古関裕而と『六甲おろし』~日本野球「応援歌」史(4)「六甲おろし」誕生(前編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今年(2023年)18年振りのリーグ優勝、38年振りの日本一を達成した阪神タイガースであるが、

当ブログでは、阪神タイガース「日本一」を勝手に記念し、

阪神タイガースの球団歌『六甲おろし』と、『六甲おろし』の作曲者・古関裕而の軌跡にスポットを当てた記事を連載中である。

 

 

1931(昭和6)年、当時21歳だった古関裕而は、

早稲田の応援歌『紺碧の空』を作曲し、新進作曲家として名を上げたが、

流行歌の作曲家としては、まだヒット曲を出せない状況であった。

…という事であるが、今回、私が書く話には古関裕而は登場しない。

ズバリ、今回のテーマは、

「甲子園」

である。

そして、タイガースが誕生するまでには、様々な紆余曲折が有ったが、

「タイガースは1日にして成らず」

というのも、今回のキーワードである。

それでは、『六甲おろし』誕生秘話の「前編」を、ご覧頂こう。

 

<1915(大正4)年…大阪・豊中グラウンドにて「第1回 全国中等学校優勝野球大会」が開催~朝日新聞が主催する、「中等野球」の全国大会の歴史が始まる~第1回優勝校は京都二中(現・鳥羽高)>

 

 

 

 

野球というスポーツは、19世紀半ばにアメリカで始まったが、

アメリカの野球が、最初から「プロ野球」として発展したのに対し、

日本の野球は「学生野球」から発展して行った。

1872(明治5)年に、アメリカから日本に野球が伝来し、以後、全国の学生達によって野球というスポーツが広められて行った。

これまで述べて来たように、日本野球の花形は「大学野球」だったが、その前に、中等学校(旧制)による「中等野球」も大変盛んであった。

1915(大正4)年、朝日新聞の主催で、大阪・豊中グラウンドにて、

「第1回全国中等学校優勝野球大会」

が開催され、朝日新聞の村山龍平社長による始球式で、大会の幕が開いたが、これが、今に続く「夏の甲子園」の起源である。

そして、「第1回全国中等学校優勝野球大会」は、京都二中(現・鳥羽高)秋田中(現・秋田高)が決勝に進み、京都二中が延長13回の熱戦の末、2-1で秋田中を破り、京都二中が栄えある「初代優勝校」となった。

以後、「中等野球」の全国大会は毎年開催され、ファンを熱狂させて行く。

なお、豊中グラウンドを作ったのは、小林一三が創設した、箕面有馬電機鉄道(後の阪急電鉄)である。

 

<1917(大正6)~1923(大正11)年…第3回~第9回の「全国中等野球大会」は、鳴尾球場で開催~阪神電鉄が鳴尾球場を建設>

 

 

 

 

「全国中等学校優勝野球大会」

は、1915(大正4)~1916(大正5)年の第1回~第2回大会は、大阪・豊中グラウンドで行われた。

しかし、大会は大人気で、観客が押し寄せるようになってしまい、豊中グラウンドでは観客を収容しきれなくなった。

そこで、1917(大正6)年の第3回大会から、兵庫県武庫郡鳴尾村(現・西宮市)に、

「鳴尾球場」

が、新たに建設され、以後、大会は「鳴尾球場」で開催される事になった。

この「鳴尾球場」を建設したのは、

「阪神電鉄」

である。

そう、ここで遂に、「阪神電鉄」が日本野球史の表舞台に登場する事となった。

前述の通り、豊中グラウンドを作ったのは「阪急」だったが、

鳴尾球場を作ったのは「阪神」であった。

日本野球史における「阪急」「阪神」のライバル関係は、ここから始まったと言っても良い。

とは言え、会社の規模でいうと、「阪急」の方が「阪神」よりも全然大きかった。

それはともかく、「鳴尾球場」では、1917(大正6)~1923(大正11)年にかけて、第3回~第9回の「全国中等学校優勝野球大会」が開催され、毎年、熱戦が繰り広げられた。

そして、観客動員も、年々、鰻上りであった。

 

<1924(大正13)年8月1日…「阪神甲子園球場」が開場~阪神電鉄が「東洋一の大球場」を建設~以後、「甲子園」は中等野球の「聖地」に>

 

 

 

 

