1957/11/3…長嶋茂雄(立教)、「通算8号」ホームラン(中編) ~「嗚呼、青春の日々」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1954(昭和29)年春、長嶋茂雄は地元・佐倉一高を卒業し、立教大学へ進学した。

長嶋の高校3年生の夏、南関東大会で、長嶋が放った大ホームランは、プロ野球のスカウト達の注目を集めたが、

長嶋は、父親のの意見によって、プロ入りを断念し、立教大学へ進む事を決断したのである。

 

 

そして、長嶋が入部する事になる、立教野球部は、

「鬼の砂押」と恐れられていた、砂押邦信監督が率いていた。

という事で、立教時代の長嶋茂雄「通算8号ホームラン」に至るまでの物語の「中編」を、ご覧頂こう。

 

<1954(昭和29)年春…長嶋茂雄、立教野球部へ入部し、「鬼の砂押」の猛特訓を受ける~伝説の「月夜のノック」とは!?>

 

 

 

 

1954(昭和29)年4月、長嶋茂雄立教大学経済学部経営学科へ入学した。

長嶋が立教へ入学した1954(昭和29)年といえば、元々、大相撲の力士だった力道山が、プロレスラーとしてデビューした年である。

力道山は、「空手チョップ」を武器に、自分より身体の大きい外国人レスラーを、次々に倒して行ったが、

そんな力道山のプロレスの試合を「街頭テレビ」が映し出し、人々は力道山に熱狂していた。

長嶋も、仲間と連れ立っては、よく「街頭テレビ」で、力道山のプロレスの試合を見に行っていたという。

 

 

1954(昭和29)年春に、立教に入った1年生の中で、特に有望だと思われていたのは、

兵庫・芦屋高出身の本屋敷錦吾、愛知・拳母高出身の杉浦忠、そして千葉・佐倉一高出身の長嶋茂雄である。

砂押邦信監督は、この3人を、これからの立教を担う人材だと目を付けていた。

そして、砂押監督に目を付けられるという事は、それは徹底的に鍛え上げられるという事を意味していた。

長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾は、後に「立教三羽烏」と呼ばれる、名選手へと成長するが、この時点では、まだ「原石」に過ぎない。

砂押監督は、そんな彼らを、ビシビシ鍛え上げようとしていた。

 

 

 

長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾の3人は、1年生ながら、早くも立教野球部の合宿所に入った。

合宿所に入るという事は、将来を嘱望されているという事を意味したが、ここから、長嶋たちを地獄のような練習の日々が待っていた。

これまで、何度も書いて来た通り、砂押監督といえば、「鬼の砂押」である。

当時32歳と、まだまだ若かった砂押監督は、西武池袋線の、東長崎の立教野球部のグラウンドで、野手陣に、いつ終わるとも知れない、ノックの雨を降らせたが、

シートノックは「連帯責任」であり、誰が1人でもエラーしたら、また最初からやり直しという厳しさであった。

元々、守備が抜群に上手かったショートの本屋敷に比べると、当時、三塁を守る長嶋は、まだ守備はあまり上手くなかったので、よくエラーをしてしいた。

「長嶋、何やってんだ!!」

その都度、グラウンドには砂押監督の怒声が響き渡り、シートノックは最初からやり直しになったが、

長嶋も、砂押監督の猛ノックに、必死に食らい付いた。

 

 

やがて、昼間の練習は、夕暮れになると、漸く終わり、

長嶋達、野球部の面々がクタクタになって、合宿所へ戻ると、飯を詰め込む暇も無く、砂押監督から、こんな声が飛んで来た。

「おい、長嶋、居るか!?これから夜間練習をやるぞ」

そう、昼間の練習のみならず、砂押監督は、長嶋をグラウンドに呼び出し、夜間練習を課した。

当時、立教野球部のグラウンドには、ナイター設備などは無い。

明かりといえば、月明かりだけであり、その月明かりの僅かな光を頼りに、長嶋は、砂押監督の猛ノックを受けた。

所謂、伝説の「月夜のノック」であるが、時には月も出ていないような、真っ暗な夜も有った。

そんな時は、砂押監督はボールに石灰を塗って、長嶋にノックを浴びせたが、その僅かな光を頼りに、長嶋は必死にボールを追った。

 

