前回の記事でも書いたが、1998(平成10)年といえば、横浜ベイスターズが38年振りの優勝⇒日本一を達成した年である。
1998(平成10)年といえば、私の大洋ファン⇒横浜ファン歴でも、最も思い出深い年であるが、
この年(1998年)は横浜ベイスターズをはじめ、横浜高校が甲子園で春夏連覇を達成するなど、
神奈川県や横浜の各分野のスポーツで、ことごとく「優勝」を果たすという、空前絶後の「神奈川(横浜)イヤー」であった。
その1998(平成10)年の「神奈川(横浜)イヤー」の出来事を、ざっと列挙しておくと、下記の通りである。
・「第74回箱根駅伝」で神奈川大学が連覇を達成
・「第34回全国大学ラグビー選手権大会」で関東学院大学が初優勝
・「第69回都市対抗野球大会」で日産自動車が優勝
・横浜高校が甲子園で「春夏連覇」~公式戦「44連勝(44戦全勝)」達成
・横浜ベイスターズが38年振り優勝、日本一
・「第78回サッカー天皇杯」で横浜フリューゲルスが優勝(※1998年度)
…という事で、この年(1998年)の神奈川(横浜)のスポーツの大活躍ぶりは本当に凄かったが、
今まで神奈川県には一度も住んだ事は無いが、神奈川県が大好きという、
「名誉神奈川県民」(?)の私としても、この年(1998年)の神奈川県勢の大活躍ぶりには、目を見張っていた。
という事で、今回は1998(平成10)年の「栄光の神奈川(横浜)イヤー」について描く。
それでは、ご覧頂こう。
<プロローグ①~1997(平成9)年の「第73回箱根駅伝」で神大(神奈川大学)が初優勝>
栄光の1998(平成10)年の「神奈川(横浜)イヤー」について描くに際して、そのプロローグとなった出来事を、まずはいくつかご紹介させて頂く。
1997(平成9)年1月2~3日に行われた、
「第73回箱根駅伝」
で、神大(神奈川大学)が初優勝を達成したが、神大(神奈川大学)は前年は「途中棄権」というアクシデントに見舞われ、翌1997(平成9)年、神大(神奈川大学)は予選会から勝ち上がっての、見事な初優勝であった。
そして、後から振り返れば、これが翌1998(平成10)年の「神奈川(横浜)イヤー」に向けてのプロローグの始まりであった。
<プロローグ②~1997(平成9)年…「第79回全国高校野球選手権大会」の神奈川県大会・準決勝「横浜VS横浜商」~2年生エース・松坂大輔の「サヨナラ冒頭」で、横浜高校が敗退>
1997(平成9)年、高校野球の名門・横浜高校は、当時2年生だった松坂大輔がエースとして活躍していた。
同年(1997年)夏、「第79回全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)」の神奈川県大会の準決勝は、
「横浜VS横浜商」
の対決だったが、2年生エース・松坂大輔は、2-2の同点の9回裏、
「サヨナラ暴投」
をしてしまい、横浜高校は無念の敗退となり、夏の甲子園出場を逃してしまった。
松坂は、自らの不甲斐なさと、上級生への申し訳無さから、号泣していた。
しかし、この悔しさをバネにした松坂は、新チーム結成後、目の色を変えて野球に取り組んで行く。
そして、これが「高校野球史上最強軍団」と言われた、「松坂大輔の横浜高校の伝説」の始まりとなった。
<プロローグ③~1997(平成9)年…横浜ベイスターズ、最大「14.5ゲーム差」を付けられていた首位・ヤクルトを夏場に「2.5ゲーム差」まで猛追するも、惜しくも「2位」に終わる>
1997(平成9)年のプロ野球は、当初、野村克也監督率いるヤクルトスワローズが首位を独走していた。
一方、大矢明彦監督率いる横浜ベイスターズは、6月末の時点で「最下位」に沈み、横浜は首位・ヤクルトに最大「14.5ゲーム差」を付けられていた。
