【今日は何の日?】1957/11/3…長嶋茂雄(立教)、「通算8号」ホームラン(前編) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(11/3)は「文化の日」であるが、今から64年前の1957(昭和32)年11月3日、東京六大学野球の秋季リーグ、

秋晴れの神宮球場の立教-慶応戦で、立教大学長嶋茂雄が、東京六大学野球の新記録となる「通算8号ホームラン」を放った日である。

しかも、長嶋茂雄は、学生生活の最後の試合、立教での「ラストゲーム」で、見事に期待に応え、「通算8号」をかっ飛ばした。

 

 

長嶋茂雄「通算8号」ホームランにより、超満員の神宮球場は熱狂の渦に包まれたが、

長嶋の活躍により、この試合に勝利した立教は、「春秋連覇」も達成している。

まさに、長嶋茂雄立教時代から「スーパースター」であり、「千両役者」であった。

 

入ってみたかった文化部は?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう

 
というわけで、今回は、今から64年前の11/3の「文化の日」に、長嶋茂雄が達成した「通算8号」ホームランと、そこに至るまでの物語を描く。
それでは、まずは「前編」をご覧頂こう。
 
<1909(明治42)年…立教大学野球部が創部され、1921(大正10)年に立教が「四大学リーグ」に加盟し、「五大学リーグ」誕生>
 
 
 
 
1874(明治7)年、キリスト教のアメリカ聖公会の宣教師、チャニング・ムーア・ウィリアム主教によって、立教学校が創立された。
創立の経緯からも明らかなように、立教といえば、元々、日本にキリスト教を布教する目的のために創立された学校である。
当初、立教学校(立教学院)は、東京・築地に有ったが、その築地時代の1909(明治42)年に、立教大学野球部が創部された。
なお、立教は1918(大正7)年に、学校の所在地を築地から池袋に移転させている。
 
 
立教の野球部は、当初、同好会的な性格だったものの、
早稲田野球部の監督・飛田穂州の指導により、立教は、めきめきと力を付けて行った。
そして、そんな縁も有って、1921(大正10)年、それまで早稲田・慶応・明治・法政に4校によって編成されていた「四大学リーグ」に、立教も加盟した。
1921(大正10)年の立教の加盟により、「四大学リーグ」「五大学リーグ」となった。
 
<戦前の立教~立教は1931(昭和6)年秋と、1933(昭和8)年に2度優勝~景浦将、西郷準らが活躍し、西本幸雄も在籍>
 
 
1925(大正14)年、「五大学リーグ」東京帝国大学(東大)が加盟し、今日まで続く「六大学リーグ」が誕生したが、
「六大学リーグ」誕生の当初、立教は苦戦が続いた。
そして、立教野球部の初代監督・野田健吉を排斥するという「監督排斥騒動」が起こり、立教は監督不在の「合議制」となったが、その「合議制」となった後、1931(昭和6)年秋、立教はリーグ加盟14年目にして、悲願の初優勝を達成した。
 
 
 
1933(昭和8)年、東京六大学野球は「1シーズン制」となったが、
その「1シーズン制」となった1933(昭和8)年、立教は2度目の優勝を達成した。
この年(1933年)、立教はエース・菊谷正一、主将・山城健三らを中心とした強力メンバーを揃え、立教は年間成績「11勝3敗1分」で、見事な優勝を飾った。
なお、この年(1993年)、松山商から立教に入学した景浦将は、1年生からレギュラーとなって豪打を発揮し、投手としても「4勝1敗」の成績を残し、「投打二刀流」で大活躍している。
 
 
 
その後、戦前の立教は優勝は出来なかったが、
監督を置かない「合議制」のチーム運営が続き、西郷隆盛の孫・西郷準投手や、
和歌山中から立教に入学し、主将としてチームを引っ張った西本幸雄など、素晴らしい選手達を輩出している。
なお、景浦将は1935(昭和10)年に立教を中退し、創設されたばかりの大坂タイガースに入団した。
 
<戦前の東京六大学野球の通算最多ホームラン記録…宮武三郎(慶応)と呉明捷の「通算7ホームラン」>
 
 
さて、戦前の東京六大学野球は、今よりもボールは粗悪で、
しかも、神宮球場は、今よりも、かなり広かった事もあり、なかなかホームランが出にくい環境だった。
そんな中、慶応の宮武三郎は、「通算7ホームラン」を放っている。
 
 
 