 

「いいか長嶋、ボールをグラブで捕ろうと思うな!心で捕れ、心で!!」

砂押監督は、そんな事を言っていたが、一歩間違えば、手を骨折しかねない。

長嶋は、極限まで集中力を高め、神経を研ぎ澄ませて、必死にボールを追った。

今から見れば、メチャクチャな練習にも思えるが、この猛練習のお陰で、長嶋の守備は、見る見る内に上達して行った。

 

 

また、ある時はこんな事も有った。

砂押監督の自宅は、東長崎の立教野球部のグラウンドから、徒歩では1時間ぐらいの距離に有ったが、

砂押監督は、長嶋に「30分で、俺の家まで来い」と言うのである。

そう言われた長嶋は、その距離を猛ダッシュで駆け、30分以内に砂押監督の自宅に着いた。

「よーし、3分早かったな。では、素振りだ」

そこから、長嶋は夜中まで、1000回を超える素振りを行なう。

こうして、長嶋は砂押監督に、昼も夜も、徹底的に鍛えられた。

長嶋は、「今の若い人達が、あんな練習をやったら、潰れてしまうでしょう。でも、僕は野球が上手くなりたい一心だったし、砂押先生の気持ちも伝わって来たから、『辞めたい』とは、一度も思わなかった」と、後に語っている。

確かに、メチャクチャ厳しい練習ではあったが、長嶋には根性が有ったし、

それに、砂押監督が、ただ厳しいだけの人ではなく、「長嶋を、立派な選手に育てたい」という気持ちが根底に有った事が、長嶋にも伝わっていたのである。

だからこそ、長嶋は、砂押監督の容赦無い猛練習にも、耐え抜く事が出来たという事であろう。

 

<1954(昭和29)年春…長嶋茂雄、公式戦デビューを飾るも、「打率.176」と、ほろ苦い結果に終わる>

 

 

1954(昭和29)年4月、東京六大学野球の春季リーグが開幕した。

砂押監督による、猛練習の甲斐も有ってか、めきめきと実力を付けて行った長嶋茂雄は、本屋敷錦吾・杉浦忠と共に、

「期待のホープ」として、1年春からベンチ入りを果たした。

当時、砂押監督は、行く行くは、この3人を中心に、立教野球部を強化して行こうと考えていたようである。

 

 

1954(昭和29)年春、長嶋茂雄は早くも「公式戦デビュー」を飾り、

2学年先輩の大沢啓二らと共に、スタメンにも名を連ねたが、

1954(昭和29)年春、つまり長嶋茂雄の1年春の公式戦の成績は、

「11試合 17打数3安打 0本塁打 2打点 打率.176」

という物であり、長嶋は、ほろ苦いデビューとなった。

だが、長嶋は計3安打の内、二塁打を2本も放っており、素質の片鱗を見せていた。

 

<1954(昭和29)年春季リーグ終了後~杉浦忠の「脱走事件」が勃発>

 

 

 

ところで、長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾の、「同期の桜」の3人組は、とても馬が合い、

3人は仲が良かったのだが、1954(昭和29)年春のリーグで、立教が「4位」に終わった後、こんな出来事が有った。

チームの不振に怒り心頭だった砂押監督は、春季リーグの閉会式の終了直後、

「お前ら、これからすぐに練習だ!!」

と言って、立教野球部の東長崎グラウンドに直行し、立教野球部に、いつも以上の猛練習を課した。

 

 

だが、杉浦忠は、この時、非常に疑問を感じていた。

砂押監督による、あまりにも厳しすぎる練習と、時には鉄拳も飛んで来るという、超スパルタな方針に、杉浦は付いて行けなくなっていた。

「俺は、一体、何のために野球をやっているのか…」

眼鏡をかけ、クールな風貌の杉浦であったが、杉浦は、優男(やさおとこ)風の見た目とは違い、非常に骨の有る男であり、芯が強い人だった。

だからこそ、杉浦は、「こんな無茶な練習は、やってられない」と、思い悩んでいた。

「いくら何でも、こんな練習はやり過ぎだ。間違っている」

杉浦は、段々と、砂押監督の方針に我慢が出来なくなり、不満を募らせていた。

このまま、「こんなやり方は、間違ってる」と思いながら、それを飲み込んでまで、野球を続けて良いのかどうか…。

そして、この頃(1954(昭和29)年春のリーグ終了後)、杉浦は悩みに悩んだ末、長嶋にこんな事を言った。

「長嶋、俺はもう野球部を辞めるよ…。僅か3ヶ月で、野球部を辞めてしまうなんて、自分でも、何てだらしのない男かと思う。だが、俺も我慢の限界なんだ。ただ一つ、君という友を得た事だけは、感謝している。苦しい毎日の中、君が励ましてくれる事ほど、心強い事は無かった」