だが、突如、目を覚ました横浜ベイスターズは7月を「13勝5敗」、8月を「20勝6敗」という、猛烈な勢いで勝ちまくり、ヤクルトを猛追した横浜は、何と首位ヤクルトに「2.5ゲーム差」まで迫った。
だが、9月初めの横浜スタジアムでの「横浜VSヤクルト」の首位決戦で、横浜はヤクルトに連敗を喫し、ここで万事休すとなった。
「横浜37年振り優勝」
の夢は潰えてしまい、この年(1997年)横浜は惜しくも「2位」に終わってしまう。
だが、この時の悔しさにより、ベイスターズは翌1998(平成10)年、目の色を変えて、本気で「優勝」を狙いに行った。
<1997(平成9)年11月…秋季・神奈川県大会で優勝した横浜高校が、秋季関東大会でも優勝し、翌1998(平成10)年の「春のセンバツ」出場を決定付ける>
さて、前述の松坂の「サヨナラ暴投」で、1997(平成9)年夏の甲子園出場を逃してしまった横浜高校は、
同年(1997年)秋から、翌1998(平成10)年に新3年生となる松坂大輔をエースとする新チームをスタートさせた。
そして、横浜高校は、同年(1997年)秋季の神奈川県大会で優勝すると、横浜高校は、そのままの勢いで同年(1997年)秋季の関東大会でも優勝し、翌1998(平成10)年の「春のセンバツ」出場を決定付けた。
こうして、松坂は2年生夏では惜しくも届かなかった「甲子園」の舞台に立つ事となった。
なお、1997(平成9)年の横浜高校の「秋季大会」の戦績は、下記の通りである。
■神奈川県大会横浜地区予選
リーグ戦 横浜○11-1 市ヶ尾
リーグ戦 横浜○10-0 氷取沢
リーグ戦 横浜○14-4 鶴見工
■神奈川県大会
2回戦 横浜○4-3 藤嶺藤沢
3回戦 横浜○14-0 茅ヶ崎西浜
4回戦 横浜○8-4 東海大相模
準々決勝 横浜○7-1 川崎北
準決勝 横浜○7-1 横浜商
決勝 横浜○9-0 日大藤沢
■関東大会
準々決勝 横浜○11-1 水戸商(茨城)
準決勝 横浜○9-0 浦和学院(埼玉)
決勝 横浜○2-1 日大藤沢(神奈川)
<1997(平成9)年11月…「第28回明治神宮大会(高校の部)」で、横浜高校が初優勝>
1997(平成9)年11月、秋季の神奈川県大会、関東大会を制した横浜高校は、
「第28回明治神宮大会(高校の部)」
にて、初優勝を達成した。
この時の横浜高校の明治神宮大会の優勝は、あまり大きな話題にはならなかったが、後から振り返ると、
「松坂伝説」
の始まりとなった大会であった。
松坂の横浜高校にとって、これが「1つ目のタイトル」獲得となったからである。
なお、「第28回明治神宮大会(高校の部)」の横浜高校の戦績は、下記の通りである。
■第28回明治神宮大会(高校の部)
準々決勝 横浜○5-1 豊田西(愛知)
準決勝 横浜○5-2 国士館(東東京)
決勝 横浜○5-3 沖縄水産(沖縄)
<1998(平成10)年1月2日~3日…「第74回箱根駅伝」で、神大(神奈川大学)が「連覇」を達成>
1998(平成10)年1月2日~3日、
「第74回箱根駅伝」
が開催され、神大(神奈川大学)が前年(1997年)に続いて優勝し、神大(神奈川大学)が見事に「連覇」を達成した。
神大(神奈川大学)には、所謂「エリート」は居らず、「雑草軍団」と言われたが、そんな神大(神奈川大学)がまさに雑草の如く逞しさを発揮し、見事に「箱根駅伝の連覇」を果たした。
そして、神大(神奈川大学)の「箱根駅伝連覇」こそ、
「1998(平成10)年の栄光の神奈川(横浜)イヤー」
の始まりの号砲となった。
<1998(平成10)年1月10日…「第34回全国大学ラグビー選手権」で関東学院大学が初優勝>
1998(平成10)年1月10日、東京・国立競技場にて、
「第34回全国大学ラグビー選手権大会」
の決勝戦である、
「関東学院VS明治」
の試合が行われたが、神奈川県・横浜市に在る関東学院大学が、30-17で明治大学を破り、
