1992~1996年のサザンとユーミン⑥…1994~1995年『春よ、来い』 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1992(平成4)~1996(平成8)年にかけて、サザンオールスターズ松任谷由実(ユーミン)は、

テレビドラマとのタイアップで、大ヒット曲を連発していた。

そんなサザンとユーミンの華やかなりし時代、1992(平成4)~1996(平成8)年は、私が10代で中高生だった頃でもあり、

その頃に見たテレビドラマや、好んで聴いていた音楽などは、今でも私の心に強く残っている。

 

 

という事で、当ブログでは、1992(平成4)~1996(平成8)年にかけてのサザンとユーミンの大活躍にスポットを当てた、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

というシリーズ記事を書かせて頂いているが、今まで下記の5本の記事を書いて来た。

 

①1992年『涙のキッス』と『ずっとあなたが好きだった』

②1993年『真夏の夜の夢』と『誰にも言えない』

③1993年『エロティカ・セブン』と『悪魔のKISS』

④1994年『Hello, my friend』と『君といた夏』

⑤1994~1995年『祭りのあと』と『静かなるドン』

 

そして、今回はそのシリーズの「第6回」として、

1994(平成6)年10月~1995(平成7)年にかけて放送された、NHK連続テレビ小説、所謂「朝ドラ」の、

『春よ、来い』

と、その「朝ドラ」の同名タイトルの主題歌、ユーミン(松任谷由実)『春よ、来い』を取り上げる。

「朝ドラ」の『春よ、来い』の脚本を書いたのは橋田壽賀子であるが、橋田壽賀子自身の自伝的作品でもある。

そして、ユーミン(松任谷由実)の『春よ、来い』は、名曲中の名曲として、今も多くの人達に愛されている歌である。

それでは、「1992~1996年のサザンとユーミン」の「第6回」、「1994~1995年『春よ、来い』」をご覧頂こう。

 

<脚本家・橋田壽賀子の誕生~映画会社・松竹を経て、テレビドラマの脚本家として独立>

 

 

橋田壽賀子(はしだ・すがこ)は、1925(大正14)年5月10日、日本統治時代の朝鮮・京城(ソウル)に生まれた。

橋田壽賀子の両親は、京城でチタンを産出する鉱山と土産店を営んでおり、橋田家は裕福な家だった。

彼女が9歳の頃、橋田家は壽賀子の勉学のために日本に帰って来たが、その後、学業優秀だった壽賀子は大阪府立堺高等女学校-日本女子大学で学んだ。

 

 

やがて、壽賀子が日本女子大に在学中、日本は太平洋戦争に突入し、通っていた日本女子大の校舎も空襲で焼けてしまい、大学の閉鎖されてしまったった。

壽賀子も、勉強どころではなくなり、生命を繋ぐだけで精一杯だったが、

「その頃は皆、お国にために死ぬのは当たり前だと思って生きてました」

後に、橋田壽賀子はその頃の事を、そのように振り返っている。

 

 

1945(昭和20)年、橋田壽賀子が20歳の時に、太平洋戦争は終戦を迎えた。

壽賀子は日本女子大学に復学を果たした後、卒業したが、前述の通り、学業優秀だった壽賀子は、日本女子大学を卒業後、学者になる事を夢見て、東大(東京大学)を受験した。

だが、残念ながら壽賀子は東大受験に失敗し、早稲田大学の第二文学部に入った。

そして、壽賀子は早稲田で演劇に目覚め、学生劇団「小羊座」に入って、女優として舞台に立つ一方、脚本の執筆も始めた。

つまり、壽賀子は早稲田時代に、芝居の道に入ったという事である。

やがて、壽賀子はまだ早稲田に在学中だった1949(昭和24)年、当時24歳にして、映画会社・松竹に入社した(※その後、壽賀子は早稲田を中退)。

そして、壽賀子は松竹では脚本部に配属された。

 

 

「映画界に、女性のシナリオライターが誕生した」

橋田壽賀子が松竹に入り、脚本を書き始めた頃、そんな事がマスコミで大いに話題になった。

当時の映画界は、女性脚本家など全く居ない時代であり、女性が脚本を書くという事自体、大変珍しがられた。

そして、1950(昭和25)年、映画『長崎の鐘』で、壽賀子は新藤兼人と脚本の執筆を分担し、初めて、

「脚本:橋田壽賀子」

としてクレジットされた。

 

