【今日は何の日?】2016/11/2…シカゴ・カブス、108年振り「世界一」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(11/2)は、今から5年前の2016(平成28)年11月2日、

アメリカ大リーグのシカゴ・カブスが、ワールドシリーズでクリーブランド・インディアンスを4勝3敗で破り、

シカゴ・カブスが、実に「108年振り」の「世界一(ワールド・チャンピオン)」を達成した日である。

これは、アメリカ大リーグ史上でも、実に驚嘆すべき、「破天荒」な出来事であった。

 

 

シカゴ・カブスが、前回に「世界一」になったのは、2016(平成28)年の「108年前」、何と1908(明治41)年の事である。

つまり、それだけ長い間、カブスは「世界一」になる事が出来なかったのであり、2016(平成28)年のカブスの「世界一」は、まさに歴史的な出来事であった。

私としても、「まさか、自分が生きている内に、カブスの世界一を見る事が出来るとは…」と、当時、大変興奮したものである。

という事で、今回は2016(平成28)年のシカゴ・カブスの108年振りの「世界一」について描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<「シカゴ」に本拠地を構えた、名門「シカゴ・ホワイトストッキングス」~1869(明治2)年に結成⇒1871(明治4)年に「ナショナル・アソシエーション」に参加⇒1876(明治9)年「ナショナル・リーグ」に加盟し、1880年代に黄金時代を築く>

 

 

では、まずはシカゴ・カブスという球団の「生い立ち」からご紹介させて頂く。

1869(明治2)年、アメリカのイリノイ州の大都市「シカゴ」を本拠地として、「シカゴ・ベースボール・クラブ」が結成された。

このチームは、後にカブスの経営にも関わる、地元・シカゴの新聞社、シカゴ・トリビューンもスポンサーとなっていたが、

白と赤を基調とした、大変お洒落なユニフォームが、話題を集めた。

そして、ユニフォームの白い靴下が、そのままチームのニックネームとなり、球団名を「シカゴ・ホワイトストッキングス」と名乗った。

これが、今に続く「シカゴ・カブス」の源流である。

その「シカゴ・ホワイトストッキングス」は、1871(明治4)年、アメリカ野球史上初のプロ野球リーグ「ナショナル・アソシエーション」に参加していいる。

 

「ナショナル・アソシエーション」は、組織の基盤が脆弱であり、1875(明治8)年には、瓦解してしまったが、

1876(明治9)年、8球団によって、改めて「ナショナル・リーグ」が結成された。

その「ナショナル・リーグ」に、「シカゴ・ホワイトストッキングス」も、改めて参加したが、

この「ナショナル・リーグ」は、今日に至るまで、未だに存続している、所謂「メジャーリーグ」である。

1876(明治9)年、その「ナショナル・リーグ」の記念すべき初年度に、「シカゴ・ホワイトストッキングス」の監督兼投手のアルバート・スポルディングが、61試合 53完投8完封 47勝12敗 防御率1.75という成績を収め、

「シカゴ・ホワイトストッキングス」は52勝14敗で、記念すべき「ナショナル・リーグ」の初代優勝チームとなった。

つまり、スポルディングは、ホワイトストッキングスの52勝の内、1人で47勝を挙げるという、超人的な大活躍であった。

 

 

その後、「シカゴ・ホワイトストッキングス」は、

1880(明治13)~1882(明治15)年に3連覇、1885(明治17)~1886(明治19)年の2連覇と、1880年代に計5度のリーグ優勝を達成、

1886(明治19)年には、「ナショナル・リーグ」に対抗して結成されていた、「アメリカン・アソシエーション」の優勝チーム、セントルイス・ブラウンズとポストシーズンで対決し、シカゴ・ホワイトストッキングスが、4勝2敗でセントルイス・ブラウンズを破り、ホワイトストッキングスがチャンピオンになっている。

