1957/11/3…長嶋茂雄(立教)、「通算8号」ホームラン(後編) ~「夏色」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1955(昭和30)年、立教大学野球部は、「砂押監督排斥事件」という激震に見舞われたが、

同年(1955年)秋、長嶋茂雄は、「打率.343」と大活躍し、初のベストナインに選出されるなど、大活躍した。

砂押監督に厳しく鍛え上げられた成果が、ようやく表れて来たのである。

 

 

そして、1956(昭和31)年、立教の3年生に進級した長嶋茂雄は、いよいよ本領発揮し、東京六大学野球のスーパースターへの階段を駆け上がって行くが、

その年(1956年)には、戦後日本の新たな時代を象徴する、あるスーパースターも登場するのである。

というわけで、立教時代の長嶋茂雄の物語の「後編」(3年生編)を、ご覧頂こう。

 

<立教時代の「長嶋伝説」①~1955(昭和30)年12月のフィリピン遠征から、会話に「怪しい英語」が混ざり始める!?>

 

 

長嶋茂雄といえば、日本語と英語が混ざったような、独特の「長嶋語」を話す人として、あまりにも有名(?)である。

そのフィリピン遠征は、長嶋にとっては初の「海外旅行」であり、長嶋は「海外旅行」を満喫していたのだが、

このフィリピン遠征の後ぐらいから、長嶋本人曰く、

「会話に、怪しい英語が混ざり始めた」

との事である。

「野球は、元々、アメリカで生まれたスポーツですし、当然、野球用語も英語ばかりなので、自然とそうなってしまうんですよね」

と、長嶋は語っているが、この時のフィリピンへの旅がキッカケで、「長嶋語」が生まれたのだとすれば、非常に面白い。

 

<立教時代の「長嶋伝説」②~長嶋は、立教大学に入って、初めて「辞書」の存在を知った!?>

 

 

長嶋茂雄という人には、嘘だか本当だか、よくわからないような「伝説」が多い。

例えば、長嶋が立教大学に入った後、英語の講義の時に、長嶋の同級生が「辞書」を持っているのを見て、

長嶋は「へー、世の中には、こんな便利な本が有るんだな」と、感心していたという話が有る。

つまり、長嶋は大学に入るまで、「辞書」の存在を知らなかったというわけである。

「そんな馬鹿な…」

と思ってしまうが、

「いや、長嶋なら有りそうな話だ」

とも思ってしまうから、不思議である。

 

<立教時代の「長嶋伝説」③~長嶋が言った、「トンデモ英語」の数々とは!?>

 

 

長嶋といえば、やはり「英語」というイメージが強いが、

立教時代の事、長嶋は英語の "the"を、何と読むか?と聞かれた時に、

長嶋は「テヘ」と答えたという「逸話」が有る。

確かに、そう読めなくもない(?)が、これも長嶋なら有りそう(?)だと思ってしまう。

 

 

また、ある時は、こんな事も有ったという。

 "I live in Tokyo."

を、「過去形」に直せと言われた時に、

普通の人なら、

 "I lived in Tokyo."

と答えるところ、長嶋は、

 "I live in Edo."

と答えた。

つまり、「動詞」を「過去形」にするのではなく、

長嶋は、「東京」を「過去形」の「江戸」にしてしまったのである。

「いやいや、いくら何でも、それは無いだろう…」

と思ってしまうが、長嶋らしい「伝説」として、語り継がれているという。

もし本当だとすれば、長嶋の発想は素晴らしいと、私は感心してしまうが、果たしてこの話は本当なのであろうか。

という事で、このように、長嶋茂雄は、学生時代から、様々なエピソードには事欠かない人だったが、

長嶋は、大変人柄が良かったので、立教野球部のチームメイトからは、愛される存在だった。

 

<1956(昭和31)年春…長嶋茂雄、「打率.458」で初の「首位打者」を獲得、「2ホームラン」も放ち、一躍、東京六大学野球のスター選手に躍進~立教は2季連続「2位」>

 

 