1924(大正13)年、

「全国中等学校優勝野球大会」

は、第10回大会を迎える事となったが、前述の「鳴尾球場」でも、観客を収容しきれない程、「中等野球大会」は、大人気になっていた。

そこで、この年(1924年)、阪神電鉄は、「鳴尾球場」の近くで、改修工事によって廃川となっていた武庫川の跡地に、新たな大球場を建設する事とした。

そして、1924(大正13)年8月1日、遂に、

「阪神甲子園球場」

が、華々しく開場した。なお、

「甲子園」

の名前の由来は、この年(1924年)が、十干十二支の最初の年で、最も縁起が良い年とされる、

「甲子(きのえね)」

の年だった事による。

なお、「甲子園球場」は、何と「5万人」が収容可能という、物凄く大きい球場であり、

「東洋一の大球場」

と称されていた。

そして、1924(大正13)年の「第10回全国中等学校優勝野球大会」以降、毎年、「甲子園」で大会が行われるようになり、以後、「甲子園」は中等野球の「聖地」となって行くのである。

 

<新たなビジネスモデルを創出した天才・小林一三~「阪急・宝塚・東宝を作った男」~「小林一三無くして、タイガースの発展は無し」!?>

 

 

さて、私が大変尊敬している、1人の経済人が居る。

それは誰なのかといえば、

先程、「豊中グラウンド」の項で少しご紹介させて頂いた、

「阪急電鉄」

の創設者・小林一三(こばやし・いちぞう)である。

小林一三については、今までにも、このブログで度々書いて来たが、小林の何がそんなに凄いのかといえば、

「全く何も無いゼロの状態から、自ら大衆の需要を作り出した」

という事である。

 

 

 

 

小林一三が、まず初めに行なった事は何か…。

小林は、1910(明治43)年に、

「箕面有馬電気鉄道」(※後の阪急電鉄)

を開業したが、小林は当初、箕面から有馬という、全く何も無い原野に鉄道の路線を敷こうとしていた。

小林は、それこそ二束三文の値段で、土地を安く買ったのだが、そこは当時は誰も住んでいないような荒れた土地であった。

しかし、小林は、だからこそ、こう考えた。

「人が誰も住んでいないのなら、これから、人に住んでもらえば良い」

当時、大都市である大阪は急速に発展し、大阪の会社に勤めるサラリーマンも急増していたが、当時の大阪は、工場の煤煙なども酷く、住宅環境も悪かった。

そこで小林は、

「これからは、郊外に住んで、そこから大都市の大阪に通う時代です!!」

という事を謳い、自らが安く買った土地に鉄道の路線を敷き、その鉄道沿線の土地を、大衆に対して分譲して、どんどん家を建てさせた。

そして、小林は日本で初めて、

「住宅ローン」

の制度を作り、サラリーマンでも「夢のマイホーム」を買えるようにした。

こうして、小林は、

「家を買った人達による、住宅ローンの支払い」と、「そこに住んでいる人達が乗る電車の運賃」によって、半永久的に収入が入る仕組みを作り上げた。

住宅ローンの支払いは、いつかは終わるが、人々は、小林一三が創設した「阪急電車」に乗り続けるので、その運賃収入は、ずっと入り続けるわけである。

全く、凄い仕組みである。

 

 

 

小林一三は、当初の計画にあった、箕面-有馬間の路線計画を破棄し、

最終的には、大阪-西宮間に路線を敷く事とした。

そして、小林は「阪急電鉄」の始発駅である、大阪・梅田に、

「阪急百貨店」

を創設し、阪急の梅田駅と「阪急百貨店」を直結させ、「阪急電鉄」の利用客が、そのまま「阪急百貨店」の買い物客になるような仕組みも作り上げた。

という事で、小林が作り上げたビジネスモデル、即ち、

「何も無い所に電車を通し、沿線の土地を人々に分譲し、家賃収入と運賃収入が入るようにする」

「始発駅に百貨店を作り、電車の利用客を、そのまま買い物客にしてしまう」

…という事を、以後、全ての私鉄会社が真似をするようになった。

これは全て、小林のアイディアによるものであり、

「こういう発想を、最初に思い付いた小林一三は、本当に凄い…」

と、私は心底、感心してしまう。

 

 

 

 