このポストシーズンは、今の「ワールド・シリーズ」の原型であるが、「アメリカン・アソシエーション」は、現在の「アメリカン・リーグ」とは無関係である。

という事で、「シカゴ・ホワイトストッキングス」は、アメリカ野球の黎明期から、シカゴに本拠地を置き、強豪チームとして鳴らした、名門球団であった。

 

<「シカゴ・ホワイトストッキングス」(1869~1893)⇒「シカゴ・コルツ」(1894~1897)⇒「シカゴ・オーファンズ」(1898~1902)と、球団名を改称>

 

 

 

1880年代に、名門の強豪球団として鳴らしたホワイトストッキングスは、終始一貫、本拠地をシカゴに置いていたが、

その間、球団名は次々に変更している。

その球団名を列挙すると、「シカゴ・ホワイトストッキングス」(1869~1893)⇒「シカゴ・コルツ」(1894~1897)⇒「シカゴ・オーファンズ」(1898~1902)…といった変遷である。

そして、この「シカゴ・オーファンズ」時代に、アメリカ野球界を揺るがす大事件が起こる。

既存の「ナショナル・リーグ」に対抗して、新リーグの「アメリカン・リーグ」が結成されたのである。

そして、「シカゴ・オーファンズ」を脅かす、強力なライバルも登場した。

 

<1901(明治34)年…新リーグ「アメリカン・リーグ」誕生~「アメリカン・リーグ」に誕生した新球団「シカゴ・ホワイトストッキングス(ホワイトソックス)」に、「シカゴ・オーファンズ」は選手を大量に引き抜かれるが…?>

 

 

1901(明治34)年、「ナショナル・リーグ」に対抗し、新リーグ「アメリカン・リーグ」が結成された。

ここに、今日まで続く「ナショナル・リーグ」と「アメリカン・リーグ」の、2大リーグ制が始まったが、

この「アメリカン・リーグ」に加盟したのが、新球団の「シカゴ・ホワイトストッキングス」である。

当時、「ナショナル・リーグ」のシカゴ球団は、既に「オーファンズ」と改称されていたため、

後発の新球団が、伝統の「ホワイトストッキングス」という球団名を受け継いだ形である。

その新球団「シカゴ・ホワイトストッキングス」は、先輩の「シカゴ・オーファンズ」から、選手を大量に引き抜いてしまった。

そのため、オーファンズは一時期、弱体化したが、そのために、新たな選手が台頭するキッカケともなった。

なお、新生「シカゴ・ホワイトストッキングス」は、すぐに「シカゴ・ホワイトソックス」に改称している。

 

<1903(明治36)年…「シカゴ・オーファンズ」は「シカゴ・カブス」を名乗る⇒1906(明治39)年に「シカゴ・カブス」に正式に改称~同年(1906年)、「ティンカー・トゥ・エヴァース・トゥ・チャンス」の台頭で、カブスはシーズン「116勝」と、ぶっちぎりでリーグ優勝するが…?>

 

 

1903(明治36)年、「シカゴ・オーファンズ」は、当時のチームの若手選手が「子熊(カブ=CUB)」という愛称で呼ばれていた事に因み、

チーム名の俗称として、「カブス(CUBS)」と、徐々に呼ばれるようになっていたが、

やがて、いつの間にか、それが球団名として定着して行った。

ここに、今日まで続く、「シカゴ・カブス(CHICAGO CUBS)」という球団名が誕生したのである。

 

 

 

そして、「シカゴ・ホワイトソックス」に、ゴッソリと選手を引き抜かれて以降、

「シカゴ・カブス」には、ジョー・ティンカー遊撃手、ジョニー・エヴァース二塁手、フランク・チャンス一塁手という、3人の名内野手トリオが台頭していた。

この3人の内野手は、とにかく守備が抜群に上手く、

「ティンカー・トゥ・エヴァース・トゥ・チャンス」

は、当時のカブスの併殺網トリオの枕詞として、大変有名になった。

だが、この3人は、実は普段は口も利かない程、険悪な関係だったという。

だが、試合になると、息の合ったコンビネーションを見せるという、まさに「プロ中のプロ」であった。

 