さて、私生活では、色々と「破天荒」な伝説を残した長嶋茂雄であるが、

1956(昭和31)年、3年生になった長嶋は、野球でも、いよいよ本領発揮し、神宮球場のグラウンドを縦横無尽に駆け回る事となる。

この年(1956年)も、立教の不動の「4番・サード」に定着していた長嶋は、バッティング技術も、飛躍的に向上した。

その結果、1956(昭和31)年春のシーズン、長嶋茂雄「14試合 48打数22安打 2本塁打 8打点 打率.458」と、凄まじい打棒を見せた。

長嶋は、開幕から「13試合連続安打」で、最終戦の前まで「打率5割」を維持する、絶好調ぶりである。

最終戦、「打率5割を意識して、少し固くなった」という長嶋は、法政戦でノーヒットに終わり、惜しくも「打率5割」こそ逃したが、「打率.458」というダントツの成績で、初の「首位打者」となった。

 

 

 

また、1956(昭和31)年春のシーズン、長嶋茂雄は、5月20日の慶応戦で、巽一投手から、「通算2号」ホームラン、

5月28日の明治戦では、関口一郎投手から「通算3号」ホームランを放っている。

1954(昭和29)~1955(昭和30)年の、大学1~2年生の頃、長嶋は2年間でホームランは「1本」しか打てていなかったが、

1956(昭和31)年春だけで、長嶋は「1シーズン2本」のホームランを打ち、長打力に磨きがかかって来た。

長嶋は、1~2年生の頃、砂押監督によって、厳しく鍛えられた成果が表れて来たという事であろう。

 

 

長嶋は、「打って良し、守って良し、走って良し」という、三拍子揃った選手として、東京六大学野球を代表するスター選手へと躍進し、1956(昭和31)年春の「ベストナイン」にも、満票で選出された。

また、辻猛ヘッドコーチを中心に「合議制」を取る立教は、前年(1954年)秋に続き、2季連続「2位」となった。

長嶋の活躍と共に、いよいよ立教のチーム力も上がって来たのである。

 

<1956(昭和31)年…石原慎太郎『太陽の季節』がベストセラーとなり、「太陽族」出現~石原慎太郎の弟・石原裕次郎がデビューし、「裕次郎伝説」が始まる>

 

 

 

さてさて、私がこのブログで、今まで何度書いて来たか、もはやわからないぐらいの話であるが、

1956(昭和31)年といえば、日本の芸能史にとって、非常に重要な出来事が有った年である。

それは、石原慎太郎・石原裕次郎という、「石原兄弟」が登場して来た事である。

まず、当時、一橋大学の学生だった石原慎太郎が、『太陽の季節』で、史上最年少(当時)の23歳で芥川賞を受賞し、文壇デビューを飾った。

『太陽の季節』は、それまでの既成概念をぶち壊すような、センセーショナルな内容だったが、

「湘南」の海を遊び場とする、無軌道なブルジョア学生が織り成す青春群像であった。

 

 

 

 

『太陽の季節』は、ベストセラーとなり、「湘南」の海に「太陽族」が現れるなど、社会現象となったが、

『太陽の季節』の主人公のモデルは、石原慎太郎の2歳年下の弟・石原裕次郎だった。

石原裕次郎は、当時、慶応に在学する学生だったが、亡くなった父親が遺してくれた遺産を、湯水のように使い、

裕次郎は、夜な夜な、遊び回るような「不良学生」だった。

一方、真面目な性格だった慎太郎は、当初、そんな裕次郎の事を苦々しく思っていたが、その内に、破れ被れで、慎太郎は裕次郎と共に、遊び歩くようになった。

そこで見た、裕次郎と、裕次郎の悪い仲間(?)の生態を元に、『太陽の季節』という小説が書けたのだから、裕次郎は、間接的に『太陽の季節』を生み出したという言い方も出来る。

 

 

 

 

