【1872-2022】2022年は「鉄道」&「東博」&「野球」&「天吉」の「150周年」イヤー | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

気が付けば、今年(2022年)も、残すところ、あと1ヶ月余りとなった。

そして、実は、今年(2022年)は、私が関心が有る、いくつかの事柄の「150周年」記念イヤーとして、世間の話題を呼んだ年でもあった。

それは何かと言えば、

「鉄道開業150周年」「東京国立博物館創立150周年」「野球伝来150周年」「天吉(※サザンオールスターズの原由子の実家の天ぷら屋)開総業150周年」

といった事柄である。

 

 

その中で、まず、世間で最も話題になった事といえば、

「鉄道開業150周年」

だと思われるが、それ以外にも、色々と、

「150周年」

にまつわる話が有り、私としては、

「へー、これも150周年だったのか…」

と思う事が多かった。

という事で、今回は2022年を彩った、様々な「150周年」記念イヤーについて、ご紹介させて頂く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<2022(令和4)年~「鉄道開業150周年」記念イヤー>

 

 

 

 

 

今年(2022年)は、「鉄道開業150周年」として、

日本全国各地で、「鉄道150周年」を祝うイベントが開催されたり、

テレビで、「鉄道150周年」を特集する番組が多数放送されたりと、

さながら「鉄道祭り」のような年となり、それこそ「鉄オタ」(※熱狂的な鉄道ファン)にとっては、大喜びの年となった。

1872(明治5)年10月14日、新橋-横浜間に、日本初の鉄道が開業され、その鉄道は新橋-横浜間を「53分間」で走ったが、当時、新橋-横浜まで行くとなると、交通手段は徒歩(せいぜい、馬か駕籠)しか無く、それこそ1日がかりだったのだが、それが、鉄道開業により、僅か1時間弱で行けてしまうのだから、これは画期的な出来事であった。

その1872(明治5)年の「鉄道開業」から、今年(2022年)は、ちょうど「150周年」を迎えたというわけである。

 

 

 

そして、その「鉄道開業」の立役者となったのが、

当時、明治政府の若き官僚であり、後に早稲田大学を創立した事でも知られる、大隈重信である。

大隈重信は、「これからの日本が発展して行くためには、何としても鉄道を作るしか無い」という、強い信念が有った。

鉄道を通す事により、人や物を短時間で遠距離まで運ぶ事が可能になり、それによって、産業を発展させ、日本という国自体を飛躍させる事が出来ると、大隈は固く信じていた。

そして、大隈は断固たる決意を持って、「鉄道開業」を実現させたのである。

 

 

そして、大隈重信と協力し、「鉄道開業」を推し進めたのが、

当時、大隈の盟友だった、伊藤博文である。

大隈重信伊藤博文は、後に「明治十四年の政変」によって、袂を分かつ事になってしまうが、

この時は蜜月関係にあり、2人は一致結束して、「鉄道開業」の目標に向かって邁進した。

当時は、大隈も伊藤も、

「日本を近代国家として発展させたい」

という点では、一致した考え方を持っており、そのためには「鉄道開業」は不可欠であると、彼らは思っていたという。

なお、この時、明治政府内では、西郷隆盛などは「鉄道開業」に猛反対していたというが、

大隈と伊藤は、それらの反対意見を物ともせず、「鉄道開業」を推し進めたのであった。

 

 

 

 

こうして、1872(明治5)年10月14日、遂に「鉄道開業」の日を迎え、

新橋-横浜間を走る、日本初の鉄道には、明治天皇・西郷隆盛・勝海舟ら、明治政府の重鎮達も乗車した。

あの「鉄道反対派」西郷隆盛も乗車していたというのは面白いが、この時、西郷はどのような感想を持っていたのかという事については、本人は何も語っていない。

ただ、西郷も「鉄道というのは、大変凄い乗り物だ」という事は、間違いなく思っていた筈である。

そして、明治天皇も乗り込む「お召し列車」となった、日本初の鉄道を一目見ようと、新橋駅や沿線には、沢山の人が集まっていたという。

その後、日本の鉄道は、大発展を遂げて行く事となるが、

その「鉄道150年」の物語については、稿を改めて、述べさせて頂く事としたい。

 

