古関裕而と『六甲おろし』~日本野球「応援歌」史(2)「紺碧の空」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今年(2023年)のプロ野球は、阪神タイガースが38年振りの「日本一」を達成した。

そこで、当ブログでは、阪神タイガース「日本一」を勝手に記念し(?)、

阪神タイガースの球団歌『六甲おろし』と、その作曲者・古関裕而にまつわる物語について、書かせて頂いている。

前回の記事は、野球の「早慶戦」の草創期の物語、そして早稲田大学の校歌『都の西北』、慶應義塾大学の応援歌『若き血』の誕生秘話などについて書いた。

 

 

という事で、今回は「第2回」として、

作曲家・古関裕而「出世作」となった、早稲田大学の応援歌『紺碧の空』誕生秘話などについて書くが、

今回は「盛り沢山」なので、前置きはそれぐらいにして、早速ご覧頂こう。

 

<1910(明治43)年…明治大学野球部が創部~1914(大正3)年…早稲田・慶応・明治の「三大学リーグ戦」がスタート>

 

 

1903(明治36)年に始まった、早稲田と慶応が対決する、

「早慶戦」

は、年々、両校の学生達による応援合戦がヒートアップし、

1906(明治39)年、早慶両校の応援団による過激化の懸念により、

「早慶戦中止」

が決定されてしまった。

以後、19年間にわたり、「早慶戦」は中断され、早慶両校の関係は断絶したままであった。

そんな中、1910(明治43)年に、明治大学(※以下、明治)でも野球部が創部された。

新興の明治は、早稲田・慶応に次ぐ「第三勢力」として、著しい台頭を見せた。

 

 

1914(大正3)年、画期的な出来事が有った。

相変わらず、「早慶戦」は中断したままの状態だったが、

早稲田慶応明治の3校によるリーグ戦、

「三大学リーグ」

がスタートしたのである。

とは言え、早稲田と慶応は対決しないままであり、

「早明戦」「慶明戦」

のみが行われるという、変則的なリーグ戦ではあったが、

早稲田と慶応が、同じリーグに所属するというのは、早慶両校の「雪解け」に向けて、大きな一歩となった。

そして、この「三大学リーグ」こそ、後の「六大学リーグ」の源流となったのだが、

そう考えると、この時、明治が果たした役割は、日本の野球史にとって、非常に大きかった。

 

<1915(大正4)年…法政大学野球部が創部~1917(大正6)年…早稲田・慶応・明治・法政の「四大学リーグ」がスタート>

 

 

1915(大正4)年、法政大学(※以下、法政)野球部が創部された。

法政は、明治と関係が深く、明治と法政は友好校だったので、

法政もごく自然な流れで、早稲田・慶応・明治の「三大学リーグ」へと加盟し、

1917(大正6)年、早稲田慶応明治法政の4校による、

「四大学リーグ」

がスタートした。

しかし、この時点でも、まだ「早慶戦」は行われず、この4校で、「早慶戦」以外のカードによる総当たり戦が行われるという、変則的なリーグ戦は続いていた。

 

<1920(大正9)年…明治大学の校歌(作詞:児玉花外、作曲:山田耕筰)が制定>

 

 

さて、早稲田・慶応・明治・法政の「四大学リーグ」が行われていた頃、

1920(大正9)年、明治大学の校歌が制定された。

作詞は児玉花外、作曲は山田耕筰というコンビによって作られた明治の校歌は、とても素晴らしい曲である。

という事で、明治の校歌の作詞をご紹介させて頂こう。

 

 

『明治大学校歌』

作詞:児玉花外

作曲:山田耕筰

 