 

1952(昭和27)年、映画『郷愁』で、橋田壽賀子は初めて単独で脚本を執筆した。

その後も、壽賀子は沢山の映画の脚本を書いて行ったが、

1959(昭和34)年、壽賀子は松竹から秘書への転属を命じられたが、彼女はこれを拒否した。

「私は、脚本を書きたい」

それが、壽賀子の願いだった。

そして、秘書への転属を拒否した壽賀子は松竹を退社し、フリーの脚本家として「独立」した。

これによって、壽賀子は何の後ろ盾も無くなってしまった。

今にして思えば、かなり思い切った決断だったが、それだけ当時の壽賀子は、脚本を書きたいという思いが強かったのであろう。

 

 

松竹を退社し、フリーの脚本家として独立した橋田壽賀子は、その後、脚本を書いてはテレビ局に売り込みに行ったが、当初、彼女が書いた脚本は全て「門前払い」されてしまい、全く採用されなかった。

だが、それでも壽賀子は脚本家として活動する夢を諦めず、その間は小説や漫画の原作を書くなどの仕事で、糊口を凌いだ。

そして、1964(昭和39)年、壽賀子が当時39歳だった頃、今も続く、TBSの「東芝日曜劇場」で、壽賀子は、

『愛と死をみつめて』

の脚本を書き、これが大ヒットとなった。

こうして、壽賀子はようやく脚本家として認めらる事となった。

 

 

1966(昭和41)年、壽賀子はTBSの編成局に所属する、岩崎嘉一と結婚した。

この結婚により、壽賀子はより一層、TBSとの結び付きを深めて行ったが、

岩崎嘉一と壽賀子の夫婦は、終生、とても仲睦まじかった。

なお、岩崎と壽賀子の結婚式の仲人を務めたのが、TBSのプロデューサーだった、石井ふく子である。

 

 

 

石井ふく子は、橋田壽賀子よりも1歳年下の1926(大正15)年生まれであり、

当時、TBSのプロデューサーとして、大いに手腕を発揮していた。

なお、上の写真に写っているのは、1967(昭和42)年当時の写真であり、左端が石井ふく子で、左から順に大空真弓・樫山文枝・林美智子・池内淳子…の女優陣である。

石井ふく子は、TBSで絶大な力を持っており、女優のキャスティングも自由自在であった。

そして、石井ふく子・橋田壽賀子は、強力なタッグを組み、以後、TBSで次々に名作や話題作のテレビドラマを生み出して行った。

このように、苦しい時代を経て、自らの力で脚本家としての地位を築き上げて行った橋田壽賀子は、自らの経験を踏まえた、

「女性の自立」

をテーマとした作品の脚本を、沢山書いて行く事となった。

 

<「家族」の物語を沢山書いた脚本家・橋田壽賀子>

 

 

橋田壽賀子は、「女性の自立」と共に、「家族」をテーマとした作品も、沢山書いていた。

1965(昭和40)年、TBS「東芝日曜劇場」で、森光子・中村勘三郎(十七代目)が主演した、

『時間ですよ』

は、銭湯を舞台としたホームドラマだったが、

この時、壽賀子が書いた『時間ですよ』は単発だったものの、この5年後、TBSで『時間ですよ』はシリーズ化され、今度は向田邦子が脚本を書き、テレビドラマ史上に残る大ヒット作となっている。

 

 

 

では何故、橋田壽賀子「女性の自立」と共に、「家族」をテーマにした作品を沢山書いたのかといえば、

壽賀子が岩崎嘉一と結婚した時に、

「家庭を優先させる」

という約束をしていたからだった。

そのため、壽賀子は「家庭」を何よりも大切にしており、それが作品にも表れたのだと思われる。

「子供には恵まれなかったが、家庭優先の約束通り、仕事を始めるのは夫の出勤後。家事をこなし、夫が寝た後に再び書き始めた」

と、後に壽賀子は語っている。

そして、嫁姑問題を扱った『となりの芝生』(1976年、NHK)や、

家族や結婚に関するトラブルなどを書いた『結婚』(1982年、TBS)など、

壽賀子が書いた脚本のドラマは、

「辛口ホームドラマ」

などと言われたが、この事について、後に壽賀子は、

「脚本を書くのに結婚がプラスになったのは間違いありません。『となりの芝生』なんて明るくない話は、普通は書けないテーマです。妥協をせず冒険できたのは、サラリーマンである主人のお陰。気に入らなければ降りればいいという気持ちで、自分の好きなものを書くようになったのがヒットに繋がりました」