更に、小林一三は、画期的な事をやってのけた。

「阪急電鉄」の宝塚駅には、当時、寂れた温泉が有るだけで、他に何も無かった。しかし、

「何も無い場所こそ、何かを生み出せるチャンスが有る」

と考えるのが、小林の真骨頂である。

1914(大正3)年、小林一三は、宝塚駅の「客寄せ」のために、

「宝塚少女歌劇団」

を、創設した。

そう、つまり小林は、何も無い駅に、人々が集まるような興行を起こし、

「阪急電車に乗って、その興行を見に行く」

というビジネスモデルをも作り上げてしまった。

勿論、そんな事をやってのけたのも、小林が初めてである。

なお、後に「宝塚歌劇団」は東京にも進出し、

その「東京宝塚劇場」が、「東宝」の元にもなった。

従って、小林一三は、

「阪急・宝塚・東宝」

という、巨大帝国を一代で築き上げた、物凄い人物なのである。

(※それにしても、昨今の「宝塚歌劇団」で起こっている問題は、誠に残念である。泉下の小林一三も、さぞや嘆いているに違いない)

 

 

 

そして、現代のプロ野球の阪神タイガース埼玉西武ライオンズも、

阪神電鉄西武鉄道に乗らなければ、タイガースの本拠地・甲子園球場や、ライオンズの本拠地・西武ドームには行けないような仕組みになっている。

そして、始発駅には百貨店も有る。

もう、おわかりだろう。

つまりは、阪神や西武がやっている事は、全て小林一三がやっていた事の真似である。

前述の通り、1924(大正13)年に「阪神電鉄」が、

「甲子園球場」

を作ったのも、小林一三「阪急電鉄」が成功したビジネスモデルを真似したからに他ならない。

「甲子園球場」は、もう少し後に、タイガースの本拠地となるが、これまで述べて来た事を踏まえると、

「小林一三無くして、タイガースの発展無し」

と、言い切っても良いのではないか。

 

 

そして、遥か後年の話になるが、関西の私鉄の雄として、長い間、鎬を削って来た「阪急」「阪神」は、

2006(平成18)年に、経営統合され、

「阪急阪神ホールディングス」

になっており、今は「阪神」「阪急」の子会社になっている…というのは、皆様もご存知の通りである。

…というわけで、些か時代を先取りしてお話してしまったので、ここで再び「甲子園球場」設立の頃…大正末期に話を戻す。

 

<1924(大正13)年春…毎日新聞が主催の「第1回センバツ(選抜)中等学校野球大会」がスタート>

 

 

前述の通り、1924(大正13)年8月1日に、

「甲子園球場」

が開場し、以後、毎年「夏の甲子園」が行われるようになったが、

その4ヶ月前、1924(大正13)年4月に、毎日新聞の主催で、

「第1回センバツ(選抜)中等学校野球大会」

が開催された。

今もそうだが、「夏の甲子園」は、地方大会から全国大会に至るまで、全て一発勝負のトーナメントである。

そのため、実力が有りながらも、敗れ去ってしまう学校も多かった。

そこで、「夏の甲子園」とは別に、

「各地方で、実力の有る学校を選抜し、その選抜された学校による大会」

を開く事となった。

これが、今に至る、

「春のセンバツ」

の起源である。

なお、第1回「春のセンバツ」の時点では、まだ甲子園球場は完成しておらず、名古屋・山本球場で大会が行われ、

高松商が、第1回「春のセンバツ」の優勝校となった。

(※翌1925年の第2回以降は、「春のセンバツ」も甲子園で開催)。

こうして、

「春のセンバツは毎日新聞、夏の甲子園は朝日新聞」

という主催で、毎年、春夏に「甲子園大会」が開催されて行く事となった。

勿論、これは毎日新聞や朝日新聞が、新聞の部数拡大のために行なった事である。

 

<1926(大正15)年…「第12回全国中等学校優勝野球大会」で、初めて「大会歌」が制定>

 

 

1926(大正15)年、甲子園球場にて、

「第12回全国中等学校優勝野球大会」

が開催されたが、この年(1926年)、初めて「夏の甲子園」の「大会歌」が制定された。

「夏の甲子園」の「大会歌」といえば、戦後、古関裕而が作曲した、

『栄冠は君に輝く』

が有名であるが、実はその前に、「初代大会歌」として制定されたのが、

1926(大正15)年、福武周夫が作詞、信時潔が作曲した、

「碧くものたなびく窮み東ゆ西ゆ…」

という歌詞で始まる曲である。

という事で、「夏の甲子園」の「初代大会歌」の歌詞を、ご紹介させて頂こう(※何とも古めかしい詞だが、それはそれで味わいが有る)。

ちなみに、この大会の優勝校は静岡中(現・静岡高)である。

 