白雲なびく駿河台 

眉秀でたる若人が 

撞くや時代の暁の鐘
文化の潮みちびきて 

遂げし維新の栄になふ 

明治その名ぞ吾等が母校
明治その名ぞ吾等が母校


権利自由の揺籃の 

歴史は古く今もなほ 

強き光に輝けり
独立自治の旗翳し 

高き理想の道を行く 

我等が健児の意気をば知るや
我等が健児の意気をば知るや


霊峰不二を仰ぎつつ 

刻苦研鑚他念なき 

我等に燃ゆる希望あり
いでや東亜の一角に 

時代の夢を破るべく 

正義の鐘を打ちて鳴らさむ
正義の鐘を打ちて鳴らさむ

 

 

…という事であるが、

もしかしたら、明治のOB、OGの方はお気付きかと思われるが、

現在、明治の校歌は、

「おお 明治 その名ぞ吾等が母校 おお 明治 その名ぞ吾等が母校…」

というように歌われているものの、元々の歌詞には、

「おお 明治」「おお」の部分は存在しない。

では何故、「おお 明治」になったのかといえば、

これは、明治の学生達が校歌を歌う際に、歌いやすいように、いつの間にか加わった物だという。

これは、校歌の2番、3番の、

「おお 我等が健児の意気をば知るや…」

「おお 正義の鐘を打ちて鳴らさむ…」

の箇所も同じである。

だが、作曲者の山田耕筰は、その事については特段、何も言わなかった。

 

 

なお、山田耕筰といえば、言わずと知れた大作曲家であるが、

古関裕而の生涯を描いた朝ドラ『エール』では、

山田耕筰をモデルにした作曲家・小山田耕三の役を、志村けんが演じていた。

そして、『エール』の撮影中に志村けんはコロナに罹患して亡くなってしまったので、これが志村けんの「遺作」になった。

 

<1909(明治42)年…立教大学野球部が創部~1921(大正10)年…立教が「四大学リーグ」に加盟し、早稲田・慶応・明治・法政・立教の「五大学リーグ」が形成>

 

 

さて、明治の野球部が創部される前年の1909(明治42)年、立教大学(※以下、立教)でも野球部が創部された。

立教は、当初、東京・築地に校舎が有ったが、1918(大正7)年、立教は現在の東京・池袋に校舎を移転し、立教の野球部も活動を本格化させた。

そして、1921(大正10)年、立教は早稲田野球部の飛田穂州監督に指導を受けていた縁もあり、立教が「四大学リーグ」に加盟し、

ここに、早稲田慶応明治法政立教の5校による、

「五大学リーグ」

が形成された。

ここまで来れば、もう「六大学」は形成間近であるが、この時点でも、早慶両校の関係は、まだ断絶したままであり、「五大学リーグ」でも「早慶戦」は行われないという、変則的なリーグ戦は続いていた。

 

<1921(大正10)年…立教の「五大学リーグ」加盟を記念し、立教の校歌『栄光の立教』制定>

 

 

1921(大正10)年、立教「五大学リーグ」加盟を記念し、

立教の校歌『栄光の立教』が制定された。

当時の立教の学長・杉浦貞二郎が、立教中学教諭の諸星寅一に作詞を依頼し、

諸星が書いた詞に、杉浦が「自由の学府」という一節を加え、

そして、東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授の島崎赤太郎が作曲し、立教の校歌は完成した。

という事で、立教の校歌『栄光の立教』の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

立教大学校歌

『栄光の立教』

作詞:諸星寅一

補作詞:杉浦貞二郎

作曲:島崎赤太郎

 

芙蓉の高嶺を雲井に望み
紫匂える武蔵野原に
いかしくそばだつ我等が母校
見よ見よ立教 自由の学府


愛の魂正義の心
朝に夕べに鍛えつ錬りつ
邦家に捧ぐる我等が母校
見よ見よ立教 自由の学府


星経る幾年伝統うけつ
東西文化の粋美をこらし
栄光輝く我等が母校
見よ見よ立教 自由の学府

 

<1925(大正14)年…東大が「五大学リーグ」に加盟~早稲田・慶応・明治・法政・立教・東大の「六大学リーグ(東京六大学野球)」が結成~早慶戦が19年振りに復活>

