今年(2023年)のプロ野球の日本シリーズは、
セ・リーグ優勝の阪神タイガースと、パ・リーグ優勝のオリックスバファローズが激突し、
「阪神VSオリックス」
の対決となったが、その結果、阪神タイガースが4勝3敗でオリックスバファローズを破り、阪神タイガースが38年振りの「日本一」を達成した。
そこで、当ブログでは、阪神タイガースの「日本一」を勝手に記念し(?)、
阪神タイガースの応援歌『六甲おろし』と、その作曲者・古関裕而、そして早慶戦・甲子園・プロ野球の「応援歌」史を、描かせて頂く事としたい。
本来であれば、
「阪神VSオリックス」
の日本シリーズの激闘について、ご紹介したい所ではあるが、
そういう記事を書いているブログは、恐らく山ほど有る(?)と思われるので、
当ブログでは、一旦それは「後回し」にする事として、
今回の阪神タイガースの「日本一」達成で、改めて注目を集めた、
『六甲おろし』
と、それにまつわる物語を描く。
そして、『六甲おろし』の作曲者・古関裕而といえば、
古関裕而と、彼の妻・金子という夫妻をモデルにして描かれ、
2020(令和2)年3月~11月にかけて放送された、NHKの朝ドラ、
『エール』
が思い出されるが、これは私の大好きな作品であった。
という事で、「『六甲おろし』と「野球応援歌」史の物語」の「第1回」を、ご覧頂こう。
<それは早稲田の「挑戦状」から始まった!!~1903(明治36)年11月21日…三田・綱町グラウンドにて「第1回早慶戦」が行われる>
1903(明治36)年のある日、早稲田大学(※以下、早稲田)の野球部から、先輩格の慶應義塾大学(※以下、慶応)の野球部に対し、
「挑戦状」
が送られた。
慶応の野球部の創部は、1888(明治21)年に遡り、当時、既に創部から15年余りが経っていた。
それに対し、早稲田の野球部の創部は1901(明治34)年の事であり、まだ創部して日が浅かった。
そこで、早稲田の野球部は、慶応に対し、
「是非とも、一戦、お手合わせ願いたい」
という「挑戦状」を送り付けたのである。
それに対し、慶応も早稲田からの「挑戦状」を、受けて立った。
そして、1903(明治36)年11月21日、
慶応のお膝元・三田綱町グラウンドにて、歴史的な、
「第1回早慶戦」
が開催された。
試合は、早稲田が先輩格の慶応によく食らい付き、大熱戦となったが、最終的には慶応が11-9で早稲田に勝った。
そして、この「第1回早慶戦」から、早慶両校はお互いを良きライバルとして認め合い、
翌1904(明治37)年から、毎年「定期戦」として対決する事が決まった。
ここに、今日まで続く、
「早慶戦」
の歴史が始まった。
<1905(明治37)年…早稲田野球部、歴史的な「渡米遠征」を敢行~早稲田の創立者・大隈重信が早稲田野球部のために渡航費用を気前よくプレゼント>
さて、こうして始まった「早慶戦」の歴史であるが、
早稲田野球部の創立者にして、早稲田野球部長を務めていた安部磯雄は、1904(明治37)年、早稲田野球部の選手達に、こんな約束をしていた。
「今年(※1904年)の試合に全勝したら、諸君をアメリカ遠征に連れて行ってあげます」
安部磯雄の言葉に発奮した早稲田は、同年(※1904年)、学習院、一高、慶応などを相手に「5戦全勝」という結果を残した。
すると、安部磯雄は、野球部の選手達との約束を果たすべく、早稲田の創立者・大隈重信に対し、
「是非とも、野球部の渡米遠征の費用を出して頂きたい」
と、直談判した。
当時は、「日露戦争」の真っ最中であり、学校当局者の中には、
「今、世の中は野球どころではない」
と、反対する声も多かったが、大隈重信は、
「未来ある若者が、外国に学びに行くというのは、良い事だ」
と、安部磯雄の頼みを快諾し、ポンと渡航費用を出してくれた。
流石は大隈重信というべきが、大隈は非常に懐の深い人物であった。
こうして、翌1905(明治37)年、早稲田野球部は、歴史的な、
「渡米遠征」
を敢行したが、これにより、早稲田は野球の本場・アメリカから、野球の技術を学んだり、最新の野球用具を入手したりと、実に多くの物を吸収した。
そして、早稲田が偉かったのは、帰国後、他校に対し、それらを惜しげもなく分け与えた事である。
「日本の野球界全体のレベル向上のため」