 

 

1906(明治39)年、球団名は正式に「シカゴ・カブス」へと改称されたが、

この年(1906年)、シカゴ・カブスは、未だに破られていない、史上最多となる「シーズン116勝」を挙げ、カブスは、ぶっちぎりで、実に20年振りの「ナショナル・リーグ」優勝を達成した。

1901(明治34)年の2大リーグ並列以降としては、カブスは初めての優勝である。

この年(1906年)のカブスは、アメリカ大リーグ史上に残る、最強チームだったと言って良い。

 

<1906(明治39)年…史上唯一の「シカゴ・カブスVSシカゴ・ホワイトソックス」の「シカゴ対決」のワールドシリーズで、カブスは2勝4敗と、まさかの敗北>

 

 

1906(明治39)年、「ナショナル・リーグ」は、前述の通り、カブスが「シーズン116勝」で優勝したが、

一方、「アメリカン・リーグ」では、シカゴ・ホワイトソックスが優勝した。

こうして、「シカゴ・カブスVSシカゴ・ホワイトソックス」という、「シカゴ対決」のワールドシリーズが実現した。

カブスとしては、ホワイトソックスは、大量に選手を引き抜かれたという、因縁の相手であるが、

戦前の下馬評では、圧倒的に「カブス有利」という予想が多かった。

 

 

 

ところが、蓋を開けてみれば、何と、カブスは2勝4敗でホワイトソックスに敗れてしまい、

シカゴ・ホワイトソックスが、戦前の下馬評の低さを覆し、「世界一」の座に就いてしまった。

これは、「史上最大の番狂わせ」とも言われているが、勝負は「強い者が勝つ」のではなく、「勝った者が強い」のであり、

この時は、ホワイトソックスの方が、カブスよりも強かったという事であろう。

なお、「シカゴ・カブスVSシカゴ・ホワイトソックス」の「シカゴ対決」のワールドシリーズは、後にも先にも、この年(1906年)の1度きりであり、「史上唯一」の「シカゴ対決」のワールドシリーズである。

 

<1907(明治40)~1908(明治41)年…シカゴ・カブス、2年連続「世界一」達成!!~「カブス黄金時代」到来、しかし…?>

 

 

1907(明治40)年、シカゴ・カブスは、シーズン「107勝」を挙げ、

シカゴ・カブスは、2位のピッツバーグ・パイレーツに17ゲームの大差を付け、カブスが2年連続リーグ優勝を達成した。

前年(1906年)に続く、カブスのぶっちぎりの2連覇であるが、カブスは前年(1906年)に獲り逃がした「世界一」奪取を狙い、デトロイト・タイガースとのワールドシリーズに臨んだ。

 

 

 

そして、1907(明治40)年の「シカゴ・カブスVSデトロイト・タイガース」のワールドシリーズは、

シカゴ・カブスが、初戦に引き分けた後、一気に4連勝して、カブスが4勝1分でタイガースを破り、シカゴ・カブスが初の「世界一」の座に就いた。

シカゴ・カブスは、前年(1907年)の悔しさを晴らし、「ワールド・チャンピオン」に登り詰めたのである。

 

 

 

 

 

翌1908(明治41)年、ナショナル・リーグは、シカゴ・カブスニューヨーク・ジャイアンツが、激しい優勝争いを繰り広げたが、

最後は、カブスがジャイアンツを僅かに振り切って、カブスが優勝し、カブスはリーグ3連覇を達成した。

そして、1908(明治41)年のワールドシリーズは、前年(1907年)に続いて、「シカゴ・カブスVSデトロイト・タイガース」の対決となったが、

シカゴ・カブスが、4勝1敗でデトロイト・タイガースを破り、シカゴ・カブスが2年連続「世界一」を達成した。

こうして「カブス黄金時代」が到来したわけであるが、この後、カブスが、まさか「108年」も世界一(ワールド・チャンピオン)の座から遠ざかるとは、一体、誰が予想したであろうか…。

