紅白歌合戦と日本シリーズ【舶来編】~「ジャズ」の歴史(黎明期~戦前編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

「紅白歌合戦と日本シリーズ」と題して、日本の音楽界・芸能界のビッグ・イベントである「NHK紅白歌合戦」と、

プロ野球の「日本一」を決める戦い「日本シリーズ」の歴史を紐解いているが、

日本のポピュラー音楽の歩みを語る上で欠かせないのが、洋楽との関わりである。

前回の記事では、1953(昭和28)年に大ヒットした、鶴田浩二『街のサンドイッチマン』についてのエピソードと共に、

日本の音楽界の一大潮流となった、フランスの国民的音楽「シャンソン」について描いた。

 

 

今回は、「シャンソン編」に続き、日本の音楽界に多大な影響を与えた「ジャズ」の歴史について描く。

「ジャズ」は、アメリカが発祥のポピュラー音楽であるが、日本の音楽界にも多大な影響を与え、

日本のポピュラー音楽と「ジャズ」は、切っても切れない関係にあった。

という事で、今回は「紅白歌合戦と日本シリーズ」の「ジャズ編(黎明期~戦前編)」としして、

「ジャズ」という音楽が誕生した頃から、戦前の日本でも「ジャズ」が受け入れられて行った頃の話を描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<「ジャズ」は多種多彩に枝分かれした、「何でも有り」の音楽!?>

 

 

かつて、NHKのEテレで「らららクラシック」という音楽番組が放送されていた。

「らららクラシック」は、その名の通り、クラシック音楽を紹介する番組だったのだが、

この番組で、「誘惑のジャズ」と題して、実にわかりやすく、「ジャズ」の歴史について紹介している回が有ったので、

今回は、その「らららクラシック」の「誘惑のジャズ」の回を参考に、まずは「ジャズ」という音楽とは何か、という事について、ご紹介させて頂きたい。

 

 

 

 

 

 

 

「らららクラシック」の「誘惑のジャズ」の回は、

まずは、有名なジャズ・ナンバーである『SING SING SING』の演奏から始まった。

この曲の指揮をしているのは、現在、アメリカを拠点に活躍している、ジャズ・ミュージシャンの狭間美帆という方だったが、

『SING SING SING』は、あまりジャズの事を詳しくない人でも、一度は耳にした事が有るであろう、軽快で楽しい曲であり、オープニング・ナンバーとして相応しいものであった。

なお、「らららクラシック」のMCは、高橋克典と、NHKアナウンサーの石橋亜紗である。

 

 

 

「ジャズ」と一口に言っても、その中身は実に幅広い。

まず、ルイ・アームストロング『聖者の行進』の映像が紹介されていたが、

ルイ・アームストロングといえば、「ジャズ」黎明期における、大ミュージシャンの1人であり、

「ジャズ」の歴史を語るにおいて、欠かせない人物の1人である。

 

 

 

 

「ジャズ」という音楽について、まず多くの人が思い浮かべるのが、「スウィング」である。

冒頭の『SING SING SING』という曲も、ジャンルとしては「スウィング」であり、

「スウィング」とは、大人数の楽団で、とにかく賑やかに演奏するようなスタイルであると言える。

『In The Mood』は、「スゥイング」の中でも、超有名なジャズ・ナンバーであり、誰もが一度は耳にした事が有る筈である。

 

 

また、『Moanin』というジャズ・ナンバーが有るが、

この曲は、「スウィング」とは対照的というか、静かなバーで流れているような、落ち着いた曲であり、

これもまた、ジャズと聴いて、多くの人が思い浮かべるような曲であると言えよう。

賑やかな曲もあれば、静かで落ち着いた曲も有るのが、「ジャズ」という音楽の特徴である。

 

 

 

 

 

また、ジャズを基調に、ロックやラテン音楽、電子音楽、時にはクラシック音楽などを融合(フューズ)させた音楽である、

所謂「フュージョン」という音楽も有れば、何と、日本のジャズ・ミュージシャンの山下洋輔が、ピアノを炎上させながら、防火服を着て演奏するという事で、人々の度肝を抜いたという音楽も有った。