関東学院大学が、大学ラグビー選手権大会の初優勝を達成した。
以後、関東学院大学は、計6度も「大学日本一」を達成する強豪となって行くが、この大会は「関東学院大学の黄金時代」の幕開けとなった。
という事で、「第34回全国大学ラグビー選手権大会」の関東学院大学の戦績は、下記の通りである。
関東学院大〇82-17●日体大
関東学院大〇56-38●筑波大
関東学院大〇46-38●京産大
関東学院大〇30-17●明治大
<1998(平成10)年春…「第70回センバツ(選抜)高校野球」で横浜高校が25年振り2度目の優勝>
1998(平成10)年春、
「第70回センバツ(選抜)高校野球大会」
が開催され、絶対的エース・松坂大輔を擁し、渡辺元智監督が率いる横浜高校が、25年振り2度目のセンバツ優勝を達成した。
横浜高校は、準決勝のPL学園には3-2というスコアで辛勝だったが、他の試合は全く危なげない、「横綱相撲」での優勝であった。
横浜高校のエース・松坂は全5試合に完投勝利(3完封)という、圧巻の投球を見せた。
という事で、「第70回センバツ(選抜)高校野球大会」の横浜高校の戦績は、下記の通りである。
2回戦 横浜○6-2 報徳学園(兵庫)
3回戦 横浜○3-0 東福岡(福岡)
準々決勝 横浜○4-0 郡山(福島)
準決勝 横浜○3-2 PL学園(大阪)
決勝 横浜○3-0 関大一(大阪)
<1998(平成10)年春…横浜高校、「春季大会」でも神奈川大会・関東大会で優勝>
1998(平成10)年の「春のセンバツ」で優勝した、松坂大輔の横浜高校の快進撃は、なおも続いた。
1998(平成10)年の「春季大会」でも、横浜高校は神奈川大会・関東大会で優勝を果たした。
「春季大会」は、たとえ勝ち抜いても「甲子園」には繋がらない大会ではあるが、「夏の甲子園」に向けてチーム力を底上げするためには、大事な公式戦である。
なお、この時の「春季大会」で、松坂は横浜商を完封し、前年(1997年)夏の「リベンジ」を果たしている。
という事で、1998(平成10)年の「春季大会」での横浜高校の戦績は、下記の通りである。
■神奈川県大会
3回戦 横浜○10-0 柏陽
4回戦 横浜○12-2 川崎北
準々決勝 横浜○4-0 慶応
準決勝 横浜○4-0 横浜商
決勝 横浜○17-8 東海大相模
関東大会
2回戦 横浜○3-0 埼玉栄
準々決勝 横浜○1-0 八千代松陰(千葉)
準決勝 横浜○6-5 坂戸西(埼玉)
決勝 横浜○1-0 日大藤沢
<1998(平成10)年…「第80回全国高校野球選手権」の「東神奈川大会」で横浜高校が優勝~横浜高校、「夏の甲子園」出場を決定>
1998(平成10)年の「第80回全国高校野球選手権大会」、所謂「夏の甲子園」は、
「第80回」の記念大会という事で、普段は1代表の埼玉県・千葉県・神奈川県・愛知県・大阪府・兵庫県…といった激戦区からも2代表を選出する事となった。
横浜高校は「東神奈川大会」を戦う事となったが、絶対的エース・松坂大輔を擁した横浜高校は圧倒的な強さを発揮し、横浜高校が「夏の甲子園出場」を決めた。
という事で、1998(平成10)年夏の「第80回・全国高校野球選手権大会・東神奈川大会」の横浜高校の戦績は、下記の通りである。
2回戦 横浜○6-0 神奈川工
3回戦 横浜○10-0 浅野
4回戦 横浜○10-0 武相
準々決勝 横浜○12-0 鶴見工
準決勝 横浜○25-0 横浜商大高
決勝 横浜○14-3 桐光学園
<1998(平成10)年7月…「第69回都市対抗野球大会」で、日産自動車(神奈川第3代表)が15年振り2度目の優勝>
1998(平成10)年7月、東京ドームにて、
「第69回都市対抗野球大会」
が開催され、神奈川県・横須賀市を本拠地とする、日産自動車(神奈川第3代表)が、15年振り2度目の「都市対抗優勝」を達成した。
