古関裕而と『六甲おろし』~日本野球「応援歌」史(5)~「六甲おろし」誕生(中編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今年(2023年)38年振りの「日本一」を達成した阪神タイガースであるが、

その阪神タイガース「日本一」を記念し、阪神タイガースの球団歌『六甲おろし』と、

『六甲おろし』の作曲者・古関裕而にまつわる物語を、連載中である。

前回の記事は、タイガースの親会社「阪神電鉄」が、いよいよ野球史の表舞台に登場し、

阪神電鉄によって、「中等野球」(※後の高校野球)の聖地・「甲子園球場」が作られた経緯などを描いた。

 

 

という事で、今回は昭和初期の早慶戦と、当時の世相、

そして、いよいよ古関裕而が作曲家として「大ブレイク」して行く経緯などを描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<1931(昭和6)年春の早慶戦~「三原VS水原」の宿敵同士の対決の原点となった「三原のホームスチール」~しかし、後に三原は早稲田野球部を退部~そして、三原は「学生結婚」>

 

 

 

現在、連載中の、

「古関裕而と『六甲おろし』」

シリーズの記事で、

1931(昭和6)年春の早慶戦で、早稲田は古関裕而が作曲した、

『紺碧の空』

という新応援歌を披露し、そのお陰もあって、早稲田が2勝1敗で慶応を破った、という事は既に書いた。

そして、この時の早慶戦は、

「三原VS水原」

という、後に生涯をかけた宿敵同士の対決の原点でもあった。

当時、三原脩は早稲田の二塁手として活躍し、

水原茂は、慶応の投手兼三塁手として、「投打二刀流」で活躍しており、

三原と水原は、当時の早慶戦の花形選手であった。

 

 

この時(1931(昭和6)年春)の早慶戦は、慶応が初戦を制した後の2回戦、

2-2の同点で迎えた7回表、早稲田は2死満塁のチャンスを作った。

この場面で、慶応は水原茂が三塁手から投手としてリリーフのマウンドに上った。

早稲田は9番・弘世正方が打席に入ったが、この時、三塁ランナーだったのが、三原脩である。

そして、三原脩はこの場面で、投手・水原茂の隙を付き、何と、ホームスチールを成功させた。

これが、球史に残る、

「早慶戦の三原脩のホームスチール」

であるが、普通なら、2死満塁からのホームスチールなど、常識では考えられない。

しかし、普通の人なら決してやらないような事を、大胆にやってのけるのが、三原脩という男の真骨頂であった。

 

 

 

 

そして、早稲田は三原脩ホームスチール成功で勝ち越しに成功すると、この試合(2回戦)は早稲田が6-3で慶応に勝利し、

続く3回戦も、早稲田は5-4で慶応を破り、この時(1931(昭和6)年春)の早慶戦は、早稲田が2勝1敗で慶応を撃破した。

宿敵・慶応を破り、早稲田の選手達は歓喜に沸いていた。

しかし、この時の早慶戦の後、早稲田の合宿所を訪れた、早稲田野球部の重鎮・飛田穂洲は、あの三原のホームスチールについて、

「あんなセオリー無視の、無謀な事をやるとは、何事か。たまたま上手く行ったから良いが、もしも失敗していたら、早稲田は負けていたかもしれない。そうしたら、どう責任を取るつもりだったのか」

と言って、厳しく叱責した。

それまで大騒ぎしていた早稲田の選手達は、一瞬にして凍り付いた。

飛田穂洲といえば、

「一球入魂」

という言葉を残した事でも知られ、

「精神野球」

の権化のような人でもあった。

そんな飛田にしてみれば、三原のホームスチールは、いかにも軽はずみなプレーに思えたようであった。

こうして、飛田に冷水をぶっかけられ、早稲田の選手達は、勝利の余韻など何処かに吹っ飛んでしまったが、

三原をはじめ、早稲田の面々は返す言葉もなく、皆、静まり返ってしまった。

 

 

この時、三原は飛田の叱責を、黙って聞いていたが、彼は内心、こう思っていた。

「何だよ、せっかく結果を出したのに、『よくやった』と褒めるでもなく、ゴチャゴチャとうるさい事を言いやがって…」

三原は、内心、カチンと来ていた。

それに、わざわざ皆の前で、自分を詰(なじ)った飛田に対し、三原はかなり腹を立てていた。

「皆の前で、わざわざ恥をかかせやがって…」

三原は、とても誇り高い男であった。

だからこそ、皆の前で恥をかかされた事に対し、三原のプライドは傷付き、腸は煮えくり返っていたという。

「オッサン、ゴチャゴチャうっせーわ!!」

有り体に言えば、三原はそういう気持ちであった。

そして、飛田の考え方や価値観は、三原にとって、いかにも古臭い物に思われた。

「この時、早稲田野球部と自分の考え方は、全く合わないと思った」

と、後に三原は回想している。

 