ベストセラーとなった『太陽の季節』に目を付け、

映画会社の日活が、『太陽の季節』の映画化権を得ると、『太陽の季節』はすぐに映画化された。

この映画の主役は、長門裕之南田洋子だったが、原作者・石原慎太郎の弟・石原裕次郎も、「アドバイザー」の役割で、撮影現場に遊びに来ていた。

すると、日活のプロデューサー・水の江瀧子が、裕次郎のルックスの良さに目を付け、裕次郎もチョイ役として、『太陽の季節』に出演させた。

こうして、思わぬ形で石原裕次郎「映画デビュー」を飾ったが、チョイ役にも関わらず、裕次郎は映画の宣伝スチールでは、主役の2人と一緒に、堂々と真ん中に写るなど、存在感を見せていた。

これが「裕次郎伝説」の始まりとなった。

 

<1956(昭和31)年夏…石原慎太郎が原作・脚本の『狂った果実』で、石原裕次郎が初主演~一方、石原慎太郎も『日蝕の夏』に主演するが、スターの道は諦める!?>

 

 

 

 

映画『太陽の季節』は大ヒットを記録したが、

日活としては、ブームが冷めない内にと、石原慎太郎「第2作」を書くよう、依頼した。

すると、慎太郎は「わかりました。そのかわり、私の弟を主役に使って下さい」という条件を出した。

慎太郎の弟・裕次郎は、『太陽の季節』に、チョイ役で出ただけの、「ド素人」だったが、日活は、今や大人気作家の石原慎太郎が言った事でもあり、この条件を飲んだ。

こうして、石原慎太郎が原作・脚本の『狂った果実』が、日活で映画化されたが、

『狂った果実』は、石原裕次郎「初主演作」であり、この映画で共演した石原裕次郎北原三枝は、映画のストーリーと同様、熱烈な恋人同士となった。

なお、『狂った果実』で、裕次郎の弟役を演じた津川雅彦も、これがデビュー作だったが、津川雅彦という芸名は、『太陽の季節』の主人公・津川竜哉の名前から取って、石原慎太郎が名付けたものである。

ちなみに、津川雅彦は、長門裕之の実弟である。

 

 

という事で、1956(昭和31)年夏、『太陽の季節』の「姉妹編」として、大急ぎで作られた『狂った果実』であるが、

『狂った果実』は大ヒットし、石原裕次郎は、初主演にして、いきなり大スターの仲間入りを果たした。

なお、『狂った果実』は、1人の女性(北原三枝)を、兄(石原裕次郎)弟(津川雅彦)が取り合うという内容であるが、

「湘南」の海を舞台に描かれた名作であり、今見ても、あまり古さは感じない「名作」であると、私は思う。

 

 

 

なお、石原慎太郎は、この年(1956年)、東宝で、

自らが原作・脚本・主演で『日蝕の夏』という映画に出るという大活躍だったが、

『日蝕の夏』は、あまり評判が良くなかった。

慎太郎も「自分は、映画俳優向きではない」と悟ったのか、以後、スターの座を諦め、スターへの道は弟に譲った(?)。

以後、石原慎太郎は作家活動に専念し、石原裕次郎は戦後最大のスターへの道を、駆け上がって行く。

 

<1956(昭和31)年秋…長嶋茂雄、「シーズン3本塁打」を放ち、「年間5本塁打」の大活躍~立教は3季連続「2位」>

 

 

石原慎太郎・石原裕次郎「石原兄弟」が颯爽と登場した、1956(昭和31)年夏が過ぎ、

東京六大学野球の、1956(昭和31)年秋のシーズンが開幕した。

このシーズンも、長嶋茂雄は立教の不動の「4番・サード」だったが、

長嶋は、「15試合 59打数17安打 3本塁打 8打点」という成績であり、「打率3割」を切ってしまった。

だが、長嶋は、9月8日の法政戦で、岡崎正明から「通算4号」ホームラン、9月24日の早稲田戦で、木村保から「通算5号」ホームラン、10月8日の慶応戦で、林薫から「通算6号」ホームランを放った。

つまり、長嶋茂雄は、「1シーズン3本塁打」を放ち、「春2本、秋3本」で、この年(1956年)は「年間5本塁打」という、跳び抜けた長打力を発揮したのである。

 

 

 

 