 

 

さて、これは前回の記事の内容と重複するが、

1919(大正8)年、東京帝国大学(※以下、東大)で野球部が創部され、

1925(大正14)年、東大「五大学リーグ」の各校と対戦し、善戦した事から、「五大学リーグ」への加盟を認められた。

そして、1925(大正14)年秋、東大のリーグ加盟を機に、遂に「早慶戦」も19年振りに「復活」する事が決定し、

ここに、早稲田慶応明治法政立教東大の6校による、

「六大学リーグ(東京六大学野球)」

が結成された。

今日の世でも続いている、

「東京六大学」

という枠組みは、この時に始まった。

なお、東大がリーグに加盟する条件として、

「どんなに弱くても、絶対にリーグから脱退しない事」

を約束させられたという。

確かに東大は他の5大学に比べると弱いが、東大が居る事によって、「六大学」に箔が付いているという面は、間違いなく有る。

だからこそ、そのような条件が付けられたという事であろう。

 

<1927(昭和2)年…慶応の応援歌『若き血』が誕生>

 

 

そして、これも前回の記事の「おさらい」だが、

早慶戦の「復活」以降、なかなか早稲田に勝てなかった慶応が、

1927(昭和2)年、堀内敬三が作詞・作曲した、

『若き血』

を応援歌として採用すると、同年(1927年)の早慶戦で慶応が早稲田に連勝し、早慶戦復活以降、慶応が初めて早稲田に連勝した。

そして、翌1928(昭和3)年秋、宮武三郎・山下実・水原茂…などの最強メンバーを揃えた慶応は、東京六大学野球史上初めて、

「10戦全勝優勝」

を達成し、慶応黄金時代を築き上げて行く。

 

<1928(昭和3)年…立教の応援歌『セントポール(St. Paul's will shine tonight)』が誕生~全編が英語という「モダン」な応援歌~後に阪神タイガースの「汎用応援歌」にメロディーが流用>

 

 

1927(昭和2)年、慶応に『若き血』という応援歌が誕生したが、

翌1928(昭和3)年、今度は立教にも、新たな応援歌『セントポール(St. Paul's will shine tonight)』が誕生した。

同年(1928年)、アメリカ・カリフォルニア州にあるフレスノ大学の学生達が立教を訪れ、

立教の学生達とバスケットの親善試合を行った後、ティーパーティーで互いのエール交換となったが、

その際、フレスノの学生達は、自軍の応援歌、

「フレスノ・ウィル・シャイン」

という曲を、立教のために歌詞を変え、

「リッキョー・ウィル・シャイン」

と歌い、試合に勝った立教を祝った。

それがキッカケとなり、この曲は立教バスケット部の部歌となり、やがて立教大学全体の応援歌となった。

これが、全編が英語という、東京六大学でも珍しい応援歌、

『セントポール(St. Paul's will shine tonight)』

の誕生のキッカケとなったが、作詞・作曲者は不詳であり、元歌はアメリカ民謡とも言われている。

という事で、立教の応援歌となった、

『セントポール(St. Paul's will shine tonight)』

の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

立教大学応援歌

『セントポール(St. Paul's will shine tonight)』

作詞・作曲:不明

 

 

St. Paul's will shine tonight, St. Paul's will shine.

St. Paul's will shine tonight, St. Paul's will shine.

St. Paul's will shine tonight, St. Paul's will shine.

When the sun goes down and the moon comes up, 

St. Paul's will shine. 

 

St. Paul's will shine tonight, St. Paul's will shine.

Will shine in beauty bright,

All down the line.Won't we look neat tonight, 

Dressed up so fine.When the sun goes down and the moon comes up, 

St. Paul's will shine.

