【2022映画鑑賞記】映画『エルヴィス』① ~エルヴィス・プレスリー登場!!~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今年(2022年)の私は、野球も見たが、映画も割と積極的に見ていた。

その中でも、特に面白かった映画について、いくつか、ご紹介させて頂きたい。

まずは、あの不世出のスーパースター、エルヴィス・プレスリーの生涯を描いた、映画『エルヴィス』について、述べさせて頂く。

 

 

エルヴィス(エルビス)・プレスリーについては、私は前々から興味が有り、

このブログでも、エルヴィス・プレスリーに関する記事は、今まで、いくつか書いて来た。

そして、映画『エルヴィス』は、本当に素晴らしい映画であり、エルヴィス・プレスリーという人物の生涯を、彼が残した素晴らしい楽曲と共に、見事に描いていた。

という事で、今回は映画『エルヴィス』と、エルヴィス・プレスリーの生涯について、書かせて頂く事としたい。

 

<かつて、NHK-BSで見た、「エルヴィス・プレスリー特集」で、エルヴィスに本格的に興味を持った私>

 

 

日本とエルヴィス・プレスリーの関係を語るにおいて、欠かす事の出来ない人物といえば、音楽評論家の、湯川れい子である。

湯川れい子といえば、あのビートルズとも会った事が有り、数多くの海外アーティストと交流が有った事でも知られているが、その湯川れい子が、愛してやまなかった人といえば、何と言っても、エルヴィス・プレスリーであった。

そして、今から10年以上前の事だが、NHK-BSで、湯川れい子が監修を務めた、エルヴィス・プレスリーの特集が放送され、私はそれを見たのである。

 

 

 

 

 

そのNHK-BSの「エルヴィス・プレスリー特集」では、

まずは、エルヴィス・プレスリー主演の映画が、1日1本ずつ、4夜にわたり、放送されていた。

その時に放送された映画は、

 

・『監獄ロック』(1957)

・『ラスベガス万才』(1964)

・『ダブル・トラブル』(1967)

・『エルビス・オン・ステージ』(1970)

 

という4本であり、いずれも面白い映画だったが、

「歌う映画スター」でもあったエルヴィス・プレスリーの雄姿を、年代順に楽しむ事が出来た。

デビュー当時の溌剌としたエルヴィスの姿を見る事が出来る『監獄ロック』や、

エルヴィスと共演したアン・マーグレットがとても魅力的な『ラスベガス万才』、

エルヴィス映画としては末期の『ダブル・トラブル』、

そして、エルヴィスの後半生を彩る、ラスベガスでのステージを記録したドキュメンタリー映画『エルビス・オン・ステージ』と、それぞれ全く毛色の違う映画である。

しかし、私がこの中で最も好きなのは、何しろ底抜けに明るくて楽しい映画『ラスベガス万才』だ。

この映画を見ると、とにかく気持ちが明るくなり、思わず踊り出したくなるような気分になる。

 

 

そして、上記の4本の映画が放送された後、

5夜目に放送されたのが、『家族が語るエルヴィス・プレスリー』という、ドキュメンタリー番組だった。

この番組は、エルヴィスの妻だったプリシラや、エルヴィスとプリシラの間に生まれた娘、リサ・マリー・プレスリー、

そして、エルヴィスと縁の深かった親族や友人などが登場し、在りし日のエルヴィスについて語っていたが、

その人達が、口を揃えて言っていたのは、

「エルヴィスは、本当はとても寂しがり屋で、常に孤独を抱えていた」

というような事である。

特に、プリシラと離婚してしまった後のエルヴィスは、どんどん不幸になってしまったようである。

湯川れい子も、「プリシラとの別れは、彼の人生にとって、本当に大きな痛手だった」という趣旨の事を語っていた。

私は、この番組によって、初めて「人間エルヴィス・プレスリー」に触れたような気がしたものだ。

 

 

 