というわけで、長嶋は「3季連続ベストナイン」に選出されるという大活躍だったが、

この頃になると、長嶋は「客を呼べるスター選手」になっており、神宮球場には、長嶋目当てで見に来るファンも、沢山居た。

映画界に、石原裕次郎という、新たなスターが台頭した頃、野球界にも、長嶋茂雄という新星が登場したのである。

しかし、長嶋は「ホームラン狙いで、フォームが崩れている」と、指摘される場面も増えて来た。

「ホームランが打てる」というのは、長嶋の魅力ではあったが、一発長打を狙うあまり、打撃フォームに狂いが生じ、バッティングが粗くなっていると、囁かれるようにもなっていた。

一方、長嶋の盟友・杉浦忠は、「5勝0敗 防御率1.02」という見事な投球を見せ、立教のエースとして大活躍した。

だが、長嶋と杉浦の大活躍にも関わらず、立教は、今シーズンも「2位」であり、これで立教は、1955(昭和30)年秋、1956(昭和31)年春秋と、3季連続「2位」に終わり、どうしても「優勝」には、あと一歩、手が届かない状態が続いていた。

 

<実は、立教時代からメジャーリーグに憧れていた、長嶋茂雄~長嶋に「メジャー流」の指導をしていた、砂押監督>

 

 

ところで、「砂押監督排斥事件」で、立教野球部の選手達から「反乱」を起こされ、

立教野球部から追い出されてしまった、砂押邦信監督であるが、

砂押監督が、メチャクチャ厳しい「鬼監督」だった事は確かではあるものの、

長嶋曰く「スパルタ式だけでなく、『愛のムチ』ですよ」と、後年、語っていたし、

砂押監督も「一日も早く、伸ばしてやろうと思っていたからね」と、長嶋に猛練習を課した「真意」を、後に語っている。

砂押監督と長嶋の間には、根底に「信頼関係」が有ったという事であろう。

 

 

砂押監督といえば、「鬼監督」というイメージばかりが先行し、

「前近代的で、古臭い軍隊式の猛練習ばかりを押し付けた、頭の固い指導者」

だと思われているフシも有るかもしれないが、もしそうだとすれば、それは全くの「誤解」であると、長嶋は言う。

実は、砂押監督は、長嶋に対し、いち早く「お前は、メジャーリーグの選手を見習え。そして、メジャーを見習うんだ」という事を、しきりに言っていたという、「先進的」な面が有ったというのである。

長嶋は、当時、ニューヨーク・ヤンキースのスーパースター、ジョー・ディマジオに憧れていたが、

砂押監督は、長嶋に対し、こんな事を言っていた。

「長嶋は、もうすぐプロに行くだろう。これからの若い世代は、メジャーを見習わなくてはいけない。それは、個性の重視だ。プロに行っても、君はどういうプレーヤーになりたいのか、お客さんに評価される、自分の野球スタイルを、自分で作る事だ。プロに入団したら、監督、コーチが居るが、最終的には、自分の力でスタイルを作るしかない。それが、メジャーのやり方なのだ」

当時は、今と違って、メジャーリーグの試合を、簡単にテレビで見られるような時代ではない。

それにも関わらず、砂押監督は、長嶋に「君は、メジャーを見習え」と言っていたのである。

「あの頃、そんな先進的な事を言っている監督なんか、他には何処にも居なかったでしょう」

後に、長嶋はそう語っている。

 

 

また、砂押監督は、ジョー・ディマジオや、テッド・ウィリアムスなど、

当時のメジャーリーグの名選手達を引き合いに出し、

「いいか、長嶋。ディマジオはこうやって打つだろう、ウィリアムスの打撃フォームの腰の回転はこうだろう…」

などと、メジャーの選手についても、かなり具体的に知っており、それを元に長嶋を指導していた。

という事で、砂押監督は、単なる「軍隊式」の旧世代の指導者、とばかりは言い切れない、柔軟な考えの持ち主だったようである。

だが、砂押監督は、長嶋以外の、大多数の選手達とは「信頼関係」を築く事が出来なかった。

もしも、長嶋以外の選手達とも、腹を割って話せるような関係を築けていたら、別の結果も有ったかもしれない…と、そこは非常に惜しまれる。

ひょっとしたら、砂押監督も、「追放」されて初めて、その事について反省したのかもしれない。

 