という意識が強かったと思われるが、日本野球の発展のために、この時の早稲田が果たした役割は、あまりにも大きかった。
そして、この時、早稲田野球部がアメリカから持ち帰った物として、後の野球界に更に大きな影響を与えた物が有る。それは、
「野球の試合における、組織的な集団応援」
であった。
早稲田野球部は、アメリカの各大学と試合をした時に、
現地の学生やファン達が、組織的に、その大学チームを応援しているのを見て、とても驚いた。
「野球の応援って、皆で組織的にやるものだったのか…」
これは、早稲田にとって、大きなカルチャー・ショックであった。
そして、日本に帰国した後、早稲田は早速、早稲田の学生達に働きかけ、早稲田のスクール・カラーの「エビ茶色」の地色で、「ワセダ」の「W」を意味する旗を振らせて、自分達を応援してもらう事にした。
そして、帰国後、最初の「早慶戦」から、早稲田サイドは日本で初めての「組織的な応援」を行なった。
「フレー、フレー」
という応援の掛け声も、この時に始まったと言われている。
これを見た、相手側の慶応はとても驚いたが、
「よし、それなら慶応も負けてなるものか!!」
という事で、早速、早稲田に負けじと、組織的な応援をするようになった。
こうして、我が国の野球史上初めて、
「応援合戦」
が始まった。
従って、日本野球史上の「応援合戦」の歴史は、明治時代の「早慶戦」から始まった…という事である。
<1906(明治39)年…早慶両校の「応援合戦」が過熱し、遂に「早慶戦」は中止~以後、約20年間、早慶の関係は「断絶」>
さて、1903(明治36)年に始まった早慶戦は、
前述のような経緯も有って、年々、盛り上がりが増して行った。
それと同時に、早慶両校による「応援合戦」もヒートアップして行った。
当時の早慶戦は、早稲田・戸塚球場と、慶応・三田綱町グラウンドで交互に行なわれていたが、
1906(明治39)年の早慶戦で、遂に「大事件」が勃発する。
この年(1906年)の早慶戦の1回戦は、早稲田・戸塚球場で行われたが、この時は慶応が2-1で勝った。
すると、興奮した慶応の応援団は、
「万歳!!」
を三唱しながら、早稲田の街を練り歩いた。
そこへ、慶応のテニス部の選手達と偶然出逢い、慶応野球部の勝利を知ったテニス部も、彼らと一緒になって、
「万歳!!万歳!!」
と、大騒ぎをしてしまう。
ところが、これが偶然にも、大隈重信邸の、すぐ目の前であった。
これは、「たまたま」そうなっただけであり、意図的な物ではなかった。
だが、慶応に負けてカッカしていた早稲田側は、そうとは受け取らず、これを慶応側による「挑発」と捉え、
「おのれ、慶応め…」
と、怒りに震えていた。
「今度こそ早稲田が勝って、やり返してやる!!」
早稲田側は、「臥薪嘗胆」を誓った。
そして、慶応・三田綱町グラウンドで行われた早慶戦の2回戦は、今度は早稲田が3-0で慶応を破り、早稲田が雪辱を果たした。
すると、今度は早稲田側の応援団が、大勢で徒党を組み、三田界隈を何度も行ったり来たりしながら練り歩いた末、
わざわざ慶応の創立者・福沢諭吉邸の前まで行って、
「万歳!!万歳!!万歳!!!!」
と、万歳三唱をした。
前回の慶応の、大隈邸の前での「万歳三唱」は、あくまでも偶然だったが、早稲田がやった事は、明らかに意趣返しであり、「わざと」であった。
「早稲田め、わざとやりやがって…」
今度は、慶応側が怒りを募らせてしまった。
こうして、スポーツの試合である筈の「早慶戦」が、早慶両校の「戦争前夜」のような、険悪な雰囲気になってしまった。
そして、この年(1906年)の早慶戦の3回戦は、早稲田・戸塚球場で行われる予定だったが、
早慶両校の学校当局が、急遽、会談を開いた。
「このまま試合をしてしまっては、不測の事態が起こる可能性が有る」
早慶両校の学校当局の意見は一致し、とりあえず、早慶戦の3回戦の「中止」が決まった。
この「中止」は急遽決まったので、戸塚球場には、そうとは知らない選手や観客が集まってしまったが、相手の慶応はグラウンドに現れなかった。
上の写真は、その早慶戦「中止」の当日、グラウンドに集まった早稲田側の選手や観客を写した、貴重な写真である。
こうして、遂に早慶戦は、応援合戦の過熱が原因で「中止」となってしまったが、
以後、早慶両校の関係は、色々な行き違いも有って、どんどん悪化してしまい、