そして、「エルヴィス・プレスリー特集」の最後を飾る番組として放送されたのが、

1973(昭和48)年に、エルヴィス・プレスリーのハワイ公演が、人工衛星を使い、世界36ヶ国に衛星中継されたという、伝説的な番組「アロハ・フロム・ハワイ」であった。

「アロハ・フロム・ハワイ」は、日本でも生中継され、何と視聴率37.8%という、驚異的な高視聴率を記録している。

そして、「アロハ・フロム・ハワイ」でのエルヴィスは、本当にカッコ良く、そのパワフルな歌いっぷりは、時代を超えた魅力が有った。

こうして、私はエルヴィス・プレスリーという人物に、魅了されてしまったのである。

 

<2022(令和4)年~映画『エルヴィス』公開~「エルヴィスを見出した男」トム・パーカー大佐の視点で描かれた、エルヴィス・プレスリーの生涯~「音楽映画の名手」バズ・ラーマンが監督を務める>

 

 

 

さて、今年(2022年)、そのエルヴィス・プレスリーの生涯を題材とした、

映画『エルヴィス』が公開され、大きな話題となったが、その映画『エルヴィス』のキャッチ・コピーとして、こんな言葉が有った。

「世界を変えた若きスーパースター伝説を殺したのは誰か!?」

随分と刺激的な言葉だが、実はエルヴィスには、彼の生涯を通して、切っても切れない縁が有った人物が居た。

それが、トム・パーカー大佐という男である。

 

 

 

トム・パーカー大佐なる人物は、色々と謎の多い男だったが、

彼は、エルヴィス・プレスリーの、歌手としての才能を、いち早く見抜き、

「エルヴィスは、間違いなく、スターになる男だ」

という事を、確信していた。

そして、トム・パーカー大佐は、エルヴィスのマネージャーとなり、エルヴィスをデビューさせると、忽ちの内に、エルヴィスをスーパースターに押し上げてしまったのである。

つまり、トム・パーカー大佐は、

「エルヴィスを見出した男」

であり、エルヴィスにとっては「恩人」であった。

そして、彼は生涯にわたり、エルヴィスのマネージャーとして、彼に付き従っていたが、

映画『エルヴィス』では、このトム・パーカー大佐の視点を通して、エルヴィスの生涯が描かれている。

 

 

 

そして、映画『エルヴィス』で、主役のエルヴィス・プレスリーを演じたのが、

オーディションで、この大役を勝ち取った、オースティン・バトラーである。

そして、トム・パーカー大佐を演じたのは、名優トム・ハンクスであった。

この2人を軸として、映画『エルヴィス』は、エルヴィス・プレスリーの多彩な楽曲に彩られながら、目眩く内に進んで行く。

そして、私は映画の世界に、どんどん惹き込まれてしまったが、非常に素晴らしい映画だと思った。

 

 

 

 

 

そして、映画『エルヴィス』で監督を務めたのが、

『ロミオ&ジュリエット』(1996)、『ムーラン・ルージュ』(2001)、『華麗なるギャツビー』(2013)などを撮って来た、「音楽映画の名手」バズ・ラーマンである。

上の画像は、エルヴィス役のオースティン・バトラーと、プリシラ役のオリヴィア・デヨングに演技指導(?)をしている、バズ・ラーマン監督だが、とにかく『エルヴィス』は非常にテンポが良く、それに加え、非常に濃密な内容であり、全く飽きる事無く、見る事が出来る、優れた映画である。

という事で、以下、映画『エルヴィス』に基づいて、稀代のスーパースター、エルヴィス・プレスリーの生涯について、紐解いて行く事としたい。

 

<「黒人音楽」と出逢い、自らの音楽を作り上げていった、エルヴィス・プレスリー少年>

 

 

 