高橋克典「あれも、ジャズなんですか!?」とビックリしていたが、

狭間美帆「ジャズです!」と言い切っていた。

 

 

 

 

 

 

ここで、「らららクラシック」では、「ジャズには、どのようなジャンルが有るのか」という事を示すため、

ジャズという音楽を1本の木に喩え、それが様々に枝分かれした図を示していた。

ジャズは、初期の「ブルース」「ニューオリンズ」から始まり、「スウィング」「ビバップ」「クール」「ハードバップ」「フリージャズ」「フュージョン」…といった流れで発展して行き、その他、「ディキシーランド」「ソウル」「ファンク」「モード」「フリーファンク」「コンテンポラリー」…などにも、枝分かれして行ったという。

最も有名なのが、『SING SING SING』に代表される「スウィング」であるが、先程の山下洋輔の、「ピアノ炎上」の音楽は「フリージャズ」である。

「要するに、何でも有りなのか、ジャズという音楽です」

と、狭間美帆は語っていたが、このように多種多彩に枝分かれしているため、「ジャズは、わかりにくい」というイメージを持たれている方も、多いのではないだろうか。

 

<「ジャズ」の誕生~それは、アメリカ・ニューオリンズから始まった!!…19世紀末~20世紀初頭、黒人音楽と西洋音楽が融合し、「ジャズ」が誕生>

 

 

 

 

 

では次に、「ジャズ」という音楽の起源について書く。

「ジャズ」は、アメリカ南部の街・ニューオリンズから始まったと言われている。

ニューオリンズは、かつて黒人奴隷が売買される「奴隷市場」が有った場所であり、

そのため、白人文化と黒人文化が出逢い、新たな文化が生まれやすい環境にあったという。

それが、「ジャズ」が誕生する土壌になっていたようである。

 

 

 

 

1865年、アメリカの「南北戦争」が北軍の勝利により、終結すると、

当時のリンカーン大統領により、奴隷制度が廃止された。

そのため、奴隷として白人が経営する農場で働いていた、多くの黒人達は、

職を求め、農場から街へと働きに出るようになった。

そして、そんな黒人達が数多く移住して来た場所こそ、アメリカ南部の街・ニューオリンズだったのである。

 

 

 

 

そして、ニューオリンズの街では、

トランペット、サックス、クラリネット、ピアノ、ギター、ドラムなどの西洋楽器と、黒人のリズムが融合し、

それまでには無かった、独特な音楽が生まれて行った。

それが、「ジャズ」の基になる音楽になって行ったという。

つまり、白人文化と黒人文化が融合する事により、「ジャズ」の基礎が築かれて行ったのだが、

それが、19世紀末~20世紀初頭ぐらいの時期にあたっていた。

日本でいえば、明治時代の後半ぐらいの頃である。

 

<「ブルース」「ニューオリンズ・マーチ」「ラグタイム」~黒人達によって、「ジャズ」黎明期の音楽が作られる>

 

 

さて、19世紀末~20世紀初頭にかけて、アメリカのニューオリンズの街で、「ジャズ」の基になる音楽が誕生したが、

その頃、黒人達によって、新たなジャンルの音楽が誕生して行った。

黒人は、奴隷として働かされ、奴隷制度が廃止された後も、社会の最下層で、厳しい労働環境で働かされていたが、

そんな黒人達の、労働の悲哀を歌う曲として、「ブルース」が誕生した。

初期の「ブルース」を代表するミュージシャンといえば、チャーリー・パットンが知られているが、

「ブルース」を歌う事によって、黒人達は日頃の憂さを晴らし、辛い労働にも耐えていた。

「ブルース」は、その後、独自の発展を遂げて行ったため、「ジャズ」とは異なる道を歩むが、その音楽の起源というか、根っ子は「ジャズ」と同じであると言って良い。

 

 