そう、杉浦は、あまりにも常軌を逸した練習に対し、とうとう我慢の限界に達していた。

そして、杉浦は非常な決意を持って、野球部を「退部」する事を決意し、長嶋にだけは、その事を告げたのである。

こうして、杉浦は他の人には何も告げず、荷物をまとめて、黙って立教野球部の合宿所を去って行った。

所謂、「杉浦脱走事件」である。

 

 

長嶋と杉浦は、既に「無二の親友」になっていたが、親友なだけに、長嶋には杉浦の気持ちが、痛い程、よくわかった。

だからこそ、去って行く杉浦を、長嶋も引き止めなかったのだが、長嶋は非常に寂しい思いをしていた。

だが、立教野球部としても、杉浦に辞められては困るという事で、砂押監督の命を受けたマネージャーが、故郷の拳母に帰っていた杉浦の元に飛んで行き、

「杉浦、帰って来てくれ」

と、説得を試みた。

その時、最も杉浦の心を動かしたのは、

「長嶋も、待っているぞ」

という言葉だったという。

こうして、杉浦は、また野球部へと帰って来たが、

長嶋は、杉浦の帰還を、誰よりも喜んでいた。

「スギ、帰って来てくれて本当に良かった!俺も、逃げ出す事ばかり考えていたよ」

長嶋がそう言うと、杉浦も、

「長嶋、心配かけて、本当にすまなかった。これからも一緒に頑張って行こう!!」

と答えたという。

こうして、「杉浦脱走事件」という危機を乗り越え、長嶋と杉浦の友情は、より深まったという。

何とも、素晴らしいエピソードであるが、仲間というのは本当に有り難い物であると、つくづく思う。

なお、余談だが、私も、学校の部活ではなく、実は社会人になってから、似たような経験が有り、その時ほど、仲間の有り難さを実感した事は無かった。

だから、このエピソードには、私は非常に共感してしまうのである。

 

<1954(昭和29)年6月2日…長嶋茂雄の父・利が死去~息子・茂雄に「富士山のような日本一の男になれ」という言葉を遺した父親>

 

 

「杉浦脱走事件」が起こり、杉浦が立教野球部へと帰って来る、少し前の事だが、

1954(昭和29)年6月2日、立教野球部の合宿所に、長嶋宛に電報が届いた。

「シゲオ カエレ チチキトク」

長嶋の父・が、危篤だというのである。

実は、前々から身体の具合が悪かったのだが、

「茂雄には、心配をかけたくない」

という事で、詳しい病状は、長嶋には黙っていたというのである。

あの「鬼監督」の砂押監督も、長嶋に「すぐに、支度しろ」と言って、長嶋に、すぐさま帰郷を命じた。

その日は小雨が降っていたが、長嶋は、小雨が降る中、故郷・佐倉へと一目散へと飛んで帰った。

「父さんに、一目、会いたい」

長嶋は、一心にそう祈ったが、その祈りが天に通じたのか、長嶋は間一髪、父の臨終に間に合った。

「父さん!!」

長嶋は、泣きじゃくりながら、父の手を握り、声を掛けた。

 

 

すると、父は、苦しい息の中で、長嶋に対し、こんな事を言った。

「いいか、茂雄。野球をやるからには、六大学一番の選手にならんといかんぞ。プロに行っても、富士山のような日本一の男になれ。わかったな」

そう言い終わると、父は安心したように、息を引き取ったという。

父は、臨終の床で、息子・茂雄の行く末を案じ、「富士山のような、日本一の野球選手になれ」という、最後の言葉を遺したのであった。

長嶋は、この時の父親の言葉を、片時も忘れず、以後、ますます野球に精進して行く事となるのである。

 