 

 

そして、この『セントポール(St. Paul's will shine tonight)』は、

メロディーが阪神タイガース「汎用応援歌」にも流用されている。

「かっ飛ばせ 〇〇 アイヤ!かっ飛ばせ〇〇 アイヤ!」

…という単純な歌詞でお馴染み(?)の、あの曲と聞けば、多くの阪神ファンの方達も、

「ああ、あの曲か!?」

と、思い当たるのではないだろうか。

前述の通り、この曲の元歌はアメリカのフレスノ大学から立教のために贈られた曲である。

そう考えると、何とも面白い「因縁」である。

 

<1929(昭和4)~1930(昭和5)年…神宮球場の大観衆が熱狂した、実力伯仲の「早慶戦黄金時代」~1929(昭和4)年春は慶応が「2勝1敗」、秋が早稲田が「2勝1敗」~1930(昭和5)年は慶応が春秋ともに早稲田に全勝(※4戦全勝)>

 

 

 

さてさて、1928(昭和3)年秋に、慶応が、

「10戦全勝優勝」

を達成した事により、「慶応黄金時代」が到来した事は既に述べたが、

宮武三郎・山下実・水原茂…といった最強メンバーの慶応に対し、

早稲田にも、和歌山中学から早稲田に入った小川正太郎投手が現れ、早稲田も慶応に対抗した。

1929(昭和4)~1930(昭和5)年頃は、早慶両校の実力が伯仲し、常に早慶戦で両校が東京六大学野球の優勝をかけて激突する状況が続いた。

当時、神宮球場には早慶戦のチケットを求めて、多数の観客が殺到し、徹夜組まで現れるという、空前の人気を集め、遂に、

「早慶戦黄金時代」

が、ここに到来した。

 

 

早慶戦を見るために、神宮球場には5万人とも6万人とも言われる観客が詰め掛け、早慶両校に大声援を送った。

そして、1929(昭和4)年春は慶応が「2勝1敗」、秋が早稲田が「2勝1敗」と、早慶両校で優勝を分け合った。

だが、1930(昭和5)年になると、再び慶応が優勢になり、同年(1930年)は春秋ともに慶応が早稲田に全勝(※4戦全勝)した。

つまり総じて見れば、当時は慶応の方が早稲田よりも優勢であり、神宮球場には、

『若き血』

の大合唱が響き渡っていた。

慶応に押され気味だった早稲田は「捲土重来」を期していた。

 

<1930(昭和5)年秋…法政大学の校歌が誕生~そして法政が遂に東京六大学野球で悲願の「初優勝」>

 

 

「早慶戦黄金時代」

で、早慶両校の実力が伯仲し、明治も早慶に食らい付いていたが、

その頃、法政はなかなか勝てない状況が続いていた。

そんな中、法政にも遂に「校歌」が誕生した。

法政には既に、1923(大正12)年に、

為光直経作詞、瀬戸口藤吉作曲による、

『法政大学新作校歌(名 大いなれ法政)』

という曲が有り、これが「校歌」として歌われていた。

なお、作曲者の瀬戸口藤吉は、

『軍艦マーチ』

という超有名曲を作曲した人である。

だが、法政では、

「もっと校歌に相応しい曲を作ろう」

という機運が高まっていた。

法政では、校歌を作るための費用が、学生達のカンパによって集められた。

 

 

 

そして、1930(昭和5)年、当時、法政の教授を務めていた佐藤春夫が作詞し、ベルリンに音楽留学していた作曲家・近衛秀麿が曲を付けた、新たな法政の校歌が誕生した。

当初、佐藤春夫は、

「わかき我らが 血潮のかぎり ここに捧げて愛する母校………よき師よき友 つどひ結びて 勤勉快活 高邁明朗 世紀の道に 刈るや荊 法政大学 おゝわが母校」

…といった、小難しい詞を書いた。

すると、近衛秀麿は、

「こんな難しい詞では、作曲など出来ない」

と、クレームを付け、佐藤春夫と近衛秀麿の間に、激しい論争が有った。

そして、この時は佐藤春夫が折れ、もう少し平易な歌詞に書き直した。

こうして、1930(昭和5)年秋、「作詞:佐藤春夫、作曲:近衛秀麿」のコンビで、法政の校歌が誕生した。

という事で、法政の校歌の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

 