と、語っている。

 

<橋田壽賀子、1968(昭和43)~1969(昭和44)年のNHK「朝ドラ」第8作『あしたこそ』の脚本を執筆>

 

 

さて、新進気鋭の脚本家として認められた橋田壽賀子は、遂にNHKの連続テレビ小説、「朝ドラ」の脚本の執筆を任された。

それが、1968(昭和43)年4月~1969(昭和44)年4月の1年間、放送されていた、NHK「朝ドラ」の第8作、

『あしたこそ』

である。

NHKの「朝ドラ」が、初めてカラー放送されたという記念すべき作品であるが、持ち前の行動力で明日に向う母娘の物語を橋田壽賀子が書き、当時23歳だった藤田弓子がヒロインを務めた。

「一生懸命に、困難に立ち向かうヒロイン」

は、橋田壽賀子の脚本の「王道」である。

そして、『あしたこそ』は平均視聴率44.9%、最高視聴率55.5%を記録する、超大ヒットドラマとなった。

 

<橋田壽賀子が書いた「忠臣蔵」の女たちの物語~TBSの大型時代劇『女たちの忠臣蔵~いのち燃ゆる時』(1979)、『忠臣蔵・おんな・愛』(1987)>

 

 

橋田壽賀子は、時代劇のお馴染みの題材だった「忠臣蔵」を、女性からの視点で描くという、新たな試みをしており、

壽賀子は、TBSの大型時代劇として、「忠臣蔵」物を2本、書いている。

一つは、

『女たちの忠臣蔵~いのち燃ゆる時』(1979)

という作品であり、

大石内蔵助(宇津井健)の妻・りく(池内淳子)や、浅野内匠頭(※本作には登場しない)の未亡人・遥泉院(佐久間良子)らの視点から、「忠臣蔵」を描いた。

なお、『女たちの忠臣蔵~いのち燃ゆる時』は視聴率42.6%を記録し、これはTBSの「日曜劇場」枠の最高記録として、未だに破られていない。

また、プロデューサー:石井ふく子、脚本:橋田壽賀子、演出:鴨下信一というゴールデン・チームが、この作品を手掛けている。

 

 

そして、『女たちの忠臣蔵~いのち燃ゆる時』から8年後、

今度は、1987(昭和62)年の大型時代劇として、

プロデューサー:石井ふく子、脚本:橋田壽賀子、演出:鴨下信一のゴールデン・チームが手掛けたのが、

『忠臣蔵 女たち・愛』(1987)

である。

この作品では、大石内蔵助(丹波哲郎)・りく(香川京子)を中心に、

「赤穂浪士」の1人、矢田五郎衛門(伊武雅刀)や、矢田のかつての恋人・きぬ(大原麗子)らの視点を中心に描かれた。

なお、このドラマには、赤木春恵・長山藍子・泉ピン子・小林綾子・中田喜子・角野卓造…といった、

「橋田ファミリー」

の面々が多数出演していた。

 

<橋田壽賀子、1981(昭和56)年のNHK大河ドラマの「第19作」、『おんな太閤記』の脚本を書く>

 

 

こうして、着々と脚本家として「名作」を次々に書いて行った橋田壽賀子に、

遂に、「NHK大河ドラマ」の脚本の執筆依頼が来た。

そして、橋田壽賀子が初めて大河ドラマの脚本を書いた作品が、

1981(昭和56)年に放送された、NHK大河ドラマの「第19作」、

『おんな太閤記』

である。

このドラマは、豊臣秀吉(西田敏行)の妻・ねね(佐久間良子)の視点から、秀吉の生涯を描いた作品であった。

 

 

 