<南海ホークス・野村克也の苦闘~「テスト生」から「ブルペン捕手」同然で入団し、「クビ」寸前から猛練習で生き残った野村克也>

 

 

さてさて、長嶋茂雄が、東京六大学野球の立教で、スター選手になって行った頃、

1935(昭和10)年6月29日生まれで、長嶋茂雄「同学年」野村克也は、プロ野球の世界で「悪戦苦闘」していた。

野村克也は、貧しい母子家庭に育ったため、「早く、お母さんに楽をさせてあげたい」という気持ちが強かった。

「大金を稼げる仕事は何か…」

野村は考えたが、「沢山稼げる仕事は、歌手か、映画俳優か、プロ野球選手だ」と思ったという。

しかし、「俺は歌が上手くないから、歌手はダメ。この顔では、映画俳優も無理。だとしたら、野球しか無い」という結論に達した。

そして、京都・峰山高から、1954(昭和29)年、野村は「テスト生」から南海ホークスへ入団した。

しかし、実は野村は「ブルペン捕手」同然の扱いであり、プロ1年目の終了時には、南海球団から、野村は早くも「クビ」を宣告されてしまった。

野村は、「今、クビにされたら、自分は生きていけない。もしクビだというなら、このまま南海電車に飛び込んで死ぬ。そうならないためにも、人命救助だと思って、クビにしないでくれ」と、必死に懇願し、どうにか首が繋がったという。

 

 

野村は「俺がプロ野球で生き残るためには、とにかく野球が上手くなるしかない」と覚悟を決め、

他の選手達が遊んでいる間も、とにかく必死に猛練習を続けた。

長嶋が、砂押監督から猛練習を受けていた頃、野村は、文字通り「生き残るために」命懸けで練習をしていた。

そに甲斐有って、野村はプロ2年目の1955(昭和30)年には、二軍とはいえ大活躍し、何とかプロでやって行ける手応えを掴んだ。

 

 

 

そんな野村の姿勢が、南海の鶴岡一人監督の目に留まったのか、

野村は、プロ3年目の1956(昭和31)年春、南海のハワイでのキャンプのメンバーに選ばれた。

この「ハワイ・キャンプ」で、野村の先輩捕手達は遊び呆けていたが、鶴岡監督は、先輩捕手に激怒し、

「分もわきまえずに、遊び呆けやがって!!お前らなんか、クビじゃ!!!!」

と、彼らに雷を落とした。

それを見ていた野村は「しめしめ…」と、密かに、ほくそ笑んでいた(?)というが、

鶴岡監督は「野村、お前が試合に出ろ!!」と言って、以後、野村をオープン戦の捕手に起用するようになった。

そして、そのオープン戦で結果を残した野村は、以後、南海の正捕手になる、足掛かりを得た。

日本に帰国した後、鶴岡監督は、こんな事をマスコミに言っていた。

「今度のハワイ・キャンプは、本当に大失敗だった。ただ一つ、野村が使えるようになった事だけが、収穫や」

野村は、新聞記事でそれを読み、小躍りしたくなったという。

こうして、長嶋茂雄が立教で活躍し、石原慎太郎・石原裕次郎「石原兄弟」が世に出たのと、時を同じくして、野村克也「大選手」としての道を歩み始めた。

 

<「今度こそ、優勝を!!」と意気込む、長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾の、立教の同期生3人組>

 

 

立教は、1955(昭和30)年秋、1956(昭和31)年春秋と、3季連続「2位」に終わり、なかなか「優勝」には手が届かなかったが、

長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾の、同期生3人組は、3年生の年が終わった時点で、まだ一度も「優勝」を経験していないという事になる。

彼らは、翌1957(昭和32)年、遂に4年生の最終学年を迎えるのだが、

「今度こそ、絶対に優勝しよう!!」

と、長嶋茂雄・杉浦忠・本屋敷錦吾の3人は意気込み、決意を新たにしていた。

果たして、立教は悲願の「優勝」を掴む事は出来るのであろうか!?

そして、最終学年を迎える、長嶋の活躍は、如何に!?

 

(つづく)