エルヴィス・プレスリーは、1935(昭和10)年1月8日、アメリカ・ミシシッピ州東トゥペロの貧しい農家で、双子の弟として生まれた。

しかし、エルヴィスの双子の兄は、不幸にも死産となってしまったため、エルヴィスは「ひとりっ子」として育てられた。

前述の通り、エルヴィスが生まれた家は、とても貧しかったが、エルヴィスは音楽が大好きな少年だった。

何故かといえば、エルヴィスが生まれ育った辺りには、音楽が溢れ返っていたからである。

 

 

 

 

 

エルヴィスが生まれ育った辺りは、黒人居住区の近くに有った。

そして、エルヴィスは、ごく当たり前に、その黒人達が演奏する「黒人音楽」に親しんでいた。

当時、黒人達は、「ジャズ」「ブルース」「ゴスペル」といった音楽を生み出していたが、

当時の黒人は、白人から差別されており、一緒の空間に居る事すら許されないという時代だったが、

そんな虐げられた環境の中、黒人達は、様々な音楽を奏で、自分達を慰め、心の拠り所としていた。

そして、黒人特有のリズム感と、アメリカのポピュラー音楽が結び付き、

前述の通り、「ジャズ」「ブルース」「ゴスペル」などの音楽が生まれていった。

エルヴィスが幼少期を過ごしたのは、そういう時代だった。

 

 

 

 

 

そんな、幼少期のエルヴィスについて、映画『エルヴィス』では、こんな風に描かれている。

子供の頃のエルヴィスは、黒人がギターを奏でながら、哀愁たっぷりに歌う、「ブルース」を聴きに行ったり、

近くの教会で、黒人達が一斉に歌う「ゴスペル」を聴きに行ったりしていたが、

教会で歌われるゴスペルを聴いたエルヴィス少年は、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。

そして、エルヴィス少年は、恍惚とした表情になり、「神がかり」のような状態になって、ゴスペルの音楽に身を委ねた。

そう、つまりエルヴィスにとって、これらの「黒人音楽」は、彼の音楽性の「ルーツ」になっていた、という描写である。

この場面は、私も強烈に印象に残った。

 

<11歳でギターと出逢い、13歳でメンフィスに引っ越したエルヴィスの一家~やがて、音楽で身を立てる事を決意した、エルヴィス>

 

 

エルヴィスは、子供の頃から、とても歌が上手であり、10歳の時には、地元の「のど自慢大会」で、5等賞を取った事も有った。

そして、そのご褒美に、1946(昭和21)年、11歳の誕生日に、エルヴィスは両親からギターをプレゼントされたが、ギターとの出逢いにより、エルヴィスは、ますます音楽にのめり込んで行った。

そして、エルヴィスは、相変わらず「黒人音楽」に夢中であり、ラジオから流れる「黒人音楽」を聴きまくり、

そんな「黒人音楽」を元に、エルヴィスは自らの音楽を作り上げて行った。

当時は、「白人は白人の音楽、黒人は黒人の音楽を聴く」という事が当たり前の時代だったが、

エルヴィスは、そんな「常識」には一切、捉われる事なく、

「白人音楽だろうと黒人音楽だろうと、良い物は、良い」

という考え方で、積極的に、「黒人音楽」を、彼のレパートリーにして行った。

だが、エルヴィスが13歳の頃、遂にエルヴィスの一家は「破産」してしまい、彼らは無一文となり、殆んど夜逃げ同然で、メンフィスへと引っ越して行った。

この時、エルヴィスは、

「よし、僕は音楽で身を立てて、家族を助けるんだ!!」

という事を、決意したという。

 

<1954(昭和29)年7月19日…エルヴィス・プレスリー、地元・メンフィスのサン・レコードで『ザッツ・オール・ライト』でデビュー!!