また、南北戦争が集結し、その軍楽隊が演奏していた楽器が、そのまま放置されていたところ、

その残された楽器を使い、ニューオリンズの黒人達が、音楽を演奏し始めたが、

それが、後の「ジャズ」の基礎となった「ニューオリンズ・マーチ」である。

所謂、大人数のバンドで演奏する「スウィング」の基礎となった音楽であり、「ニューオリンズ・マーチ」は、「ジャズ」のイメージを形作る物となった。

 

 

 

 

 

また、黒人音楽の独特のリズムを取り入れた、「ラグタイム」というピアノ音楽も、「ジャズ」の要素の一つとなったが、

スコット・ジョップリン『エンターテイナー』は、「ラグタイム」の中でも、とても有名な曲であり、

1973(昭和48)年に、ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォードが主演した映画『スティング』のテーマ曲となった事でも知られている。

また、ジェリー・ロール・モートンも、「ラグタイム」を確立したピアニストの1人である。

というわけで、黒人達によって、「ジャズ」という音楽は誕生し、黒人達が「ジャズ」を発展させて行った。

 

<1920年代~1930年代~「ジャズ」はニューオリンズからアメリカ全土に広がり、ニューヨークのブロードウェイのポピュラー音楽と結び付き、「スウィング」が大流行!!>

 

 

 

 

 

さて、ニューオリンズで誕生したジャズは、その後、1920年代に入った頃、

アメリカ全土に広まって行き、ジャズという音楽はアメリカ中で大人気となって行った。

その頃、アメリカのポピュラー音楽といえば、ニューヨークのブロードウェイのヒット・ソングを指していたが、

ジャズと、ブロードウェイのヒット・ソングが結び付いた事により、ジャズは空前の大ブームとなって行くのである。

 

 

 

 

 

1920年代~1930年代にかけて、数多くのジャズ・バンドが活躍したが、

そのジャズ・バンドは、ブロードウェイのヒット・ソングをジャズ風にアレンジし、

いつしか、大人数のジャズ・バンドが賑やかに演奏するスタイルは「スウィング」と称されるようになった。

そして、派手で賑やかな「スウィング」に合わせ、ダンス・ホールで男女が踊るダンスも大流行したが、

この当時、「ジャズ=スウィング」は同義語のようになり、人々は「スゥイング」のリズムに合わせて、夜毎、踊り狂っていた。

 

<1920年代のアメリカ~空前の好景気で「ジャズ・エイジ」という「アメリカ黄金時代」を謳歌>

 

 

 

 

私が、このブログで何度か書いて来ているが、1920年代のアメリカといえば、

空前の好景気に沸き、「永遠の繁栄」を謳歌していた時代だったが、

その1920年代のアメリカは「ジャズ・エイジ」とも言われている。

「アメリカ黄金時代」を表す言葉として、「ジャズ・エイジ」は、その代名詞となっていた。

 

 

 

 

「ジャズ・エイジ」の時代、アメリカの若者達は、派手なファッションで着飾り、

ジャズのリズムに合わせ、「チャールストン」というダンスを踊りまくり、

毎晩、陽気に浮かれ騒いでいたが、黒人達が生み出した音楽「ジャズ」は、この頃になると、人種の壁を越え、黒人も白人も関係無く、

みんなジャズに夢中であり、ジャズはアメリカ黄金時代を象徴する音楽となっていた。

アメリカの古き良き時代の象徴、それがジャズという音楽であった。

 

<「ジャズ」の魅力を白人達に伝えた、第1次世界大戦の黒人部隊「第369連隊(地獄の勇者達)」>

 

 

 

 

では、ここで時間を少し巻き戻して、「ジャズ」が白人達に受け入れられて行った経緯について記す。

第1次世界大戦(1914~1918年)にアメリカが参戦し、アメリカはヨーロッパに軍隊を派遣したが、

その中に、「第369連隊」という、黒人部隊が有った。

「第369連隊」は、「地獄の勇者達」という異名を取ったが、彼らはヨーロッパの戦場でジャズを演奏し、

フランスの首都・パリでも、彼らは大人気となった。

「ドイツ軍が、毒ガスでも占領出来なかったパリを、第369連隊はジャズで征服した」

とも称されたが、「第369連隊」はアメリカに帰国後、白人達からも熱狂的な歓迎を受け、

黒人達が、アメリカの歴史上、初めて白人達に大歓迎されたという、まさに歴史的な出来事であった。

それもこれも、「ジャズ」という音楽のお陰だったのである。

 