 

そして、この後、三原は更に驚くべき行動に出た。

当時、早稲田野球部の合宿所の近くに、「カフェー」が有り、そこに、とても可愛いウエイトレスが居た。

早稲田野球部の部員達にとって、彼女は憧れの的だったが、1932(昭和7)年頃、三原はその「カフェー」に通いつめ、彼女を口説き落とし、何と三原は彼女と「学生結婚」してしまった。

三原の実家は、四国の香川県・高松の大地主であり、三原は、

「良いところのお坊ちゃん」

だったが、経済的には何の心配も無かった三原は、「押しの一手」で、意中の女性を手に入れてしまった。

そして、この学生結婚が、早稲田野球部で問題視されると、

「それでは、辞めさせて頂きます」

という事で、1933(昭和8)年、三原はさっさと早稲田野球部を退部してしまい、故郷・高松に帰ってしまった。

 

 

こうして、三原はその「カフェー」の店員…妙子と結婚し、後に三原脩妙子夫妻の間には4男1女の子供が生まれた。

なお、全くの「余談」だが、今年(2023年)私が書いた、

「サザン小説」

の、或る作品で、登場人物の名前を、

「妙子」「脩」

にさせて頂いたが、それは勿論、三原脩妙子夫妻から名付けさせて頂いた次第である。

それはともかく、私は、三原脩という人物の、こういう大胆不敵な行動力が大変好きである。

 

<1933(昭和8)年…早慶戦の「リンゴ事件」~あわや「早慶戦中止」の大騒動~当事者の慶応・水原茂は、責任を取って慶応野球部を退部>

 

 

 

さて、1931(昭和6)年春の早慶戦で、三原脩にホームスチールを決められてしまったのが、

当時の慶応の投手・水原茂だったが、水原茂といえば、当時の慶応のスーパースターであり、

何と、水原は、あの大女優・田中絹代とも「恋仲」だったという「伝説」が有る。

いや、「伝説」ではなく、どうやら、これは本当の話だったらしいが、当時はプロ野球は無く、東京六大学野球こそが野球界の最高峰であり、ましてや慶応のスター選手となれば、野球界を代表する存在でもあった。その慶応のスター・水原茂と、映画スター・田中絹代との「ロマンス」は、世間でも話題になっていた。

 

 

そして、水原茂といえば、かなりの「イケメン」であり、

「水原茂と田中絹代が付き合っている」

という事が噂になっても、

「まあ、水原なら有り得ない話ではないな」

と、誰もが思うぐらいの存在であった。

そんな水原が、1933(昭和8)年秋の早慶戦で、「大騒動」を巻き起こす事となった。

それが、早慶戦史上に残る、

「リンゴ事件」

という大騒動である。

 

 

 

 

1933(昭和8)年10月22日の早慶戦は、早慶両校が激しい点の取り合いで、物凄いシーソーゲームになり、

神宮球場のスタンドを埋め尽くした早慶両校の応援団とファンの熱狂と興奮は、凄まじい物であった。

そして、ただでさえヒートアップしていた所で、この試合、或る判定を巡り、慶応の水原茂が、審判に激しく抗議をした場面が有り、それが早稲田の応援団を刺激した。

「水原、引っ込め!!」

「水原、帰れ!!!!」

この試合、早稲田の応援団は三塁側に陣取っていたが、慶応の三塁を守る水原に対し、興奮した早稲田応援団から、激しい野次と怒号が浴びせられた。

そして、水原に対し、早稲田の応援団から、リンゴの食べ掛けが投げ付けられたが、それに対し、カチンと来た水原は、そのリンゴの食べ掛けを拾い上げると、三塁側の早稲田応援団のスタンドに投げ返した。

 

 

 

 

 