<1954(昭和29)年秋…長嶋茂雄、「打率.158」と苦戦し、杉浦忠は「春1勝、秋2勝」を挙げる~立教は春秋連続で「4位」と不振>

 

 

 

 

1954(昭和29)年秋、1年秋のシーズン、長嶋茂雄は、1年生ながら、春に続いて、数多くの出場機会を与えられたが、

長嶋は、「11試合 19打数3安打 0本塁打 0打点 打率.156」と、苦戦が続いた。

この頃、長嶋はまだ「成長過程」にあり、まだまだ本物の実力は付いていなかった。

一方、杉浦忠は、この年(1954年)、1年生ながら「春1勝、秋2勝」の成績を挙げ、徐々に力を発揮しつつあった。

だが、結局、立教は1954(昭和29)年は春秋連続で「4位」に終わり、砂押監督のチーム強化策も、まだまだ実を結んではいなかった。

 

<1955(昭和30)年春…立教野球部に激震!!~立教は「5位」に低迷し、「砂押監督排斥事件」が起こり、砂押監督は辞任に追い込まれる>

 

 

 

1955(昭和30)年、長嶋茂雄は立教の2年生に進級した。

長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾らは、2年生になっても、相変わらず、砂押監督からの厳しい指導が続いていた。

だが、彼ら3人は、なかなか結果を出す事が出来ず、

長嶋は1955(昭和30)年春も「11試合 47打数8安打 0本塁打 1打点 打率.170」と、またしても不振に終わる。

長嶋は自信を失いかけていたが、立教も不振であり、1955(昭和30)年春、立教は「5位」に終わってしまった。

すると、以前から、厳しすぎる猛練習が問題視されていた、砂押監督に対する風当たりが強くなって来た。

 

 

 

1955(昭和30)年春のシーズン終了後、遂に立教野球部に、激震が起こった。

なかなか結果が出せず、野球部員も次々に脱走する事態が続いていた、砂押監督に対し、

部員達が遂に「反乱」を起こし、立教野球部のOB会からも、

「砂押を、辞めさせろ」

という声が、公然と上がって来たのである。

当時、立教の4年生だった大沢啓二、後の「大沢親分」の回想によると、下記のような経緯が有った。

長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾ら、下級生達から、

「先輩、我々は、もう砂押監督には、付いて行けません。このままの状態が続くようであれば、僕らは全員、退部します」

と、迫られたという。

そこで、悩みに悩んだ末、大沢啓二は、砂押監督に直談判し、

「監督、こんな声が起こっているので、収拾が付きません。どうか、野球部の事を思って、お辞め下さい」

と、伝えた。

求心力を失ってしまった事を悟った砂押監督は、その言を受け入れ、監督を辞任した。

 

 

だが、長嶋茂雄の回想は、上記の大沢啓二の回想とは、だいぶ食い違っている。

長嶋は、自分を育ててくれた砂押監督に感謝していたのであり、感謝する事はあっても、批判する言われは、全く無かったというのである。

しかし、結果として、立教野球部の上級生達が結託し、砂押監督を追い出してしまった。

これが、所謂「砂押監督排斥事件」であるが、

大沢と長嶋の回想は、全く真逆である。

果たして、どちらが本当だったのであろうか?

長嶋は、「当時、僕らは下級生だったから、上級生には何も言えなかった」と、後に語っているが、

いずれにせよ、砂押監督が辞任してしまった事だけは確かである。

 

 

なお、長嶋によると、「砂押監督排斥」に、積極的に加担しなかった長嶋の事が面白くなかったのか、

ある時、上級生に「お前、最近、デカイ面(つら)をしてるんだってな」と、因縁を付け、肩を小突かれたという。

その時、長嶋は、溜まっていた鬱憤が爆発し、「何を!!やるんなら、腕ずくで来い!!」と言って、上級生と、あわや一触即発の事態になった。

という事で、立教野球部は、色々とゴタゴタしていたが、長嶋は後々まで、立教の監督を辞めた後の砂押監督と交流が有ったのであり、

そう考えると、長嶋の「回想」の方が、信憑性は有りそうではある。

 

<1955(昭和30)年秋…長嶋茂雄、遂に初ホームラン!!~「4番・サード」に定着した長嶋茂雄、「打率.343」で初のベストナインに選出~長嶋・杉浦・本屋敷の大活躍で、立教は「2位」に躍進>