<黒人が経営した「コットン・クラブ」で、「ジャズ」が大流行>

 

 

 

 

また、ニューヨークには、黒人が経営する「コットン・クラブ」というナイトクラブが有ったが、

「コットン・クラブ」という名称は、元々は、白人達が経営していた、綿花の農場に由来しており、

「コットン・クラブ」では、黒人達が育てた音楽である「ジャズ」が毎晩演奏され、「ジャズ」のリズムに合わせて、ダンサー達が踊りまくり、白人の客達は皆、大喜びしていたという。

これは、「ジャズ・エイジ」の先駆けとなり、こうした夜の街によって、「ジャズ」という黒人音楽は、白人達にも受け入れられて行ったのであった。

 

<「ジャズ」黎明期の巨人、ルイ・アームストロング~「サッチモ」の愛称で知られたルイ・アームストロング、師匠のキング・オリヴァーの楽団で頭角を現し、「ジャズ」発展に大きく貢献>

 

 

さてさて、ここでジャズの黎明期の巨人、ルイ・アームストロングについて、ご紹介させて頂く。

ルイ・アームストロングは、1901(明治34)年8月4日、アメリカのニューオリンズに生まれた。

そう、ジャズ発祥の地である、あのニューオリンズである。

という事で、ルイ・アームストロングは、幼い頃から身近にジャズという音楽が溢れている環境に育ったが、

彼が生まれ育った場所は、ニューオリンズの貧民街であり、周りには不良少年ばかりであった。

幼少期に、彼は街の祭りで、浮かれるあまりピストルを発射してしまい、そのために少年院に送られてしまったが、

その少年院のブラスバンドで、ルイ・アームストロングはコルネット(※トランペットの一種)を吹くようになった。

後の大ミュージシャン、ルイ・アームストロングが、音楽の道に進んだ原点は、何と少年院だったのである。

 

 

 

1923(大正12)年、当時22歳のルイ・アームストロングは、シカゴに移ると、

その頃、コルネット奏者として、ジャズ界で名を馳せていた、キング・オリヴァーの楽団に入った。

そのキング・オリヴァー楽団で、ルイ・アームストロングは頭角を現して行った。

つまり、キング・オリヴァーこそ、ルイ・アームストロングの師匠にあたるわけである。

 

 

 

 

その後、ルイ・アームストロングは、1926(大正15)年に、

当時の彼の妻で、ピアノ奏者のリル・ハーディン・アームストロングらと共に、

彼が率いるバンドである、ホット・ファイブを結成したが、

この頃、ルイ・アームストロングには「サッチモ」という愛称が付いていた。

「サッチモ」とは、エラ・フィッツジェラルドが、彼の大きな口を「Such a mouth ! 」と呼んだことに由来しているという。

 

 

というわけで、「サッチモ」はジャズ界きっての人気者となり、1920~1930年代のジャズ界を制圧してしまった。

なお、「サッチモ」は、「ジャズとは、大衆演芸の一つである」との信念が有り、「サッチモ」のステージは、とにかく観客を楽しませる事に徹していた。

つまり、お高く止まっていないのが、「サッチモ」の魅力であり、彼のお陰で、「ジャズ」が大衆に受け入れられて行ったと言っても、過言ではなかった。

 

<日本と「ジャズ」との出逢い…1912(明治45)年~1916(大正5)年頃、波多野福太郎ら5人の青年達の「船上バンド」が、日本に「ジャズ」をもたらす!!>

 

 

さて、アメリカでジャズが発展して行った頃、日本にも、舶来の音楽であるジャズがもたらされた。

そのキッカケとなったのが、波多野福太郎らが率いる「船上バンド」の存在である。

波多野福太郎、奥山貞吉、田中平三郎、斉藤佐和、高桑慶照ら、いずれも東洋音楽学校(※現・東京音楽大学)出身の5人の青年達は、1912(明治45)年、安田財閥系の開運会社・東洋汽船の「地洋丸」に乗り込み、アメリカに渡ると、アメリカで音楽を学んだ。