そして、試合はその後、慶応が9-8で逆転サヨナラ勝ちを収めたが、

早稲田の敗戦と、水原がリンゴの食べ掛けを投げ返した事に頭に来た早稲田応援団が、試合終了後、一斉にグラウンドに雪崩れ込んだ。

そして、暴徒と化した早稲田応援団は、慶応応援団に襲い掛かり、慶応応援団から指揮棒を奪い取るなど、グラウンドは大混乱になってしまった。

これは、あまりにも酷い、早稲田応援団の「暴挙」であった。

この大騒動に対し、慶応側は態度を硬化させ、

「こんな危ない相手とは対戦出来ない」

と、早稲田側との関係の「断絶」を示唆した。

あわや、明治時代に続く、

「早慶戦中止」

も危ぶまれる事態になったが、その後、早稲田側が慶応側に謝罪したため、慶応側も矛を収めた。

その後、この騒動の当事者となってしまった水原茂は、騒動の責任を取り、慶応野球部を退部してしまった。

以上、これが早慶戦史上に残る、

「リンゴ事件」

の顛末であるが、水原がリンゴを投げ返した事により、こんな大騒動になってしまうぐらい、当時の早慶戦は、観客を熱狂させていた、という事である。

こうして、1933(昭和8)年、三原脩・水原茂は、期せずして、共に早慶戦の表舞台から去って行ってしまった。

 

<1932(昭和7)年…古関裕而の妻・金子が長女の妊娠・出産により、帝国音楽学校を退校>

 

 

さて、三原脩が、1931(昭和6)年春に、

「早慶戦のホームスチール」

を成功させた後、早稲田野球部の重鎮・飛田穂洲の「叱責」を受け、

翌1932(昭和7)年、三原脩妙子夫人と結婚した、ちょうどその頃、

古関裕而金子夫妻にも大きな動きが有った。

1931(昭和6)年、金子は声楽家を目指し、本格的に声楽を学ぶため、帝国音楽学校に入学した。

だが、その後、金子は長女・雅子の妊娠・出産のため、同校を退校せざるを得なくなった。

その後、金子は暫くの間、子育てに専念し、声楽の勉強からは遠ざかる事となった。

 

 

この時のエピソードが、古関裕而金子夫妻をモデルとした、

NHKの朝ドラ『エール』では、次のように描かれていた。

古山裕一(窪田正孝)の妻・音(二階堂ふみ)は、東京帝国音楽学校に通っていたが、

その後、程なくして、音の妊娠が明らかになる。

音は、同級生達との競争に勝ち抜き、夫・裕一の盟友でもある、「プリンス」佐藤久志(山崎育三郎)の「相手役」に選ばれるが、思うような歌を歌う事が出来ず、

「音さん、大丈夫か?歌に集中出来ていないよ?」

と、音は久志に心配をされてしまった。

 

 

また、音は憧れの人・双浦環(柴咲コウ)からも、

「貴方、全てを捨てて、歌の道に入って行く覚悟は有るの?」

と、その覚悟を問われてしまう。

音は、妊娠によって、心身のバランスを崩した事も有り、歌も上手く歌えなくなり、とても悩んでいた。

彼女は、どうしても歌に集中出来ない状態だった。

 

 

それでも、音は必死に歌の練習に励んだが、却って、歌はどんどん歌えなくなってしまった。

裕一は、そんな音の様子を見るに見かねて、こう行った。

「作曲家として、声楽家の君に言わせてもらう。今の君の歌では、お客さんを心配させてしまうだけだ。舞台に立つのは、とても無理だ」

裕一は、敢えて心を鬼にして、音に冷静に告げた。

音は、とうとう耐え切れなくなって、涙ながらに、裕一にこう言った。

「そんな事はわかってる。私、この子に遭いたい…。歌も諦めたくない…」

音は、自分がどうすれば良いか、わからなくなっており、気持ちはグチャグチャになっていた。

裕一は、そんな音の気持ちを受け止め、

「よく聞いて。君の夢を一旦、僕に預けてくれないか?君の夢は、僕の夢でもある。いつか、僕の作った歌を、沢山のお客さんの前で、君に歌って欲しいんだ。それまで、何の心配も要らないよ。僕は、そのために居るんだから…」

と言って、音を抱きしめた。

「裕一さん、有り難う…」

裕一の優しい気持ちに打たれ、音は裕一の胸で、子供のように泣いていた。

 

 

そして、音は東京帝国音楽学校を退校し、無事に長女・を出産する。

その後、音は暫くの間、子育てに専念する事となった。

…という事であるが、このエピソードは『エール』の中でも、私が特に印象深かったエピソードである。

「2人で助け合い、2人で夢を追う」

という事を決意した、裕一と音の夫婦愛に、私はとても感動したものである。

 

<1932(昭和7)年の古関裕而~世の中は「第一次上海事変」「五・一五事件」などで騒然~古関裕而は「宮田ハーモニカ・バンド」でアルバイト&『肉弾三勇士の歌』を作曲するが…?>

 

 