 

<1914(大正3)年…「世界一、美しい球場」、後の「リグレー・フィールド」が誕生>

 

 

 

1914(大正3)年、カブスの本拠地として、シカゴの地に、

「ウィーグマン・パーク」という球場が誕生したが、この球場は「ウィーグマン・パーク」(1914~19120)⇒「カブス・パーク」(1920~1925)を経て、1925(大正4)年に「リグレー・フィールド」と改称された。

この名称は、当時のシカゴ・カブスのオーナー、フィリップ・K・リグレーに因んでいる。

 

 

 

 

 

これこそ、シカゴ・カブスの本拠地として、今も使用されている「リグレー・フィールド」であるが、

「リグレー・フィールド」といえば、「世界一、美しい球場」とも言われている。

何と言っても、「リグレー・フィールド」は、古き良き時代の野球場の雰囲気が色濃く残る、レトロな造りが、素晴らしいのである。

外野フェンスの蔦とか、未だに手動式のスコアボードとか、この「リグレー・フィールド」のレトロさを愛するファンは、非常に多い。

という事で、シカゴ・カブスといえば、やはり「リグレー・フィールド」が良く似合う球団である。

 

<シカゴ・カブスにかけられた「ヤギの呪い(ビリー・ゴートの呪い)」とは!?~1945(昭和20)年を最後に、リーグ優勝(ワールドシリーズ出場)からも、長らく遠ざかってしまった、カブス…>

 

 

という事で、美しい「リグレー・フィールド」も完成し、シカゴ・カブスは、ますます隆盛を極めた…と言いたいところであるが、

現実は、そうは問屋が卸さなかった。

シカゴ・カブスは、1910(明治43)年、1918(大正7)年、1929(昭和4)年、1932(昭和7)年、1935(昭和10)年、1938(昭和13)年に、それぞれリーグ優勝を果たしたが、悉く、ワールドシリーズで敗れてしまい、なかなか「世界一」には手が届かなかった。

そして、1945(昭和20)年、シカゴ・カブスは7年振り16度目のリーグ優勝を達成し、デトロイト・タイガースとのワールドシリーズに臨んだ。

 

 

 

ところで、当時のカブスには、地元シカゴでバーを営む、ビリー・サイニアスという熱心なファンが居た。

ビリーは、シーズン中、自分が飼っているヤギを連れて、自分とヤギの分の入場券を買い、リグレー・フィールドに通っていたが、その時は特に何も言われていなかった。

だが、1945(昭和20)年のワールドシリーズで、ビリーが、いつものようにヤギを連れてリグレー・フィールドに入場しようとすると、

球場入口で、係員に入場を断わられてしまったのである。

理由としては、「ヤギの臭(にお)いがキツイ」という物であったが、これにビリーは激怒した。

「シーズン中は大丈夫だったのに、何でそんな事を言うんだ!!」

ビリーは怒り心頭だったが、こう言い放って、リグレー・フィールドを後にした。

「リグレー・フィールドにヤギの入場が許されるまで、カブスは2度とワールドシリーズに勝てない」

ワールドシリーズだからと言って、シーズン中は許されていたのに、急にヤギの入場を断わられたというのは、ビリーにとって、許せない事であった。

 

 

 

さて、こうして開幕した、1945(昭和20)年の「シカゴ・ホワイトソックスVSデトロイト・タイガース」のワールドシリーズであるが、

大激戦の末、カブスはタイガースに、惜しくも3勝4敗で敗れ、カブスは「世界一」を逃してしまった。

すると、このワールドシリーズを最後に、カブスは数十年間も、リーグ優勝、つまりワールドシリーズ出場すら、全く出来なくなってしまったのである。

人々は、「これは、ビリーの怨念だ」と噂し、やがて、カブスが勝てなくなったのは「ヤギの呪い(ビリー・ゴートの呪い)」であると、言われるようになってしまった。

 