<2022(令和4)年~「東京国立博物館創立150周年」記念イヤー>

 

 

 

 

 

今年(2022年)は、東京・上野に有る、

「東京国立博物館」も、1872(明治5)年の創立以来、「150周年」を迎えている。

そして、「東京国立博物館創立150周年」も、現在、大きな話題となっており、

テレビでも、色々と関連番組が放送されたりしているが、

前述の「鉄道開業」と、「東京国立博物館創立」が、全く同じ年(1872年)だったというのも、偶然とはいえ、大変面白い。

「鉄道開業150周年」「東京国立博物館創立150周年」

が、重なった事により、それぞれ「お祭り」のような雰囲気になっているが、私としても、何となくワクワクしてしまう。

 

 

 

 

さて、「東京国立博物館」創立の立役者となり、初代館長となった人物は、

薩摩藩士だった、町田久成という人である。

当時、町田久成は、

「日本各地の貴重な文化財が、きちんとした保護もされず、放置されている。このままでは、日本の宝が散逸してしまう」

という事に、強い危機感を持っていたという。

更に、町田久成は、英国留学の際に見た大英博物館では、貴重な文化財が、綺麗な状態で、体系的に管理されている事を見たり、ウィーン万国博覧会を訪れた際に、世界各国の貴重な文物が展示されているのを見て、

「我が国(日本)も、貴重な文化財を集め、大切に保護し、後世に残して行かなければならない」

という確信を持つに至った。

なお、この辺りの経緯は、NHK-BSの「英雄たちの選択」という番組で、詳しく描かれていた。

 

 

1872(明治5)年、東京・湯島聖堂にて、

当時また設立されたばかりの、文部省博物局の主催により、日本初の博覧会が開催された。

この時、名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)など、日本各地の貴重な文化祭が展示されたが、

これを以て、「東京国立博物館(東博)」の起源とされている。

この時の博覧会は大盛況だったが、翌1873(明治6)年から、博物館と近代図書館が、東京・内幸町に常設される事となった。

 

 

1882(明治15)年、博物館が上野に移転し、コンドルの設計により「上野博物館」の一号館が開館された。

この時、実は、町田久成「博物館を増設したい」との考えが有ったが、政府からは、なかなか予算が付かなかった。

そこで、町田は一計を案じ、この年(1882年)に明治政府が「富国強兵・殖産興業」の目的の下、開催した、

「内国勧業博覧会」の会場を作ると言う名目で、政府から予算をゲットして、「上野博物館」の建設に漕ぎ着けたという。

しかし、これは本来は、「内国勧業博覧会」の為だけに作られた物だった。

だが、その後、「内国勧業博覧会」の会期が終わったと同時に、町田久成は、既に日本各地から集めていた大量の文化財などを、この「上野博物館」に運び込んで、2階のフロアを全て占拠してしまった。

こうして、強引に「既成事実」を作ってしまった町田は、半ば強引に、「上野博物館」を、恒久的な「国立博物館」に転用してしまった。

政府も、これは渋々ながら認めざるを得なかったというが、いやはや、町田久成という人は、なかなかの「剛腕」であった。

しかし、その「剛腕」が有ったからこそ、その後も「東博」は、東京・上野の地に根を下ろす事が出来たとも言える。

 

 

 

そして、今年(2022年)「東京国立博物館(東博)」は、めでたく、「創立150周年」を迎えたが、

今年(2022年)は、それを記念して、何と、現在「東京国立博物館」に有る、全89点の「国宝」が、全て一般公開されているのである。

勿論、こんな事は今まで例は無く、これは「東京国立博物館150周年」「お祭り」だからこそ、実現しているという、誠に貴重な機会である。

それこそ、日本史の教科書に載っているような、貴重な「お宝」を、目の前で見る事が出来る、またと無い機会なので、ご興味が有る方は、是非ともご覧頂きたい。

また、「東京国立博物館150年」の物語については、別途、改めて記事を書かせて頂く事としたい。

 