 
宮武三郎が慶応に在学していたのは、1927(昭和2)~1930(昭和5)年までだったが、
その間、宮武は「投打二刀流」として活躍し、
宮武三郎は、投手としては、「61試合 38勝6敗、188奪三振」、打者としては「72試合 237打数72安打 7本塁打 72打点 打率.304 7本塁打」という通算成績を残している。
宮武は、東京六大学きってのスーパースターだったが、当時の慶応には、宮武三郎・山下実・水原茂など、最強メンバーが揃い、「慶応黄金時代」を築いた。
ちなみに、宮武の同僚・山下実は、慶応時代に「通算6ホームラン」を放った。
 
 
 
もう1人、戦前の東京六大学野球で「通算7ホームラン」を記録したのが、早稲田の呉明捷である。
呉明捷は、台湾・嘉義農林の選手として、1931(昭和6)年夏の甲子園で大活躍したが、
その後、呉明捷は早稲田に進学し、1933(昭和8)~1936(昭和11)年の早稲田在学中、呉明捷宮武三郎と並ぶ「通算7ホームラン」を打った。
という事で、戦前の六大学野球では、「通算7ホームラン」が最多記録であり、以後、この記録は長い間、ずっと破られる事は無かった。
 
<1936(昭和11)年2月20日…長嶋茂雄が誕生~生まれた頃は身体が小さく、少年時代の渾名は「チビ」~野球が大好きだった長嶋茂雄少年>
 
 
 
1936(昭和11)年2月9日、名古屋・鳴海球場で、「巨人軍VS名古屋金鯱軍」の試合が行われたが、
この試合こそ、今に続く日本プロ野球における、「プロ野球チーム同士の初めての試合」である。
この試合は、名古屋金鯱軍が10-3で巨人に勝ったが、
日本にプロ野球リーグが誕生した年こそ、この1936(昭和11)年であった。
 
 
 
 
さて、「巨人軍VS名古屋金鯱軍」という、「プロ野球チーム同士の初めての試合」が行われてから11日後、
1936(昭和11)年2月20日に、千葉県印旛郡臼井町(現・千葉県佐倉市)で、長嶋茂雄(ながしま・しげお)は誕生した。
長嶋茂雄の父・長嶋利(ながしま・とし)は、臼井町役場に務める職員で、妻・ちよ(チヨ)との間に、男2人・女2人の子供が生まれたが、茂雄は、4人きょうだいの末っ子であった。
なお、茂雄は生まれた時の体重は約3000gという事で、少し身体は小さかったという。
なお、茂雄が生まれ育ったのは、印旛沼のすぐ近くであり、印旛沼は茂雄少年の「遊び場」であった。
 
 
長嶋茂雄が生まれてから6日後、
1936(昭和11)年2月26日に、陸軍青年将校が、一斉に蹶起し、首都・東京を占拠するという、大規模なクーデター未遂事件が起こった。
所謂「二・二六事件」であるが、長嶋がまだ赤ん坊だった頃に、日本を揺るがすような大事件が起こったわけである。
ちなみに、「二・二六事件」が起こった日、東京は大雪であった。
 
 
「二・二六事件」の後、日本は戦争への道を突き進んで行き、1941(昭和16)年12月8日には「太平洋戦争」が開戦された。
だが、茂雄少年が生まれ育った、佐倉の地には、幸い空襲も無かったという。
1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇「玉音放送」により、「終戦」を迎えたが、これは茂雄が9歳で、小学校4年生の時だった。
茂雄は、身体が小さく、「チビ」という渾名だったものの、運動神経は抜群に良く、運動会でも、いつも一等賞だったという。
そして、戦後、アメリカの占領下に置かれた日本で、空前の「野球ブーム」が起こり、日本中の子供達が、ちょっとした空き地で「三角ベース」の野球を楽しんだが、茂雄も「三角ベース」の野球に夢中になった。
運動神経抜群の茂雄は、打つのも投げるのも走るのも、どんな子にも負けなかった。
 
<佐倉一中に進学し、野球部で頭角を現した長嶋茂雄~後楽園球場のプロ野球観戦に夢中になり、川上哲治・大下弘・藤村富美男らに憧れる~中学時代に体格も急成長した茂雄少年>
 
 
1948(昭和23)年、長嶋茂雄は、地元・佐倉中学へと進学した。
茂雄は、勿論、佐倉中の野球部に入部したが、茂雄の野球の才能はズバ抜けており、入部早々、ショートのレギュラーとなった。
佐倉中に入った頃、茂雄はまだ身体が小さかった。
上の写真は、茂雄の佐倉中時代の物だが、優勝旗の右側に写っているのが茂雄である。
こうして見ると、当時の茂雄は、他の部員と比べても、少し小柄のようである。
 