 

 

1953(昭和28)年、高校を卒業したエルヴィスは、いよいよ歌手デビューを目指し、本格的に音楽活動を開始する。

エルヴィスは、自主制作のデモ・テープを作り、地元メンフィスのサン・レコードに、自らを売り込んだ。

そして、サン・レコードのスタジオで、オーディションを兼ねたレコーディングを行なったが、

この時、エルヴィスは、自らのレパートリーだった「黒人音楽」を、堂々と歌った。

「白人の青年が、黒人音楽を歌うなんて…」

それだけでも、サン・レコードの関係者にとっては、驚きだったが、

何よりも驚いたのは、エルヴィスの歌唱力、そして、抜群の表現力だった。

 

 

「これは、ななかな面白い新人が現れたかもしれないぞ!!」

サン・レコードの関係者は、エルヴィスの実力を認め、エルヴィスと契約する事を決めた。

そして、1954(昭和29)年7月19日、エルヴィス・プレスリーは、サン・レコードから、

『ザッツ・オール・ライト(That's All Right)』というレコードを出し、遂に、エルヴィスはプロ歌手としてデビューを果たした。

「何としても、歌手として成功し、家族に楽をさせてあげたい」

その思いが、エルヴィスの原動力となっていたが、

新人歌手エルヴィス・プレスリーは、デビュー早々、地元・メンフィスを中心に、人気を高めて行った。

何と言っても、白人のエルヴィスが、「黒人音楽」を元にした、全く新しい歌を歌うという事が、とても新鮮だったのである。

こうして、プロの歌手として第一歩を歩み始めたエルヴィス・プレスリーは、ある人物と「運命の出逢い」を果たす。

それが、トム・パーカー大佐なる男であった。

 

<1955(昭和30)年…エルヴィス・プレスリーとトム・パーカー大佐の「運命の出逢い」~エルヴィスに「ビッグ・ビジネス」の可能性を見出した、トム・パーカー大佐>

 

 

エルヴィス・プレスリーという人は、元来が内気でシャイな性格であり、

普段は、家族を何よりも大切に思う、優しい性格の持ち主だった。

だが、一度(ひとたび)ステージに上がると、エルヴィスは、まるで魔法にでもかけられたかのように、豹変する。

ステージに上がったエルヴィスは、情熱的でパワフルで、そして、セクシーな歌手へと、変貌するのである。

ステージに上がる前と、上がった後では、エルヴィスはまるで「別人」に変身してしまう。

そして、エルヴィスの歌いっぷりに、観客は熱狂したが、中でも、若い女の子達は、エルヴィスのステージに夢中になっていた。

 

 

映画『エルヴィス』でも、デビュー当時のエルヴィスのステージが描かれているが、

ステージで歌いまくるエルヴィスを見て、観客の若い女の子達は、それこそ、キャーキャーと黄色い歓声を上げ、凄まじい熱狂ぶりであった。

エルヴィス・プレスリーという歌手が画期的だったのは、そのように、若い女の子達を熱狂させてしまった、という事に尽きる。

それまでのアメリカ音楽史上、そんな歌手は一人も居なかったが、エルヴィスは音楽史上初めて、

「若者を熱狂させた歌手」

という存在になった。

とにかく、デビュー当時のエルヴィスは、若い女の子達のハートを鷲掴みにしてしまうような、物凄い魅力が有ったという事であろう。

 

 

さて、そんなエルヴィスの前に、一人の男が現れる。

それが、トム・パーカー大佐なる男であった。

トム・パーカー大佐は、それまで、エディ・アーノルド、ハンク・スノウ、ジミー・ロジャーズ・スノウなどの、カントリー歌手のプロデュースを手掛け、それなりに成功を収めていたが、彼らの主な舞台は、地方でのカーニバルのステージであった。

そして、1955(昭和30)年のある日、トム・パーカー大佐は、メンフィスを訪れていた時に、エルヴィス・プレスリーという新人歌手のステージを、初めて目にした。

そして、前述の通り、そこではエルヴィスが、若い女の子達を熱狂させ、会場は凄まじい熱気に包まれていた。

トム・パーカー大佐は、それまでの人生で、彼が見た事が無かった、あまりの熱狂ぶりに、度肝を抜かれた。

 

 

そして、トム・パーカー大佐は、エルヴィスを見て、こうも思った。

「こいつは、ビッグ・ビジネスの可能性が有るぞ…!!」

先程も書いたが、トム・パーカー大佐は、カントリー歌手達を引き連れ、全米各地のカーニバルを訪れていたが、彼には、独特の「哲学」が有った。

「遊園地と、歌手というのは、根本的には、全く同じである」

それは、一体どういう事なのであろうか?