<2022(令和4)年~「野球伝来150年」記念イヤー>

 

 

 

 

今年(2022年)は、「野球伝来150年」の、記念イヤーでもある。

1872(明治5)年、「鉄道開業」が実現し、「東京国立博物館」が産声を上げたが、

それらの出来事が起こったのと同じ年(1872年)に、アメリカから日本に「野球」というスポーツが伝来したのである。

その「野球伝来」から、今年(2022年)で、ちょうど150年が経過したというわけである。

という事で、NPB(日本プロ野球機構)では、「野球伝来150年」を祝し、様々な記念事業が行なわれている。

 

 

 

 

 

さて、日本に「野球」というスポーツを伝えた人は誰かといえば、

それは、明治政府の「御雇い外国人」として、第一番中学(後の旧制・第一高等学校⇒東京大学)で、英語教師を務めていた、ホーレス・ウィルソン教授という人である。

1872(明治5)年、ホーレス・ウィルソンは、第一番中学の教え子達に、英語だけではなく、「野球」という、とても魅力的なスポーツを伝えた。

すると、生徒達は、舶来の「野球」というハイカラなスポーツに、忽ち、夢中になった。

そして、「野球」というスポーツは、第一番中学の生徒達が帰郷した後、それぞれの故郷に伝えられ、「野球」は、あっという間に日本全国に広まって行った。

その後、「野球」を初めて伝えられたという「先駆者」である旧制・第一高等学校(一高)は、長らく、「野球日本一」の強豪として君臨し、

「一高黄金時代」

を築き上げたが、このように、「野球」は、まずは日本では「学生スポーツ」として発展して行ったのである。

なお、日本に初めて「野球」というスポーツを伝えた、ホーレス・ウィルソンは、

「日本野球の父」

として、日本の野球殿堂に入り、その功績を称えられている。

 

 

その後、1871(明治4)年~、アメリカに留学経験が有った、平岡凞(ひらおか・ひろし)という人物が、

アメリカで「野球」に出逢い、平岡も忽ち、「野球」に夢中になった。

そして、平岡凞は日本に帰国した後、工部省鉄道局の技師となったが、

1878(明治11)年、平岡は職場の同僚達を中心に、日本初の野球チーム、

「新橋アスレチック倶楽部(新橋アスレチックス)」

を、結成した。

つまり、日本初の野球チームとは、「鉄道屋」達が作ったチームであり、

日本では、「鉄道」と「野球」は、当初から深い関係が有ったという事である。

その後、「野球」は日本人に最も愛されたスポーツとして、根付いて行き、今年(2022年)遂に「野球伝来150年」を迎えたが、「野球150年」の記事についても、また改めて書かせて頂くつもりである。

 

<2022(令和4)年~「天吉(※サザンオールスターズの原由子の実家の天ぷら屋)創業150年」記念イヤー>

 

 

 

 

 

「鉄道に、東京国立博物館に、野球に…。今年(2022年)は、『150周年』記念イヤーが色々と重なっていて、凄いな」

と、私は思っていたが、何と、もう一つの「150周年記念」が有る事が、判明した。

それは、サザンオールスターズ原由子の実家である、横浜・関内の「天吉」という天ぷら屋も、「創業150周年」であるという。

原由子は、今年(2022年)31年振りとなる、ニュー・アルバムを発売し、色々なテレビ番組に出演していたが、その時に、原由子は、

「実は、私の実家の天ぷら屋は、今年、創業150年なんです…。明治5年創業なので」

という事を言っていた。

「そうか、原坊の実家の天ぷら屋も、創業150年だったのか!?」

私は、その事に改めて気付いて、ビックリしてしまったが、現在は、原由子の兄・原茂男が、「天吉」の5代目の店主を務めている。

なお、「天吉」は代々、原家の当主により受け継がれている、老舗であるが、「ごま油」を使って揚げられた天ぷらは、本当に美味しいので、ご興味が有る方は、是非とも行って頂きたい。