 
 
さて、佐倉中の野球部で活躍していた頃、世の中は、戦後のプロ野球ブームに沸いていた。
戦後、プロ野球には、川上哲治・大下弘・藤村富美男ら、次々にスーパースターが登場し、ファンを沸かせていたが、
中学時代、茂雄はお小遣いを貯めては、仲間達と一緒に後楽園球場に行き、そんなスーパースター達の姿を、夢中になって見ていた。
中でも、茂雄が憧れたのは、大阪タイガース藤村富美男であった。
藤村は、常にファンの目を意識し、ファンを楽しませるプレーを心がけている選手だったが、茂雄は、藤村のショーマン・シップに、強い感銘を受けた。
「僕も、藤村さんみたいに、ファンを惹き付けるような選手になりたい!!」
茂雄は、そう心に誓っていた。
 
 
茂雄は、佐倉中時代、野球に明け暮れる日々を送っていたが、
茂雄はとにかく、人一倍、食欲も旺盛であり、よく食べていた。
その甲斐有ってか、中学時代、体格も急成長して行った。
野球に夢中になり、よく食べて、よく遊び、よく寝た長嶋茂雄の中学時代は、とても楽しい日々だったに違いない。
 
<1951(昭和26)年…長嶋茂雄、地元の佐倉一高に入学~野球部で大活躍した茂雄少年、高校2年生の頃から、体格も大柄に>
 
 
1951(昭和26)年、長嶋茂雄は、地元・佐倉一高へと入学した。
茂雄は、勿論、野球部へと入部し、ここでも入学早々、頭角を現した。
とにかく、野球の才能が抜群だった茂雄は、何処へ行っても、すぐに台頭してしまうのである。
それだけ、茂雄の野球の腕前は、抜きん出た物であった。
そして、茂雄の母・ちよ(チヨ)の言葉によると、
「高校2年生頃から、特に身体が大きくなって行った」
との事であるが、高校時代に茂雄の身体は、更に成長し、大柄な青年になっていた。
 
 
茂雄は、元々、肩が強かったので、練習では投手も務めていたが、
肩の強さを活かし、当初、守備位置はショートだった。
だが、肩が強すぎた事もあって、茂雄の送球は、しばしば暴投になってしまったので、
佐倉一高時代、茂雄は三塁手(サード)へと転向している。
後に、彼の代名詞となる「4番・サード・長嶋」は、佐倉一高時代に誕生したのであった。
 
<1953(昭和28)年春…「鬼の砂押」と称された、砂押邦信監督率いる立教が、20年振り優勝>
 
 
 
さてさて、長嶋茂雄が佐倉一高の野球部で活躍していた頃、
東京六大学野球では、立教が躍進していた。
1950(昭和25)年、立教OBの砂押邦信(すなおし・くにのぶ)が、母校・立教野球部の監督に就任していたが、
砂押邦信「鬼の砂押」と言われるほど、凄まじい猛練習を部員達に課していた。
そして、砂押監督に鍛え上げられていた立教は、見る見る内に強くなって行った。
そして、1953(昭和28)年春、砂押監督率いる立教は、20年振りの優勝を達成した。
 
 
更に、立教は大学選手権で中央大学も破り、立教は「大学日本一」にも輝いた。
立教を20年振りの優勝、そして「大学日本一」に導いた砂押邦信は、水戸商OBだったのだが、
水戸商といえば、かつて立教を指導した、あの飛田穂州の母校でもある。
そして、飛田穂州といえば、「精神野球」の代名詞のような人であり、その飛田の「精神野球」の流れを汲んだ砂押が、立教をビシビシと鍛え上げたというのが、立教の躍進に繋がった。
という事で、この砂押邦信こそ、後に長嶋茂雄「恩師」になる人である。
 
<1953(昭和28)年夏…佐倉一高の長嶋茂雄、運命の大ホームランを放つ~プロ野球からの勧誘を断わり、長嶋茂雄、立教へ進学>
 
 
立教が20年振りに優勝した、1953(昭和28)年、長嶋茂雄は、佐倉一高の3年生になった。
高校3年生になり、茂雄は、仲間達と本気で「甲子園」出場を目指し、練習に明け暮れていたが、
この1953(昭和28)年夏こそ、長嶋茂雄の野球人生を大きく変える、「運命の夏」になるのである。
 