1998(平成10)年7月31日の決勝は、
「日産自動車VS川崎製鉄千葉」
の対決となったが、日産自動車が11-3で川崎製鉄千葉を破り、日産自動車が優勝を飾った。
なお、この時の日産自動車のエース・川越英隆は、大会MVPに該当する「橋戸賞」を受賞し、後にプロ野球のオリックスに入団している。
という事で、「第69回都市対抗野球」の日産自動車の戦績は、下記の通りである。
日産自動車〇6-5●三菱自動車水島
日産自動車〇5-2●NTT東京
日産自動車〇12-7●東芝
日産自動車〇7-4●西濃運輸
日産自動車〇11-3●川崎製鉄千葉
<1998(平成10)年夏…「第80回全国高校野球選手権大会」で、横浜高校が春夏連覇を達成~松坂大輔の「伝説の夏」>
1998(平成10)年夏、「第80回全国高校野球選手権大会」は、
絶対的な大エース・松坂大輔を擁する、渡辺元智監督率いる横浜高校が優勝し、横浜高校が、
「春夏連覇」
を達成した。
この大会での横浜高校は、物凄い戦いを勝ち抜いての優勝だったが、
まずは、「第80回全国高校野球選手権大会」での横浜高校の戦績を記す。
1回戦 横浜○6-1 柳ヶ浦(大分)
2回戦 横浜○6-0 鹿児島実業(鹿児島)
3回戦 横浜○5-0 星稜(石川)
準々決勝 横浜○9-7 PL学園(南大阪)
準決勝 横浜○7-6 明徳義塾(高知)
決勝 横浜○3-0 京都成章(京都)
横浜高校は、1~3回戦までは、松坂大輔が3完投(2完封)で、柳ヶ浦、鹿児島実業、星稜を危なげなく破った。
だが、1998(平成10)年8月20日に行われた、準々決勝の、
「横浜 VS PL学園」
は、延長17回という死闘となり、最後は横浜が9-7でPL学園を破った。
春のセンバツで松坂の横浜に敗れたPL学園が、「打倒・横浜」「打倒・松坂」を目指し、PL学園は横浜に食い下がったが、延長17回を松坂が「250球」の力投で最後まで投げ切り、9-7で横浜がPL学園との死闘を制した。
「横浜 VS PL学園」
の延長17回の死闘の翌日、1998(平成10)年8月21日の準決勝、
「横浜VS明徳義塾」
の試合は、流石に松坂は先発では登板出来ず、松坂はレフトで出場した。
そして、横浜は8回表を終わて0-6と明徳義塾にビハインドを許す劣勢となったが、
8回裏に横浜高校が4点差を返し、4-6と2点差に迫った。
そして9回表、松坂は右腕のテーピングを自ら外し、リリーフ登板して明徳義塾を無失点に抑えると、
9回裏、横浜高校は一挙3点を挙げ、横浜高校が7-6と劇的な逆転サヨナラ勝ちを収め、横浜高校が決勝進出を果たす。
この時、敗北を喫した明徳義塾のエース・寺本四郎が頭を抱えマウンドにうずくまった姿は、日本中の高校野球ファンの涙を誘った。
1998(平成10)年8月22日、
「横浜VS京都成章」
という対決で、夏の甲子園の決勝が行われた。
この日(1998/8/22)私は、ナイターで行われる、
「横浜VS中日」
の首位攻防戦を見るべく、横浜スタジアムへと向かっていた。
だが、その前に、横浜駅前に立ち寄ると、夏の甲子園決勝の模様を映したテレビの大画面が置かれ、横浜駅前には黒山の人だかりが出来ていた。
そして、松坂大輔は、何と、夏の決勝戦でノーヒット・ノーランを達成し、横浜高校は甲子園「春夏連覇」を達成した。
その瞬間、横浜駅前に集まっていた大群衆からは、大歓声と大拍手が巻き起こった。
こうして、3日連続で行われた準々決勝⇒準決勝⇒決勝…という、伝説的な戦いを全て勝ち抜いた横浜高校であるが、
1998(平成10)年夏の甲子園は、
「松坂伝説の夏」
として、今もなお語り継がれている。
なお、この時、私も松坂の「決勝戦でのノーヒット・ノーラン」を、大群衆と共に見守っていたが、私はこう思っていた。
「こうなったら、今年はベイスターズも優勝するしか無い!!」
