今年(2023年)阪神タイガースは、18年振りのリーグ優勝、そして38年振りの日本一を達成したが、当ブログでは、阪神タイガースの日本一を記念し、阪神タイガースの球団歌『六甲おろし』と、
『六甲おろし』の作曲者・古関裕而の軌跡にスポットを当てた記事を「連載中」である。
前回は、当時21歳の古関裕而の「出世作」となった、早稲田大学の応援歌『紺碧の空』と、東京六大学の各校の校歌や応援歌の誕生秘話などについて書いた。
という事で、今回は「第3回」として、
駆け出し時代の古関裕而がスランプに苦しんでいた時期と、
法政大学の応援歌『若き日の誇り』が誕生した頃の話などを描く。
それでは、ご覧頂こう。
<当時の時代背景…大正末期~昭和初期の日本は「エロ・グロ・ナンセンス」の時代>
大正末期~昭和初期の日本の世相を象徴する言葉として、よく知られているのが、
「エロ・グロ・ナンセンス」
という言葉である。
それは何かと言えば、
「エロティック(煽情的)」「グロテスク(猟奇的)」「ナンセンス(不条理)」
という、それぞれの言葉の略語であるが、この時期に流行った文学や舞台、音楽などの特徴を表している。
当時は、不況が長引いており、世の中には閉塞感が漂っていた。
そこで、人々は、
「エロ・グロ・ナンセンス」
と称される、退廃的で享楽的な文化を好んでいた…とされているが、
閉塞感の漂う時代には、そういう物が流行るのかもしれない。
そして、「エロ・グロ・ナンセンス」の時代を象徴しているのが、谷崎潤一郎・江戸川乱歩といった作家の作品であり、
「どぎつい作品」
が、大衆に好まれた。
そして、この時代には、「カフェー」という、女給による接客を楽しむ店も大流行していた。
当時の「カフェー」とは、今で言う所の高級クラブやキャバクラのような場所であり、
「カフェー」の女給で、客からのチップで荒稼ぎする者も居たという。
なお、谷崎潤一郎の『痴人の愛』のヒロインのナオミは、カフェーの女給という設定であった。
そして、大正末期~昭和初期といえば、東京六大学野球の草創期の時代でもある。
今、私が描いているのは、そういう時代の話であると思って頂きたい。
<古関裕而・野村俊夫・伊藤久男の「福島三羽烏」~それぞれ、作曲家(古関裕而)・作詞家(野村俊夫)・歌手(伊藤久男)として活躍>
さて、作曲家・古関裕而の生涯を語る上で欠かせないのが、
古関裕而・野村俊夫・伊藤久男という、
「福島三羽烏」
である。
3人とも福島県出身の同郷であり、古関裕而は作曲家、野村俊夫は作詞家、伊藤久男は歌手として、
それぞれ音楽業界で活躍する事になる3人であるが、3人は普段からとても仲が良く、お互いに切磋琢磨する間柄であった。
そして、古関裕而をモデルにした作曲家・古山裕一(窪田正孝)を主人公とした、
NHKの朝ドラ『エール』では、
前述の「福島三羽烏」が福島の小学校時代の幼馴染だったが、その後、3人の進路は別々になり、大人になった後に再会した…という設定で描かれていた。
朝ドラ『エール』においては、
・古関裕而=古山裕一(窪田正孝)
・野村俊夫=村野鉄男(中村蒼)
・伊藤久男=佐藤久志(山崎育三郎)
…という3人が、
「福島トリオ」
として、生涯にわたって親交を結んでいる。
という事で、「福島三羽烏(福島トリオ)」の軌跡も含め、引き続き、古関裕而の人生を紐解いて行く事とする。
<1931(昭和6)年…古関裕而が早稲田の応援歌『紺碧の空』を作曲~古関裕而の妻・金子は声楽を学ぶため、帝国音楽学校に入学>
1931(昭和6)年、当時、コロンビア・レコードと専属契約を結んでいた古関裕而は、まだヒット曲を出せていなかったが、