<「ミスター・カブス」アーニー・バンクスの時代(1953~1971)>

 

 

 

「ヤギの呪い」にかかり、全く勝てなくなってしまったシカゴ・カブスであるが、

そんな勝てないカブスにも、数々の素晴らしい名選手が居た。

「ミスター・カブス」と称され、1953(昭和28)~1971(昭和36)年まで、カブス一筋で活躍した、アーニー・バンクスもその1人であるが、

アーニー・バンクスは、名ショートとして活躍し、通算2583安打、512本塁打という成績を残している。

バンクスは、シカゴのファンに抜群の人気を誇っていたが、バンクスがいくら活躍しようと、カブスは長い低迷から脱出する事は出来なかった。

 

<シカゴ・カブス、1984(昭和59)年と1989(平成元)年に「地区優勝」を果たすも、「リーグ優勝決定シリーズ」で敗退>

 

 

1984(昭和59)年、シカゴ・カブスはナショナル・リーグ東地区で「地区優勝」を果たした。

カブスにとって、久々の「優勝」と名の付くタイトルだったが、まだ「リーグ優勝」ではない。

そして、カブスは「リーグ優勝決定シリーズ」で、サンディエゴ・パドレスと対決したが、カブスは2連勝で「王手」を掛けながら、パドレスに痛恨の3連敗を喫し、カブスは惜しくも39年振りの「リーグ優勝」は成らなかった。

 

 

1989(平成元)年にも、カブスは「地区優勝」を果たしたが、

カブスは「リーグ優勝決定シリーズ」で、サンフランシスコ・ジャイアンツに1勝4敗で敗退し、

カブスは、またしても「リーグ優勝」は成らなかった。

カブスにかけられた「ヤギの呪い」は、まだまだ続いていた。

 

<サミー・ソーサの時代(1992~2004)~「マグワイアVSソーサ」の球史に残るホームラン王争いが繰り広げられるも、カブスは優勝には届かず>

 

 

 

 

1992(平成4)~2004(平成16)年にかけて、シカゴ・カブスにサミー・ソーサが在籍していた。

1998(平成10)年、セントルイス・カージナルスのマーク・マグワイア「70本塁打」、シカゴ・カブスのサミー・ソーサ「66本塁打」を放ち、

「マグワイアVSソーサ」の球史に残るホームラン王争いが、全米中を熱狂させた事は、記憶に新しい。

だが、非常に残念な事に、その後、マグワイアもソーサも、「ステロイド疑惑」にまみれた、「汚れた英雄」になってしまった。

なお、サミー・ソーサは「通算609本塁打」も放つという強打者だったが、ソーサが活躍していた頃も、カブスは優勝には手が届かなかった。

 

<2003(平成15)年…「カブスVSマーリンズ」の「リーグ優勝決定シリーズ」の、「悪夢のバートマン・ゲーム」とは!?~ましても甦る「ヤギの呪い」>

 

 

2003(平成15)年、シカゴ・カブスは「地区優勝」を果たした後、地区シリーズでアトランタ・ブレーブスを破り、

カブスは、ワイルドカードから勝ち上がった、フロリダ・マーリンズとの「リーグ優勝決定シリーズ」に挑んだ。

そして、カブスが3勝2敗と、「リーグ優勝」に王手を掛けて迎えた、リグレー・フィールドでの第6戦で、「大事件」が起こった。

この試合、カブスが8回表1死まで3-0とリードしており、そのまま勝てばカブスの優勝が決まる所であったが、

8回表1死2塁、マーリンズのルイス・カスティーヨが打った、レフト線へのファールフライを、カブスのレフト、モイセス・アルーが捕るかと思われた時、何と、スタンドに居た、スティーヴ・バートマンというカブス・ファンが手を伸ばし、アルーの捕球を邪魔した形になってしまった。

 

 