この時、横浜ベイスターズは、首位を走っていたものの、2位の中日ドラゴンズも迫って来ており、横浜と中日が激しい優勝争いを繰り広げていた。
しかし、横浜高校が優勝した以上、横浜ベイスターズも絶対に優勝して欲しいと、私は強く願っていた。
<1998(平成10)年…横浜ベイスターズが38年振り優勝⇒日本一を達成!!>
前述の通り、1998(平成10)年の夏場、
横浜ベイスターズと中日ドラゴンズは、激しい優勝争いを繰り広げていた。
そんなベイスターズの優勝を祈願し、横浜駅の構内には、
「ハマの大魔神」
こと佐々木主浩の右腕を型どった像を「ご神体」(?)とする、
「ハマの大魔神社」
が作られ、多くのベイスターズファンが「優勝祈願」に訪れていた。
勿論、私も参拝(?)しに行ったというのは、言うまでもない。
そして、あの「松坂伝説」の舞台となった甲子園球場に、
1998(平成10)年10月8日、マジック1と迫っていた、権藤博監督率いる横浜ベイスターズが乗り込み、
「横浜VS阪神」
の試合が行われたが、横浜ベイスターズが4-3で阪神タイガースを破り、
横浜ベイスターズが38年振りの優勝を達成した。
そして、権藤監督が甲子園球場でベイスターズの選手達によって胴上げされ、宙を舞った。
遂に、あのベイスターズが「38年振り」の栄光を手にした瞬間であった。
そして、1998(平成10)年の日本シリーズは、
横浜ベイスターズと西武ライオンズが激突し、
「横浜VS西武」
という対決となったが、
38年振りの優勝を達成した横浜ベイスターズが、リーグ優勝の勢いそのままに西武ライオンズを圧倒し、
横浜ベイスターズが4勝2敗で西武ライオンズを破り、横浜ベイスターズが38年振りの「日本一」を達成した。
1998(平成10)年10月26日、横浜スタジアムで、ベイスターズが「日本一」を達成した試合を、私も現地で見ていたというのは、前回の記事でも書いた通りである。
横浜ベイスターズの38年振りの優勝⇒日本一により、地元・横浜の街を熱狂と興奮の坩堝と化した。
こうして、「栄光の1998(平成10)年の神奈川(横浜)イヤー」は、劇的なフィナーレを飾った…。
…と言いたい所だが、実はこの話にはもう少しだけ「続き」が有る。
<1998(平成10)年秋…「第53回かながわ・ゆめ国体」にて横浜高校が優勝~横浜高校は「4冠」を達成し、「公式戦44連勝(44戦全勝)」という不滅の大記録を樹立>
1998(平成10)年秋、松坂大輔の横浜高校は、最後の公式戦となる、
「第53回かながわ・ゆめ国体」
に臨んだが、何と、この「秋の国体」でも横浜高校は優勝してしまった。
これにより、松坂大輔の横浜高校は、
「公式戦44連勝(44戦全勝)」
という、不滅の大記録を残した。
■1997(平成9)年~1998(平成10)年の横浜高校の「公式戦44連勝」の大会
秋季都道府県大会
秋季各地区大会
明治神宮大会(各地区大会の優勝校が出場)
選抜高校野球大会
春季都道府県大会
春季各地区大会
全国高校野球選手権都道府県大会(予選)
全国高校野球選手権大会
秋季国体
上記の全大会を全て勝ち抜いた高校というのは、
高校野球史上、勿論、この時の横浜高校だけである。
こうして、松坂大輔は名実共に、
「伝説の存在」
になってしまった。
という事で、高校時代の「松坂伝説」の掉尾を飾った、
1998(平成10)年秋の「第53回かながわ・ゆめ国体」の横浜高校の戦績は、下記の通りである。
準々決勝 横浜○3-2 日南学園(宮崎)
準決勝 横浜○18-2 星稜(石川)
決勝 横浜○2-1 京都成章(京都)
<1998(平成10)年11月20日…ドラフト会議で、横浜・西武・日本ハムの3球団が「ドラフト1位」で松坂大輔を指名~抽選の結果、西武が交渉権を獲得し、松坂は西武に入団>
1998(平成10)年11月20日、プロ野球の、
「ドラフト会議」
が開催された。