そのアメリカで、彼らは「ジャズ」と出逢い、以後、1912(明治45)年~1916(大正5)年頃にかけて、「地洋丸」で何度も日本とアメリカを行き来して、そこで彼らは「船上バンド」として、盛んに「ジャズ」を演奏していた。

これが、日本における、「ジャズ」との出逢いとなったわけである。

 

<1920年代~日本国内で「ハタノ・オーケストラ」がダンス専門バンドとして活躍>

 

 

1920年代、アメリカが「ジャズ・エイジ」に沸いていた頃、日本国内でも、ジャズ・バンドが活躍するようになった。

まず、1920(大正9)年、横浜・鶴見の花月園が、隅の建物を二百坪ほどの大ホールに改造して社交舞踏場を開いたが、

これは、日本最初の常設のダンスホールであり、外務省や海軍省の外人接待にも使用されたという。

その時に、最初に演奏したのが、宍倉脩(ピアノ/楽長)・阿部万次郎(サックス)・原田録一(トランペット)・仁木他喜雄(ドラムス)・井田一郎(ヴァイオリン)というメンバーからなる、所謂「宍倉バンド」で、日本初のダンス専門バンドであった。

 

 

翌1921(大正10)年、「宍倉バンド」の後を継ぎ、花月園で演奏するようになったのが、

中村鉱次郎(コルネット)・岡村雅雄(フルート)・前野港造(クラリネット・サックス)・寺尾誠一(ベース)・加藤福太郎(ピアノ)・仁木他喜雄(ドラムス)から成る「ハタノ・オーケストラ」であった。

しかし、花月園は後に閉鎖され、1923(大正12)年の「関東大震災」の後は、ジャズの舞台が東京から大阪へと移動して行った。

という事で、日本におけるジャズ黎明期とは、アメリカの「ジャズ・エイジ」の頃、その熱気が日本にも伝わって来た時代だったと言って良い。

 

<1924(大正13)年…ジョージ・ガーシュウィンが、ジャズとクラシックを融合させた名曲『ラプソディ・イン・ブルー』を発表>

 

 

 

黒人音楽のジャズが、白人社会にも受け入れられ、発展して行く中で、

1924(大正13)年、クラシック音楽の作曲家、ジョージ・ガーシュウィンが、

ジャズとクラシックを融合させた名曲『ラプソディ・イン・ブルー』を発表した。

この曲は、まさにジャズの隆盛が生み出したと言っても良い、世界の音楽史上に残る名曲中の名曲であり、私も大好きな曲である。

 

<1930年代~デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラーらが率いる「ビッグ・バンド」と「スウィング」の時代~黒人歌手、キャブ・キャロウェイも活躍>

 

 

1929(昭和4)年、ニューヨークの証券取引所で、突如、株価が大暴落したのをキッカケに、

アメリカ経済は破綻し、「世界恐慌」が発生してしまった。

世間には失業者が溢れ、暗く澱んだ雰囲気の時代となってしまったが、そんな嫌な空気を吹き飛ばそうと、

人々は、ジャズに希望を求めようとした。

そんな時代の要望に合わせるように、1930年代には、大編成のビッグ・バンドによってジャズが演奏される、「ビッグ・バンド」と「スウィング」の時代が到来したのである。

 

 

 

 

その「ビッグ・バンド」時代を象徴するジャズ・ミュージシャンを何人かご紹介させて頂くと、

まずはデューク・エリントンが挙げられる。

デューク・エリントンは、元々は、先程ご紹介した「コットン・クラブ」を拠点として活躍していた、ジャズ・ピアノ奏者だったが、

やがて、デューク・エリントンは自ら大編成のビッグ・バンドを率いて、活動するようになった。

『A列車で行こう』という有名なジャズ・ナンバーも、デューク・エリントンの楽団の「十八番」の一つである。

 

 

 