カブスはアウトを捕り損ねたが、この後、試合の流れは大きく変わり、何と、カブスはマーリンズに大逆転負けを喫し、

続く第7戦もカブスはマーリンズに敗れ、悪夢のような展開で、カブスは58年振りのリーグ優勝を逃してしまった。

「あのファンが邪魔をせず、アルーが捕っていれば、カブスは勝っていた、優勝していたのに…」

カブス・ファンの怒りは、一斉にバートマンへと向けられてしまった。

これが、球史に残る「バートマン・ゲーム」の顛末であるが、カブスとしては、何とも後味の悪い結果となってしまった。

またぞろ、「ヤギの呪い」が取り沙汰される事となってしまったのである。

 

<2004(平成16)年にボストン・レッドソックスが86年振り「世界一」で「バンビーノの呪い」を解き、2005(平成17)年にシカゴ・ホワイトソックスが88年振り「世界一」で、「ブラック・ソックスの呪い」を解くが…取り残されたシカゴ・カブス>

 

 

 

2003(平成15)年、悪夢の「バートマン・ゲーム」で、カブスがリーグ優勝を逃した後、

2004(平成16)年にボストン・レッドソックスが86年振り「世界一」で「バンビーノの呪い」を解き、

翌2005(平成17)年にシカゴ・ホワイトソックスが88年振り「世界一」で、「ブラック・ソックスの呪い」を解くという出来事が有った。

それぞれの「呪い」の由来は、また別の機会で書かせて頂くとして、カブスと同様、長らく栄光から遠ざかっていたレッドソックスとホワイトソックスが「世界一」になったというのに、シカゴ・カブスは、まだ取り残されたままであった。

カブスの「ヤギの呪い」は、一体いつ解けるのであろうか…。

 

<福留孝介の時代(2008~2011)~遂に1908(明治41)年の「世界一」から「100年」が経過>

 

 

 

2008(平成20)年、福留孝介がシカゴ・カブスに入団したが、

この年(2008年)、カブスは前回の「世界一」から、遂に「100年」が経過してしまった。

そして、福留の活躍もあって、2008(平成20)年、カブスは「地区優勝」を果たしたが、地区シリーズでロサンゼルス・ドジャースに3連敗を喫し、敗退した。

100年経っても、まだカブスは勝つ事が出来なかった。

 

<2015(平成27)年…「バック・トゥ・ザ・フューチャー parr2」の「予言」実現を狙うも、カブスは「リーグ優勝決定シリーズ」で、ニューヨーク・メッツに4連敗>

 

 

 

 

ところで、1989(平成元)年に公開された映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー part2』で、こんな場面が有る。

1985(昭和60)年の世界の高校生、マーティ(マイケル・J・フォックス)が、ドク(クリストファー・ロイド)が発明したタイムマシンで、

「未来の世界」である、2015年に行ったのだが、その2015年のニュース速報で、

「シカゴ・カブスがワールドチャンピオン」

と、報じられていたのである。

「カブスが優勝だって!?」

マーティは、目を丸くして驚いていたが、これは、「カブスは絶対に優勝しない」という事を逆手に取った(?)ブラック・ジョークであろう。

 

 

 

だが、時は流れ、現実世界の2015(平成27)年、シカゴ・カブスはワイルドカードから勝ち上がり、ニューヨーク・メッツとの「リーグ優勝決定シリーズ」に挑む事となった。

「2015年に、まさか本当にカブスが優勝してしまうのか!?」

と、世界中の映画ファン、野球ファンが注目したが、現実はそう甘くはなく、カブスはメッツに4連敗を喫し、敗退してしまった。

惜しくも、映画の夢は実現しなかったが、この年(2015年)のカブスの躍進が、翌2016(平成28)年のカブスの「奇跡」へと繋がって行くのである。

 

<2016(平成28)年…シカゴ・カブスが遂に71年振りに「リーグ優勝」⇒カブスはワールドシリーズでインディアンスを4勝3敗で破り、遂にシカゴ・カブスは108年振りの「世界一」達成!!!!>