何と、この後、早慶戦は19年間も「断絶」する事になってしまった。
「伝統の早慶戦」
とは言うが、実は19年間も試合をしていない期間が有った…という歴史的事実が有ったのである。
<1907(明治40)年…早稲田大学校歌『都の西北』誕生~今も早稲田で歌い継がれる名曲中の名曲>
さてさて、前述の通り、早慶両校の応援団の「大暴れ」により、
1906(明治39)年、せっかく、年々盛り上がって来ていた「早慶戦」は中止になってしまったが、
翌1907(明治40)年、早稲田大学は、
「創立25周年記念式典」
を開催するにあたり、
「校歌」
を制定する事となった。
ちなみに、同年(1907年)慶応は既に、
「創立50周年記念式典」
を開催していたので、この時点で早慶両校の歴史は2倍の差が有った。
それはともかく、当時、早稲田の学生達の間でも、
「式典に合わせて、校歌を作ろう」
という機運が高まっていた。
そして、早稲田の教授を務めていた、坪内逍遥・島村抱月が審査員となり、学内で校歌の歌詞を募集したが、その中には目ぼしい歌詞は無く、全て「ボツ」になってしまった。
そこで、坪内逍遥・島村抱月は、早稲田を卒業して2年という、OBの相馬御風に、
「お前が、早稲田の校歌の歌詞を書け」
と、命令を下した。
「そんな事を言われてもなあ…」
相馬御風は、当時25歳で、『早稲田文学』の編集に携わっていた。
「私には、そのような大役は、とてもとても…」
相馬御風は、当初、固辞していたが、坪内逍遥・島村抱月という「大物」2人の命令には、抗しきれなかった。
「わかりました。それでは、坪内先生が校閲して下さるというのであれば…」
という条件で、とうとう、早稲田の校歌の作詞を引き受けた。
相馬御風は、それから10日間、脂汗を流しながら(?)、何とか歌詞を書き上げた。
そして、坪内逍遥に、恐る恐る歌詞を見せたところ、坪内逍遥は、
「素晴らしい。直す所は一つも無い」
と、絶賛した。
「ただし、ここだけは付け足させてもらう」
と、歌詞の最後の部分、
「早稲田、早稲田…」
と、連呼(?)する箇所の回数を増やした。
そして、相馬御風が書いた歌詞に対し、当時、早稲田と関係が有った作曲家・東儀鉄笛が曲を付けた。
こうして誕生したのが、早稲田の校歌、
『都の西北』
である。
という事で、ここで、『都の西北』の歌詞を、ご紹介させて頂く。
早稲田大学校歌
『都の西北』
作詞:相馬御風
作曲:東儀鉄笛
一
都の西北 早稲田の森に
聳ゆる甍は われらが母校
われらが日ごろの抱負を知るや
進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想
かがやくわれらが行手を見よや
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田
早稲田 早稲田 早稲田
二
東西古今の文化のうしほ
一つに渦巻く 大島国の
大なる使命を 担ひて立てる
われらが行手は 窮り知らず
やがても久遠の 理想の影は
あまねく天下に輝き布かん
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田
早稲田 早稲田 早稲田
三
あれ見よかしこの 常盤の森は
心のふるさと われらが母校
集まり散じて 人は変れど
仰ぐは同じき 理想の光
いざ声そろへて 空もとどろに
われらが母校の名をばたたへん
早稲田 早稲田 早稲田 早稲田
早稲田 早稲田 早稲田
…という事であるが、特に、坪内逍遥が絶賛していたのは、3番の歌詞だという。
確かに素晴らしい歌詞であると、私も思う。
なお、現在、早稲田のキャンパスの演劇博物館前に、坪内逍遥の銅像が建てられているので、ご興味が有る方は、見学して頂きたい。
そして、『都の西北』がインパクト絶大なのは、何と言っても、
「早稲田、早稲田…」
と、7回も繰り返す部分ではないだろうか。
そう、坪内逍遥が唯一、手を加えた箇所であるが、この部分があまりにもキャッチーなので、『都の西北』は、とても有名になった。
そして、遥か後年、あの「替え歌」を生むに至る。
<「都の西北 ワセダのとなり」~バカボンのパパを輩出(?)した、「バカ田大学」の校歌とは!?>
戦後、漫画家・赤塚不二夫が描いた、
『天才バカボン』