ねね(佐久間良子)は、若い頃、織田信長(藤岡弘)に仕える「下っ端」に過ぎず、まだ何者でもなかった、秀吉(西田敏行)に嫁いだ。

ねね(佐久間良子)が嫁いだ秀吉(西田敏行)は、元々は貧乏な百姓の出であり、秀吉の家は本当に貧しかった。

しかし、後から思えば、ねね(佐久間良子)にとっては、秀吉と共に数々の困難を乗り越えて行った、その頃が一番幸せな日々であった。

やがて、秀吉は天下を取り、「天下人」となり、ねね(佐久間良子)「北政所」と呼ばれるようになった。

だが、「天下人」となった豊臣秀吉(西田敏行)は、権力を握った途端、段々と理性を失い、自分を見失って行くようになる。

そして、北政所(佐久間良子)は、秀吉の居城・大坂城の切り盛りを任されたが、そこでは女たちの諍いが絶えず、北政所(佐久間良子)の気苦労も絶えなかった。

秀吉は、若い愛人の淀(池上季実子)に夢中になり、北政所(佐久間良子)は淋しさと疎外感を感じるようになっていた。

 

 

晩年の秀吉は、若わかりし頃の明るく快活な性格が消え失せてしまい、老醜を晒して行く。

北政所は、そんな秀吉の姿を見守っていたが、

「一体、何故こんな事になってしまったのか…」

と、思い悩んでいた…。

という事で、橋田壽賀子が書いた『おんな太閤記』は、

「成り上がり家族の栄光と悲劇」

という異色の視点から、豊臣秀吉『太閤記』を描き、平均視聴率31.8%、最高視聴率36.8%という大ヒットを記録した。

 

<1983(昭和58)年4月~1984(昭和59)年3月…橋田壽賀子、テレビドラマ史上に残る金字塔となった、NHK「朝ドラ」の「第31作」、『おしん』の脚本を書く~「平均視聴率52.6%、62.9%」の超大ヒット作品>

 

 

 

 

 

そして、遂に橋田壽賀子は、脚本家として、超特大ホームランを放つ。

それが、1983(昭和58)年4月~1984(昭和59)年3月にかけて放送された、NHKの「朝ドラ」の「第31作」、

『おしん』

である。

『おしん』は、明治・大正・昭和という激動の時代を生き抜いたヒロイン「おしん」の一代記であり、

その「おしん」の生涯を、小林綾子-田中裕子-乙羽信子…という、3人の女優が、リレー形式で演じて行った。

そして、『おしん』は、「平均視聴率52.6%、62.9%」という超大ヒットを記録し、テレビドラマ史上に残る金字塔を打ち立てた。

そして、『おしん』はアジア各国に輸出され、各国で大ヒットを記録し、アジア各国でも「オシン」の名前は轟いた。

こうして、不朽の名作『おしん』を書いた橋田壽賀子は、脚本家として、完全に不動の地位を築いた。

なお、「おしん」の母親役で出演していた泉ピン子は、この後、橋田壽賀子の「盟友」として、数々の橋田壽賀子作品に出演して行く事となる。

 

<1986(昭和61)年…橋田壽賀子、NHK大河ドラマ「第24作」、『いのち』の脚本を書く>

 

 

『おしん』の大ヒットから3年後、

橋田壽賀子は、NHK大河ドラマの「第24作」、

『いのち』

の脚本を書いた。

『山河燃ゆ』(1984)、『春の波濤』(1985)に続く、「大河ドラマ近代3部作」の最終作であるが、

『いのち』は、戦後日本を舞台に、主演の三田佳子が女医の役を演じた。

橋田壽賀子が好きな題材である、

「自立した女性」

の物語であり、完全オリジナル脚本であるが、何と、実在の人物が1人も登場しないという、大河ドラマとしては異色の作品であった。

なお、次作の『独眼竜政宗』(1987)から、NHK大河ドラマは「時代劇路線」に戻って行った。

 

<1989(平成元)年…橋田壽賀子、NHK大河ドラマ「第27作」、『春日局』の脚本を書く>

 

 

 