 
 
長嶋茂雄「4番・三塁手」として、チームを引っ張っていた佐倉一高は、
1953(昭和28)年夏、千葉県大会で、千葉工、市原一高、東葛飾高、銚子商を破り、順調に千葉県大会を突破した。
そして、甲子園出場を懸けて、佐倉一高は南関東大会へと進出したが、
1953(昭和28)年8月1日、大宮球場での南関東大会1回戦で、佐倉一高は1-4で熊谷に敗れてしまった。
この時点で、佐倉一高は残念ながら敗退してしまい、長嶋茂雄と佐倉一高の「甲子園出場」は、夢と消えてしまった。
 
 
だが、この南関東大会の1回戦こそ、長嶋茂雄の運命を大きく変える試合となった。
この試合、佐倉一高が0-3とリードされて迎えた6回表、長嶋茂雄は、この試合の第3打席で、熊谷・福島郁夫投手から、センターのバックスクリーンへ飛び込む、特大のホームランを放ったのである。
長嶋は、それまで公式戦でランニング本塁打は打った事が有ったが、柵越えのホームランは、これが初めてであった。
結局、佐倉一高は、長嶋のホームランによる1点のみに抑え込まれ、1-4で敗れてしまったが、長嶋の大ホームランは、新聞でも大きく取り上げられ、長嶋茂雄は、一躍、プロ野球のスカウトも注目する存在となった。
 
 
長嶋家には、プロ野球のスカウトが殺到し、
「是非とも、我が球団に入って欲しい」
と、長嶋は複数球団からの誘いを受けた。
その中には、茂雄の憧れの球団である、巨人も有った。
茂雄は「ジャイアンツに入りたい」と熱望しており、この時、茂雄さえ望めば、巨人に入る事も可能な状況だった。
だが、茂雄の父・利は、茂雄のプロ入りには、頑として反対であった。
「茂雄、プロ野球に行くのは、学問をしてからでも、遅くはないぞ」
父は、そう言っていたが、実は、この時、長嶋家には、立教からも誘いが有ったのである。
立教の野球部関係者が、茂雄の、あの大ホームランを見ており、
「長嶋君は、是非とも立教に来て頂きたい」
と、長嶋家を、何度も訪れていた。
茂雄の父・利も、当時の立教が、あの「鬼の砂押」が率いているという事は知っていたが、
「茂雄は、そういう厳しい環境で育ててもらった方が良いのではないか」
と、思うようになっていたのである。
こうして、長嶋茂雄は、プロ野球からの勧誘を全て断わり、立教大学へと進学する事が決まった。
 
<1954(昭和29)年…長嶋茂雄、立教大学へ入学~長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾の、後の「立教三羽烏」が顔を合わせる~多士済々の猛者達が鎬を削っていた、当時の東京六大学野球>
 
 
1954(昭和29)年、長嶋茂雄立教大学へと入学した。
そして、この時、長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾という、後に「立教三羽烏」と称される事になる3人が、同期生として、立教に入っている。
この3人が、やがて立教の黄金時代を築いて行くのだが、この時は、まだ大学に入りたての「1年坊主」に過ぎない。
そして、あの「鬼の砂押」が、眼鏡の奥の目を光らせ、彼ら1年生を凝視していた。
この後、彼らは砂押監督に、徹底的に鍛え上げられる事となるのである。
 
 
なお、当時の東京六大学野球には、多士済々の猛者達が集まり、お互いに切磋琢磨し、鎬を削っていた。
長嶋茂雄が入った立教には、4年生にエース・小島訓一、3年生には大沢啓二・古田昌幸、2年生には矢頭高雄など、投打の実力者達が、ズラリと顔を揃えていた。
他校に目を向けると、早稲田には木村保・森徹という、投打の二枚看板が居り、
慶応には藤田元司・林薫という好投手が居たし、
明治には秋山登・土井淳・近藤和彦ら、後に大洋ホエールズで大活躍する事になる豪華メンバーが顔を揃えていた。
法政は、後に母校・法政で名監督となる松永怜一が、当時は4年生であり、東大は、後に高野連(高校野球連盟)の会長となる脇村春夫が主力だった。
という事で、当時の東京六大学野球は、非常にレベルが高く、その人気はプロ野球以上であった。
そんな物凄い時代に、立教に入った長嶋茂雄は、果たして、東京六大学野球という「戦場」で、どんなプレーを見せるのであろうか!?
 
(つづく)