 

 

 

『全国中等学校優勝大会の歌』(1926年)

 

作詞:福武周夫

作曲:信時潔

 

青雲のたなびく窮み東ゆ西ゆ

勝ちて驕らず 大旗のもと集ひし我等

若き生命を真理(まこと)に捧げ

正しく強く力に生きん

見よやむらたつ峰雲の輝き

時こそ来つれ いざ戦はん

守れと叫ぶは心のひびき

かつと響くは力の叫び

群がるつはもの打ちてしやまん

名こそ惜しめ ますらを我等

 

<1931(昭和6)年…「第8回春のセンバツ大会」で、「センバツ大会歌」が誕生>

 

 

1931(昭和6)年春の「第8回春のセンバツ大会」で、

薄田泣菫が作詞、陸軍戸山学校軍楽隊の作曲による、

「センバツ大会歌」

が、新たに制定された。

これまた古めかしい詞だが、これも当時ならではの味わいが有る。

また、歌詞の中に、主催者の「毎日」が登場するのは、「御愛嬌」か(?)。

という事で、その歌詞をご紹介させて頂こう。

(※ちなみに、この大会の優勝校は広島商である)

 

 

『センバツ(選抜)中等野球大会歌』(1931年)

 

作詞:薄田泣菫

作曲:陸軍戸山学校軍楽隊

 

陽は舞い踊る 甲子園

若人よ雄々しかれ

長棍痛打して

熱球カッと とぶところ

燃えよ血潮は 火の如く

ラ毎日 ラ大会

ララララ

 

戦塵あがる 春なかば

戦士らよ 雄々しかれ

輝く王冠の

ほまれに酔うは 何人ぞ

あげる凱歌を 波のごと

ラ毎日 ラ大会

ララララ

 

<「甲子園大会」を彩った、強豪校やスター選手達~やがて東京六大学野球でも活躍した球児達~後のプロ野球界のスーパースター達も球史の表舞台に登場!!>

 

 

さてさて、当時の日本全国の野球少年、所謂「球児」達の、憧れの舞台は、やはり何と言っても、

「甲子園」

であった。

前述の通り、阪神電鉄が「甲子園」という大球場を作った事により、「中等野球」は、ますます発展して行った。

そして、当時はまだプロ野球が無い時代だったので、

「甲子園」

で活躍した球児達は、更に上のステージとして、神宮球場の、

「東京六大学野球」

で活躍する事を目指していた。

従って、当時の球児達の夢舞台は、

「甲子園から神宮へ行く」

という事であった。

ここでは、中等野球の歴史について詳述はしないが、大正末期~昭和初期の、主な中等野球の強豪校とスター達を、ご紹介させて頂く。

1924(大正13)年春、1925(大正14)年夏、1927(昭和2)年夏…と、3度も甲子園で優勝した高松商では、宮武三郎・水原茂などが活躍し、宮武、水原らは慶応に進学した後、

「慶応黄金時代」

を築き上げる主力となった。

 

 

石本秀一監督率いる広島商は、1924(大正13)年夏に初優勝、1929(昭和4)年夏~1930(昭和5)年夏に連覇を達成し、合計3度も「夏の甲子園」で優勝を達成したが、石本監督といえば、選手を裸足にさせ、真剣の上を渡らせるという、

「真剣の刃渡り」

という、今では考えられないような練習をさせ、精神力を鍛え、広島商を3度も夏の甲子園優勝に導いた(※当時の時代背景もあったとはいえ、私はこの練習は酷すぎると思うが…)。

ちなみに、この石本秀一監督は、後にタイガースの歴史にも大きく関わってくる人である。

なお、1929(昭和4)年夏~1930(昭和5)年夏の連覇時のエース・灰山元治は、後に慶応に進学した。

 

 

また、広島商翌1931(昭和6)年春にも優勝したが、

その時のメンバーで、ショートを守っていた鶴岡一人は、後に法政に進学した後、法政を経て南海に入団した。

後に、南海ホークスの大監督となり、

「鶴岡親分」

と称される事になる人物である。

 

 

 