この年(1998年)の超目玉は、勿論、横浜高校の松坂大輔投手である。
横浜ベイスターズは、早い段階から松坂の「ドラフト1位」指名を公言していた。
「今年(1998年)は、歴史的な神奈川(横浜)イヤーだったのだから、最後も権藤監督が松坂を抽選で当ててくれる筈だ…」
多くのベイスターズファンは、そう願っていた事であろう。
当の松坂本人も、
「意中の球団は横浜」
と言われていた。
だが、ドラフト会議当日、松坂は横浜・西武・日本ハムの3球団から「ドラフト1位」で指名され、
抽選の結果、西武・東尾修監督が松坂の交渉権を引き当てた。
東尾監督が、日本シリーズで権藤博監督率いる横浜に敗れた「リベンジ」を果たした形となったが、
松坂を外してしまった権藤監督は、あからさまにガックリとした表情であった。
それは勿論、我々ベイスターズファンも同じ心境であった。
「人生、何でもかんでも思いどおりには行かないものだな…」
この時、私は痛感していた(?)。
「松坂は、意中の球団意外に指名された場合、社会人野球に行く」
とも言われていたが、その後、東尾監督の熱心な説得も功を奏し、
松坂大輔は西武ライオンズへと入団した。
こうして、プロ野球における、
「松坂伝説」
の舞台は、西武ライオンズとなったが、もしもこの時、横浜ベイスターズが松坂を獲得していたら、その後のベイスターズの歴史は大きく変わっていた筈である。
そう考えると、返す返すも誠に惜しい事をした。
「栄光の神奈川(横浜)イヤー」
における、唯一最大の苦い思い出は、
「ベイスターズが、松坂をドラフトで獲り逃した事」
であった。
<1998(平成10)年度…「第78回サッカー天皇杯」で、「球団消滅」が決定していた横浜フリューゲルスが「奇跡の優勝」>
1998(平成10)年の、
「栄光の神奈川(横浜)イヤー」
の本当のフィナーレを飾ったのは、プロ野球の横浜ベイスターズではなく、
サッカーの横浜フリューゲルスであった。
1993(平成5)年に始まった、サッカーのJリーグでは、横浜を本拠地に置くチームとして、
「横浜マリノス」
「横浜フリューゲルス」
という2球団が有った。
日産自動車を親会社とする「横浜マリノス」に対し、
全日空(ANA)と佐藤工業を親会社とする「横浜フリューゲルス」は経営的に苦戦を強いられていた。
そして、この年(1998年)、何と「横浜フリューゲルス」は「横浜マリノス」に吸収合併され、消滅するという憂き目に遭ってしまう。
「横浜フリューゲルス」のサポーターは猛反発し、激しい反対運動が起こったが、結局、この決定は覆らなかった。
という事で、1998(平成10)年度の、
「第78回天皇杯全日本サッカー選手権大会」
が、横浜フリューゲルスにとっては、最後の公式戦となった。
「天皇杯」はトーナメント戦なので、1つでも負けたら終わり、
つまり、横浜フリューゲルスにとって、
「負けた瞬間に、チームが消滅する」
という大会になってしまったのである。
だが、この大会で横浜フリューゲルスは「奇跡」を起こし、何と、横浜フリューゲルスは「第78回天皇杯全日本サッカー選手権大会」で優勝を達成してしまった。
1999(平成11)年1月1日、
「横浜フリューゲルスVS清水エスパルス」
の対決となったが、横浜フリューゲルスが2-1で清水エスパルスを破り、横浜フリューゲルスが優勝を飾り、最後の最後で意地を見せた。
この横浜フリューゲルスの「奇跡の天皇杯優勝」は、多くの人達の感動を呼んだ。
という事で、1998(平成10)年度の「第78回天皇杯全日本サッカー選手権大会」の横浜フリューゲルスの戦績は、下記の通りである。
横浜フリューゲルス〇4-2●大塚
横浜フリューゲルス〇3-0●ヴァンフォーレ甲府
横浜フリューゲルス〇2-1●ジュビロ磐田
横浜フリューゲルス〇1-0●鹿島アントラーズ
横浜フリューゲルス〇2-1●清水エスパルス