なお、デューク・エリントンが地方巡業に出ていた時に、

その穴埋めとして「コットン・クラブ」に出演し、そこで頭角を現した黒人歌手が、キャブ・キャロウェイである。

キャブ・キャロウェイの派手なパフォーマンスによるステージは、後にマイケル・ジャクソンにも大きな影響を与えたとも言われており、

黒人歌手としては、最初期の大スターの1人であった。

 

 

 

また、クラリネット奏者のベニー・グッドマンが率いる大編成のビッグ・バンドも、1930年代に大活躍したが、

この記事の冒頭でご紹介した『SING SING SING』も、ベニー・グッドマン楽団が演奏しまくった事により、超有名なジャズ・ナンバーとして知られるようになった。

『SING SING SING』は、「スウィング」の時代を象徴する名曲であると言って良い。

 

 

トロンボーン奏者のグレン・ミラーが率いるビッグ・バンドも、

1930年代のジャズ界を代表するそんざいんであり、グレン・ミラー・オーケストラが演奏していた、

『ムーンライト・セレナーデ』、『茶色の小瓶』、『イン・ザ・ムード(In The Mood)』などは、あまりにも有名である。

という事で、「世界恐慌」のどん底の時代に、そんな世の中の憂さを吹き飛ばそうと、派手で賑やかなビッグ・バンドが隆盛期を迎えたのであった。

 

<大正時代~昭和初期の日本~ダンス・ホールで「ジャズ」が大流行し、「歌謡曲」の誕生と共に、「ジャズ」の水準も高まる>

 

 

 

1920~1930年代で、アメリカでジャズが黄金時代を迎えていた頃、

日本では大正末期~昭和初期にあたるが、その頃、日本にも次々にジャズ・バンドが誕生し、

カフェやダンス・ホールで、舶来のジャズが演奏され、人々がダンスに興じる、モダニズム文化が花開いた。

日本の人々も、アメリカ生まれのジャズという音楽を、とても愛好していたのである。

 

 

 

 

昭和初期、特に古賀政男、藤山一郎、淡谷のり子らが登場した1931(昭和6)年以降、

日本に「歌謡曲」というジャンルが誕生し、次々に人気歌手が誕生して行ったが、

その頃になると、歌謡曲を演奏するために、日本のジャズ・バンドの水準も、飛躍的に高まって行った。

また、服部良一は、ジャズをこよなく愛好し、日本の歌謡曲とジャズを融合させた名曲を、次々に生み出して行った。

こうして、日本の音楽界は、ジャズの洗礼を受け、どんどん洗練されて行ったのである。

 

<1940(昭和15)年…日本全国のダンス・ホールが閉鎖⇒1943(昭和18)年…ジャズなどの適性音楽が全面禁止~戦争により、日本の洋楽文化は「冬の時代」へ>

 

 

このように、戦前の日本でも、洋楽、とりわけジャズはかなりの人気が有り、

人々は、アメリカ映画と共に、ジャズという音楽を愛好していたのだが、

やがて日米関係が悪化して行くと、日本政府や軍部は、それら舶来の文化に、厳しい統制を加えて行った。

1940(昭和15)年には、日本全国のダンス・ホールが閉鎖に追い込まれたが、

その最後の日、全国のダンス・ホールでは「蛍の光」が演奏され、ダンス・ホールに集まった人々は涙を流していたという。

 

 

 

1941(昭和16)年、「太平洋戦争」が勃発すると、その2年後の1943(昭和18)年、ジャズなどの洋楽は「敵性音楽」として全面禁止されてしまい、ジャズなどの洋楽のレコードは、全て政府当局に「没収」される事となってしまった。

こうして、政府が文化を締め付ける、何とも息苦しい時代となり(※今の「コロナ禍」の時代も、全く同じだと言っては言い過ぎだろうか)、日本の洋楽文化は「冬の時代」を迎えてしまった。

だが、そんな中でも、面白くも何ともない軍歌に背を向け、密かにジャズを聴いている人達も、少なからず居たという。

いつの世も、政府がいくら禁止しても、文化の灯は消す事は出来ないという事であろう。

 

(つづく)