この年(1931年)古関は、早稲田大学の応援団から、早稲田の学生・住治男が作詞した応援歌、
『紺碧の空』
の作曲依頼を受け、
古関は早稲田の応援団の期待以上の素晴らしい曲を作曲した。
そして、『紺碧の空』が初披露された、この年(1931年)の早慶戦で、早稲田が激闘の末、慶応を2勝1敗で破ったが、
「新しい歌が出来ると、その学校(※チーム)は強くなる」
という、日本野球史の法則が、またしても発動された形となった。
以後、『紺碧の空』は、早稲田の学生達の愛唱歌となり、今日に至っている。
古関裕而は作曲家、古関の妻・金子は声楽家という、
「音楽カップル」
であり、2人は文通を通して愛を深め、1930(昭和5)年に電撃結婚した…という話は、既に述べたが、
1931(昭和6)年、古関が『紺碧の空』を書いた年、古関の妻・金子も、本格的に声楽を学ぶため、
「帝国音楽学校」
に入学した。
古関夫妻は、金子が通う帝国音楽学校に程近い、東京・代田に新居を構えた。
そして、朝ドラ『エール』でも、
古山裕一(窪田正孝)の妻・音(二階堂ふみ)が、声楽を学ぶため、
「東京帝国音楽学校」
に入学した事が描かれている。
そして、この学校で、音にとって重大な「出逢い」が有った。
<朝ドラ『エール』にて…東京帝国音楽学校で、古山音が佐藤久志(山崎育三郎)、双浦環(柴咲コウ)と出逢う~そして「福島トリオ」が再会>
さて、東京帝国音楽学校に入学した古山音(二階堂ふみ)は、この学校で、ある男と出逢った。
それが、イケメンで歌も抜群に上手く、
「プリンス」
と呼ばれていた、佐藤久志(山崎育三郎)である。
妙に気障(キザ)な男であるが、何処となく憎めない男でもあった。
音は、久志のアドバイスなども受けながら、一層、声楽の練習に励んだ。
なお、本物の伊藤久男も、帝国音楽学校に在学していたというのは、史実どおりである。
そして、音が東京帝国音楽学校で出逢った、もう1人の重要人物とは、
当時、既に世界的なオペラ歌手として名声を得ていた、双浦環(柴咲コウ)である。
双浦環のモデルとなったのは、勿論、オペラ歌手の三浦環(みうら・たまき)である。
環には、華やかで圧倒的なオーラが有り、音も圧倒される思いだったが、
「貴方も、歌手を目指すなら、本気で頑張りなさい」
と、音は環からアドバイスを受けた。
その後、詳細は割愛するが、朝ドラ『エール』では、
古山裕一(窪田正孝)・佐藤久志(山崎育三郎)・村野鉄男(中村蒼)という、
「福島トリオ」
が再会し、以後、3人は切磋琢磨しながら、音楽業界で奮闘して行く。
だが、この後、裕一の妻・音に大きな「転機」が訪れる事となるが、その話については後述する。
<1931(昭和6)年…古関裕而、『福島行進曲』(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而)でレコードデビュー~B面は『福島夜曲(せれなあで)』(作詞:武久夢二、作曲:古関裕而)>
1931(昭和6)年5月、古関裕而は遂に作曲家として、レコード・デビューを果たす。
古関のデビュー曲となったのは、前述の「福島三羽烏」の1人で、古関の盟友・野村俊夫が作詞した、
『福島行進曲』(作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而)
という曲であった。
なお、古関が作曲した『福島行進曲』を歌った歌手は、天野喜久代である。
そして、B面では、古関が大好きだった竹久夢二が作詞した曲に古関が曲を付けた、
『福島夜曲(せれなあで)』(作詞:竹久夢二、作曲:古関裕而)
である。
当時、古関の憧れの人だったのが、竹久夢二と、大作曲家・山田耕筰であった。
