戦」
に出場を果たした。
だが、何とサザンは、あろう事か、事前のリハーサルとは全く違う衣装で登場し、
桑田佳祐は、顔を白塗りにして、着物を着て、
「お客様は神様です」
などと言って、あの国民的歌手・三波春夫を茶化すという「暴挙」(?)に出た。
サザンのメンバー達も、昔の学生服をあしらったような(?)妙な衣装で『チャコの海岸物語』を演奏していたが、
その間も、桑田は、
「皆さん、受信料を払いましょう!!」
などと不規則発言(?)を繰り返す、ハチャメチャな内容になってしまった。
サザンは、「紅白」という「権威」を、思いっきり茶化すという、「反体制」の行動をやってしまったが、これは大いに物議を醸してしまった(※今なら、SNSは大炎上だろう)。
それにしても、若い頃の桑田は、かなり尖っていたという事だろうが(※この時、桑田は26歳だった)、
一つ言えるのは、この当時の桑田に対しては、
「オリンピックのテーマ曲は、桑田さんに歌って欲しい」
などとは、誰一人、思わなかったであろう…という事である。
当時のサザンを見て、後年の「国民的バンド」の姿を想像した人が、果たして、どれだけ居たのであろうか…。
<優勝とは全く無縁だった、横浜大洋ホエールズ>
さて、サザンオールスターズがデビューしたのと同じ1978(昭和53)年、
大洋ホエールズは、本拠地を川崎球場から横浜スタジアムへと移転させ、
「横浜大洋ホエールズ」
と名乗った。
しかし、大洋は、あの1960(昭和35)年の初優勝以降、ただの1度も優勝出来ず、
「横浜大洋ホエールズ時代(1978~1992)」
も、優勝とは全く無縁だった。
「大洋は、一体、いつ優勝出来るのか…」
と、大洋ファンは嘆いていたが、一向に光明は見えて来なかった。
そして、大洋も大きな転換期を迎える事となる。
<1987(昭和62)年7月17日…石原裕次郎が享年52歳で死去>
1987(昭和62)年7月17日、国民的スターとして愛されて来た石原裕次郎が、長い闘病生活の末、享年52歳の若さで亡くなってしまった。
裕次郎の早すぎる逝去に、日本中が悲しみに包まれたが、
裕次郎の兄・石原慎太郎も、この時、身を切られるような辛さを味わっていた。
当時、慎太郎は自民党の国会議員だったが、彼はこの後、「首相」の座を目指すも、残念ながら、その夢は果たせなかった。
つまり、慎太郎は、分身のような存在だった弟・裕次郎を失い、政治家としても大きな挫折を味わった。
そんな慎太郎が、後に、新たな「夢」に向かって邁進する事になるのだが、その話については、また次回。
(つづく)