が大ヒットしたが、その『天才バカボン』の実質的な主人公である、バカボンのパパは、
「バカ田大学」
なる大学を卒業した、という設定である。
勿論、これは早稲田大学のパロディ(?)であるが、
そのバカ田大学の校歌というのが、
「都の西北 ワセダのとなり…」
という歌詞から始まり、最後は、
「バカ田、バカ田…」
と、7回連呼して終わるというものである。
これは、本家本元の早稲田の『都の西北』が、あまりにも有名だからこそ成立するパロディであるが、「バカボン」に真似されるぐらい、早稲田の校歌が超有名という事である。
<1925(大正14)年秋…早慶戦の「復活」と、「東京六大学野球」のスタート~早慶戦「復活」当初は、早稲田が慶応を圧倒~そして「神宮球場」が創建>
先程、1906(明治39)年の、
「早慶戦中止」
以来、早慶戦は19年間も中断してしまったと書いたが、
その間、早慶両校のOB戦である、
「三田稲門戦」
は行われていたものの、早慶両校は、ずっと戦わないままであった。
その後、早慶戦は行われないままの状態で、明治・法政・立教…の順番でリーグに加わり、
「早慶戦が無い、変則的なリーグ戦」
が行われていた。
そして、1925(大正14)年、東京帝国大学(東大)が加入するのを機に、
早慶両校の当局が話し合い、その結果、19年振りに、
「早慶戦の復活」
が決定した。
こうして、1925(大正14)年秋、「早慶戦」の19年振りの復活と共に、
「東京六大学野球」
が始まった。
1925(大正14)年秋、遂に19年振りに、
「早慶戦復活」
が実現し、早稲田・戸塚球場には、超満員の観客が集まった。
その超満員の観客を前に、早稲田の安部磯雄・野球部長が、
「皆様、どうか節度の有る応援をお願いしたい…」
と、切々と訴えていた。
安部部長は勿論、観客達も、19年前の、
「早慶戦中止」
の苦い記憶が残っていたので、集まった観客達は、この時はお行儀良く(?)観戦していたという。
こうして、「東京六大学野球」が始まり、「早慶戦」が再開されたが、
1925(大正14)~1926(大正15)年にかけては、早稲田が圧倒的に強く、早慶戦では早稲田が5勝1敗と慶応を圧倒していた。
その間、球場では、早稲田の学生達が声高らかに、
『都の西北』
を歌いまくり、応援でも早稲田が慶応を圧倒していた。
そして、「東京六大学野球」と「早慶戦」は、どの試合も大人気で、超満員の観客が押し寄せるようになったが、
その状態だと、狭い戸塚球場では、とても観客を収容しきれなくなっていた。
そこで、1926(大正15)年10月、明治神宮外苑に、東京六大学野球の専用球場として、
「神宮球場」
が創建されるに至った。
つまり、神宮球場とは、元々は東京六大学野球のために作られた球場という事である。
<1927(昭和2)年…慶応の応援歌『若き血』が誕生~慶応が早稲田への「リベンジ」に成功~そして「慶応黄金時代」の到来>
さてさて、早慶戦が「復活」したのは良いものの、
1925(大正14)~1926(大正15)年にかけて、慶応は早稲田に負け続けた。
しかも、早稲田の学生達は、
『都の西北』
という歌詞を、実に楽しそうに歌い、慶応は歌でも早稲田に圧倒されてしまっていた。
「こうなったら、慶応も早稲田に負けないような歌を作ろう!!」
当然の如く、慶応でもそのような機運が高まった。
そして、慶応OBの音楽評論家・野村光一が、慶応の学生達の意を汲んで、
当時、アメリカ帰りだった、当時30歳の作曲家・堀内敬三に、
「慶応の応援歌を作って欲しい」
と、依頼した。
堀内敬三は、その依頼を快諾したが、以下、堀内の回想によると、
「当時、若者達の間で、『〇〇する者』というフレーズが流行っていた。例えば、『哲学する者』とかね…。そこで、まずは『若き血に燃ゆる者』というフレーズが思い浮かんだ」
という。
「あとは、もう景気の良い言葉を、スルスルと並べて行った。そうしたら、あっという間に曲が出来上がった」
との事である。
こうして、堀内敬三が作詞・作曲した、慶応の新しい応援歌、
『若き血』
が誕生した。
という事で、今度は『若き血』の歌詞を、ご紹介させて頂こう。
慶應義塾応援歌
『若き血』
作詞・作曲:堀内敬三
若き血に燃ゆる者 光輝みてる我等
希望の明星 仰ぎて此処に
勝利に進む我が力 常に新し