朝ドラ『エール』では、山田耕筰がモデルの小山田耕三(志村けん)から、古山裕一(窪田正孝)が、やたらと厳しい態度を取られる…という風に描かれているが、古関は山田耕筰の事を大変尊敬していたという。
そして、朝ドラ『エール』では、『福島行進曲』について、
古山裕一(窪田正孝)の盟友・村野鉄男(中村蒼)が作詞し、
川野三津代(山田麗)という歌手が歌った…というように描かれている。
裕一の妻・音(二階堂ふみ)も、裕一のレコード・デビューを、とても喜んだ。
だが、デビューしたのは良いものの、
『福島行進曲』
は、残念ながらヒットはしなかった。
しかし、古関裕而はともかく、流行歌の作曲家としての「第一歩」を記した。
<1931(昭和6)年秋…立教大学が初優勝~そして「満州事変」(1931.9.18)が勃発>
1931(昭和6)年秋の東京六大学野球は、
辻猛・菊谷正一という両投手の大活躍により、立教が悲願の初優勝を達成した。
前年(1930年)秋は法政が初優勝を達成していたが、
法政に続き、立教も初優勝した事により、東京六大学野球は、早慶明が覇権を独占する時代が終わり、
「群雄割拠」
の時代に突入した。
だが、立教が初優勝に向けて快進撃していた頃、世の中は不穏な空気が出始めていた。
1931(昭和6)年9月18日、満州(中国東北部)に駐留していた、日本の「関東軍」が、満州全土の占領を計画し、
「柳条湖事件」
を引き起こすと、「関東軍」は一気に戦線を拡大して行く。これが、
「満州事変」
の始まりであるが、これが、この後に長く続いて行く、
「戦争の時代」
の始まりとなった。
だが、この時の日本国民は誰一人、そんな事になるとは夢にも思っていなかったに違いない。
<1931(昭和6)年11月…ルー・ゲーリッグらの全米選抜チームが来日し「日米野球」が開催~アメリカの「17戦全勝」に終わる~古関裕而が『日米野球行進曲』を作曲>
さて、立教が初優勝した直後、1931(昭和6)年11月に、
読売新聞が、ルー・ゲーリッグらのアメリカ大リーグの大スター達から成る、
「全米選抜チーム」
を日本に招聘し、
「日米野球」
が開催された。
この時のメンバーは、
ルー・ゲーリッグ(ヤンキース)、レフティ・グローブ(アスレチックス)、ミッキー・カクレーン(アスレチックス)、フランキー・フリッシュ(カージナルス)…
といった、当時のアメリカ大リーグの錚々たるスーパースター達であった。
一方、アメリカを迎え撃つ日本も、日本野球史上初めて、早稲田の伊達正男・三原脩、慶応の山下実など、
当時の東京六大学野球のスター選手達を中心とした、
「全日本チーム」
が結成されたが、全日本チームとして試合をしたのは4試合のみであり、
後は、大学や社会人の単独チームがアメリカと戦った。
そして、アメリカは圧倒的な強さを発揮し、
「17戦全勝」
で、アメリカが日本を一蹴した。
当時は、それぐらい日米の野球界には圧倒的な力の差が有った。
この時、「日米野球」が行われた日本各地の球場は、何処も超満員の大盛況となった。
「野球というのは、物凄く儲かる興行である」
という事が、主催者・読売新聞社でもハッキリと認識された。
この時は、一番の超大物選手であるベーブ・ルースが来日していないにも関わらず、この盛況ぶりだった事もあり、
「次は、必ずルースを呼ぼう」
という機運が、読売新聞社内でも高まっていた。
そして、この時(1931年)の「日米野球」で、古関裕而は、アメリカ選抜チームの来日を記念する、
『日米野球行進曲』(作詞:久米正雄、作曲:古関裕而)