NHK大河ドラマは、『独眼竜政宗』(1987)、『武田信玄』(1988)と、「戦国時代物」で大ヒットが続き、

そして、1989(平成元)年、NHK大河ドラマ「第27作」として、橋田壽賀子が脚本を書いたのが、

『春日局』

である。

『春日局』は、私も大好きな作品だが、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母で、後に江戸城の「大奥」のトップとなった春日局(大原麗子)を主人公とした大河ドラマであった。

 

 

 

 

主役の大原麗子が演じた「おふく」、後の「春日局」は、

父親の斎藤利三(江守徹)明智光秀の家臣だったが、明智光秀は「本能寺の変」織田信長を不意打ちし、一時的に天下を取ったものの、すぐに豊臣秀吉に打ち取られてしまった。

こうして、明智方は「敗者」となってしまい、幼少期の「おふく」は、母・お安(佐久間良子)と共に、「逃亡者」のような生活を余儀なくされてしまう。

やがて、おふく(大原麗子)は紆余曲折を経て、徳川家康(丹波哲郎)に仕え、家康の嫡孫・竹千代(後の家光)の乳母になった。

だが、幼少の頃は「愚鈍」と言われた竹千代は、周りの者から蔑まれ、生母・お江与の方(長山藍子)からも疎まれてしまう。

お江与の方は、長男・竹千代よりも、次男・国松の方を可愛がり、竹千代はすっかり孤立してしまった。

だが、おふく(大原麗子)は、そんな竹千代を決して見放さず、竹千代に懸命に仕えた。

そして、おふく(大原麗子)徳川家康(丹波哲郎)に直談判して、竹千代に江戸幕府3代将軍の地位を継がせる事に成功した…。

そして、成人した徳川家光(江口洋介)と絶対的な信頼関係で結ばれていたおふく(大原麗子)は、家光との二人三脚で、江戸幕府の体制を固めて行く。

やがて、おふく(大原麗子)後水尾天皇から「春日局」という名前を賜るまでになった…。

という事で、春日局の痛快なサクセス・ストーリーを橋田壽賀子は見事に描き、『春日局』は「平均視聴率32.4%、最高視聴率39.2%」の大ヒットとなった。

まさに、『春日局』は、

「若い頃から苦労を重ね、辛酸を嘗め尽くした1人の女性の一代記」

であり、脚本家・橋田壽賀子の得意技であった。

なお、『春日局』放送中の1989(平成元)年9月、壽賀子の最愛の夫・岩崎嘉一が肺腺癌のために、闘病の末に亡くなった。

壽賀子は、愛する夫の闘病生活と、愛する夫の死という苦難と悲しみを乗り越え、『春日局』の脚本を完成させた。

そのような、壽賀子自身の大変な時期に書かれた『春日局』は、まさに、壽賀子の魂が込められた作品であると言って良い。

 

<1990(平成2)年…橋田壽賀子が脚本を書いた、TBS『渡る世間は鬼ばかり』の第1シリーズが放送開始>

 

 

1990(平成2)年、橋田壽賀子は、TBSで放送開始された、

『渡る世間は鬼ばかり』

の第1シリーズの脚本を書いた。

岡倉大吉・節子の夫婦と5人の娘たちと、それぞれの家族を描くホームドラマであり、

以後、2019(令和元)年まで、断続的にシリーズが放送される、大ヒット作品となった。

そして、『渡る世間は鬼ばかり』は、5人の娘の内の1人を演じた泉ピン子の「代表作」となった。

「家族の物語」

という、壽賀子の得意技が、ここでも存分に発揮されており、

「渡鬼」

という略称も、世間ではすっかり定着していた。

 

<1992(平成4)年4月~10月…橋田壽賀子、NHK「朝ドラ」の「第47作」、『おんなは度胸』の脚本を書く>

 

 

 

橋田壽賀子は、1992(平成4)年4月~10月にかけて放送された、NHK「朝ドラ」の「第47作」、

『おんなは度胸』

の脚本を書いた。

壽賀子は、バブル経済の成長と破綻を背景に、ある旅館を舞台とした物語を書いた。

だが、その内容そのものより、『おんなは度胸』が「テレビ史」的に重要なのは、桜井幸子が歴史の表舞台に登場して来たという事であろう。

当時19歳だった桜井幸子は、オーディションで『おんなは度胸』の主役の座を勝ち取り、泉ピン子・桜井幸子というダブル・ヒロインに抜擢された。

そして、翌1993(平成5)年、桜井幸子はTBSドラマ『高校教師』に主演し、大ブレイクを果たす。

なお、桜井幸子と『高校教師』については、このシリーズの「第4回」で既に書いたので、宜しければお読み頂きたい。

 