さて、早慶戦が盛り上がり、三原脩妙子夫妻、水原茂田中絹代、そして古関裕而金子夫妻という、

それぞれの「カップル」が仲睦まじく過ごしていた頃、世の中は、騒然として来ていた。

1931(昭和6)年、「満州事変」が勃発し、「関東軍」が露骨に中国東北部への「進出」を強引に進めたが、

翌1932(昭和7)年1月~3月、今度は中国・上海の租界で、日中両軍の大規模な軍事衝突である、

「第一次上海事変」

が勃発し、日中両軍の夥しい死傷者が出た。

日本軍は、一応は軍事的勝利を収めたが、多くの犠牲を払ってしまった。

 

 

そして、1932(昭和7)年5月15日、海軍青年将校によって、時の犬養毅首相が暗殺されるという、

「五・一五事件」

が起こり、世間を震撼させた。

これにより、選挙の結果、与党が政権を取るという、

「憲政の常道」

が終わってしまい、軍部出身者が首相に就任する時代が来てしまった。

これを機に、日本という国が、軍事色を強めて行く事となるのである。

 

 

 

 

この年(1932)年、古関の盟友・古賀政男が作詞・作曲し、藤山一郎が歌った、

『影を慕いて』

という曲が、大ヒットを記録した。

朝ドラ『エール』では、古山裕一(窪田正孝)の盟友・木枯正人(野田洋次郎)が、『影を慕いて』を作り、大ヒットさせ、その曲を夜の盛り場で披露する場面が有った。

「全然、凝ったメロディーでもなく、ギター一本で歌う曲なのに、何でこんなに胸を打たれるんだろう…」

と、裕一が、木枯の才能に打ちのめされる…という場面が描かれていた。

裕一は、そこに流行歌の神髄を見た気がしていた。

 

 

 

その頃、古関裕而は、未だにヒット曲を出しておらず、

宮田東峰が結成した、

「宮田ハーモニカ・バンド」

で、指揮をするというアルバイトをしたりしていた。

当時は、ハーモニカは、大衆にも大変人気が有る楽器であり、古関自身もハーモニカを愛用していた。

 

 

そして、この年(1932年)、前述の「第一次上海事変」の際に戦死した、

「肉弾三勇士」

を称えるために、複数の新聞が歌詞を募集したが、古関はその内の1つに曲を付け、

『肉弾三勇士の歌』

を作曲した。

しかし、これもあまり話題にはならず、古関は肩身の狭い日々が続いていた。

 

<1933(昭和8)年…日本が「国際連盟」を脱退~日本が国際社会から「孤立」する契機に…>

 

 

 

 

 

さて、早慶戦で、

「三原脩のホームスチール」

が有り、

「水原茂のリンゴ事件」

という大騒動が起こり、その後、三原脩水原茂がそれぞれ、早稲田と慶応の野球部を退部してしまったという、まさにその頃、日本は国際社会から「孤立」しつつあった。

1931(昭和6)年の「満州事変」の後、翌1932(昭和7)年に日本は「満州国」を建国するが、国際社会から、承認は得られなかった。

同年(1932年)、国際連盟の「リットン調査団」によって、「満州事変」の調査が行われた結果、「満州国」の建国は認められないと、1933(昭和8)年に国際連盟で決議されたが、

同年(1933年)日本の松岡洋右・全権はこれを不服として、退席してしまい、日本はそのまま国際連盟を脱退してしまう。

「松岡全権、よくやった!!」

当時の日本のマスコミは、総じてそのような論調であり、日本国民も松岡に快哉を叫んでいた。

だが、これによって、日本は国際社会から完全に「孤立」して行ってしまうのであった。

 

<1934(昭和9)年…『利根の舟歌』(作詞:高橋掬太郎、作曲:古関裕而、歌:松平晃)がスマッシュ・ヒット~古関裕而の作曲家活動に一筋の光明が…>

 

 

 

 

1934(昭和9)年、古関裕而の作曲家活動に、遂に一筋の光明が見えて来た。

この年(1934年)、古関は作詞家・高橋掬太郎と共に、茨城県・土浦から利根川を巡る取材旅行に出掛けたが、

この時の旅を元に、高橋掬太郎が作詞し、古関裕而が作曲した、

『利根の舟唄』

という曲が生まれた。

この曲は松平晃という歌手が歌ったが、その結果、『利根の舟唄』はスマッシュ・ヒットを記録する。

ようやく、古関は作曲家として「結果」を出す事が出来たが、翌1935(昭和10)年、遂に古関裕而「大ブレイク」の時が訪れる事となった。

 

<1935(昭和10)年…『船頭可愛や』(作詞:高橋掬太郎、作曲:古関裕而、歌:音丸)が大ヒット!!~作曲家・古関裕而が流行歌の作曲家として「大ブレイク」~同年(1935年)「大阪タイガース」が結成>

 

 

 