という事で、「天吉と、原由子の物語」についても、また改めて書かせて頂きたく思う。

 

<1872(明治5)年とは、どんな年だったのか?~「お召し列車」に乗った明治天皇は、当時20歳>

 

 

という事で、色々と「150周年」記念イヤーにまつわる事柄について、見て来たが、

今から150年前、その「1872(明治5)年」とは、一体、どのような年だったのかについて、簡単にご紹介させて頂く。

「鉄道開業」の際に、新橋-横浜間を走った「お召し列車」に乗っていた明治天皇は、1852(嘉永5)年生まれなので、当時20歳であった。

そして、上の写真は、この年(1872年)4月頃、内田九一という人によって撮影された、明治天皇の貴重な写真である。

明治天皇は、写真を撮られるがあまり好きではなかったらしく、今日まで伝わっている明治天皇の写真は、ほんの数枚ぐらいである。

それはともかく、当時20歳だった、若き明治天皇は、この後、「近代国家」として歩みを続ける日本の象徴として、君臨して行く事となる。

 

 

前年(1871年)12月に日本を出発した、

岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳らの、

所謂「岩倉遣外使節団」が、この年(1872年)1月、アメリカ・サンフランシスコに到着、

その後、岩倉らは、アメリカやヨーロッパ各地を回り、欧米各国の発展ぶりを目にした。

そして、この事により、彼らは「日本の近代化」の必要性を痛感し、帰国後、彼らによって、それは推し進めらて行く事なる。

 

 

 

1872(明治5)年2月21日に東京日日新聞(現・毎日新聞)、

同年(1872年)6月10日に郵便報知新聞(現・報知新聞)が、それぞれ創刊された。

以後、「ジャーナリズムの時代」が到来し、人々は、良くも悪くも、マスコミが流す情報に、大きく左右されて行く時代となった。

という事で、「毎日新聞」「報知新聞」も、今年は「創刊150周年」の記念イヤーである。

 

 

 

 

1872(明治5)年2月26日、「銀座大火」が起こり、東京・銀座に有った、多くの木造家屋が焼失してしまったが、

以後、政府は東京復興のために、東京の建物を木造から煉瓦造りへと転換させて行った。

そして、この年(1872年)横浜に初めて「ガス灯」が設置され、

2年後(1874年)には、煉瓦造りの街に生まれ変わっていた東京・銀座にも「ガス灯」が設置された。

 

 

 

1872(明治5)年、「学制」が発布され、学校教育制度が始まった。

以後、「学制」(1872年)⇒「教育令」(1879年)⇒改正教育令(1880年)⇒諸学校令(1886年)という順に、学校教育制度が整えられて行った。

「近代国家」の根幹を成す物として、学校教育制度は不可欠であるが、

「子供は学校に行く」

という制度が始まったのが、この年(1872年)であった。

 

 

1872(明治5)年10月4日、「富岡製糸場」が操業を開始したが、

これも、「日本の近代化」のための、国家プロジェクトの一つである。

「富国強兵・殖産興業」の象徴となった「富岡製糸場」であるが、

前述の「鉄道開業」といい、この時代の日本は、とにかく国をあげて、

「欧米列強に、追い付け追い越せ」

という姿勢で、ガムシャラに「近代化」に向けて、突っ走っていたという事であろう。

 

 

1872(明治5)年、内藤新宿動植物試験場が設立されたが、

当初は、農業振興の目的で設立されたものの、1879(明治12)年に宮内庁の管轄として、

「新宿御苑」と名を改め、第二次世界大戦後は、「新宿御苑」は環境省管轄の国民公演として、一般公開されるに至った。

…という事で、1872(明治5)年は、「近代日本」が、まさに飛躍を遂げようとしていた、「日本の青春時代」だったが、それから150年経った今も、その頃に作られた様々な物が存続しているというのも、なかなか感慨深い。

という事で、今回書いた、「鉄道」「東京国立博物館」「野球」「天吉」の、それぞれの「150周年」の物語については、また機会を改めて、書かせて頂く事としたい。