<1994(平成6)年10月~1995(平成7)年3月…橋田壽賀子、NHK「朝ドラ」の「第52作」、『春よ、来い』の脚本を執筆>

 

 

 

こうして、テレビドラマ史上に残る名作や傑作の脚本を次々に書いて来た橋田壽賀子であるが、

壽賀子は、1994(平成6)年10月~1995(平成7)年3月にかけて放送された、NHKの「朝ドラ」の「第52作」、

『春よ、来い』

の脚本を書いた。

『春よ、来い』は、ある1人の女性が、戦前~戦後にかけての苦難の時期を乗り越え、やがて脚本家として成功して行く…という物語である。

そう、これは壽賀子が満を持して書いた、自伝的作品であった。

そして、『春よ、来い』のヒロインには安田成美が抜擢された。

 

 

だが、どういう事情なのか、よくわからないが、

『春よ、来い』のヒロイン、安田成美は途中で降板してしまい、

結局、『春よ、来い』の第1部は安田成美、第2部は中田喜子が主演を務めるという、「朝ドラ」では異例の「ヒロイン交代劇」となってしまった。

「『おしん』も、ヒロインが交代したではないか」

と言われそうであるが、『おしん』は最初からその予定だったのであり、放送開始後にヒロインが交代してしまった『春よ、来い』とは、ちょっと事情が違う。

それはともかく、『春よ、来い』は「平均視聴率24.7、最高視聴率29.4%」という、まずまずの結果となった。

 

<1994(平成6)年10月24日…松任谷由実、通算26枚目のシングル『春よ、来い』リリース~朝ドラ『春よ、来い』の同名タイトルの主題歌として、大ヒット>

 

 

 

そして、1994(平成6)年10月24日、前作『Hello, my friend』(1994.7.27)に次ぐ、松任谷由実(ユーミン)の通算26枚目のシングル、

『春よ、来い』

がリリースされた。

『春よ、来い』は、前述のNHK「朝ドラ」と同名タイトルの主題歌であり、NHKの依頼を受けてユーミン(松任谷由実)が作った曲であり、朝ドラと同名タイトル主題歌として大ヒットを記録した。

 

 

 

『春よ、来い』

は、前述の通り、NHK「朝ドラ」の主題歌として、ユーミン(松任谷由実)が作った曲だった。

しかし、「朝ドラ」という枠を超え、今や『春よ、来い』は、ユーミン(松任谷由実)の代表作として、多くの人達に愛されている。

勿論、私も大好きな曲である。

「ユーミンが作った、最高のスタンダート・ナンバーこそ、『春よ、来い』である」

といった呼び声も高く、サザンオールスターズ桑田佳祐も、後に「ひとり紅白歌合戦」で、『春よ、来い』をカバーしている。

という事で、『春よ、来い』の歌詞をご紹介させて頂き、今回の記事の締めくくりとさせて頂きたいが、

『春よ、来い』の歌詞は、まるで橋田壽賀子の激動の人生を表しているかのようにも思え、そう思って読むと、なかなか感慨深いものが有る。

 

 

『春よ、来い』

 

作詞・作曲:松任谷由実

編曲:松任谷正隆

唄:松任谷由実

 

淡き光立つ 俄雨

いとし面影の沈丁花

溢るる涙の蕾から

ひとつ ひとつ 香り始める

 

それは それは 空を越えて

やがて やがて 迎えに来る

 

春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに

愛をくれし君の なつかしき声がする

 

君に預けし 我が心は

今でも返事を待っています

どれほど月日が流れても

ずっと ずっと待っています

 

それは それは 明日を越えて

いつか いつか きっと届く

 

春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき

夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く

 

夢よ 浅き夢よ 私はここにいます

君を想いながら ひとり歩いています

流るる雨のごとく 流るる花のごとく

 

春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに

愛をくれし君の なつかしき声がする

 

春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき

夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く