という曲を作曲し、東京・日比谷公会堂で開催された、アメリカチームの歓迎会で、古関は自らの指揮で新交響楽団にこの曲を演奏させた。
しかし、残念ながら、この曲はそれほど評判にはならなかった。
当時の古関は、
『紺碧の空』
で、少しは名の知れた存在にはなっていたが、相変わらずヒット曲が出ず、専属契約を結んでいるコロンビア・レコードでも、徐々に苦しい立場に置かれるようになっていた。
<1931(昭和6)年…『酒は涙か溜息か』(作詞:高橋掬太郎、作曲:古賀政男、歌:藤山一郎)が大ヒット~古賀政男が、苦境に立つ古関裕而を擁護>
さて、古関裕而が、なかなかヒット曲を出せず、苦しんでいた頃、
1931(昭和6)年、古関と同じコロンビア・レコードと専属契約を結んでいた作曲家、古賀政男が作った、
『酒は涙か溜息か』(作詞:高橋掬太郎、作曲:古賀政男、歌:藤山一郎)
という曲が、大ヒットを記録した。
歌っているのは、1927(昭和2)年に、当時16歳で慶応の予科に在学中、慶応の学生達に『若き血』の歌唱指導を行なっていた、あの藤山一郎である。
古賀政男が作曲し、藤山一郎が歌う、哀愁を帯びた『酒は涙か溜息か』は、大衆の心を掴み、当時としては異例の大ヒットとなった。
ところで、朝ドラ『エール』では、当時の事が、こんな風に描かれている。
古山裕一(窪田正孝)の妻・音(二階堂ふみ)は、敏腕マネージャーぶりを発揮し、
「コロンブス・レコード」
のディレクター、廿日市(古田新太)に対し、夫の裕一を猛烈に売り込み、裕一と専属契約を結ばせる事に成功した。
だが、裕一はなかなかヒット曲を出せず、鳴かず飛ばずの状況が続いていた。
「早稲田の応援歌を作るのも良いけど、君は一体いつ、ヒット曲を出してくれるのかな?」
廿日市からも、裕一に対して、風当たりが強くなっていた。
当時、レコード会社は専属契約を結んだ作曲家に対し、多額の給料を払っていた。
だが、それはあくまでも「印税の前払い」のような物である。
つまり、作曲家がヒット曲を出してくれない限り、レコード会社としては、投資の回は出来ない。
だから、レコード会社から裕一に対し、段々と風当たりが強くなって来ていた。
そんな中、裕一は同じ「コロンブス・レコード」に所属する、木枯正人(野田洋次郎)と知り合い、親しくなった。
なお、木枯正人のモデルとなったのは、勿論、古賀政男である。
当時、『酒は涙か溜息か』が大ヒットし、木枯正人(野田洋次郎)は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
一方、なかなかヒット曲が出ず、苦境に立たされていた裕一に対し、木枯らしは、
「気にすんな。君が作る曲は、素晴らしいよ」
と言って、励ました。
実際、古賀政男は、ヒット曲が出せず、古関との契約を見直そうという動きを見せていた「コロンビア・レコード」に対し、
「芸術家にとって、スランプは付き物だ。それを理由に契約が左右されたら、作曲家は安心して作曲なんか出来ない」
と言って、古関のために抗弁し、古関の立場を擁護した。
そのお陰もあって、古関は引き続き、「コロンビア・レコード」との契約を継続出来たという。
つまり、古関裕而にとって、古賀政男は「恩人」であった。
そして、古関はこの時、
「芸術家は、誇りを持って活動する事が大切だ」
という事を学んだのではないかと思われる。
<法政初優勝の大エース・若林忠志~ハワイ生まれの日系2世で、法政のエースとして活躍し法政を初優勝に導く>
さて、前回の記事で書いたが、
1930(昭和5)年秋、法政が東京六大学野球で初優勝した時のエースは若林忠志投手である。
若林は、元々はハワイ生まれの日系2世である。