『法政大学校歌』

作詞:佐藤春夫

作曲:近衛秀麿

 

若き我等が命のかぎり 

ここに捧げてああ愛する母校
見はるかす窓の富士が嶺の雪 

螢集めむ門の外濠
良き師良き友集い結べり
法政おおわが母校 

法政おおわが母校

若き我等が命のかぎり 

ここに捧げてああ愛する母校
われひと共に認めたらずや 

進取の気象質実の風
青年日本の代表者
法政おおわが母校 

法政おおわが母校

 

 

 

 

…という事であるが、これは決して贔屓目で言っているのではないが(?)、

法政の校歌は、歌詞も曲も本当に素晴らしい。

校歌としては、非の打ちどころの無い、

「日本一の校歌」

であると、私は思っている。

そして、法政の校歌が誕生した1930(昭和5)年秋、

法政は、大エース・若林忠志が大活躍し、法政が遂に悲願の東京六大学野球の初優勝を達成した。

「新しい歌を作ると、その学校(※チーム)は強くなる」

という、日本野球史の法則が、ここでも発動されたわけである。

なお、若林忠志は、後に大阪タイガースの創立メンバーの1人となり、タイガースの大エースとなる人物である。

 

<1931(昭和6)年春…早稲田の新応援歌『紺碧の空』が誕生!!~当時21歳の古関裕而の「出世作」>

 

 

さて、慶応に『若き血』という応援歌が誕生して以降、

早稲田は、早慶戦では慶応には分が悪かった。

前述の通り、1930(昭和5)年の春秋の早慶戦では、早稲田は慶応に「4戦全敗」を喫していた。

おまけに、早稲田のエース・小川正太郎は病気で欠場する事が多くなり、早稲田はますますピンチに陥っていた。

「このままでは、早稲田は慶応に勝てない。何とかしなければ…」

早稲田の応援団も思案していた。

「こうなったら、早稲田でも慶応の『若き血』に負けないような応援歌を作ろう!!」

早稲田の応援団で、そのような案が決まった。

そして、応援歌の歌詞は、早稲田の学生から公募する事となった。

「応援歌募集 入選者に薄謝進呈」

早稲田のキャンパスの掲示板に、そのような張り紙が張られた。

 

 

そして、多数の公募作品の中から、

当時、早稲田の高等師範部(※現・教育学部)の学生で、

既に歌人としても活動していた、住治男が書いた詞が採用された。

「これは、本当に素晴らしい詞だ…」

早稲田の応援団でも絶賛された。

その住治男が書いた歌詞は、

『紺碧の空』

という詞であった。

早稲田の応援団員、土倉尚之は、住治男に対し、入選を伝えると、

「すまん。応援団には本当にお金が無くて…」

と、すまなさそうな様子で、記念のペナントを渡した。

「有り難う」

作詞者の住治男は、ニッコリと笑って、そのペナントを受け取った。

彼にとっては、それで充分であった。

なお、住治男は1936(昭和11)年、当時27歳の若さで亡くなっている。

 

 

 

そして、住治男が書いた、

『紺碧の空』

の歌詞に曲を付けるのは誰が良いか…と、早稲田の応援団の内部で話し合われたが、

早稲田の応援団員・伊東戌の知り合いで、当時、コロンビア・レコードに所属していたものの、まだヒット曲も無く、全く無名だった古関裕而に、作曲を依頼する事となった。

当時、古関裕而金子夫妻は、まだ新婚だったが、その古関夫妻の所に、

「是非とも、『紺碧の空』の曲を作って頂きたい」

と、早稲田の応援団員が訪れ、作曲を依頼した。

なお、朝ドラ『エール』では、古関裕而をモデルとした古山裕一(窪田正孝)、古関の妻・金子をモデルとした音(二階堂ふみ)という夫妻の元に、早稲田の応援団長・田中隆(三浦貴大)をはじめとする、早稲田の応援団員が押し掛け、『紺碧の空』の作詞を頼み込む場面が有った。