1935(昭和10)年、作詞:高橋掬太郎、作曲:古関裕而の2人が、再びタッグを組んだ。

そして、この年(1935年)、古関が敢えて「民謡調」の曲調で、

『船頭可愛や』

という曲を作ったが、この『船頭可愛や』は爆発的な大ヒットを記録し、遂に古関は流行歌の作曲家として「大ブレイク」を果たした。

そして、この曲を歌っていたのは、「芸者」という触れ込みだった、音丸という歌手である。

 

 

当時、他のレコード会社では、市丸小唄勝太郎という、「芸者」出身の歌手が売れっ子になっていた。

そこで、古関が所属する「コロンビア・レコード」でも、音丸という「芸者」出身の歌手を起用した…という事に、表向きはなっていた。

だが、それには「裏話」が有った。

 

 

なお、『船頭可愛や』の大ヒットの経緯は、朝ドラ『エール』では、以下のように描かれた。

なかなかヒット曲を出せない古山裕一(窪田正孝)に対し、「コロンブス・レコード」のディレクター・廿日市(古田新太)は業を煮やし、

「おい、次にヒット曲を出せなかったら契約を切るぞ。今度は脅しじゃねえぞ。本気だからな」

と、遂に裕一に「最後通告」を突き付けた。

追い込まれた裕一は、『船頭可愛や』という曲を書いた。

 

 

 

 

 

廿日市は、裕一が作った『船頭可愛や』という曲に対し、

藤丸(井上希美)という歌手を起用し、歌わせていた。

「芸者出身の歌手」

と廿日市は言っていたが、その藤丸に歌わせてみると、これが本当にメチャクチャ歌が上手く、

古山裕一(窪田正孝)・佐藤久志(山崎育三郎)・村野鉄男(中村蒼)「福島トリオ」もビックリ仰天であった。

だが、実は藤丸は「芸者」ではなく、本当は「下駄屋の娘」だという。

実際、藤丸のモデルとなった音丸も、「芸者」でも何でもなく、「下駄屋の娘」であった。

だが、市丸・小唄勝太郎などの「芸者ブーム」にあやかり、音丸も「芸者」という事にして売り出した…というのが真相であった。

 

 

だが、無名の歌手・藤丸(井上希美)が歌う『船頭可愛や』は、当初、全く売れず、レコードは返品の山になってしまった。

「このままでは、レコード会社から契約を切られてしまう…」

流石に、裕一も焦っていた。

「やっぱり、私が下駄屋の娘だから…」

責任を感じた藤丸は落ち込んでいた。

だが、そんな藤丸に対し、「プリンス」の久志は「壁ドン」をして、

「そんな事ないよ。元気出して」

と言って、元気付けていた。

 

 

 

だが、転機は思わぬ所に有った。

子育て中の古山音(二階堂ふみ)が、音楽学校時代の憧れの人・双浦環(柴咲コウ)に、夫・裕一が作った、

『船頭可愛や』

を聴いてもらったところ、環は、この曲を大変気に入り、

「何て、素晴らしい曲なの!!この曲、私が歌っても良いかしら?」

と、申し出た。

こうして、世界的な大歌手・双浦環によって、『船頭可愛や』が再レコーディングされたが、双浦環によって歌われた『船頭可愛や』は爆発的な大ヒットを記録し、それに伴って、藤丸(井上希美)が歌った『船頭可愛や』も、遅ればせながら大ヒットした。

 

 

…という事で、朝ドラ『エール』では、双浦環(柴咲コウ)という大歌手が歌った事によって、『船頭可愛や』が大ヒットした…という風に描かれていたものの、実際は、1935(昭和10)年に音丸『船頭可愛や』が大ヒットし、その4年後の1939(昭和14)年に、この曲に惚れ込んだ三浦環『船頭可愛や』のレコーディングを行なった…というのが、「史実」である。

朝ドラ『エール』は、大歌手・双浦環の実力の凄さを示すために、敢えて、「史実」を変えているが、実際は古関の曲と、「下駄屋の娘」の音丸の歌が素晴らしかったために、『船頭可愛や』は大ヒットしたのである。

ともあれ、古関は『船頭可愛や』の大ヒットにより、遂に作曲家として「大ブレイク」を果たし、

「この曲で、ようやく作曲家としての未来が開けた」

と、後に古関は述懐している。

 

 

そして、古関裕而が『船頭可愛や』という大ヒット曲を出した、1935(昭和10)年、

野球界で、遂に「あの球団」が結成され、野球史に登場して来た。

そう、それは勿論、

「大阪タイガース」

である。

という事で、「大阪タイガース」『六甲おろし』誕生秘話については、また次回。

 

(つづく)