幼少の頃から運動神経抜群だった若林は、ハワイ時代は野球だけではなく、アメフトの選手としても大活躍していた。
なお、ハワイ時代の若林のニックネームは、
「ボゾー(BOZO)」
という物だったが、これは「腕白坊主」というような意味の俗語のようである。
1928(昭和3)年、当時20歳の若林忠志は、野球のハワイ選抜チームの1人として、
日米親善試合のために来日したが、その時の若林の素晴らしいピッチングを見た、東京六大学の関係者が、若林を入学させようと、色めき立った。
中でも、法政が一番熱心に若林を勧誘し、若林側の同意を取り付けた。
しかし、他大学から、
「日本の中学を出ていない者が、大学に入るのはおかしい」
というクレームが付いた。
そこで、法政は若林を横浜・本牧中学に編入させ、そこを卒業させた後、改めて法政の予科に若林を入学させた。
そして、1930(昭和5)年秋、若林の大活躍により、法政が初優勝を達成したというのは、前述の通りである。
法政の初優勝達成に、神宮球場の法政側の応援席は沸きに沸き、法政の応援団は男泣きに泣いていた。
そして、法政野球部の合宿所が有る新井町の人達が、法政の選手達が帰って来ると、
「万歳!!」
「よくやった!!」
と、皆、大喜びしていた。
そして、新井町の約3,000人の人達が、
「法政万歳!!!!」
を口々に叫びながら、提灯行列で、
新宿-四谷-飯田橋-神楽坂-九段…
の辺りを練り歩いた。
沿道は、法政を祝福する、大勢の人達で溢れ返っていたという。
それぐらい、法政初優勝は、法政の地元一帯を熱狂させたという事である。
そして、法政を初優勝に導いた若林忠志は、まさに、
「法政の星」
であった。
<1932(昭和7)年…法政の応援歌『若き日の誇り』誕生~そして、1932(昭和7)年秋に法政が2度目の優勝>
感激の法政初優勝から2年後の1932(昭和7)年、法政に重要な出来事が有った。
それは、今も歌い継がれている法政の応援歌、
『若き日の誇り』
という曲が誕生した事である。
『若き日の誇り』
は、まさに法政を象徴する曲であり、大変勇壮な曲であるが、神宮でこの曲を聴くと、何だか勇気が貰えるような気がしてくるのである。
という事で、『若き日の誇り』の歌詞を、ご覧頂こう。
法政大学応援歌
『若き日の誇り』
作詞:法政大学応援団
作曲:岡本雅雄
法政 法政 法政 燃ゆる陽の生命こそ
沸る我等が血潮 今ぞ競技の試練
制覇を誓いて鍛えし腕(かいな) 見よこの振興の気概
恐れぞなき力持て 征け闘え破れ堅塁を
我等が勝利の凱歌 おお高らかに叫ばん
若き日の誇りぞ 法政 法政 法政
…という事であるが、
法政大学応援団が作詞し、岡本雅雄が作曲した、
『若き日の誇り』
といえば、法政の第一応援歌という位置付けであり、
東京六大学野球の法政の試合では、まずこの曲が真っ先に歌われる。
そして、試合が終盤になり、例えば9回の時点で法政が負けていたりすると、
『若き日の誇り』
が、法政のランナーが出るまで、延々と歌われたりする。
つまり、法政にとっては、
「ここ一番」
で歌われる、重要な曲である。
なお、歌詞を見てお気付きの通り、この曲は非常に短く、とてもシンプルな曲だが、一度聴いたら忘れられないインパクトが有る。
そして、1932(昭和7)年秋、法政はまたしても若林忠志が大活躍し、
法政は見事に2度目の優勝を果たした。
「新しい歌が出来ると、その学校(チーム)は強くなる」
という日本野球史の法則は、またしても発動された。
そして、慶応の『若き血』、早稲田の『紺碧の空』と並び、法政の『若き日の誇り』は、東京六大学の「名応援歌」の1つとして、今日に至るまで80年以上も歌い継がれている。
(つづく)