1931(昭和6)~1933(昭和8)年にかけて、大投手・吉田正男が投げ抜いた中京商が、

「夏の甲子園3連覇」

という、不滅の金字塔を打ち立てた。

「夏の甲子園3連覇」

葉、今日に至るまで、この時の中京商が史上唯一の記録である(※2004(平成16)年夏~2005(平成17)年夏に、駒大苫小牧「夏の甲子園2連覇」、3年目の2006(平成18)年夏は駒大苫小牧が決勝で早実に敗退、というのが一番惜しかった)。

なお、吉田正男が大エースの中京商と、景浦将「投打二刀流」で大活躍した松山商という、

「中京商VS松山商」

が、その間の春夏に、3度にわたり激闘を繰り広げ、ファンを熱狂させた。

①1931(昭和6)年夏は準決勝で中京商が3-1で松山商に勝利、

②1932(昭和7)年春は準決勝で松山商が3-2で中京商に勝利、

③1933(昭和7)年夏は決勝で中京商が4-3で松山商に勝利…

という結果だったが、それぞれ、この戦いに勝った方が、そのまま優勝を達成している。

なお、吉田正男は後に明治に進学し、景浦将は後に立教を経て、大阪タイガースの創立メンバーの1人になった。

 

 

1933(昭和8)年春のセンバツで、京都商のエース・沢村栄治が、遂に球史の表舞台に登場して来た。

京都商は打線が弱く、沢村の京都商は3度(1933(昭和8)年春、1934(昭和9)年春夏)も甲子園に出たものの、優勝する事は出来なかった。

しかし、沢村栄治の剛速球は、観客の度肝を抜いた。

この沢村栄治こそ、後に巨人に入団し、

「不滅の大投手」

として語り継がれ、

「沢村賞」

という、プロ野球最高の投手に授与される賞に名前を残している人物であるというのは、プロ野球ファンであればご存知の通りである。

 

 

 

 

1934(昭和9)年夏、藤村富美男がエースの呉港中初優勝を達成したが、

この時、決勝で藤村の呉港中と対決したのが、川上哲治がエースだった熊本工である(※2-0で呉港中が勝利)。

藤村富美男といえば、後に、

「ミスター・タイガース」

と称される、タイガース史上に残るスーパースターとなる男であり、

川上哲治は、巨人に入団し、

「打撃の神様」

と称される大打者になる男である。

藤村と川上という、後のプロ野球界のスーパースターも、こうして球史の表舞台に登場して来ていた。

 

 

1935(昭和10)年夏、森茂雄監督率いる松山商が、1916(大正5)年の夏の甲子園初出場以来、苦節17年目にして、悲願の夏の甲子園初優勝を達成した(※松山商は、春のセンバツでは、1925(大正14)年春、1932(昭和7)年春に2度の優勝)。

前述の通り、松山商は宿敵・中京商に何度も煮え湯を飲まされたりして、なかなか夏の甲子園制覇に手が届かなかったが、遂に悲願の優勝を達成した。

松山商が凱旋すると、地元・松山は熱狂と興奮の坩堝となった。

そして、松山商を優勝に導いた森茂雄監督も、タイガースの歴史に大きく関わって来る人である。

…という事で、いよいよ「甲子園」が盛り上がり、後のプロ野球界のスーパースター達も、続々と球史の表舞台に登場して来た所で、1935(昭和10)年夏、松山商が初優勝を達成した夏の甲子園で制定された、

富田砕花が作詞、山田耕筰が作曲の、

『全国中等学校優勝野球大会行進歌』

の歌詞を、ご紹介させて頂く。

そして、『六甲おろし』誕生秘話の「続き」は、また次回。

 

 

『全国中等学校優勝野球大会行進歌』(1935年)

作詞:富田砕花

作曲:山田耕筰

 

百連競へるこの壮美
羽搏(はばた)け若鷹 雲裂きて
溢るゝ感激 迸(ほとばし)る意気
今日ぞ晴れの日 起て男児
掲ぐるほこりに 旭日映えて
球史燦たり 大会旗

 

烈々火燃ゆるこの闘志
撩乱華咲け技冴えて
溢るゝ感激 迸る意気
今日ぞ晴れの日 往け男児
掲ぐるほこりに 旭日映えて
球史燦たり 大会旗

 

優勝確たるこの飛躍
毅(つよ)かれ若獅子 陽を浴びて
溢るゝ感激 迸る意気
今日ぞ晴れの日 捷(か)て男児
掲ぐるほこりに 旭日映えて
球史燦たり 大会旗

 

(つづく)