 

 

 

2016(平成28)年、遂にシカゴ・カブスに歓喜の時が訪れた。

この年(2016年)、カブスは「地区優勝」を果たすと、地区シリーズでサンフランシスコ・ジャイアンツを3勝1敗で撃破し、

続いて、カブスはロサンゼルス・ドジャースとの「リーグ優勝決定シリーズ」に臨み、カブスは4勝1敗でドジャースを破った。

こうして、シカゴ・カブスは1945(昭和20)年以来、遂に71年振りのリーグ優勝を達成したのである。

カブスの優勝は、地元リグレー・フィールドで決定し、シカゴは歓喜と興奮の渦に包まれていた。

「カブスがリーグ優勝しちゃったよ!!」

私は、テレビでリアルタイムでカブス優勝決定の試合を見ていたが、「有り得ない物を見てしまった」と、かなり興奮してしまったものである。

 

 

 

こうして、シカゴ・カブスは、実に71年振りとなるワールドシリーズへの舞台へと、駒を進めた。

一方、アメリカン・リーグではクリーブランド・インディアンスがリーグ優勝を果たし、

2016(平成28)年のワールドシリーズは「シカゴ・カブスVSクリーブランド・インディアンス」の対決となった。

カブスは1908(明治41)年以来「108年振り」、インディアンスは1948(昭和23)年以来「68年振り」となる、「世界一」を懸けた戦いである。

 

 

 

2016(平成28)年の「シカゴ・カブスVSクリーブランド・インディアンス」のワールドシリーズは、大激戦になった。

その結果は、下記の通りである。

 

【2016(平成28)年ワールドシリーズ結果】

①2016/10/25 カブス●0-6〇インディアンス(クリーブランド)

②2016/10/26 カブス〇5-1●インディアインス(クリーブランド)

③2016/10/28 カブス●0-1〇インディアンス(シカゴ)

④2016/10/29 カブス●2-7〇インディアンス(シカゴ)

⑤2016/10/30 カブス〇3-2●インディアンス(シカゴ)

⑥2016/11/1 カブス〇9-3●インディアンス(クリーブランド)

⑦2016/11/2 カブス〇8-7●インディアンス(クリーブランド)

 

カブスは、インディアンスに1勝3敗と追い込まれ、苦しい状況となったが、

その後、カブスが底力を見せ、何と1勝3敗から3連勝したシカゴ・カブスが、4勝3敗でクリーブランド・インディアンスを破り、遂にシカゴ・カブスが108年振りの「世界一」を達成した。

第7戦は、延長10回の死闘の末、カブスが8-7でインディアンスを破ったが、日本時間では11/3の祝日であり、私はテレビで、リアルタイムで、この激闘を見る事が出来た。

私は、この目で、カブスが108年振りの「世界一」の座に就くという、歴史的な瞬間を目の当たりにしたのである。

 

 

 

 

カブス108年振り「世界一」は、敵地クリーブランドで決まったが、

地元シカゴのリグレー・フィールドには、カブス・ファンが大挙して押し寄せ、カブス「世界一」が決まった瞬間、歓喜が爆発し、シカゴの街はお祭り騒ぎとなった。

「まさか、自分が生きている間に、カブスの世界一を見る事が出来るとは…」

私と同様に、多くの人達が、そう思っていたに違いないが、熱狂的なカブス・ファンとして知られる、俳優のビル・マーレイは、ワールドシリーズ第7戦を現地で観戦しており、カブスの勝利が決まった瞬間、歓喜の涙を流していた。

なお、敵地クリーブランドの試合だったにも関わらず、球場には、かなりの数のカブス・ファンが詰めかけていた。

こうして、カブスは108年という、長い長い時を超えて、忌まわしい「ヤギの呪い」も解いて、2016(平成28)年11月2日、悲願の「世界一」を成し遂げたのであった。