見よ精鋭の集う処 烈日の意気高らかに
遮る雲なきを
慶応 慶応 陸の王者 慶応
…という事であるが、これが、今日に至るまで、慶応の関係者達に愛唱されている、名曲中の名曲、
『若き血』
である。
この曲の特徴は、最後の、
「慶応 慶応 陸の王者 慶応」
のフレーズが、何度もリピートして歌えるようなメロディーになっている事であり、歌おうと思えばいくらでも歌い続けられるという、恐ろしい歌(?)という事である。
これは勿論、堀内敬三が、球場で慶応の学生達が、いつまでも歌い続けられるように、わざとそういう曲にしているというのは、言うまでもない。
それにしても、
「陸の王者」
とは、何とも大仰な言葉に見えるが、実はこれは、
「陸」
という意味の他に、六大学野球の「六(ろく)」の別の読み方である、
「六(りく)」
も、意味しており、
「六(りく)の王者」
というダブル・ミーニングになっているという。つまり、
「慶応が、六大学の王者になれるように…」
という意味にもなっているのである。
そして、1927(昭和2)年、出来上がったばかりの、
『若き血』
の歌唱指導を、慶応の学生達に対して行なったのが、当時16歳で、慶応の予科の学生だった藤山一郎である。
「藤山一郎君の歌唱指導のお陰で、『若き血』は、原曲よりも随分、良い物になった」
と、作曲者の堀内敬三も絶賛していたという。
そして、慶応は1927(昭和2)年秋の早慶戦から、神宮球場の早慶戦で、早速、
『若き血』
を応援歌として導入すると、まさに効果覿面で、この時の早慶戦に慶応は連勝した。
早慶戦復活以来、遂に慶応が早稲田を初めて撃破したが、この快挙に慶応の学生達は熱狂し、以後、『若き血』は慶応には欠かせない曲として定着して行く。
そして、翌1928(昭和3)年、慶応は東京六大学野球史上初めて、
「10戦全勝優勝」
を達成し、ここに、
「慶応黄金時代」
が到来した。
という事で、
「新しい歌を作ると、その学校(※チーム)が強くなる」
…というのは、以後、日本の野球の歴史で繰り返されて行く現象なので、ご記憶頂きたい。
<その頃、古関裕而は…?~「国際音楽コンクール」の入賞をキッカケに、古関裕而・金子が知り合い、「文通」で愛を深める~1931(昭和6)年に結婚>
さてさて、早慶戦が『都の西北』『若き血』で盛り上がっていた昭和初期の頃、
古関裕而はどうしていたのかというと…。
1909(明治42)年、福島県に生まれた古関裕而は、作曲家を目指して勉強していたが、
1930(昭和5)年、当時21歳の頃、古関はベルリンで開かれていた国際音楽コンクールで「入賞」を果たした。
そして、新聞を読み、その快挙を知ったのが、1912(明治45)年生まれで、古関よりも3歳年下で、当時18歳だった、愛知県在住の内山金子である。
当時、金子は声楽家を目指し、歌のレッスンに励んでいた。
「日本に、こんな凄い作曲家が居たなんて!?」
金子はとても驚き、そして、金子は古関に対し手ファンレターを送った。
すると、すぐに古関から返事が来たが、共に音楽家を目指す同士とあって、2人は忽ち、意気投合していた。
以後、古関と金子は「文通」により、愛を深めて行った…。
そして、翌1931(昭和6)年、2人は電撃結婚してしまう。
まさに、古関裕而・金子は、
「運命の出逢い」
であった。
そして、この辺の経緯は、朝ドラの、
『エール』
でも描かれていた。
古関裕而をモデルとする作曲家・古山裕一(窪田正孝)が、国際音楽コンクールで入賞した事を知ったのが、
内山金子をモデルとする、声楽家を目指す学生・関内音(二階堂ふみ)である。
「こんなに凄い作曲家が居るなんて!?」
すっかり感動した音(二階堂ふみ)は、裕一(窪田正孝)にファンレターを書き、以後、2人の文通が始まった。
その後、実際に会った裕一と音は、熱烈な恋に落ちた。
「僕は、音さんが居ると、どんどん曲が思い浮かぶけど、音さんが居ないと、何も思い浮かばない…」
裕一は、音の事を、
「音さんは、僕の音楽のミューズ(※女神)です」
とまで言い切っていた。
そして、周囲からの反対を押し切り、裕一と音は結婚する…。
しかし、この時、古関裕而(※『エール』では古山裕一)は、何の実績も無い、無名の作曲家に過ぎなかった。
果たして、彼の運命や、如何に!?
…という事で、その続きは、また次回。
(つづく)