 

 

「砂押監督排斥事件」という非常事態が起きた立教野球部は、

1955(昭和30)年秋のシーズン、辻猛ヘッドコーチを中心に、「合議制」を取った。

立教野球部は、戦前にも監督不在の「合議制」を取っていたが、そういう意味では「原点回帰」でもあった。

そんな中、開幕した1955(昭和30)年秋のシーズン、長嶋茂雄の才能が、遂に「開花」した。

9月10日、早稲田-立教戦で、長嶋は早稲田のエース・木村保から、レフトスタンドへ、公式戦「第1号」のホームランを放ったのである。

長嶋は、満面の笑みでホームインすると、立教ナインからの祝福を受けた。

 

 

 

 

 

これで波に乗った長嶋は、1955(昭和30)年秋のシーズン、「4番・サード」に定着し、立教打線の中心を担うと、

長嶋茂雄は、「11試合35打数12安打 1本塁打 12打点 打率.343」という、素晴らしい成績を残し、初のベストナインに選出された。

長嶋は、遂に大ブレイクの時を迎えたのである。

そして、長嶋の盟友・本屋敷錦吾は、「2番・ショート」に定着し、リーグ最多の「10得点」を記録すると、

それまでのオーバースローから、腰を落としたアンダースローへと投法を変えた杉浦忠も、「7勝、防御率0.90」と、大活躍した。

この長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾「2年生トリオ」の大活躍により、1955(昭和30)年秋のシーズン、立教は「2位」に躍進した。

砂押監督が撒いた種が、ようやく花開いたのである。

 

 

 

長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾という、立教の「2年生トリオ」が大活躍した、1955(昭和30)年秋、

それまで、左右の両派に分裂していた「日本社会党」が再統一され、

それに対抗し、「自由党」と「民主党」が「保守合同」を果たし、「自由民主党(自民党)」が結党された。

長嶋茂雄の大ブレイクと同時に、日本の戦後政治の流れを決定付けた、「55年体制」が始まったのである。

 

<1955(昭和30)年12月…東京六大学野球のスーパースター軍団が、史上最強の「日本代表」を結成し、フィリピンで開催の「アジア野球選手権」で6戦全勝>

 

 

 

1955(昭和30)年12月、フィリピンのマニラで開催され、日本・韓国・台湾・フィリピンの4ヶ国が参加した、「アジア野球選手権」に、

東京六大学野球のスーパースター軍団が、「日本代表」の選抜チームを結成し、乗り込んで行った。

明治の島岡吉郎が監督を務めた「日本代表」には、立教の長嶋茂雄も選抜されたが、そのメンバーは下記の通りである。

 

【投手】

秋山登(明治)

木村保(早稲田)

杉浦忠(立教)

原田靖男(東大)

 

【捕手】

土井淳(明治)

酒井敏明(早稲田)

 

【内野手】

中田昌宏(慶応)

近藤和彦(明治)

佐々木信也(慶応)

長嶋茂雄(立教)

中野健一(法政)

岩岡保宏(明治)

 

【外野手】

沖山光利(明治)

森徹(早稲田)

衆樹資宏(慶応)

宮崎義郎(早稲田)

 

…という事で、後にプロ野球に入った選手がズラリと並ぶ、超豪華メンバーであり、

この頃の東京六大学野球が、如何に、各校にスーパースターが揃っていたかが、非常によくわかる。

長嶋は、2年生にして、このメンバーに名を連ねていたが、杉浦も投手として選抜されている。

 

 

 

そして、史上最強メンバーの「日本代表」は、圧倒的な強さを発揮し、

日本は「6戦全勝」で優勝を飾ったが、この時、長嶋は初めての「海外旅行」を満喫していた。

長嶋にとっては、初の「国際試合」であり、六大学の仲間達と、楽しく交流を深めた、長嶋にとっては、思い出深い旅となった。

こうして、長嶋の「下級生時代」は過ぎて行き、翌1956(昭和31)年、長嶋は立教の3年生へと進級するが、長嶋は更に大活躍を見せる事となる。

東京六大学野球に、いよいよ「長嶋時代」が到来しようとしていた。

 

(つづく)