「慶応を倒すためにも、是非とも、慶応に負けない応援歌が必要なのです!!」

早稲田の応援団から、拝み倒すように頼まれた古関は、根負けしてしまい、その依頼を引き受けた。

 

 

そして、古関裕而は、『紺碧の空』の曲を完成させた。

朝ドラ『エール』では、それまではクラシック畑に居たので、野球の応援歌など全く作った事が無かった古山裕一(窪田正孝)が、妻・音(二階堂ふみ)の励ましも受けて、どうにか完成した…という風に描かれていた。

実際はどうだったのかはわからないが、古関裕而は、早稲田の応援団の期待以上の、素晴らしい曲を書き上げた。

『エール』では、古山裕一(窪田正孝)が早稲田の応援団員に、『紺碧の空』の歌唱指導をする場面も有ったが、

これが、明朗闊達な「古関メロディー」の第一歩となった。

 

 

 

こうして迎えた、1931(昭和6)年春の早慶戦で、遂に、早稲田の新応援歌、

『紺碧の空』

が、初めて歌われた。

「紺碧の空 仰ぐ日輪 光輝あまねき 伝統のもと…」

早稲田の応援席は、早稲田の応援団と学生達によって埋め尽くされ、全員で『紺碧の空』を大合唱し、早稲田の勝利を一心に祈っていた。

そして、朝ドラ『エール』では、古山裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)夫妻も早稲田側のスタンドに座り、早稲田に声援を送っていた。

なお、全くの余談だが、本物の(?)二階堂ふみは慶応の人である。

 

 

 

さて、1931(昭和6)年春の早慶戦は、球史に残る大熱戦となった。

早稲田は、病気の小川正太郎に代わり、捕手だった伊達正男を急遽、投手として登板させると、この伊達正男が力投し、

2回戦で、2-2の同点で迎えた7回表、2死満塁のチャンスで、早稲田の三塁ランナー・三原脩が、意表を突くホームスチールを成功させるなど、早稲田は攻守共に凄まじい気迫を見せた。

その間、勿論、早稲田側では終始、『紺碧の空』の大合唱が続き、さながら慶応の『若き血』との「歌合戦」の様相を呈していた。

 

 

そして、伊達正男が3連投した早稲田が、2勝1敗で慶応を破り、遂に早稲田が慶応に勝利した。

早稲田の勝利が決まった瞬間、神宮の早稲田側の応援席は歓喜を爆発させ、興奮と熱狂の坩堝と化していた。

まさに『紺碧の空』のお陰で、早稲田は早慶戦に勝つ事が出来た…と言っても良かった。

という事で、早稲田の1931(昭和6)年春の早慶戦での勝利を記念し(?)、『紺碧の空』の歌詞をご紹介させて頂くが、

慶応の『若き血』で、

「慶応 慶応 陸の王者 慶応」

と歌っているのに対し、

早稲田の『紺碧の空』は、

「早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田」

と歌っている。

つまり、『紺碧の空』は、『若き血』へのアンサーソングでもある。

そして、『紺碧の空』という曲は、当時21歳の古関裕而「出世作」となった。

 

 

早稲田大学応援歌

『紺碧の空』

作詞:住治男

作曲:古関裕而

 

紺碧の空 仰ぐ日輪
光輝あまねき伝統の下
すぐりし精鋭闘志はもえて
理想の王座を占むる者我等
早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田

 


青春の時 望む栄光
威力敵無き精華の誇り
見よこの陣頭歓喜あふれて
理想の王座を占むる者我等
早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田