トム・パーカー大佐は、こう考えていた。

「人が、生活必需品以外にお金を払うのは、その対象が『お金を払う価値が有る』と、思った時である。『この遊園地は、楽しい』と思えば、人はその遊園地に、お金を払う。そして、客に『お金を払っても良い』と思わせられるかどうかが、遊園地が成功するかどうかを、左右する。そういう意味では、歌手も全く同じ理屈である。つまり、遊園地と歌手は、本質的には全く同じ存在である」

いやはや、何とも打算的(?)な考え方であるが、こう言い換える事も出来よう。

「遊園地も歌手も、客に夢を与えられるかどうかで、価値が決まる」

つまり、より沢山の客に、「夢」を与える事が出来るかどうかで、遊園地も歌手も、より多くのお金を稼げるかどうかが決まる、という事である。

 

 

そんなわけで、トム・パーカー大佐は、エルヴィス・プレスリーという新人歌手に、

「この男は、とんでもない可能性を秘めている。つまり、沢山の客に、お金を払っても良いと思わせるだけの力が有る」

という、「ビッグ・ビジネス」の可能性を感じていた。

そして、トム・パーカー大佐は、エルヴィスに近付くと、

「どうかね、私に、君のプロデュースを、任せてもらえないか?」

という事を持ち掛けた。

「私なら、君をスーパースターにする事が出来るよ」

トム・パーカー大佐は、自信満々の様子である。

すると、エルヴィスは、少し考えた末に、

「わかりました、宜しくお願いします」

と、返事をした。

エルヴィスも、「どうしても、売れっ子歌手になりたい」という、切実な思いが有ったのである。

こうして、1955(昭和30)年、エルヴィス・プレスリートム・パーカー大佐は、遂にタッグを組む事となった。

 

<1955(昭和30)年11月21日…エルヴィス・プレスリー、大手レコード会社・RCAに移籍~翌1956(昭和31)年、『ハート・ブレイク・ホテル』で大ブレイク!!~ファースト・アルバム『エルヴィス・プレスリー登場』もリリース>

 

 

 

こうして、エルヴィス・プレスリートム・パーカー大佐「盟友関係」となったが、

1955(昭和30)年11月21日、トム・パーカー大佐の手腕により、エルヴィスは、サン・レコードから、大手レコード会社・RCAに、破格の4万ドルという契約金で、移籍した。

「エルヴィス・プレスリーという、凄い新人歌手が居ますよ」

トム・パーカー大佐の、巧みな売り込みが功を奏したという事は、言うまでもない。

そして、1956(昭和31)年1月、エルヴィス・プレスリーは、『ハート・ブレイク・ホテル(Herat break hotel)』という、全米ナンバーワンとなる大ヒット曲を飛ばし、一躍、大ブレイクを果たす。

トム・パーカー大佐の睨んだ通り、エルヴィスは、全米にその名を轟かす、大スターへの道を歩み始めたのである。

 

 

1956(昭和31)年3月23日、エルヴィス・プレスリーは、

その名も『エルヴィス・プレスリー登場』という、ファースト・アルバムをリリースし、これまた大ヒットとなった。

それは、まさに「エルヴィス・プレスリーの時代」の到来を、高らかに告げる、記念碑的な作品となったが、

こうして、エルヴィス・プレスリーは、スーパースターへの階段を上り始めて行く。

だが、それはエルヴィスの「栄光」の始まりであると同時に、「悲劇」の始まりでもあった。

 

(つづく)